返らずの父に
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返らずの父に
息子と会ってきたんだ。運ばれてきたコーヒーにひとくちだけ口を付けてから、トウガンは切り出した。
運河の町ミオシティには心臓を覆う毛細血管のようにして、大小様々の水路が無数に通っている。スズナとトウガンがいるのは主要な水路のひとつを臨むことのできるカフェのオープンテラスだった。テーブルの真中を貫通するパラソルの隙間を縫って入りこむ冬の低い日差しが、心地良くふたりをくすぐる。
「たまたまジムの休業日が重なったから、二人で夕食でもどうかと誘ってみたんだよ。『彼女と食事の予定があるからいい』なんてにべもなく断られたらどうしようかって、内心おっそろしかった」
「それは、食事を断られるほうが怖かったの? それともヒョウタさんに彼女、のほう?」
「もちろん、両方さ」
スズナは笑いながら紅茶のカップに手を伸ばし、一瞬、ちらとテーブルの下の彼の足を盗み見る。こういうリラックスできるような場所に来ると、彼は必ず靴を脱いでしまう癖があるらしい。今回も例に漏れず、すでにトウガンの靴はその左右の足元に打ち捨てられていた。スズナのものより数倍も大きくいかつい素足が、ぷらぷらと遊び盛りの子供みたいに揺れる。いつもむき出しの腕や肩ほどではないにしろ、足の甲もよく日焼けしていた。つやめく赤銅の色は、いつだったかテレビの海外旅行番組で目にした、露店に並ぶ瓶詰めの香油をスズナに思い起こさせる。溌剌とした生気に導かれるようにして形づくられた肉の大地に、肌の色よりもやや濃い褐色の体毛がそよぐさまは、喉を蒸す熱気と湿気たちこめる南の熱帯雨林さながらだ。日々炭鉱で重いシャベルを振るい、荒々しいほどに生命力を発散する体躯を支えうるだけの、躍動的な足である。
「息子はお得意の『なんでもいい』だったから、私のなじみの店につれていくことになってね。ゆっくり話せるように気合いを入れて座敷つきの個室を予約したよ。いつも思うんだが、あの『なんでもいい』は結局こちらの甲斐性を試しているのであって、実際はほんとうになんでもいいってわけじゃあないんだね。細かく注文されるより気が滅入るし、緊張する」
「あはは、なんかデートみたい」
それも付き合い始めの、と 付け加えると、トウガンは濃い一の字の眉をひそめ、背筋が冷えたよ、さすが氷使い、とつまらない冗談を飛ばしてみせた。
トウガンがヒョウタを指してわざわざ息子、という呼び方をするのは、たいてい、ジムリーダー同士としてでなく父と息子との関係を強調したい時だ。言葉づかいもほんの少しくだけて、身ぶり手ぶりなどの挙動が大きくなるのもスズナはよく知っている。日ごろから彼の観察には余念のないよう心がけているのだ。ずいぶん前から心惹かれている男性に対して表面だけでも無関心を貫くような芸当をするには、少女の好奇心は強すぎる。
「で、しゃぶしゃぶを食うことになったんだけど、あいつは驚くほど肉を食べないことが判明した。白菜や豆腐はポン酢が垂れるほどびちゃびちゃに浸して食べるような濃い味好きは私譲りのくせにね。もっと信じられないのはせっかくのいい牛肉を白くなるまで念入りに湯につけてることだよ。あれはもったいない。上等の牛肉はピンク色になったぐらいで食べるのがいちばんうまいのに。あれじゃあ肉が硬くなる」
トウガンはおおげさに頭を振ってみせた。ヒョウタのことを話し始めると、彼の動作のひとつひとつはいつもの倍、のびやかになるのだった。饒舌さのほうは言うまでもない。自分と二十以上も年の離れた男性が息子との食事にうれしさを滲ませて、子供のように浮かれているのは、スズナにはなんだか微笑ましい。
「でもヒョウタさん、お肉が嫌いってわけじゃないと思うよ。この間もデンジさんやマキシさんたちと焼き鳥食べに行ったみたいだもん」
「そうなの?」
「うん、ヒョウタさんが自分で言ってた」
「ああ……」
トウガンはなぜだかまぶしそうに目を細めた。スズナからすればどうして彼がそんな顔をするのかわからなかったが、つぶさに眺める暇もなく、彼はすぐにその顔を引っ込めた。
「食事中はろくに話せなかったからね。よく父と娘の関係は難しい、なんて言うけど、息子と父親だって十二分に難しいよ。同じ男同士なぶん、よけいな意地を張ってしまうからかな」
スズナはどう受け答えしたものか困ってしまった。
自分が男でないから、というのもあるが、それよりも彼女を困らせたのはトウガンのなんとも絶妙に緩急がついた表情だった。もちろん心配ではある。だがどのぐらいの深度で共感すればいいのかはかりかねてしまい、どこまで真剣に応じていいものかと混乱してしまうのはひとえにこの表情のせいなのだった。
頬杖をつき、半眼になって唇をとがらせた姿は、確かに悩む父親そのものだ。だがあまりにも戯画的、デフォルメされすぎている。おどけの重力が働いて作らせた困り顔だ。そこから感じ取れるのはまぎれもないおおらかさである。「でも、まあ、だいじょうぶだよ」とこちらを暗に安心させようとする意思が伝わってくるので、いったいどんな反応をとるのが正解なのかわからなくなってしまう。
「鍋だったから、食ってる最中にあいつの眼鏡がどうしようもなく曇ってね。一昔前のマンガの登場人物みたいになった。何度拭っても拭っても、あいつが肉を湯につけようとする直前で眼鏡がそれを阻止するみたいにばあっと曇るんだ。あれはおかしかった」
「それで、二人で笑った?」
なごやかさを感じる語り口にスズナはやや安堵した。
「まさか」けれど、トウガンはあっさりと首を横に振ってみせる。「地獄だよ。笑うに笑えなかった。ずっとだんまり」
地獄、という物騒な言葉と朗らかな彼の声はふしぎと調和して、スズナの脳裏にある映像を走らせた。
狭い座敷の個室、大きな鍋を挟んでトウガンとヒョウタが顔を突き合わせている。今ここに二人を知らぬ第三者が 議論に窮した哲学者と勘違いする人もあるかもしれない。そのぐらいすがすがしく親子のあいだの時間と空間は固まっているのだった。
鍋がぐつぐつ、地獄の大釜のごとき不吉さで煮えている。沈黙は言葉より多くを語るなど、たわごとだとしか思えない。小皿の上のポン酢まみれの牛肉と白菜、ヒョウタがどんな目で父を見ているかは、曇った眼鏡にはばまれてうかがい知ることはかなわない。土間の薄暗がりの中、トウガンの足だけが、気詰まりな沈黙をせめて打ち破れないものかとむなしく揺れている。
やおらヒョウタが眼鏡をはずし、紙ナプキンでレンズを拭き始めた。前にスズナは、ヒョウタが眼鏡をはずして熱心に化石を眺めているのをみかけたことがある。トウガンにそっくりの横顔だった。
無言だけがいきいきと呼吸をくりかえす個室は、鍋が空になるまで、世界の端に追いやられたようなみじめさを保ったまま浮遊しつづける……。
「店のチョイスが悪かったかもしれない」
トウガンが突然、水路のほうへ目をやったので、スズナも我に返ってそちらを見た。 なにかあるのだろうと当然思っていたのに、目をこらしても変わったものはなにも見あたらない。観光客を乗せたゴンドラや運搬用の小型船が水面をごくおだやかに波打たせ、淡い影の尾をひきながら行き交う。ゴンドラのオールが水を跳ね上げ、細かく白いしぶきがやたらと美しく反射する。いつものミオシティの光景だった。
「もっとこじゃれた店のほうがよかったかな。フランス料理とか」
「それじゃあよけい気負っちゃうよー。お鍋で正解」
トウガンは緩慢な動きでスズナを見た。軽率な発言だっただろうか、とスズナの心を不安の衣が覆い隠す前に、トウガンは八重歯の覗くほどにやりと、ひと思いに相好を崩し、
「メルシー」
スズナは今度こそほっと胸をなで下ろした。 やはり彼は彼だった。スズナの憧れる、楽天的でへこたれない魅力的な大人の男性がそこにいる。
「そうだ、スズナちゃんは鍋とか好き?」
「うん、この季節が近づくとすき焼きとか無性に食べたくなっちゃう。じつは今ね、ナタネさんとスモモとメリッサさんとですき焼きパーティー計画中なの」
「そりゃあいい。私はどちらかというとしゃぶしゃぶ派だけどね。すきやきならネギたっぷり、シメはうどんでよろしく」
「ちょっと待った、なあんでナチュラルにトウガンさんも参加するみたいな流れになってるの?」
「おっと、ばれたか。スズナちゃんはそういえば一人暮らしだったね。自炊とかたいへんだろう」
「まあねー。でも、新しいレシピとかに挑戦するのとかは楽しいよ。それにね、一人暮らしっていってもおんなじ街にお父さんもお母さんも住んでるから」
ジムリーダーに就任して半年ほど経った頃、スズナはジムの近くにアパートを借りた。ジムリーダーを志してすぐに立てた目標だったのだ。町の顔であるジムの主となったからには、それに見合うように自立した人間になろう。自分の稼いだお金でジムの近くに家を借り、自らの城たるキッサキジムをいつでも守れるようにしよう。愛らしくも幼いころから向上心の強かった彼女はこういう決意を早くから固めていたのだった。
キッサキの町はずれに住む両親は、年頃の娘が一人暮らしをすると言い出したことに当然難色を示したが、週に一回の実家帰りと毎日の電話連絡を条件に折れてくれた。彼女の熱意ももちろん、ごく内密にスズナが何度もアパートの下見に行ったり、すでにいくつかの荷物をまとめはじめて外堀を埋めていた周到さも大きく関係していることは確かだ。このことは、ジムリーダー就任と同様スズナの自己実現欲をたいへん満足させた。
「その年でひとり暮らしなんて、立派じゃないか。親御さんからしたら自慢の娘だな。バトルも強いし、しっかりしてる」
「そんなことないよ」
とっさに否定の言葉が口を衝いて出た。あらかじめこういう言葉をかけられることを予期していたのではないかというほどに、すばやい打ち消しだった。
「そうなの?」
「そうだよ」
「どうしてだい」
話をせかすというよりも、穏やかに促すような彼の口調に、スズナは言いようのない満足感と安心とを同時に味わうことができる。
「……なんか最近、みんなと息を合わせられなくて」
トウガンが少しの気負いを滲ませて息子と呼ぶのがヒョウタだけであるように、トレーナーが神妙な顔つきでみんな、と呼んだとき、指し示すのはもちろん手持ちのポケモンたちに他ならない。
スズナをもっぱら悩ませるのは、どんなトレーナーも必ず向き合うこととなるありふれた、しかしその普遍性こそが分厚さを示す一枚の壁だ。これを超えられるか、越えられないかでトレーナーとしての器が決まるのだと豪語する専門家もいるぐらいだ。
昨日の挑戦者戦でも見当違いの指示ばかりを飛ばし、最初の優勢が一転、スズナと彼女のポケモンたちはむざんな敗北を強いられた。そんなことがもう、三度も続いている。ある程度のトレーナーであれば自分とポケモンとの呼吸が致命的なほどにずれていくのを肌身で感じることができるし、ゆえにとてつもない焦燥感にたやすく取りこまれてしまう。 焦れば焦るほどに自分の首を絞めているのだと知りつつ、彼ら・彼女らは一度は心を通わせたパートナーたちとのリズムを必死になって取り返そうとさらに狂奔するのだった。
「ジムリーダーは負けるのも立派な仕事。わかってるよ。でもね、みんなの力を出し切れないまま負けるのは、単にトレーナーの……あたしの修行不足なんだなって、そう思う。でね、もっと情けないのは、あたし、こうやって悩んでるのを隠しきれてないみたいなんだ。ジムの雰囲気でわかるの。ああ、あたしが重くしちゃってるなって。
ジムのみんながあたしにいろいろ気を使ってくれて……でもさ、そういうのって逆につらい。自分の情けないとこ、突き付けられてるみたいなんだもん」
そこまで話し終えて、スズナは紅茶ではなくコップに注がれた水の方を飲んだ。そんなにしゃべったわけでもないのに、ひどく喉が渇いていた。
「ごめんね、なんか愚痴っぽくなっちゃった」
申し訳なさそうに苦笑いしながらも、スズナは今しがた吐露した話の内容とはまた別のところで、どろりと重い自己嫌悪を抱える。いかにも思い出したようななにげなさで、話の流れに引き出されるようにして吐き出したこの青臭い悩み、実のところ彼女は最初からこれを聞いてもらいたくて、トウガンをお茶に誘ったのだ。
そのくせ、ごめんね、などとわざわざ謝るあたりがいやらしい。想いを寄せる男性に、こんなあさましい手段で近づきたくはないと少女の潔癖が声高に訴えかけている。 ドラマのヒロインのようにいつも自然のまま、純粋なままでいたいに決まっている。
「いいよ、スズナちゃん」
そしてスズナの期待にたがわず、彼はどこまでも優しかった。
「私の方がずっとジムリーダーとして先輩なんだ。先輩が後輩の悩みを聞いてやるのは当たり前のことだし、私だってそうやって成長してきたわけだからね。私でよければいくらでも聞くよ」
スズナのほしかった言葉と一言一句として違わぬ答えをすっと差し出され、彼女はまたしても背徳感と幸福との二重らせんの中に閉じ込められてしまう。彼女は自分になにか聞いてもらいたいことがあるのだと、誘われた時点でトウガンはすでに察してくれていたのだろうか。あるいはその内容も。そう考えても、申し訳なさよりも甘酸っぱい喜びの方が一足先に血液を駆け巡っていく。 トウガンのそういった一面に触れるにつけ、スズナはいつも大きなものに包まれているような、広い胸のうちに抱きとめられているような感覚をおぼえずにはいられない。その至上の感触を味わうために、彼女は使いたくもない、小娘の浅知恵と言われても仕方のないような口実をあれやこれやと用意してしまう。
スズナにふさわしい、少女めいたたとえを持ち出すなら、甘いお菓子をつい食べすぎてしまったあとの心情だった。胸を圧迫する甘さと罪悪感とがないまぜになってしまう、酩酊感に似たおぼつかなさ。
しかし、そのときスズナはあることに気がついた。彼女を見ておだやかに笑うトウガンのまなざしが、ずいぶん遠いのだ。彼女を透かして、べつのなにかを見出そうとしているような……その正体に思い至った時、彼女はすべてを悟ってしまった。
トウガンもちょうど、スズナと同じようなことを考えたらしい。退屈なジョークに応じるように、彼は薄く笑った。
「どうして同じ会話を、ヒョウタとは出来ないんだろうな」
愕然とした。身体の中で雪崩が起きたかのごとく、一瞬にしてスズナの頭は白く塗りこめられ、慄然とした冷たさが胃の奥まで流れ込んでくる。これほどまでに、目の前の彼を弱々しく感じたことはない。遠慮がちに細く吹く夕風さえ、大きな背中には冷たく突き刺さるように無慈悲と思える。深い愛情の器はそのままに、彼が希薄で、薄氷のごとく透明な存在へ転化してゆくさまをスズナは確かに見た。
「本当は聞きたくて仕方がない。好きな食べ物、一人暮らしのこと、別れた妻の様子、それにあいつ自身の悩み。でも顔を合わせると、出てくるのは化石の採掘具合だとか、鋼鉄島の そんなもの、一カ月やそこらで劇的な変化があるわけじゃないのにな。どうでもいい話じゃないか。でもだめなんだ。これしか出てこない。前に食事に行った時も、その前も……。一度ね、訊きたいことをメモにまとめて持って行ったんだ。レストランの椅子に座った瞬間、メモのことが頭から吹っ飛んだよ。言葉がなくなるっていうのは、ああいうことなんだろう。お互い飽きずに変わり映えのない話題。父親ならもっと訊くべきことが山ほどあるし、語るべきことならその倍ぐらいある。――ああ、ほんとうに」
その先を口にしないでほしかった。今しがた、自分が無意識のうちに犯してしまった残酷な仕打ちと向き合うだけの勇気が、スズナにはまだない。だが、ここでも彼は優しかった。その慈愛は相応の罰の形になって、スズナへ一直線に降り注ぐ。
「うん、だめだ。私は父親失格だ」
むやみに明るい、悲嘆などまったく感じさせない口調が、かえってスズナのちっぽけな身体を絶望で押し潰した。その明澄さのうちにひそむ、問答無用で相手を殴り倒すような無力感を目の当たりにしてしまったからに他ならない。
彼は、心に抱えた哀切に支配されず、苦悩に溺れることない鋼鉄の心の持ち主などではなかった。ただただ真面目な人、それだけなのだ。父という強くあるべき生き物が、そのような脆弱さを覗かせてはいけないのだという気概のもと、悲憤をぜんぶ父性という凛々しい鎧の下にしまいこんでしまうからだ。彼はまったくの『父親』だった。誰よりも父としてふさわしい度量と愛情の心とにめぐまれながら、それを生かす機会を自分の手で握りつぶしてしまったのだ。彼の徳である屈託のない気性、実直でものごとを疑わないまなざし、夢へのひたむきな情熱は家庭に入ればまるでよい方向には働きかけず、かえって綻びを生じさせる結果となった。若かりしころ、幼いヒョウタと妻をクロガネシティに置いて、鋼鉄島の開拓に従事すべくミオシティまで出奔してきた、というトウガンの来歴が物語るのは、酷薄さではない。おおくの純朴な人間にありがちなように、見通しと感受性に欠けていただけ。それが招いてしまった結果をむざむざと突き付けられ、彼はいまでも苦しんでいる。
自分の恋ばかりに夢中になって、スズナはそのことに気が付けなかった。あろうことか、いっそうの打撃さえ加えてしまった。だめなんかじゃない、失格なんかじゃない、と叫びたかった。だが、彼を打ちのめしてしまった以上、もはや彼女にその資格はない。息子に語るべき言葉をなくしたトウガン自身のように。
涙も出ないほどに憔悴しきって、スズナはうなだれた。テーブルの下のトウガンの足は、もう揺れてはいないがあいかわらず裸足のままである。
その足が踏み越えてきたものを思い、いくつもの思考の先で彼女を待っていたのは、シンデレラの物語だ。十二時の鐘を背に、追いすがってくる王子に心を乱されながらも、シンデレラは馬車へ向かう。途中で彼女はガラスの靴を落としてしまうが、これこそがそれを拾った王子とシンデレラを結びつけ、あわれな灰かぶり娘をふたたび姫君へ変身させてくれる魔法のアイテムであるのはだれもが知っている。しかし、スズナの想像の中で、王子はガラスの靴を拾った直後、あるまじくもそれを放り投げた。靴は見事に粉々になった。
野性味にあふれ、闊達な彼の足は、道を切り開き、前に進むための足だ。後戻りも振り返るのも許されず、先へ先へと突き動かされるのみである。もしも往く先に、叩き割られたガラスの靴の破片が散乱し、道を覆っていても、彼はその上を素足で、なにくわぬ顔をしながら通り過ぎていかねばならない。破片たちがまばゆく散らす光のうちに、たとえば幸福な家族の肖像を見たとして、彼がやることは同じだ。
石畳の敷き詰められた地面に、彼の足を飾りたてるようにして撒き散らされた無数のガラスの粒の輝きを、スズナは幻視する。
こういうことがあった直後に、以下のような挿話を語るのはたいそう陳腐なうえに都合がよすぎると冷笑をあびせられるかもしれない。ともかくその晩、スズナは夢を見た。
結婚式などに呼ばれた際に着てゆくとっておきのワンピースを、もっと豪華に、可憐に、彼女好みに仕立て上げたようなドレスを身にまとったスズナが、森の中でひとり待っている。彼女は王子様がやってくるのを当然知っているから、そわそわと落ち着きがない。レースの手袋をはめた手をせわしなくこすりあわせたり、前髪をいじってみたり、意味もなくくるりと一回転したりする。
やがて待ち焦がれた王子様が、磨き抜かれた鋼の翼を雄々しく広げたエアームドに乗って青空から舞い降りてくる。エアームドに乗ったまま、彼はスズナにやさしく手を伸ばし、後ろにのるよう誘った。王子様の顔は見えない。見えるのは首から下だけだが、もちろん彼女には王子様の正体がわかっている。エアームドを駆ってやってくる、日焼けしてごつごつした手の王子様なんてひとりしかいないし、彼以外が王子様だなんて考えたくもないことだ。
打ち寄せる幸福の波にうっとりしながら、スズナも手を伸ばした。その手を取れば素晴らしくあたたかい、愛と優しさに恵まれた生活が待っていると知っている。だが、王子様の手を取る直前、彼女の目線は吸い寄せられるようにある一点へ集中した。
上から下まで優雅な衣装で固め、腰には宝石をちりばめた鞘と柄のある剣までぶらさげている王子様は、なぜか靴を履いていなかったのだ。もっと言うなら、裸足だった。そうしてその足には見るにたえないほどのおびただしい生傷が幾重にも走り、生々しく息づいているのである。
スズナはさっと手を引っ込めた。その傷口の醜さにおそれおののいたからではない。その証拠に、次の瞬間、彼女はドレスが汚れるのもいとわず、地面に膝をついていた。
手袋をはずし、花を摘むようにそっと彼の足を手に取った。足の甲にはひときわ深く痛々しい切り傷が、誇らしげに肉と皮との裂け目を覗かせている。彼女はもう迷うことなく、その傷口にうやうやしく口づけた。
(了)
The Him
自己実現が上手にできない、あるいはその機会を奪われてどうしようもなくなってる人たちの話。トウスズのイメージは「父と少女」です。少女というのは純真で夢見がちで盲目的なとこがあってかわいらしいけど、驚くほど現実的でシビアな面も併せ持つ希有な生き物だと思います。
トウガンさんがガラスのコップを割って指を怪我するシーンがあったのですが、そこまでやると演出過剰なのでカットしました。
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