がむしゃら劇場
どうやらアカギは懲りもせず、シロナたちへの何万回目かの反逆を企てているらしかった。
ノートの上をすべる銀色のペン先から、スマートな流線型を描く黒塗りの万年筆、それを握った青白く血管の走る手や指、最後に、こんな具合に執拗な自分の視線も気にとめず、憑かれたように筆を走らせつづける彼の横顔を、シロナはソファに寝そべったまま眺めている。まなざしは一見、おもしろくもない学術記録映像をむりやりまた見せられるようなものうさがぼんやり膜を張っているふうなのだが、その実彼女はまるで退屈などしていない。味気なさのにじむ瞳の奥に、まるで二重にしたフィルター越しの景色のようにして、濃厚な好奇心がみなぎっていた。
――筆跡と横顔は、似ている。ただ似ているだけではない。横顔のつくりによって文章の雰囲気、文字の微妙な傾きぐあいのひとつひとつに至るまでが決まってくるといっても言い過ぎではないぐらいだとシロナは日ごろから感じているほどだ。中身が手紙でもレポートでも、美文きらめく詩や唄のたぐいでも、極端な話もっと単純なメモや走り書きのたぐいであれ、とにかく人がなにかしら着想を得て、ものを書くという行為におよぶとき、かならずその筆跡は横顔のうちに投影される気がしてならない。
それほど、両者には共通する点、相互に関係し合う点が多いということだろう。シロナの目の前にいる彼にしたって例外ではない。だからなおさらシロナには興味深い。科学を極めた天才、あるいは彼をあがめていた人間たちをして新世界の神と呼ばれた男。心なき機械を自称し、そうあり続けることを至上の誇りとしていたこの男にも、しかしきちんと人間としての無意識や名残はあるのだと安堵する。そうしてその安心にはいつも、結局彼は神になりきれないただの男なのだというあざけりに似た、暗い感情が息づいていた。
感情を読ませにくくするためにみずから剃り落してしまった眉毛、そんな警戒心に応じるように、普通なら手のくわえようがない輪郭や鼻筋といったパーツまでもが削いで落としたような形を描いている。もちろんそういうものは、筆跡にきちんと現れる。目をひと思いに刺し貫く勢いで鋭利なかたちをなした文字群、つねに一定を保った神経質な筆圧などがいい例だ。文字の巧拙の判断がいまいち付きづらいが、すべてシロナには判読不能の外国語で書かれてるので仕方がない。馴染みのない文字が箱詰めされたような均一さで並ぶさまは、重度の神経症をわずらっている兵隊たちの整列を思わせた。
「熱心ね」
思いあぐねたのか、それまで順調だった筆の進みが一瞬止まった隙に、シロナは寝転がったまま、器用にアカギからノートを取り上げた。アカギは反抗どころか抗議の声ひとつあげず、ただ黙って彼女を一瞥したあと、万年筆をじっと凝視しはじめた。何かインスピレーションを得ようとしているのかもしれない。
ノートに目を通してはみるものの、当然意味などわからない。英語ならまだしも、使われているのはおそらく東欧系のマイナー言語だ。単語から意味を類推することさえ難しい。ただ、シロナにとってよからぬことが書いてあることだけは勘でわかる。わざわざ内容を読ませないようにシロナの知らぬ言語を使用しておきながら、彼女の家のリビングで、彼女の目の前で、堂々と見せつけるように書き記している。こんなしち面倒くさい挑発をするぐらいだから、どうせいつもの反逆計画に決まっているというわけだ。
「今度はどんな悪だくみなの?」
当たり前だがアカギは無言だった。ノートには文字のほかに、数式とおぼしいものも所々に挟みこんである。さて、今度の彼はどのような計画を思いついたのだろう。あの赤い鎖のように、神話と科学の力を融合させた悪趣味かつハイブリッドな代物を持ち出すのだろうか。それとも前回の失敗を反省し、純粋に科学の力だけをもって、なにかえげつない生物兵器を作り出すというのもありうる。不吉な可能性がさまざまな形を取るたび、シロナは子どものようにわくわくしてしまう。チャンピオンの立場にありながら不謹慎だ、などという罪悪感は抱かない。思い描くだけなら自由だ。新しい推理小説を買ってきたときの帰り道はいつも心躍るが、あれと同じ心持がする。表紙やあらすじからまだ起こってもいない事件や犯人をあれこれと予測するあの瞬間が、なんといってもいちばん楽しい。いつだって、シロナの考える以上に素晴らしく胸躍るような物語は絶対にページの上では展開されぬまま終わる。いま、この手にあるのは今度こそ世界を狂乱の花園に転化させてしまう設計図かもしれない。だがそれがどうしたと、シロナはあくまで鷹揚に構えていた。ここには世にも物騒なことが書いてある。身の毛もよだつ終末を予期させるようなことが延々書き連ねてある。そんなものは件の推理小説をめぐる一連の期待と落胆、それらとなんの変わりもない。現実はいつも理想に敗北する。決まりきった話だ。
だからシロナは頬をやわらかく緩ませ、悠然とアカギに言ってのけることができた。大輪の花のような、という表現はいささか凡百に過ぎるものの、アカギに対してものを言うときのシロナには、まるで別世界の存在に語りかける時の、清水の流れる優美さがある。
「別になんでもいいけど。どんな壮大でとんでもない計画だって、実行する前に阻止してしまえばいいんだもの、これまでみたいに」
その言葉にはおおいに語弊があることを重々に承知しつつ、彼女はアカギにならってたっぷりの挑発を含ませながら口にした。実際、彼女やほかの人間が彼の野望を阻止したのは鑓の柱での一件のみ、あとの『悪だくみ』は阻止するどころか実行に移されたためしがない。こちらの気付かぬところで着々と準備をすすめているのかと疑い、シロナも手を尽くしてあれこれと調べたが、とうとう彼は不穏な振る舞いの気配さえ見せたことがなかった。
「なら、聞こうか」
きつく細められたアカギの目がシロナをとらえる。
「君には私の計画を阻止する自信があるというのかね? 私がいかな不意打ち、姑息な手を使っても、君はそれに不覚を取られないだけの自信があると」
「自信もなにも、あなたがあたしに対して何か仕掛てくるだなんて最初から思ってないもの。ほら、あたしあなたのこと信じてるから」
「はん……」
シロナとしては嘘偽りない本心だったのだが、アカギは最高の揶揄、侮辱と受け取ったらしい。とりわけプライドの高い彼には相当癪であったに違いなく、とたんにしらけた顔つきになってアカギはふたたび万年筆の観察に集中しはじめた。彼は年頃の少女並みに意志の疎通が難しい。言葉を額面通りに受け取るということがまるで出来ないからだ。回りくどい物言いや隠喩・寓意といったレトリックの類を高尚と勘違いしている人間の悪い癖だ。
(それも、少しずつあたしが直してあげなくちゃ)
使命感を胸にシロナはかわいらしい空想ノートを閉じた。またも彼の注目をひとりじめしている瀟洒な筆記用具を眺める。琥珀色の目に、ほんの少しの羨望が覗く。
「恰好いいわね、万年筆」
アカギは本格的に無視を決め込むことにしたらしく、少し拗ねたようなシロナの声などまるでお構いなしに、万年筆を手の内で回転させた。ちょうどペン先がシロナのほうを向くかたちになる。容易に剣先を連想させる美しく不吉な鋭さは、彼女の空想と高揚とを一気に最高潮まで押し上げた。
こんな小さな万年筆の先端だって、力一杯に胸を突き刺せば大事に至る。目なんかにぐさりとやられたものなら、まず失明は免れないだろう。いまのシロナはソファに身体をすっかり預けきって、実に無防備だった。その筋肉の一つとしてこわばっておらず、意識していることと言ったらたとえばアカギがこちらを振り返ったりした際にうっかり下着が見えてしまうほどはしたなく足を広げていないかとか、その程度のことだ。もしも彼が振り向きざま、手に持った万年筆をシロナの胸に突き刺そうとしたならば、避けることはほぼ不可能であろう。血走った眼で何度も万年筆を振りおろすアカギ、何が起こったかさえわからぬまま混濁する意識の中で、シロナはただただ彼の姿を網膜に焼き付ける。あるいは彼は会心の笑みを浮かべてシロナの首に青白い指を巻き付け、押し潰そうとしている。いま万年筆を握っている手だって、固めて拳にするなり、首を圧迫するなりで立派な武器となりうるはずだ。
『いい気味だ』
恍惚とした声音で彼は言う。シロナが聞いたことのない、決断力に満ちた声だ。
『この結末をどれだけ夢見たか……私はこの日のために生きてきたんだ。君をこうするためだけに、生きてきた。わかるかシロナ、私は……君のためだけに……』
想像の中でシロナはわかりやすく満身創痍だった。自分の姿が無残であればあるほど、彼女は狂おしいほどの高まりを覚え、現実の彼に気取られぬようそっとなめらかな腿と腿とをすりあわせた。絶対に起こり得ない出来事というところに、夢想の甘美さがある。その事実は彼女を何度でも酔わせた。筋立ては無限にあっても、どれひとつとして実りはしないのだ。こういう彼はもう空想の中にしか存在せず、現実に生きるシロナは二度とこの男に傷つけられることはない。それがシロナにはひどく嬉しかった。だから監視という名目でかつての敵と住居をともにしているにも関わらず、シロナは独特の風格さえ漂う、異常なまでの泰然さで過ごしていられる。
たとえば、シロナは、アカギがいつも手榴弾や小銃といったような物騒なものを常に持ち歩いているのを知っている。それらの武器がすべて自決用だということも。それを知った時、彼女は確信を得たのだった。確信というよりは、天啓に近かったかもしれない。
彼は、どうしようもなく弱いのだ。復讐をためらう臆病者以前の問題だ。シロナのことも、彼いわく不完全なこの世界のことも、もはやどうでもよくなってしまっているからだ。そんなことよりも彼は、あの破れた世界で失ってしまった物語、崇高な目的のもと、颯爽と生きていた理想の自分を取り戻すのに必死だ。砕け散った自意識をかき集めるのに精いっぱいで、誰かを恨んだり憎んだりするような心の余裕など持ち合わせていない。
貴様らに復讐できるならなりふりなど構わない、とアカギは言う。どのような手段を使ってでも、私はこの世界を変えてみせる――これもここへ来て彼が毎日のように繰り返している言葉だ。それはいわば台本に書かれたセリフだった。、あのテンガン山のごとく高く高くそびえ、そして真ん中からへし折られた自尊心をなんとか回復するために、自分に言い聞かせているだけだ。まるで独り芝居である。本当はなんの関心も抱いていないくせに、その心のどこにも、シロナという名前さえ住まわせていないくせに、表面ではまるで全身全霊を賭けて執着しているように貴様が憎い、憎いと何度も口にするアカギこそ真の満身創痍だった。
だからこうやって、実現する気もない物騒な計画書だけを量産しつづける。輝かしい栄光の、その形骸だけでも取り戻すために。ギンガ団のボスとして君臨していたあの日々、機械のように冷淡、心などというあいまいなものを切り捨ててひたすらに突き進んでいた崇高な姿をなんとか再現しようと、へたな役者のように演技過剰になるのもしばしばだ。きわめつけには、取り戻せないぐらいなら自ら死を選ぶという。自己愛ここに極まれり、なんと涙ぐましいことか。だから彼女は、彼を信じている、と言ったのだ。冗談でもなんでもない、心からの言葉だ。たった一度の挫折でこうもたやすく砕け散る脆くてあわれな男が、銀河の創造なんて大それた夢など最初から達成できるはずがない。
アカギという男の目を見張るような弱さは自分しか知らない。また、ギンガ団ボスのわかりやすい双極としてリーグチャンピオンである自分がいれば、アカギのプライドもかろうじて保たれるはずだ。精神の均衡も安定し、少なくとも自決なんてばかげたことは考えなくなるだろう。つまり自分なしでは、この男はもはや生きられなくなった。
そう考えると、シロナはまたたまらなく彼がいとおしくなってくる。練絹の繭で包み込むように、彼女は慈愛をこめて後ろから彼を抱きしめた。自分をばらばらに壊された人間の再構成、苦悶にあえきながらも自己確認を繰り返す姿がいじらしくなくてなんだろう。弱い生き物が必死に立ち上がろうとする姿は、いつだって庇護欲をかき立てる。
「ねえ」
返事はない。自分と彼とのあいだに、次元単位で大きな断層があるように感じるのはこういう時だ。ひょっとしたら自分は月の裏側、鏡の向こうといった場所に向かって呼びかけている錯覚に陥ることもたびたびある。そのつどシロナは己にこう言い聞かせた。彼は遠い存在だが、きちんと現実だ。想像上の彼のようにむやみやたらとはっきりしていない。握りつぶせば塵さえ残りそうにないほどに、脆弱で痛ましい生き物だ……。
「アカギ、ねえ、あたし本当にあなたのこと信じてるのよ。あなたがあたしを傷つけたり、ひどい目になんか合わせられるはずがないって」
頬をすりよせた彼の背中は、想像していたよりずいぶん大きい。
いつか独り芝居の舞台から降りた彼は、眼前に広がるあまりにも無辺際な世界に打ちひしがれ、途方に暮れるに違いない。そのとき手を差し伸べ、一からこの世界の素晴らしさを教えてやる役目は彼の再生を見守り続けた自分にこそあるとシロナは自負していた。
「世の中の男の人みんな、あなたぐらい無害だったらいいのにな」
そうして、アカギはシロナを通して世界を見る。シロナは今度こそ彼の世界の一部となり、彼と寄り添って生きることができる。いちずな乙女のように、己の胎内で子を守る母のように、シロナはそのやわらかい腕のうちでみずからの夢を育み続けている。
(了)
Dream all day
・プライドの防衛とふっ飛ばされた自我の再構築に忙しい男、そんな男に庇護欲という庇護欲をそそられる女。いいコンビだと思う。
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