士郎が凛を花火大会に誘うまでには実にさまざまな紆余曲折があったのだが、ここで語るべきことではないだろう。結果として花火大会の当日、浴衣姿のふたりはぶじ連れ立って出かけていったし、留守を任されたセイバーとアーチャーもおのおのの主を戸口で送り出すことができた。こうして衛宮邸には二騎のサーヴァントだけが残されたのである。
気取られぬよう縁側を覗き込むと、そこにはすでに座布団が二枚敷き並べてあり、ひとつにはセイバーが美しい正座を保ってすわっている。いよいよアーチャーは自分が逃げられないことを悟った。つまみと酒だけ置いたあと霊体化して、何食わぬ顔で逃げ出すことも、やろうと思えばできるだろう。しかしそんなまねをすればのちのちどうなるか、考えが及ばぬほどおろかなアーチャーでもない。なにしろ目の前にいるのはかのブリテンの騎士王だ。無礼を働けばその誇りにかけて相応の返礼があるに相違なく、場合によっては面白がったアーチャーの主人が加勢してくる可能性も大いにありうる。そうなったら目も当てられない。彼は観念して一歩を踏み出した。
背筋を正したセイバーは、白くやわらかな顎をわずかに持ちあげて、一点をみつめていた。視線の先には軒先につりさがった風鈴がある。衛宮家の四季に関する風物はたいてい大河の手によって持ち込まれるのが常で、あの風鈴も例外ではない。大輪のひまわりが描かれたそれは、時おりそよぐ微風を受けると涼やかに鳴った。セイバーはその様子を飽きるともなしに見つめている。
アーチャーはふとためらった。あのよくよく整った光景に、自分の存在が余計な一筆を添えるのは、なんとなく惜しいような気がしたのだ。しかし彼は結局、セイバー、と自分から声をかけた。ふりかえった彼女がほほえんだ。
「待たせたな」
「アーチャー。いえ、こちらこそ。料理までふるまっていただけるとは」
「酒には肴が必要だろう」
アーチャーは腰を落とすと、座布団のあいだに、酒器とつまみの皿がのった盆、それから琥珀色の一升瓶とを器用に置いた。
ラベルには流麗な墨文字の書体で「月珊瑚」とある。雪深い東北の地で産出されたこの純米大吟醸は、今の状況のそもそもの発端でもあった。
数十分前、さて主たちが出て行ったあと、アーチャーはいよいよ身の振り方に困っていた。数時間も居間でセイバーと顔を突き合わせたままなど、拷問以外のなにものでもない。ひところよりはずいぶん彼女と話せるようにはなったが、それは例の、婚約者というお芝居がふたりの距離感を担保してくれているからだ。あの肩書きをくっつけているときは、彼女の手を取って平然とおもてを歩くことだってできる。けれども、それはつまり壇上の役者の大胆さである。舞台裏で狂人の芝居をしたらそれはもう単なる狂人であるのと同じく、誰の目もないところで恋人同士の芝居をしていれば、それはもうただの恋人同士なのである!
だからひとたびこうして二騎の英霊として向き合うとなると、たちまちアーチャーは言葉少なになってしまった。さりとて凛から留守を厳命されている以上動くに動けない。
そこで彼は一策を講じた。凛たちが出て行くやいなや君さえよければ何かつまめるものでも作ろうか、と提案したのである。もちろんセイバーがこれを断るはずもない。彼はまんまと台所に逃げ込むことに成功した。居並ぶ調理器具をながめているとたちまち心が落ち着く。なにより調理中は余計なことをかんがえずにすむし、彼女だって喜ぶ。いいこと尽くしだ。
だまって彼女の無邪気な食欲に奉仕していればいいのだとわかって、彼は気もかるがるとなった。ふだん士郎の料理を食べつけているセイバーに、ひとつ本物の味というものを教えてやろうという子供じみた意図を 抱く余裕さえ出てきたほどである。
セイバーの相手をするうえで、家主から厨房にあるものは何でも自由に使っていいという許しは出ている。さて何か使えるものは、と冷蔵庫を物色していたところに、およそこの家に似つかわしくない一升瓶が出てきた。整頓された野菜室の中、王族かなにかのミイラのようにどっしりと横たえられていた酒瓶を、アーチャーは取り出して眺めてみる。
おそらく大河あたりがいずこからか貰い受けてきたものだろう。未成年の多いこの家では飲むあてもなく、性格的に一人酒の趣味もない彼女は、とりあえずといったふうに野菜室にと突っ込んでおいたのではないか。さりとて料理に使うにはいささか高級すぎる代物だ。おそらく士郎のほうでももてあましているにちがいない。癪な話だがあの少年の考えなら手に取るようにわかる。それこそわが事のように。
「それは酒ですか?」
居間で待っていたはずのセイバーが、ひょっこりとアーチャーの手元を覗きこんだ。
「ああ、日本酒というやつだ。米で作った酒だよ」
「お米ですか」
いまやパンと同じくらい米を愛好しているセイバーは、それをきいて幾度か目をしばたたかせたあと、
「アーチャー、こちらをいただいてみたいのですが」
と言った。
思わずアーチャーはセイバーのほうをまじまじと見つめた。可憐な横顔が、興味深そうに酒のラベルを読んでいる。
「君がか?」
「それ以外に誰がいるのです?」
きょとんと、セイバーのほうがかえって不思議そうな顔をした。考えてみれば当然の話で、少女の見かけはしているものの、彼女の中身はりっぱな成人である。立場から考えても、生前は酒のひとつもたしなんだことはあろう。
かの聖剣の恩寵で成長が停止しているセイバーの肉体年齢を指摘して、未成年飲酒における害を説こうなどという噴飯もののまねをするつもりは毛頭ない。ただ、この清廉かつきめ細やかな食事を好む少女と、豪胆な威容を持つ日本酒の一升瓶とが、アーチャーの中でうまくむすびつかないだけだった。
「まあ、どこかへ差し上げる品というわけでもなさそうだし、かまわないが」
「ありがとうございます。そうだ、せっかくなら縁側でいただきませんか」
「……その言い方だとまるで私もご相伴にあずかるようなふうだね」
「ようなもなにも、もとよりそのつもりですが」
はじまった。
苦々しい気持ちがこみ上げてくるのを、彼は皮肉げな笑みを浮かべることでごまかした。セイバーの困ったところだ。こういう突拍子もないことを前ぶれもなく言い出して、アーチャーをしばしば困惑させる。それも押し付けるような、独断的なふうでなく、まるでずっと前から決まっていたみたいにさらりと言ってのけるので、こちらとしても強く出られない。あまたの民と騎士とを率いる王として生きた彼女は、自分が頭のなかで決めたことを、いちいち他人に相談したり確認するような習慣がないのだ。おまけにここで下手に抵抗を見せると、セイバーは持ち前の頑固さからますます己の意見に固執しがちになって、手が付けられなくなってしまう。よってこの場における最善の一手は反論ではなく、交渉である。
「あー、ならばせめて居間で飲まないか。この家からでは花火は見えないぞ。せいぜい、遠くで音が聞こえるぐらいだ。実につまらないじゃないか」
「かまいません。あそこであなたと飲みたいのです」
「いや、しかしだなセイバー」
「お願いします、アーチャー」
ずい、と彼女のよく整った顔が迫ってきて、アーチャーは押し黙った。お願いしますときたものだ。むりやり強制されるよりかえってたちが悪い。こうまで言い募られては断れるはずもなく、彼はようよう首を縦に振った。
情けない話ではあるのだが、どうもアーチャーはセイバーからの依頼を真正面から拒否できない。聖杯戦争が終わって、ますますその傾向はは顕著になるいっぽうだった。彼女に対して抱いている、さまざまの引け目にきっと起因しているのだろう。少なくともアーチャーは、そう常々自身に言い聞かせている。
「よかった。楽しみです」
アーチャーの返事を受けてセイバーはくちもとをほころばせた。その笑顔に対する何らかの情動が湧いてくる前に、彼はふいとセイバーから目をそらさねばならなかった。
彼がセイバーの頼みを断れないという事実は、常に贖罪の気持ちに裏打ちをされていなければならなかった。それだけが、自分が彼女にしめすことのできる唯一の誠実だと思われた。翻ってそれ以外の気持ちは不誠実以外のなにものでもない。たとえば、彼女の願いをかなえることで何か満たされるような気持ちになる自分を発見するようなことは、なにがなんでも防がれるべきなのである。
ささやかな酒宴にあたり、アーチャーは簡単なつまみを二、三品ほどこしらえることにした。酒のあてとはいえ手抜きの料理を人様に、それも彼女にふるまうなど、己の矜持がゆるさない。ちかごろのチェーン居酒屋においてはキャベツを適当にちぎったものに既製品のゴマ油を垂らしただけの代物を料理と称して供するそうだが、アーチャーからすればまことに嘆かわしいとしか言いようがない。それは料理とは呼ばない。
手際よくならべられていく料理たちを、セイバーは手品を見守る子供のような、期待と好奇心の混じった瞳で眺めていた。こういう視線は心地よいものである。
「とりあえず日本酒にあいそうなものを作ってみた。口に合うといいのだが」
いずれも純米大吟醸の風味を考慮した、酒の味をより引き立たせる一品だ。クリームチーズ入りの黄色い卵焼きに梅のソースを添えられた淡色のアジの刺身、三種のタレが付属した純白の冷奴と、味覚にも彩りにも隙がない献立だ。我ながらよい出来だった。
「さすがです。どれも美味しそうですし、目にも涼やかだ。これはなんですか、アーチャー」
「アジの梅カルパッチョ仕立てだ。ああ、そっちの冷奴だが、肉味噌と塩昆布と、アボカドの中華風ソースがある。お好みで味付けをしてみてくれ」
「ふん、ふん」
料理の話をするとき、アーチャーはセイバー相手の気まずさも忘れて、ひどく饒舌になった。おのおのの料理の楽しみ方、酒との相性についてなどを、つぶさに語ってみせる。そして料理の話をきくときのセイバーもまた、非常に真摯な顔になるのだった。アーチャーのひとことひとことを、彼女は丹念に頭にしまいこむ。二人はいつの間に皿をはさんで、軍議のように額をつきあわせているのだった。
風が吹き、風鈴をまたひとたび鳴らした。出来立ての料理の匂いがふんわりと立ちのぼる。それに混じってアーチャーはふと花のような匂いを嗅いだ。風呂上りの凛が纏わせているたぐいの香りだった。正体を察したとたん、アーチャーは自分とセイバーがなかなか大胆な距離にあることにも気がついて、さりげなく身を離した。そういえば霊体化のできない彼女は、体の汚れを清めるために入浴の習慣をもっている。
ひととおり料理の説明がおわると、次にセイバーは酒器のほうに興味をしめした。
「きれいなグラスですね」
「猪口ととっくりだ。この猪口に、とっくりから酒を注いで飲む」
「しかしこれはまた、ずいぶんと小さい」
「おや、ご所望なら瓶からそのままいくかね?」
「違います!」
セイバーは百合のような手のひらにお猪口をのせて、切子文様を指でなぞったり、間近で眺めたりと、ずいぶん仔細らしく観察していた。異国の海を思わせる、ほのかに青く透き通った津軽びいどろの酒器のひとそろいは、食器棚の奥から発見した。この家にそぐわぬ品を当初は怪訝に思ったが、ながめているうち、どうやらこれらは切嗣のものであるように思われ出した。あたりまえだが義父は酒をすごしていいような身体ではなかった。それでもときおり、士郎や大河の目をぬすんで晩酌なぞをすることがあったのだろう。士郎は――オレは――それを知っていたのか、知らぬまま終わったのか。今となってはもう思い出せない。いちおう心中で、借りるぞじいさん、とだけ言い置いて持ちだしてきた。亡き父の遺品でセイバーと酒を交わそうとしているこの状況に、彼はめぐりあわせというものの不可思議をつくづく感じた。
アーチャーは座布団の上に胡坐をかく。徳利を手にとって、セイバーを促した。
「手酌は基本、マナーに反するのでね。さすがに日本酒のたしなみ方は、聖杯の知識になかったろう?」
「なるほど」
さしだされたお猪口へ、澄みわたった液体が注がれる。異国の酒がおだやかな滝のように徳利の口から流れ落ち、己の杯に水で出来たきよらかな月をつくっていくさまを、セイバーはじっと見守っていた。注ぎ終わると今度は彼女が徳利を持った。
「では私も」
万事そうであるように、彼女はお酌ひとつにもきわめて真剣なようすでとりくんだ。小さな動物の脈動のように、とくとくと可憐な音をたてて注がれる液体のゆくえを、彼女は自分が酒を注がれているとき以上に真面目にみつめている。するとしぜん目は伏せがちになるので、輝かしい金の睫の一本一本が、アーチャーからはよく見えた。
「かのアーサー王から酌を受けられるとはね」
「ふふ、どうぞ、楽に」
やがて杯は満たされた。
「さて、何に乾杯しましょうか」
「我々のマスターの益々の発展に、というので手を打たないか」
「名案です。では、シロウのこれからに」
「凛のこれからに」
乾杯。
ふたりはかるくお猪口のへり同士をぶつけた。硬質だが澄んだ音が耳に快い。よもや自分たちふたりのあいだで、剣戟以外の音が鳴りひびく日の来ようとは、アーチャーだって思わなかった。
まっさらな喉をそらして、セイバーはひといきに杯をあおった。なかなかの飲みっぷりである。アーチャーも彼女にならった。口中の熱にあたためられて、吟醸酒の持つ、果実のようなみずみずしく甘い匂いがいっぱいに広がる。かと思うと一瞬ののち、きりりと目のさめるような、冴え渡った冷たさが喉を通過していった。――旨い。
「ああ、これは……」
ほう、と息を吐いたセイバーが、満足げに数度頷く。
「はじめて飲みましたが、美味ですね」
「それはよかった。同じ醸造酒でも、ワインとはずいぶん違うだろう」
「ええ。飲み口がいい。身が引き締まるし、それでいて豊かな味わいです」
彼女はいそいそと箸をとって、塩昆布をのせた冷奴をひとくちふたくち、つづけざまに口にはこんだ。幸福そうにその目尻がゆるむ。最初の一杯は香りを楽しむために少し淡白な味付けの料理がよいと教えたのは、アーチャーだった。
「それにしても」
セイバーが二杯目の酌を受けながら口をひらいた。
「凛の浴衣は可憐でした。ですがアーチャー、あなたの態度はシロウに対していささか意地が悪かったように思います」
「なんの話かな」
「また、そうやってとぼけて」
友人二人――蒔寺楓と美綴綾子の教授を受けて着付けたという浴衣を纏って凛が衛宮邸に姿を見せたとき、当然ながら士郎はうまくものを言えなくなってしまっていた。紺地に白い椿を染め抜いた上品な浴衣、胴には華やかな黄色の半端帯を締め、薄く化粧をほどこした彼女は、ひとばんのうちに士郎より二つも三つも、大人になってしまったように見えた。ふだん彼女のイメージカラーを担っている赤色は、帯に巻かれた飾り紐の帯締め、それと黒くゆたかな髪をひとつに束ねるりぼんにあしらわれている。学校の制服や私服に身を包んでいるときの、颯爽たる雰囲気は薄められていたが、そのかわり和装の凛には月明かりの下で見る花や果物のような、親しみやすくも触れがたく、侵しがたい美しさがあった。着慣れぬ和服でらしくもなく自信が揺らいでいるようすが、かえって可憐な風情を与えていた。恋する少年がこんな姿をとつぜん見せられて、うまい言葉がすぐ出てくるはずもない。
ところが、しどろもどろと言葉をさがす士郎を押しのけて、アーチャーが先手を打った。彼は真心こめて主の艶姿を褒めそやした。それも士郎のような少年にはかなわぬ、大人の男にしかできないような褒め方――まったく女性というのは一日ごとに見違えてしまうから困る、とても似合うぞ凛、外に出してほかの連中に見せてやるのが惜しいぐらいだ、あとでよく見せてくれ、云々――となめらかに並べ立てた。凛は凛で、相変わらずキザね、何にも出ないわよ、と口では言いつつ、耳を赤くしているのがセイバーからも士郎からも見えた。恋人としての立場を横取りされた士郎は当然ながらアーチャーをにらみ付けたが、彼は素知らぬ顔だった。
「女性を褒めるのに恥らってものも言えないようではいつか横からかっさらわれてしまうぞと、私は男の先達として教えただけなのだよ、セイバー」
「意地の悪い」
「だいたい、私がいくらあれやこれやと歯の浮くような文句を連ねたところで、そんなものはあの坊主がひとこと、似合うだの可愛いだの、つまらぬ感想を言ってしまえばすっかり忘れ去られようさ。凛はそっちのほうがうんと満足するのだからね」
「意地が悪いうえに大人げもない」
あきれたようにセイバーはお猪口に口をつける。その所作がひどく大人びていた。否、実際に彼女は大人だ。見かけは完全に少女の風姿であるセイバーだが、ほんらいはアーチャーよりずっと年上で、人生経験の豊かさも比べ物にならない。しかし、彼女があどけなさというものから縁遠いのは、実年齢のみならず、そのようなものを持つことが許されなかった身分に就いていたゆえもあるだろう。
「アーチャー、あなたも。お猪口が空ですよ」
「うん? ああ、すまないな」
「いえいえ。……ところであなた、ふだんお酒は」
「私かね? 家には凛もいるのでさほど飲むわけではないが……。そうだな、たまに出かけた先で、気分転換に一杯ぐらいはやるよ」
「あなたの見かけなら問題なくお酒が飲めるでしょうね。私だとそうもいかない」
「見つかったら大変なことになるだろうな」
「大河に泣かれてしまいます」
目に浮かぶようだ。「セイバーちゃんが不良になっちゃったうわーん!」とひとしきり吼えて騒いで暴れたのち、「不良少女を更正させるも教師のつとめであーる! 愛の鞭を食らいやがれってんだー!」なぞと今度は別のベクトルで暴れだすのである。
「……彼女は息災かね、ライダーの宝具やら、キャスターに狙われるやら、先の冬はいろいろあったろう」
「会いにきて、自分で確かめればいいでしょう。あなたはいつも大河の不在を見はからって尋ねてくる」
「偶然だよ」
「どうだか」
彼女とこういう会話をつづけても分が悪いのはわかりきっている。アーチャーは黙ってお猪口の中身をあけ、味を堪能するふりをして目と口を閉ざした。さきの凛と士郎の一件における、セイバーなりの仇討ちといったところか。相変わらずマスター思いのサーヴァントだった。
セイバーは日本酒がずいぶんお気に召したようだ。つまみを楽しむかたわら、彼女はちょっと驚くようなペースで酒量をかさねた。何度目かの酌になって、アーチャーはついに、
「君がこうもいけるくちとはな」
と感嘆の声をもらした。セイバーは常よりも朗らかな笑いでこれに応じた。
「これでも一国の王をつとめた身ですよ。剣を執るほどの頻度ではないですが、そうですね、ペンを握るのと同じくらい、酒杯を手にする機会も多かった。冬の行軍の際にはみなで火を囲み、熱い葡萄酒をいくらでも飲んで体を温めたものです。凱旋の宴や季節の祭ともなれば、王が先んじて杯をとらねば民たちも飲むに飲めないでしょう」
遠い時間のかなた、いまは物語の中に語られるだけの光景を、セイバーは今なお鮮明に思い描けるらしかった。いや、とアーチャーは思う。その風景は、壮麗な騎士たちや凱旋に沸く民たちの姿は、未だ彼女の魂の中でいきいきとめぐりつづけているのだろう。――だから、その身を何度磨り減らしたとて、かならずや自分が故国を救わねばならぬと信じている。彼女はあとどれだけ、間違った願いに魂を捧げ続けるつもりなのか?
ここではないどこかを想う目で、セイバーは夏の夜空を見上げている。
「オレは」
ふと声が出ていた。セイバーがこちらに視線を戻したにもかかわらず、彼は自分が何を言いたかったのかを忘れた。
「ああ、いや。……そうだ。私のほうではあまり生前の記憶はないのだが……。君のように、酒を飲んで語らう、というようなことも、きっとあったんだろうな。旅先で現地の人間と打ち解けるに、酒というのはうってつけなんだ」
「あなたなら、酒より料理のほうが相手の胸襟をひらかせるのにたやすそうな気もしますが」
セイバーは日本酒で湿した口中にアジの梅カルパッチョを運び、その取り合わせの妙味にひとしきり唸っていた。咀嚼し終えるとまた酒を飲み、
「なんだか不思議な気分です。あなたとこうして、穏やかに酒を楽しむことができる日がくるなんて」
とつぶやいた。
「それを言ったら、私としてはこの数ヶ月の状況すべてが不思議でならんよ。私も君も戦うために喚ばれるような存在だというのに、日がな一日、私は料理を作ってばかり、君は料理を食べてばかり」
「それではまるで私が穀潰しのようではないですか!」
「そう聞こえたかね? それは失礼」
「誠意のこもっていない謝罪ほど腹立たしいものもありませんね。アーチャー、あなたのそういう性分が以前から」
「私のぶんの卵焼きもどうかね」
「いただきます」
「……さて、話を戻すが。私ももうだいぶ弓を握っていない。有事の際に腕が鈍っていたらと思うとぞっとせんよ」
「アーチャーではなくバトラーにクラスを変えられないか、座に直談判してはいかがです?」
「なんでさ」
セイバーが目を丸くしてアーチャーのほうを見た。しかし彼は肉味噌をかけた冷奴の自己批評にとりかかっていて、セイバーの驚きどころか、彼女がなぜ驚いているかにも気がつかないようだった。
「味付けはもう少しさっぱりとさせたほうがよかったな。次に活かそう」
「今でも十分美味ですが」
「私が納得できない。どうせなら完璧を目指したいだろう?」
「頑固というか、なんというか」
「む。セイバーには言われたくないぞそれ」
「――」
「……どうかしたかね?」
「……いえ。それよりもう一杯いかがですか」
「ん? ああ、そうだな。いただこう」
「私にもお願いします」
「君、実は竜種ではなく蛇の因子が入っているのではないか?」
アーチャーは苦笑いした。しかしセイバーは笑いもせず、反論もしないで、どこか恥らうように眉をわずかに下げた。
セイバーのペースはいっそうはやくなった。加えて彼女はアーチャーにもしきりに酒をすすめた。そうなるとつられるかたちで、彼もだいぶ杯を重ねることになる。
一升瓶の中身が三分の二も減ったころ、セイバーがもはや何度目かわからない酌を享けながら、自分のほうをなにやらちらちらと伺っているのにアーチャーは気がついた。向き合っているから目線は当然ながら上目遣いになる。セイバーが意識して他人を視界におさめるときは、まっすぐに相手を見つめるのが常であったはずだ。それはつまり騎士の視線である。こんなはにかみがちの、木立のあいだから様子をうかがう野生のリスのような目線は彼女らしくもない。いつしか酒を注ぐときの例の音が、彼女の胸の内から響いてくるような錯覚にさえとらわれる。杯のむこうに望めるセイバーのきよらかな首筋が、ほんのりと赤く染まりつつあるのが見えた。
あらゆることに気をとられたアーチャーは、小さなお猪口の存在をつかのますっかり忘れた。なみなみと注がれ、ふちからあふれた透明な液体が、セイバーの手をしとどに濡らす。アーチャーはほとんど何も考えず彼女の手をとり、もう片方の手でハンカチを引っ張り出すと手早く酒をぬぐった。一瞬してから自分がなにをしているかに思い至った。セイバーの小さな手はあたたかく、揉んでほぐしたパン生地のようにやわらかい。
これは失礼、着ているものは大丈夫かね、とすかさずスマートに言ってしまえればまだよかった。いつもの彼ならば難なくその言葉が出てきただろう。しかしアーチャーの唇が辛うじてつむいだのは、「ごめん」などというなんとも情けない、思春期の少年めいた謝罪のひとことであった。
セイバーは焦りも照れも見せない。どこか寝起きのような、夢うつつの表情である。そのくせ、あわてて自分の皮膚から撤退しようとするアーチャーの手をとらえる動作は、あきれるぐらい機敏だった。彼が目を見開くのにも構わず、焼け付いたような色を帯びた男の手を己の眼前にまで引っ張り出すと、
「大きな手ですね」
としみじみつぶやいた。手相見のように、親指で彼の掌のほうぼうを押さえてはじっくりと検分している。
「それに硬い。武人の手だ。ああ、でも指先は非常に整っている」
「弓兵だからな」
「そうですね。あなたにとってはその手指も武器の一部。入念に整備すべきものでしょう」
「とはいえそうしげしげと眺められるような明媚さもなかろう。……あの、セイバー、そろそろ」
「美術的見地から見てどうかは知りませんが、信頼に足る手です。私としてはこのほうがずっと好ましい」
「……それは、なんというか。光栄だ」
「ええ。自慢してもいいのですよ?」
ついにセイバーは自分の掌をひろげて、アーチャーの掌とぴったりと合わせた。二人とも剣をその手に握る人間でありながら、その大きさもかたちもやわらかさもまるでふぞろいである。溜塗り漆に似た色の皮膚に重ねられた、白く小さな繊手。共通点といえば、酒によって熱を帯びていることぐらいか。それ以外は、どちらも同じ原理で発生している身体の一器官だというのが信じられないぐらい、似ていなかった。別々の国と季節から運ばれてきた植物が、二輪巻の花のように根元を結わえられて寄り添うているようだ。しかしだからこそその光景は得難い、貴重なもののように思われた。指を握り合わせるでもなく、どちらかが相手を押しのけるでもなく、ふたつの掌はただ隙間なく重なり合っていた。いつしかそれは別種の二輪の花でなく、ちょうど半分ずつが異なる色と形状をそなえた、いびつな一輪の花蕾ではないかと思われた。混ざり合わない白と黒。アーチャーはふとこの配色に既視感を覚えた。すると思い出されたのは、誰あろう彼の愛用する二振りの夫婦剣であった。
「綺麗な手です。美しいのではなく、綺麗だ。これならさぞ、行く先々で女性を魅したでしょう」
「……悪質だ、君は」
アーチャーは熱っぽく息を吐いた。
みずみずしい潤いの膜を張った肌、その五指のしなやかさ。アーチャーは一秒ごとに、眼前の少女が自分とは違う生き物であるのを思い知る。この小さな手をふりはらうことなどたやすいだろうに、どうしてもできなかった。膠で接着でもされたのかと疑うほどに、その手はアーチャーの意思を離れてかたくなに静止している。
だから、セイバーのほうから手を離してくれたときには心底ほっとした。花びらが散っていくように遠のく彼女の手を見て、助かった、と思った。しかし何から救われたのかはよくわからない。
アーチャーはふと暑さを感じた。シャツのボタンをふたつほどはずして、胸元を褐色の手でせわしなくあおいだ。その動きが猛禽の翼の運動に似ていた。
「あまりからかわないでくれるか。綺麗だのなんだの……」
「心外な。本心を述べたまでです」
「いや、だって、そんな……あのな、綺麗って言うのは、セイバーの手とか、髪とか、一般的にはそういうのを指すんだぞ。ああ待った、べつにセイバーの審美眼がおかしいとかそういうのじゃないんだ、褒められたのは素直にうれしい、そうじゃなくて、なんというか、オレからすれば、だから……あー」
何を口走ろうとしているのか、アーチャーは自分でもわからない、気持ちの方向性のようなものは湧き水みたいにこんこんとあふれ出してくるのだが、それを表現する言葉が見つからないのだ。それはあたかも、お猪口をなくした酒宴のようだった。徳利からは延々と酒が流れ出ているのだが、享けるものがないので直接液体をおっ被るはめになる。すると次第に、心の形がくっきりと濡れ透けて、その輪郭をはっきりと余人に見せる。明瞭かつ的確な言葉より、要領を得ない言葉、慌てたしぐさ、口ごもるようす、落ち着かぬまなざしのほうが、よほど多くを教えることがあるのだ。おのれの口調にあからさまな変化がきざしていることにも彼は気づかない。服を一枚ずつ脱がされるみたいに、気持ちはどんどんむきだしになっていく。
セイバーがふと微笑をこぼした。
「これを言うのは二度目ですが、あなたもたいがい頑固ですね。私からすれば、あなたの髪だって――」
とつぜん、白くて細い、二本の長葱のようなものが視界の端へにゅっとのびてきた。アーチャーは思わず息を詰める。半分も身を乗り出したセイバーの顔がぐっと近づき、酒の香りを纏った、湿った息が鼻の横にかかった。
「あなたの毛並みはラムレイの鬣を思い出します」
セイバーの、夏用にあつらえた半袖のパフスリーブブラウスから、まっすぐに伸びた二の腕がよく見える。彼女は遠慮なくアーチャーの髪に両の手を差し入れ、後ろで立てた彼の髪をさわやかな音をさせてかき乱しているのだった。かき乱しているのが髪だけでないことに、彼女はもちろん気づきもしない。
アーチャーは確信する。もう間違いはない、彼女は酔っている! この上なく! どうしようもないほどに!
外傷や魔力不足による衰弱ならともかく、エーテルで構成されたサーヴァントが酒精に酔うなどありうるのだろうかと彼は一瞬疑問に思った。しかしこのありさまは酔っているとしかいいようがない。それもかなりたちのわるい酔い方だ。
好き放題に遊ばれた髪は当然のように前に垂れ下がった。セイバーは楽しげにアーチャーの顔を覗き込んで、
「あ」
とだけ声を漏らした。両の目が見開かれ、唇がかすかにわななく。しまった、とそのおもてが雄弁に語っていた。こういう状態になった彼が、いつかの誰かの面影をいっそう色濃く宿してしまうことを、知らなかったわけでもないというのに。
鏡を覗かずとも、セイバーの表情を見ればいま自分がどのような姿を晒しているかアーチャーにはたやすく想像できる。体内の色素が大幅に変じたのをはじめ、体格も、背丈もずっと立派になった。しかし、根本的な顔立ちにはさほど変容がなかった。声帯にさえも影響が出たのに、顔だけがいつまでもそのままだった。だから、髪の毛を乱される程度のわずかな変化が加えらるだけで、彼は今なおセイバーを動揺せしめるだけの似姿を描き出しうる。
「……セイバー」
言葉に詰まっているセイバーに代わって、口火を切ったのはアーチャーだった。
「わかっていると思うが、私は」
「承知しています。……あなたは、私の知るシロウではない」
アーチャーに突き付けるというよりも、あらためて自分自身に言い聞かせるような口調で彼女は告げた。
「あなたの在り方を愚弄するつもりはなかった。ただ、少し不意打ちというか、驚いて……すみません、私もまだ未熟なようです。本質を違えているようだ。申し訳ありません、アーチャー」
自らの軽率で招いた無神経な振る舞いを決して忘れじとしているのか、セイバーは記憶をしまいこむように一度目を閉じ、ふたたびひらいた。小さな手がするりと離れる。その潔さ、未練のなさはいかにも彼女らしかった。むしろアーチャーのほうが、突然つないでいた手を離された子供のように所在無い気持ちに陥ってしまった。われながら勝手な話である。
「――興を削いでしまいましたね。さあ、飲みなおしましょう」
座布団のうえで居ずまいを正したセイバーは、いつもどおりの清冽な顔つきをしていた。しかしアーチャーは答えなかった。垂れた前髪を直すこともしないで、黙したままでいる。
これでいい、と胸のうちで声がする。英霊エミヤとして、これが彼女との正しい距離だ。しかしもうひとつの声が、それよりもっと大きな声量で、オレは決して彼女にあんな顔をさせたかったわけではない、と訴えかけている。
と、サーヴァントとしての鋭敏な聴覚が、遠くで響いたどぉん、という低い音をとらえた。ふたりはそろって縁側のむこうに広がる空を仰ぎみた。どうやら本格的に花火がはじまったようだが、もちろんこちらの空には何も見えない。
「……君は行かなくてよかったのか?」
「何がです」
「花火だよ」
ああ、とセイバーは苦笑いを見せた。
「実はシロウと凛にも、一緒に見に来ないかと誘われていました。しかしさすがにこの私でも、そんな野暮な真似はできません。それに」
また花火の音が聞こえ、それと時同じくして風鈴がそよぐ。本来ならば重なり合う規模ではない二種の音色が、しかしこの場所では調和したひとつの音楽に聞こえた。夏の夜の、あの薄衣めいて軽やかな風が、酒に火照ったふたりの肌をしばし涼ませる。
「自分自身が楽しむよりも、花火を楽しむシロウや凛のことを考えて時間をすごすほうが、性に合っているのです。……ああ、私にはこれで十分すぎるぐらいだ」
目を細めたセイバーは、きっと思い描いている。夜空を飾る大輪の花と、その下に集って笑いあう、今を生きる人々を。幸せそうに身を寄せ合う、自分の主と彼の大切な少女のことを。その姿をこうして思い描けるだけでいいのだと、誰かの幸せを願うことこそ、我が身を成す糧のすべてであると言わんばかりだ。
――変わらないな、と言いかけて、危うくアーチャーははその言葉を飲み込んだ。そうして自分にほとほと嫌気がさした。どこまで愚かになれば気が済むのか、どこまでこの気高い彼女を汚せば気が済むのか。謝るのはオレのほうだとよほど言いたかったが、自分には謝罪の権利さえもありはしない。セイバーのさまざまの言動を見るにつけ、アーチャーは明確に、自分がかつて救えなかった彼女の姿をそこに見ている。士郎とアーチャーを重ねてしまったセイバーなどより、こちらのほうがずっと罪深い。
アーチャーはセイバーから見えないように手酌で注いだ酒を、ひといきで乱暴にあおった。身体の内側が炉のように熱く火照ってくる。その熱に身を任せているうち、彼はふいにある考えにとりつかれた。
「セイバー、実際の花火は見たことあるのか」
「いえ。でも、写真やテレビで目にしました」
「なんだ、それじゃ知ってることにならないな。十分だとか十分じゃないとか、そんなもの、自分も知ってから言うもんだ」
「……アーチャー?」
いぶかしげな目線を向けるセイバーにかまわず、アーチャーはおもむろに座布団から立ち上がった。足もとが湯に浸かりすぎてのぼせてしまったときのようにおぼつかなかったが、彼はなんとか数歩歩いて、それから唐突にセイバーのほうをふりむいた。はっきりと困惑の顔色を浮かべている彼女に向けて、
「今からやろう」
とアーチャーは断言調で口にした。
「あの。何を……」
「花火だ」
「花火、とはあの花火……、待った、待ってくださいアーチャー。それはいったいどういう」
「いいから。セイバーはそこにいるんだぞ。すぐに戻る」
「は、はい」
妙な迫力に気圧され、セイバーがいっそう背筋を正す。アーチャーはずんずん歩いて居間に出、玄関に出、靴を履いて外に出た。その足どりは一直線に土蔵を目指していた。
――セイバーの動作をいちいち自分の知る彼女といちいち当てはめてしまうなら。自分の知らない顔をし、自分の知らない反応をするあたらしいセイバーに出会ってしまえばいい。それなら、誰を思い出すこともない。今傍らにいる彼女をこれ以上汚さないですむ。
平時ならばばからしくて考えもしない、子供の屁理屈めいた発想が、アーチャーを突き動かした。それはどう考えても、酒の霊気にあてられて降ってわいたような考えである。なんのことはない。彼のほうがセイバーなぞよりもっと深く、どうしようもなく、酔っていたのである!
土蔵を数分も捜索すればお目当ての品は見つかった。こうしてふたたび縁側に戻ったアーチャーの両手には、右に水を張ったバケツ、左にセイバーには見慣れぬ品――この季節ならどこにでも売っているような花火セットとが、携えられていたのだった。
花火はずいぶん昔に放り込まれた品らしく、手持ち花火の類はほとんどがしけってしまっている。太さも形状もさまざまの花火たちはいずれも玩具らしい無邪気な色彩を帯びていて、無骨な大人の男の手には妙に不釣りいに見えた。それらに真剣な顔つきで点火を試みては処理していく手際のよさは、遠い昔、彼がこの他愛ない遊具で夏の夜をすごした経験があるのを教えている。
線香花火にだけは奇跡的に火がついた。独特の匂いが立ち上り、ごくごく小さな、妖精の翅のような炎が吹きあがる。隣で見ていたセイバーが「あっ」と小さく声をあげた。それがなぜだか、彼にはうれしく感じられるのだった。
アーチャーは手早くセイバーに火の点じた一本を差し出した。正座を崩し、ひややかな沓脱石のうえにそろえた脚を伸ばした彼女は、おそるおそる、と言ったふうに線香花火を受け取った。やがて火花はいっそう激しくなって、サンゴに似た形状をそなえた橙色の火が幾筋も生まれ出でては夜闇の中に散っていく。セイバーはその様子を、はじめて食卓に供された料理を見るようにまじまじと眺めていた。
何か声をかけようと思って、結局やめた。彼女が目の前の光景から受け取る情動に、よけいなものを加えたくないと思う。かわりにアーチャーは自分も花火の一本に火を付けた。
火花がはげしくなってくると、少し驚きながらもその華麗さにセイバーは目を細める。はじめはつつましく、次第に華々しく火を吹き散らして火花同士が睦みあい、最後には流れ星のように垂れ落ちてはかなく消えてゆく。燃焼の過程はまるで一遍の物語のように、あるいは誰かの人生のように。火の玉が落ちないよう、少しでもその光を永らえさせんとして、ふたりは身じろぎもせずただ沈黙を守っていた。自分たちがとうに失ってしまった、当たり前の生というものを、彼らは小さな火の移り変わりの中に見た。そうしてそれを、誰にも見つからないような場所でそっといつくしんでいる気分になるのだった。
穏やかに線香花火の行く末を見つめるセイバーの、淡いオレンジ色に照らしあげられた横顔は、アーチャーのもくろみどおり誰と重ねるべくもない、はじめて見るような少女の顔だった。それゆえにいっそう輝かしく見えた。そうなると予想外の問題が出てくる。なるほど当初の「知らない彼女を引き出す」という目的は達成した。すると彼の意識は「次」に移行してしまう。すなわち、次はあれを見せてみるか、あれを食べさせるとどうなるのか、そういえば彼女はああいうものなら好ましいのではないか……などという欲がどんどん募ってきてしまうのだ。
ふたたびセイバーの声がして傍らを見ると、線香花火は終わっていた。同時、アーチャーの手にしていた花火の火玉もぽとりと地面に落ちて、縁側に夏の夜の暗闇がもどってくる。二人はバケツに花火を放った。
「凛たちが見に行っているもののような絢爛さはないが、こういうのも悪くなかっただろう」
「こんな花火もあったのですね」
「君は風鈴を気に入っていただろう。ならこちらも気に入るのではないかと思った。ジャンルが似てる」
「ジャンル云々はよくわかりませんが……。ええ、これは確かに私の知らなかったことだ。いいものですね」
「ほんとうか、セイバー」
板張りの床に手を突いて、アーチャーはずいと身を乗り出した。一気に距離が詰まる。突然の接近に驚き、思わず体を引いたセイバーのおもては、先ほどよりも目に見えて頬や耳のふちやらが紅潮していた。いよいよ酒が回ってきたかと、少なくともアーチャーはそう信じていた。
「な、なんですか。あらたまって」
「知らなかった、と言っただろう」
「いえ、だって……もとはといえばあなたが言い出したことでしょう」
「それはそうだ。知識として知っているだけでは本当に識っていることにはならない」
「あなたに言われるまでもありません。英雄王ではあるまいし、この世のすべてを知っているなどと驕るつもりはありません。私にだって知らないことは山のようにあると理解して、あの、アーチャー、顔が」
「セイバー」
ふたたび呼びかけると、セイバーは口をつぐんでアーチャーのほうをまっすぐ見据えた。額に垂れた前髪がつくる、灰色の帳のむこうに、彼女の瞳が望遠鏡から望む景色のように遠く、近く、見えている。美しい緑の瞳。届かぬ楽園に広がる草原のような。
「……君のような王であっても、オレのように無駄に場数だけ踏んできた英霊であっても。世界にはまだオレたちでさえ知らないことが、見たことのないものがあまたとある。今この瞬間にも――」
彼は想う。これより生まれ出るであろうあらゆる命と、それらが編み上げるいくつもの生の物語。比べてこの身はもはや、なにひとつとして新しいものを生み出せない。けれど。
「どんなに小さく、とるにたらないような……あるいは無価値に思えるような事象であれ、宿るべきところに宿れば何かが生まれるはずだ。まだ生まれ得ないものが、きちんと今を生きる誰かのもとで生まれ出るように守ってやるのが、英霊というものだろう。それなら、どのような事象にしたって、知識としてでなく、実際の経験として識っていたほうがいい。重みが違う」
「重み……」
「悪あがきの素とも言うがね。……あんなささやかな光景を、か細い声を、どうということはない感触を――それでも未来を望む誰かは、心から必要としている。そう考えると、それを届けてやるために、まだ戦い続けないとって思うんだ」
すべてが誰かの、何かのためにある。まだ見出されない出会い、記されざる物語――知っている誰かの、知らない美しさ。受け渡された先ではじめて花開くものたちを、せめてこの両手に抱えられるかぎりは守りたいと、そう願って走り続けた。どこまで走っても自分にだけは、誰も何も届けてはくれないと知りながら。
「君が、あいつの行く先を見届けたいと願ってくれるのなら――。セイバー、君に識っておいてほしかった。こんな脆い意地を張って、自分を騙しながら、擦り切れるまで走ったような男がいたことを」
「――」
ふたたび、セイバーの両腕が伸びてくる。あたたかな手が垂れた前髪を押しあげた。慈しむような、さびしがるような、懐かしむような、さまざまの感情が混ざり合った表情が目の前にある。
「あなたはという人は……どこまでも……」
しかしセイバーは続く言葉を飲み込んだ。かわりにどこかもどかしげなようすで、アーチャーの秀でた額におのれの白い額をくっつけてみせる。手のひらと同じくらいの熱を宿したそこの感触をただ受け入れているうち、次第に湯の中で煮えるように、体と意識とがたゆたっていく。いつの間にか閉じていたまぶたをゆるゆると持ち上げてみれば、セイバーの金の髪が眼前に流れていた。熱をわすれたような己の瞳の中に、幾筋もの星がおちてくる。
知らない彼女を知りたいと思った。線香花火に他愛なく喜んで、酒に酔って陽気になって、大胆になって。そんなセイバーを目の当たりにすれば、かつて自分が助けられなかった彼女と、今ここにいる彼女とは、もう別の誰かだと割り切れようと思われた。けれども今、すべてを目にしてアーチャーの胸に去来するのは、救けたい、というひとことだった。この事実に彼は絶望した。祈りにも似た絶望だった。どこまでいっても、彼女の存在をこの身から切り離すことができない。オレはやっぱり、どうあっても、お前が救われることを望んでしまう。君の力になれたらと願ってしまう。
これからセイバーが知るであろう未知のものたち、それにふれることで彼女の胸に生まれるであろうさまざまの情動を、感懐を、守りたいと思う。他人の幸福を喜び、日常を尊び、どんな小さな未知でさえ慈しむその魂が、いつか解き放たれる日のくることを、この身が地獄の底にあろうと祈りつづける。
セイバー、と呼びかけると、なんですか、と小さく応えがある。酒気をまとった熱い吐息が耳朶にかかって、血管をじかにくすぐられているような感触がある。
「セイバー、オレは……」
――戸口のあたりで物音がした。
「ただいまぁ」
二人分の足音が廊下を渡ってやってくる。やがて縁側にひょっこりと顔を出した凛と士郎は、おのおのの相棒の奇妙な姿に怪訝な顔をした。
「こんなところにいた……って、なにやってるのよあなたたち」
「何、アレだ、間合いの詰め方をね……彼女に見てもらおうと思って」
「ええ、さすがアーチャーです。踏み込みに迷いがありません。感心しました。ええ、ええ、はい」
私服のままそれぞれ干将莫耶と聖剣とを構え、お互い縁側の端と端に立って実に神妙な顔つきをしているアーチャーとセイバーだが、折りしも夜風に鳴った風鈴が、その光景になんとも言えない間の抜けた風情を添えた。
「それなら道場でやったほうが広くていいだろ」
士郎がもっともなことを言う。アーチャーはいまいましげに鼻を鳴らした。
「素人らしい考え方だ。実際の戦場において、はじめから広い足場が保障されているケースなどそうはない。このぐらい狭いほうがかえって実践的だ」
「なんだよ、悪かったな。……っていうか、その髪型はどうしたんだよ」
アーチャーははっとなって自分の頭に手をやった。前髪の毛先がちらちらと視界の上をよぎる。
「ああ、その、彼女にイメージチェンジを図ってはどうかとすすめられて……そうだろうセイバー」
「えっ? あ、はい、そうです。そうなのです。こちらのほうが、なんといいますか、こう、春キャベツ的なやわらかい印象が出て、威圧感が減るのではないかと」
「なにそれ。イメチェンとか、いまさら?」
ころころと笑い声を立てたのは凛である。こちらへ歩みよってくる、快い疲れで常よりも鈍った足取りは、いかにも幸福そうだった。彼女は縁側に置かれていたふたりぶんのお猪口と徳利、それにすっかり空に近い一升瓶をすぐに発見する。
「やだ、あんたたちお酒なんか飲んでたの? おつまみまで用意しちゃって。ははーん、二人して酔っ払ってるのね」
「酒? ひょっとしてセイバーもか?」
「はい。いただきました。たいへん美味でしたよ」
「うーん、まあ、セイバーも実際大人なわけだし……。でもなんかヘンな感じだなあ。藤ねえにバレないようにな。そうだセイバー、出店がいくつか出てたから、大判焼きとか、鈴カステラとか、お土産に買ってきたぞ。居間にあるから、よかったら食ってくれ」
「それは……! ぜひいただきます」
剣を消したセイバーが、ではさっそくと言わんばかりにぱたぱたと小走りに駆けていく。
「もう遅いからほどほどにするんだぞー」
「はい!」
「あ、わたしも食べてこようっと」
「遠坂、さっきりんご飴食べてたじゃないか。結構でかいやつ」
「……誰かさんのせいで味なんかろくろくわかんなかったの」
「えっ? 大丈夫か遠坂、具合でも悪かったか? すごい人ごみだったからな、それはすまん、気づいてやれなくて」
アーチャーはため息をつきたくなった。我ながらおそろしいバカさ加減だった。こんな未熟者に惚れているうえに面倒まで見てくれる凛がいっそう慈悲深く思えて、せめて自分のいるうちは、あの未熟者に代わって誠心誠意彼女に尽くそうという決意をいっそう堅くさせた。
凛はあきれ返ったように士郎を一瞥してから、「もういいわよ、バカ」と言い残して縁側を去っていった。しきりに首を捻っている士郎に嘲笑のひとつでも浴びせてやろうとして、急に士郎のほうがこちらに向き直った。
「……なあ、セイバーとなんかあったか?」
……鈍感ならどこまでも鈍感であればいいものを、この男は妙なところで鋭さを発揮する。それがよけいに、アーチャーには忌々しい。
「べつに何も。彼女の酒のお相手をしたまでだ」
「そっか、ありがとな。セイバーだってたまには飲みたい時ぐらいあるだろうし、俺じゃ付き合えないから」
「礼を言われる筋合いはない。……おい、ひとつ聞くぞ」
「なんだよ改まって。言っておくけど、遠坂にヘンなことはしてないぞ」
「たわけ、当たり前のことを胸を張って言うな。……そうではなくて、セイバーにつまみを出すにあたって、台所と冷蔵庫の食材をいくつか使わせてもらったと言っている」
「ああ、なんだ。それはかまわないって前にも言っただろ。セイバーも喜ぶしさ」
「それから、酒も」
「酒?」
士郎は数度、少年らしい大きな瞳をしばたいた。一拍置いてから、ああ、と得心したように頷く。
「ひょっとして野菜室にあった日本酒か?」
「……そうだが。いけなかったか。可能なら同じものを買い直すが」
「あー、いや。違うんだ。俺も正直どうしようかと思ってたんで、飲んでくれてかえって助かった」
「……あれの仕入先はどこなんだ? お前のバイト先か?」
「いや、あれは柳洞寺の零観さんがくれたんだよ。余らせてるから料理にでも使えって。でもあんな高級なお酒、料理に使うなんてもったいないし、藤ねえは一人で飲むのは寂しいから士郎が大人になるまでとっとくんだー、なんて言ってたけど、さすがに気が長すぎる話だろ」
「確かにな」
酒の出所がわかっていちおうの気がかりが晴れたアーチャーは、かがみこんでつまみの皿やら徳利やらを片付けようとした。しかし続く士郎の言葉に、その手がぴたりと硬直する。
「なんでもどこぞのお山で作った霊験あらたかなお酒らしくてさ。この世ならざる者に飲ませればよくよく効いて、その本性と本心を顕すとかなんとか……。零観さんなんか、『これはと思う女性に巡り合ったら、一度飲ませてみるのもいいかもな、君は何しろいろんなものに魅入られやすそうだ!』なんて冗談言って笑ってたっけ。はは、もちろん眉唾だと思うけど」
アーチャーはすっくと立ち上がって、もう一度士郎に向き直った。
「アーチャー?」
不思議そうに自分と同じかたちの眉を寄せている士郎の頬を両手でつまむ。とくに手加減なく横に引っ張った。
「ひゃんでひゃ!?」
士郎の抗議もろくろく耳に入らない。ただ頭の中では、酒のせいだ、あれもこれも酒のせいなのだ、という子供みたいな弁駁のかずかずが、早くもやってきたたちの悪い二日酔いのように、がんがんと頭の中で鳴り響いていた。
(了)