名無しの銀河
口が裂けても白状する気はないが、シロナに名前を呼ばれたそのせつな、まったく場違いなほどにロマンチックな連想が頭の片隅にひらめいたのは事実だった。それはたとえば水面に風が吹き抜けた際の、精緻に広がる波であり、上質の楽器からふいにこぼれおちる一音である。
「アカギ」
声はやわらかく、ほがらかに澄んでいて、心地よく鼓膜をふるわせた。だから彼は、彼女が発したのがほんとうに自分の名前であるか一瞬疑わしく思ってしまったのだ。
熟読していたシンオウ神話の文献から視線だけを上げる。紙面に広がる神代の時代にすっかり没頭していたところを引き戻されるのは、平時なら不愉快この上ないのだが、この時ばかりは不快よりもわずかな興味のほうがまさった。
休日の昼さがり、それも外は快晴とあれば図書館など閑散としている。まぶしさを日に日に増してゆく太陽をなるべく避けた日陰のテーブル席が、この時期から夏の終わりにかけての二人の指定席だった。
「いい名前だよね」
口の中で転がすように、シロナは再三、彼の名を呼んだ。同じ音の組合せを発音しているはずだが、先ほどのものとはまた少し趣が違っているふうにも聞こえる。二十四年間連れ添った己の名前であるにも関わらず、遠い異国の音楽をつくる旋律のようにこころよく流れ込んでくるのは、おそらくここまで情感をこめて名前を呼ばれたことなどなかったからだろう。なんだかむずがゆい心地がしたが、特別すわりが悪いというわけでもない。奇妙な感触だった。
「うん、『シロナ』よりもいい名前かも。音の響きも字面もかっこいいし」
「……自分の名前にコンプレックスでも?」
彼が読みさしの本よりも他人の話題を優先するというのは、その実かなり由々しき事態であった。おのが世界に固執しすぎたせいで、いまや傍若無人という言葉をかるがる飛び越えた場所にいるアカギは、数十年に一度やってくる流星群だとか、海上に突然発生する嵐だとか、他からの干渉をことごとく受け付けずただ強烈に己を主張して去っていく、そのような自然現象に限りなく似ている。こうして誰かと時間を共有することさえ、一年ほど前のアカギにはなかった習慣だ。
「コンプレックス、ってほど大げさなものでもないんだけどね。あたし、自分の名前ってあんまり好きじゃなかったの」
「それは意外だな」
とうとうアカギはページを繰る手を止めた。それどころか栞を挟み、本を閉じてしまう。両手をかるく組んで、話を聞く体勢を取った。それだけシロナの話が気にかかったのだろうが、いったいこの男が己の耽溺する世界をひとときでも脇に追いやって他者の話に耳を傾けるなど、いかな奇跡の所業かと、ふだんの彼を少しでも知るものが見れば目を回すに違いない。
奇跡の体現者たるシロナはほんの少し照れくさそうに笑ってみせた。チャンピオンとして君臨し、ふだんは女王めいたイメージで絢爛に飾られている彼女だが、少なくともそれは彼女のほんの一部であって、全体像ではない。リーグ制覇を志しているトレーナーに彼女を知らぬ者などいないだろうが、そのうちにシロナがこのような表情をする女であると知る者ははたして何人いるだろう? これを考え出すと、きまってアカギは釈然としない気持ちを味わうことになる。
「よりにもよってなんでシロナなんて名前をつけられちゃったのかなって、そう思ってちょっとふてくされてた時期もあったんだ。そんなに意外?」
「今の君は自己を取り巻くものの肯定にいつでも積極的だからな」
二十歳の若さでシンオウリーグチャンピオンに就任した彼女をやっかむ声がほうぼうから、決して少なくない数であがっていることはアカギも知っている。若さや性別を理由にして個人の実力を計るというのは、いかにも旧時代めいてさびついた思考だとアカギなどは思っていたし、そのくせ表向きは麗しの女チャンピオン、などと失笑ものの宣伝文句で過剰に飾り立て、広告塔まがいのまねをさせるのも癪にさわった。それでもシロナは、不当に背負わされたハンデに文句ひとつつけない。そういった苦難すらもチャンピオンとして受け入れるだけの度量と覚悟とを、彼女はみずからの使命感になかばむりやり身につけさせられたからだ。だから、ひたすらストイックにみずからの鍛錬に打ち込むシロナの姿には、凛々しさももちろん、時にこちらが圧倒されるほど切迫したものがある。
時にこの世のあらゆる悪意の中にさえ、ポジティブな意味を見出そうとする、野放図にすら近い明朗さはひょっとしたらシロナなりの防衛行動なのかもしれなかった。そう信じ続けていなければこの四年のあいだに、彼女はおのが双肩にのしかかる敵意と重責とに耐えかねて、膝を折っていただろう。そんな彼女が、自分につけられた名前などというあんまりな些事に不満を持つというのは、アカギにはひどく珍しいことに感じられたのだった。
「嫌味な言い方するんだから。それにふてくされてたのは、うんと小さいころの話」
「嫌味を言ったつもりはない」
「だってシロナ、だよ? 昔はよく勝手な漢字あてられて、男の子たちに『白菜』とか書かれたり、ひどい時には『はくさいちゃん』なんて呼ばれちゃって……今笑った?」
「いや」
当時を思い出しているのかあまりに彼女がしょげかえっているので、子供みたいな落胆の理由も相まってアカギは奇妙な微笑ましさを覚えてしまった。思わず口角が上がりそうになったが、どうにかこらえて謹厳な顔を保つ。
小さい頃は結構本気で気にしてたのよ、と長くゆたかな己の髪を指先に巻きつけ、シロナは唇をとがらせた。その仕草といったらまったくませた少女のようで、リーグチャンピオンの肩書きが持ついかめしさとは結びつかない。雑誌のグラビアではお決まりのように、優雅さと近寄りがたさとの均衡を崩さないほほ笑みを浮かべ、顎を引き、背筋を張って、毅然とした目線を投げかけているのだ。取材する側としてはまさに女王然とした風格を前面に押し出したいのだろうし、そういう彼女の立ち姿がじつに見映えよいのも本当だ。しかし、今のように唇をとがらせた彼女を見なければ、ふんわりと盛り上がった下唇と上唇とのかたちを知ることはできない。そちらのほうにアカギの目が引き付けられるのも、また事実なのだ。そこまで考えて、またあの飲み込みきれないわだかまりを喉の奥に感じる。
「べつに怒ってるわけじゃないわ。あたし、あなたの笑った顔好きよ」
先ほどとはうってかわってにこやかになったシロナから、アカギは反射的に目をそむけた。首筋あたりの血管を流れている血が、ざわざわと微風にすれ合う葉のようにさざめき立つのをおぼえる。実に居心地が悪い。
いまだに、彼女が恋人としてアカギを選んだ理由は謎のままだった。尋ねてみても、アカギにはとても理解しがたい理由――笑った顔が意外に可愛いとか、その後すぐに笑っているところを見られたくなくて慌てて表情を固くする所がもっと可愛いだとか、ドンカラスの羽毛やマニューラの毛並みを撫でたくてたまらないのにぐっと我慢しているところがやっぱり可愛いだとか――を並べ立てて、最後には、要するにあなたのぜんぶが好きなのよ、と輪をかけて理解不能な結論でしめくくられてしまう。よっぽど人をばかにしているのかと最初は思ったのだが、どうやらすべてが本気の言葉であるらしかった。不気味なほどに、シロナには影というものがない。
アカギに対する周囲の目線は、たとえば私生児などを見るときの哀れみと嘲笑でつくられていた。しかし、彼らにとっての大きな誤算は、アカギにとってそのようなまなざしがひとつも苦ではなかったことだった。まさしく天稟というべき英知、その才をいかんなく発揮するにふさわしい熱意の器、両方を兼ね備えている人間はきわめて稀だ。彼は己の才能に精魂傾けて奉仕した。
奇異なもの、自分たちとは違うものを疎みさげすむ彼らのあの目線、それに晒されることによって、アカギはみずからを世間一般の俗物どもとは違う、特別な人間であるのだと確信できた。退屈な人間同士の結束を強めるだけに時間を空費する行為はこっけいにしか映らない。どろどろとした嫉妬を隠すことなく接してくる者もあれば、上っ面だけの笑顔の裏から敵意をちらつかせ、隙あらば貶めんとして握手の手を差し出してくる者もいる。このような負の感情に触れるのは、アカギにはむしろ快感であった。目の前の相手から嫉妬や憎悪を見透かすほどに、なんともいえない恍惚が、活発に彼の心臓へこころよい電流を与えてくれる。
君の噂は聞いているよアカギくん、天才なんだってねアカギくん、でもアカギくん、あまりいい気になってはいけないよアカギくん、君には協調性ってものが欠けている、それじゃあ人間としてはまるでできそこないもいいところじゃないかアカギくん――。彼らは執拗にアカギの名前を連呼する。その三文字にアカギへの敵愾心を入念に仕込むのを忘れることはなかった。アカギという名前は、つまり、彼らのうちに燃える怒りや嫉妬を忘れないためのトリガーというわけである。
(それでいい)
悪意の総称となり果てた己の名前を呼ばれるたびに、彼は心中でうなずくことにしていた。
(凡人は凡人らしく、俗物根性に素直に生きていればいいのだ。妬みだの僻みだの、下劣な感情にせいぜい貴重な時間を空費させていろ。そのおろかさがいっそう私の価値を高めていくことさえ、まるで気がついていないのだろうからな!)
だが、そんな彼をはじめて困らせたのがシロナだった。彼女はいかなる人間とも合致しない態度と行動でアカギに接した。なにしろ初対面の開口一番、「とにかく一度じっくり話し合いたいので、今夜食事に行きませんか」と来たものである。彼がとある研究会で提出した時空神話のレポートを読んだ時から、いったいどんな人物なのだろうかと興味を抱いていたらしい。アカギに対して臆することもなければ微塵の敵意も見せない。ずっとお話ししてみたかったんです、と笑いながら、子供だましみたいな味付けのクリームスパゲティをおいしそうに食べ、自分のポケモンのことをいきいきと語ってみせた。
こうまでうまく取り繕った善意の下には、さぞかしすさまじく醜い悪意が待ち構えているのだろうと、最初こそアカギは嫌悪と高揚とに浮き立っていた。目の前の女の分厚い善人の仮面をどう引っぺがしてやろうか、いかにしてその薄汚い本性を明かしてやろうかとそればかり考えて、わざと嫌味に聞こえるような言動を繰り返し、必要以上に知識をひけらかすような真似までしてみせた。運ばれてきた食後酒を味わっているあいだも、彼の頭はやがて来たるであろうひと悶着への予感でいっぱいだった。アカギの横暴に耐えかねてとうとう化けの皮が剥がれおち、口汚くこちらを罵るか、さもなくばとても笑顔などとは呼べないひきつった顔で席を立つか。シロナの姿と、あれこれ想像をめぐらせては胸中で喜び勇んでいた。しかし、仕掛けた罠はどれもがことごとく不発に終わった。ようやく、アカギは目の前に座っている女の恐ろしさに気がついたのだった。彼女はアカギを貶しめることに、まるで興味がない。
(そんな馬鹿な話があるものか)
彼は自分の経験と予感とが裏切られたのを、にわかには信じられなかった。信じたくもなかった。アカギはとにかく彼女から、何かしらの悪意を見出そうとした。どんなに微細な表情の変化さえ見逃さないように眼を凝らす。やがてその注視に気がついたシロナが首をかしげ、それから、一拍遅れて香水の芳香がはじけるように、ふわっと笑顔を広げてみせる……。アカギはすべてを観念した。完膚無きまでの敗北というものを彼はシロナの双眸に見た。尊敬や興味といったごく無害な感情しか、その瞳の中には動いていない。
なんて女だ。こんな人間が自分の前にいていいはずがない。
ならばと今度はほとんど焼け鉢で、アカギは素直に彼女と話し込んでみた。次に気がついたとき、腕時計の長針は二周したあとだった。彼らはろくな自己紹介こそしなかったが、二時間の神話談義はどんな会話よりも、互いがどんな人間であるかをふたりに教えた。学問にかける情熱が何を隔てることなくぶつかりあい、流れ込む感覚の快さを、アカギなどはこの時まで久しく忘れていた。どちらからともなく、二人は週末の図書館行きを約束しあった。
カンナギ村長の孫娘であり、研究者としてもすぐれた慧眼を持つシロナと話すのはアカギにとっても有益な時間であった。論理的ながら時に極論に走りがちなアカギの話を、彼女は一言一言丹念に分析して、無駄のない、磨き抜かれた考察を返してくる。ふたりで知識を補い合いながら、あまりに膨大な神話の世界を渡り歩く作業は、いつしか互いの存在をおのれの右腕とまで錯覚させるに十分な濃密さであったと言えよう。しかしもちろん、アカギにとって恋愛につながるものではなかったはずだ。たとえるなら戦友、盟友といった、恋愛などという流動的でいかがわしい関係とは一線を画したものが自分たちを取り結んでいるとアカギは信じていたかった。元来の潔癖症にくわえて、彼はまだ若かった。 彼女とのあいだに、卑しさを連想させるものを持ちこみたくなかったのだ。
(だがいまは、このザマだ)
どこで間違えたのか、その経緯を思い出そうとするだけで、こめかみのあたりが鈍く痛み出す。
「アカギ? きいてる?」
我に返ってみると、じっとこちらを見つめるシロナと目が合った。
「ああ……」
アカギはぎこちなく空咳をきったあと、
「なんの話だったかな」
「あたしの名前の話よ。『シロナ』が『白菜』にされちゃうなんてひどいってとこまで話したわ。昔はこの名前、嫌だったなっていうのも」
「そうか?私は――」
言いかけて、はっとアカギは口をつぐんだ。今まさに口をついて飛び出そうとしていた言葉が、あまりにも安易なものだとすんでのところで気付いたからだ。
彼女が怪訝に思わないうちに、落ち着いて言葉を練り直す。
「――おかしい名前ではないと思う。世の中奇矯な名前の持ち主などいくらでもいるし、君の場合はたまたま、不幸にもそう読ませる字があっただけで名前自体は特に変わったところもない」
よどみなく答えられたことに安堵しつつ、アカギはさきほど引っ込めた言葉の行く末を考えてみた。たとえ未遂であっても、みずからの失態を振り返るのはあまり気分のよいものではない。
(あろうことか、『私は好きだ』だと?)
よもや自分がそんなお粗末な発言をしようとしていたなど、アカギは羞恥で気が狂いそうになった。もしあの時思いとどまらず、口に出してしまっていたら、時を置かずに発狂したかもしれない。
『私は』まずこれがアカギの気をいちじるしく害した。シロナが気にしているのは自分の名前が常識的に見ておかしいか否かという一点であって、アカギの個人的な好みなどまったく重要ではない。そこへ来てとどめに『好きだ』と来たものである。なるほど確かに君の名前は少しばかり変わっているかもしれないが、私は好きなのだからなんの問題もない、それでいいじゃないかとでも自分は答えてしまうつもりだったのだろうか。
アカギはこの言葉に、知らぬ間に自らのうちに飼っていたおぞましい甘えをまっこうから突き付けられた気さえした。生ぬるい恋人関係などを受け入れてしまっているから、このようにいい加減な発言が相手にまかり通ると錯覚してしまう。なんという堕落だろう。
(だから……だから、嫌だったんだ。特定の人間と親密な交際をするなんていうのは、こういう愚行しか生み出さない)
たとえあの的外れのうえに世辞めいた文句をアカギが口にしてしまったとして、へんに気のきく彼女のこと、「ありがとう」と笑顔を返すに違いない。そのような対応は露骨に眉をひそめられたりするよりもこたえるものだ。
しかし、とっさの言葉とは往々にして本音を多く含んでいる。シロナがアカギの名前を好んでいるように、アカギもまた彼女の名前をひそかに気に行っていた。シロナ。ごく弱い音から始まるにも関わらず、凛と澄み渡るような発音は、まさしく彼女そのもののように思える。
「おかしくないなら、いいんだけど」
「おかしくない。安心しろ。まったくぜんぜん、ふつうの名前だ」
あくまで、一般常識に照らしあわせたうえで導きだした解答であることをアカギは強調した。まことに妙な話だが、アカギはなにか罪悪感めいたものをおぼえずにいられなかった。これまでたいせつに抱えてきたものを、子どもっぽい意地かなにかにまかせてわざと放り投げ、粉々にくだいてしまったかのような。
「そういえばあたし、自分の名前の理由きいたことないなあ。本当に『白菜ちゃん』から来てたらどうしよう」
「君の名前は誰が?」
「えっ? うーん、はっきり確認したわけじゃないけど、たぶんお母さんだと思う」
やおらアカギは立ち上がって、無言のまま奥の方の本棚へと歩き出した。あわててシロナが追ってくる気配を背中に感じながら、とうにすべての本の配置を覚えつくした自然科学、天文学の棚の前で足を止める。太陽系、小惑星、アステロイドベルト、アカギにとっては慣れ親しんだ単語の並ぶ背表紙に目線を走らせ、ほどなく彼は一冊の辞典を抜きだした。
「木星と火星のあいだに小惑星の軌道が集中する空間がある。小惑星帯、アステロイドベルトと呼ばれるものだ。現在発見されているだけで数十万、正確な数こそ把握できていないがその総数は数百万規模にのぼるとされている。その小惑星のうちのひとつに、『シロナ』という名前のものがある」
「え、うそ」
「嘘言ってどうするんだ」
「あたしをがっかりさせた罰として来週の日曜日デート」
「なんとすばらしいことに実在する。ほらこれだ」
「デート……」
「くどい。海外の科学者が見つけ出した星でな」
「おでかけ……」
「名前変えても駄目だ。名前の由来はこれまた異国の神話からきている」
「神話? 海外の?」
一瞬でシロナの顔つきが真摯に引き締まった。本のページを覗きこむためにしぜん、その身体は本を持つアカギの方へ密着する。なめらかな潤いをまとった彼女の腕が、同じくむき出しのままのアカギの腕に触れ、金色の髪が一瞬だけ頬をくすぐった。歯ぎしりしたくなるほどにいい匂いだった。
わかい柔軟さに満ち満ちた肢体は、もちろんアカギにはまるでなじみのない感触だ。首筋から肩へのなだらかな線、ほのぐらく淡い影を吸いこませるゆたかな胸の谷間を、恋人である彼は遠慮なく眺めていいだけの権利を持っている。しかし彼は頑としてその行使を拒否した。つとめて平静をよそおい、意識をシロナの身体には決して向けないようにした。シロナの肉体が纏う色香というのはあくまで健全で、むやみにふりまかれるようなしまりのないものではないのだが、アカギは徹底的に彼女の女の部分から目をそむけることを自らに課していた。彼は演壇で資料を読み上げるときのように、事務的な口調でシロナの問いに応じた。
「もとは女神の名前らしい。解釈に関しては諸説あるが、もっともメジャーなところでは癒しと水、それに天文を司る神とされている」
アカギという男は、とにかく己の関心の範疇にない事物に対してすがすがしいほどの無感動を貫く男である。さる研究室に一年身をおいておきながら顔と名前の一致する人物が両手の指で足りる時点で、その無頓着ぶりは推して知るべしだ。そんなアカギがシロナの名前を比較的早い段階で記憶していたのは、彼女もアカギと同じく、本業のかたわらでシンオウ神話に関するレポートを歴史研究会にいくつか提出していたからだ。アカギも何度か目を通したが、なかなか興味深い考察を展開するのでそれなりに気になってはいたのである。くわえて、彼女の名前は偶然にも当時アカギが気まぐれに濫読を重ねていた異国神話に登場する神のひとりとおなじ名前だった。こんな符合があればいやでも印象に残ってしまう。
そのころは、シロナがシンオウ地方のチャンピオンであることさえ知らなかった。シロナという名前だけが確かな立体をともなって、彼の意識の片隅でのびのびと息づいていた。
「天文の女神、か」
つぶやくシロナの横顔は、こころなしほころんでいるようにも見えた。
「ねえ、この『シロナ』が出てくる神話の本って持ってる?」
「私の家に、確か二冊ほど」
「ほんとう? あとで貸してもらってもいいかな」
頷くと、喜色満面といったようすで彼女は礼を述べた。彼女の向学心の旺盛さはよく知っていたが、「シロナ」のページを一心に見つめる目からは、単なる知識欲だけではない、もっと別のよろこびが覗いている。アカギはその理由を、みずからの名前が決してあのたくましい野菜の名前からではないのだという安堵から来るものと勝手に解釈して納得した。
「ずいぶん機嫌がいいな」
「ふふ、だってうれしいじゃない。アカギが研究している分野に偶然、あたしと同じ名前が出てくるなんて。おまけに『天文の女神』なんでしょう?それってすごくすてきだわ。運命って感じがする」
危うく本を取り落しかけるところだった。こういうふうに、まじめな表情のまま、こちらが面はゆくなるほどとんでもない発言を平然と繰り出すあたりもアカギを幾度となく困惑させてきた要因である。いつぞやかなにかの雑誌で彼女が特集された際、「冷徹な氷の女王」などというくだらない煽りが載ったが、あんなものは大嘘だとアカギは思う。だれもかれも、シロナという女の本質をまるきりわかっていない。色とりどりのアイスに目を回し、財布の中にポイントカードをひしめかせて、みずからの名前のルーツに思い悩む女が冷徹だというのなら、この自分は鬼畜でもまだ足りないはずだ。月並みなおとぎ話信仰を持ち、古臭いロマネスクほどこよなく愛してしまうようなシロナをアカギは知っていたし、それを笑い飛ばせるほど彼は女に慣れていない。
「君の発想力には感嘆するよ」
「なんだか含みのある言い方ねえ」
「純粋な感動だ。よくもまあ、そんな……はあ、女性というのは概してそういう生き物か。君たちにかかればなんでもかんでも月並みなロマンスになってしまう」
苦い顔をしているのに気づかれないよう、アカギはわざと饒舌に、皮肉な声音で応じながらシロナに背を向けた。本棚に図鑑を戻したあともなかなか彼女のほうを見ることができず、並んだ本の背表紙を凝視するほかない。
「ともあれ、御母堂はそこから君の名前をとった可能性もあるわけだ」
「だったら嬉しいな」
「かといって安心するのも早計だろうがね。もしかしたら本当に、『白菜』からかもしれん」
「違うわ、きっと神話の『シロナ』からよ。あたしのお母さんはロマンチストだもの、あたし以上にね」
「どうだか」
「あ、信じてないでしょう」
「わかったわかった。近いうち君のご家族のところにたずねていって、そのことを訊いてみようじゃないか」
先ほどのきまり悪い雰囲気を払拭しようとやっきになっていたのもあって、アカギは慣れない軽口の延長でそう口にした。そこに期せずして入り込んでしまった不測の寓意が、どういう受け取られ方をするかを考えるような余裕もなかった。
そういうわけで、今度こそとんでもない発言をしたのだと彼が悟ったのは、急に押し黙ったシロナを怪訝に思って振り返り、みるみるうちに赤く染まってゆく彼女の頬を見止めてからだった。
「えーと、ね、うん」
落ち着かない様子で手を臀部のあたりで組み、もじもじとはにかみながらシロナはアカギを見上げた。
「それってつまり、あたしのおばあちゃんたちに、その、あいさつに行ってくれるってことかしら」
続けざまの失態にめまいがする。
いったい自分のどこに、このような失言を次から次へ許してしまうような欠陥があるのだろう。いますぐ手近な窓を突き破ってこの場から逃げ出すことを考えた。三階から飛び降りても軽傷ですむ着地方法を、彼は真剣に検討した。
断じて自分はそのような隠喩をふくませてあの発言をしたわけではない、他愛ない揶揄であって誤解されては困る。弁明の言葉はいくらでも出てくるのに、なぜかそれを口にするのは気がすすまない。言い訳がましいまねをするのは彼の好みではなかったというのもあるが、それ以上の何かがアカギの唇を押しとどめていた。
『あなたが好きです』
かつて彼女から、似たような目線を向けられたことがある。最初は二週間に一回だったものが週に一回になり、三日に一回となった二人きりの神話勉強会。その帰り道、何の前触れもなく彼女から告げられた言葉はすくなくともアカギの息をひかせるには十分すぎる威力だった。
すぐに思い至ったのは悪質ないたずらか、からかいの類だ。取り乱したり、あるいは舞い上がったりする反応を楽しむ残酷な遊びである。こういうものには相応の厳しさでもって接しなければならない。アカギは考えうるかぎりに険しい顔を作ってから振り向いた。そしてすぐに、振り向かなければよかったと後悔した。
『あたしと、つきあってくれますか』
君は誰だ、と問いかけそうになるのを危うく飲み込んだ。振り返った先でアカギを待ち受けていたのは、シロナと同じ顔と背格好をした、まったく違う女のように思われたのだ。シンオウリーグのチャンピオンとして君臨する女でもなければ、ついさっきまで自分と湖の三妖精について議論していた女でもない。凛としたたたずまい、勇壮にして優雅と評されるバトルスタイル、理知的な物腰で、いつもどこかに悠然とした余裕をただよわせている。それが、今のこの表情はいったいどうしたことだ。
いつも何かしらに興味を示し、いきいきと輝いている目が、今は夢うつつのごとき放心状態だった。夕陽を受けたブロンドがおだやかに光の波を打ち、彼女のおもてに影が生まれる。いよいよ見知らぬ女だった。
当然ながら、論外の一言が頭のまんなかにくっきりと浮かび上がってくる。シロナは女ではない。学問の徒、戦友なのだ。思いがけない彼女の変貌に出会い、動揺したとしても、その事実だけは決して揺るがぬ自信があった。アカギは決然と口を開いた。
『考えさせてほしい』
愕然とした。
自分は「無理だ」というつもりで口を動かしたのに、喉から出てきたのはなんとも情けない、保留の言葉。私は誰だ、と叫びそうになるのをまたしてもアカギはこらえた。混乱きわまるアカギの心中などおかまいなしに、シロナはさらに追い打ちをかけてくる。まっさらな指を落ち着かない様子で組みあわせ、朝もやのような憂いがかかった目が彼をとらえた。
『わかったわ、待ってる。……もう一回言わせて。好きよ、アカギ』
家に帰るのに二時間もかかったようだが、どこをどう通ったかまるで覚えていない。
はっと気付いた時、アカギは自室のドアの前にたたずんで、いつになく不安そうな瞳でこちらを見上げるドンカラスとばかみたいに見つめあっていた。とりあえず、ドンカラスを使って帰らねばならぬほど遠出をしたらしい。
ひどく疲れていた。身体中の関節という関節がアルコールの湯につけられてふやけてしまったかのようだ。部屋に入るとまっすぐ寝室に向かい、ベッドに倒れこむ。ほんの少し気を緩めれば、シロナのあの告白がすぐさま脳内で鮮烈に再生されるようになってしまったのを、アカギはもはやあきらめるほかなかった。
恋というものは性愛から分岐したもの、少なくともアカギはそう考えていた。最初は人間的な魅力から惹かれあったとしても、終着点は結局、あの汚らしい行為が代表するような動物めいた欲求だ。恋愛に侵されたものがいかに無秩序で愚かな行動を平然と決行して見せるかを、彼は周囲の人間たちを遠巻きから眺めていてじゅうぶんに学んだし、辟易もしていた。はたから見ればとんでもないほどの些事にいちいち浮き足立ったりふさぎこんでみたりと、正気の沙汰ではない。精神疾患の症状とどう違うのかぜひ教えてほしいぐらいだ。
(そもそも、本当に彼女が私に対し恋愛感情を抱いているのかさえ疑わしい。私のどこに彼女が心惹かれる要素がある。私はいつだって自分ひとりのことだけ考えて生きてきたじゃないか。自分を甘やかしてくれない男を好む女はいないだろう。私が彼女のためになにをした?世辞のひとつだって言ったことがない。私は、なにひとつ……)
論文に行き詰まり、いたずらにコーヒーの杯ばかり空にしては胸やけと酩酊感の波にもまれている時の、あの奇妙な不快感と全能感がアカギの胸でしじゅう沸き立っていた。
結論ははっきり出ているのに、その結果を導くためのスマートな過程をどうしても練り上げることができない。これだと思う筋道がぴんと通ったかと思うと、次にはぐしゃりとひしゃげてしまう。
君とそのような仲にはなれない、たったそれだけの返答で済む話だ。 シロナと過ごす時間は苦ではない。研究所の面子にさえついぞ抱いたことのない信頼のような気持ちさえある。けれどもシロナと寝たいなどとは神に誓って思ったことはなかった。
(だが私はあの時彼女の言葉を拒否できなかった。しようとして、出来なかった。今ならわかる。私は恐ろしかった。彼女を拒絶した先の未来がまるで見えないことが。けれどそれは、べつに彼女を特別視しているというわけじゃあないんだ。先の読めないことを恐れるのは人間として当然の心理だ。そうとも、私は、ただ……ただ……ああ)
古代より残るさまざまな物語で幾度となくもてはやされてきた、あのずば抜けて気違いじみた精神病に、この自分がかかってしまったとでも? 恋ではない、絶対に恋ではない、と彼は口の中で繰り返しとなえた。
だが、そうでないならこの感情をいったい何と名付ければいいのだろう。彼は考えた。難問と向き合うときのように脳を徹底的にすり減らして、持てる限りの語彙、知るうる限りの理屈を持ち出して、見いだそうとしたのである。彼はあらゆる努力を惜しまなかった。
冷水を張った風呂に服のまま入って頭を冷やし、ホワイトボードいっぱいにシロナと自分のたどってきた経緯を書き出してはあれこれと懸想を重ねた。あるいは原稿用紙に、自分たちの関係が決して恋愛感情などには発展しえないという仮定を、詳細な根拠をずらずらと並べ立てて書き、大声で朗読しながら部屋を歩き回った。途中、ただならぬ様子の主人を案じたマニューラやギャラドスが何度かモンスターボールの中でいくぶん不安そうに揺れていたが、彼はそのたびに「まだ狂っていない!」ときちんと声をかけ、彼らを安心させてやることを忘れなかった。
そうこうしているうちに東の空が白み始め、アカギはほとんど反射的にシロナのことを案じた。きっと眠れぬ夜を過ごしているに違いなかった。返事を保留するような真似をした自分の不覚が、彼女に報われない期待を抱かせてしまったのではないかと考えると、自責の念が胸を刺す。
(違う。期待をもたせるもなにも、私は信じてなどいない。あの女が、本当に私を好いているなど。認めるか……認められるか)
アカギ、とシロナの声がする。あなたが好きよ、と自分だけを見据えてまっすぐにその言葉を発した彼女の姿を、彼は脳裏に思い描く。
(なにが好き、だ。私はアカギだぞ? あの女、何か違うものを呼んでいるんじゃないか)
悪態のつもりで吐き捨てた言葉だったが、胸中で呟いた直後に、その言葉は不思議な説得力をともなってずんずんと肥大していった。
(そうだ。あれは私に向けた言葉じゃない。私の名前はああいうふうに呼ばれるべきではない)
これまで彼を取り囲んできた人間たちのように、あらん限りの憎しみをこめて発音されるべき名前だ。アカギという名前は、ああいう連中の悪意をみずみずしいまま、枯らさないようにしておくための肥料、あるいは起爆剤なのだ。あんな、お守りでも握りしめるようないじらしさはそぐわない。
(音はたしかに私の名前だが、すでに私の名前ではなくなってしまっているんだ。なんということだろう)
自分は名前を奪われてしまったのだ。ただ個体を識別する程度の役割しか持たない、音や文字の列としての名前ではなく、真の意味での名前、一文字一文字に言霊としての力、魂の宿る言葉としての名前だ。名前をあたえることですべての存在は明確化する。いくつかの民話では、この世ならざるあやかしの名前を見破ることでその幻惑の術を打ち砕くという話もあるほどだ。彼女は自分の名前を奪って、なにかを成そうとしているのではないか……。疲弊しきったアカギの脳は、こういったことを平然と考えられるほどにまで追い詰められていた。
(なるほど、この感情は義憤だったのか。自分の名前を違うものに書き換えられたことへの困惑、まっとうな怒りというわけだ。ならば私も見破ってやろう。今こそ、あの完敗に報いるときだ)
こうしてみずからの名前を取り返すべく、アカギは翌日、シロナに告白の返事をした。彼女は朝目覚めた瞬間のように胡乱な目をしたあと、いきなりアカギに抱きついてきた。もちろん、多くの男が女性とのはじめての抱擁において感じる快感など、よもやアカギはおぼえない。けれども、彼女の抜けるように白い襟足へまともに目を向けることだけは、なんとなくできなかった。
「うれしい……」
彼はシロナの背中に腕をまわすふりをして、自分の名前らしきものは見つけようとした。これは使命なのだ、と言い聞かせた。だが何も見つからず、ただ、彼女の肩が思いのほか狭いことだけを知った。
(……思いだした。私は、自分の名前と誇りとを取り戻すために、こんな苦行に身をやつしている。あの名前が浴びてきた嫉妬は、そのまま私の積み上げてきた研鑽のあかしになっているからだ。
それをこの女が、なかったことにしようとしている。恋なんて陳腐な理由をくっつけて、私の名前を凡百なものにおとしめているんだ。…そうだ、だから私も表面だけでも、彼女を愛しているかのように取り繕っている。私は機会をうかがっているだけだ、芯からこの女に愛があるわけじゃない)
アカギはまだほんのりと赤いシロナの頬を見つめた。そしてあらためて自分に、これは恋ではなく使命だ、とおごそかな心持ちで言い聞かせる。
「ふふ、今日はいいこと聞いちゃった。もっと自分の名前、好きになれそう」
「なに? 話が違うぞ。君は自分の名前が気に食わないんじゃあなかったか」
「だからそれは昔の話。今は大好きよ。だってほら、あれだし」
「あれ?」
「あれはあれよ、ねっ」
察してほしいといわんばかりの表情をするのである。アカギはほとほと困り果てた。
「わからん、知らん、見当もつかん」
「じゃあ当ててみて」
「当たったら何かもらえるのか?」
「うん、すごくいいもの」
「技マシンか進化の石といったところか」
「それよりすてきなものよ、なんと来週あたしとデートできるの」
「ははあ」
「すてきでしょ?」
「ああ、愉快だね。降りた」
「あっ、やだもう、冗談。じょーうーだーん。そんな冷たい顔しないで」
その場から立ち去ろうとするアカギをシロナはあわてて引きとめた。アカギの肩を掴んで、しっかりと正面を向かせる。それが、彼女が真剣に話をしたいときの癖だとアカギは知っている。一度このまっすぐな目線にとらえられると、アカギはどうしても満足な反抗ができなくなるのだった。
シロナはまずアカギを指さし、
「アカギと」
次に自分を指さして、
「シロナ」
満足げにうなずいた。
アカギは当然、そのあとの言葉を待ったのだが、シロナはにこにこといつまで経ってもその先を言う気配がない。しびれをきらして、アカギは先を促した。
「……だからどうしたっていうんだ」
「あれ、ひょっとして気付いてなかった? あたしたち、『赤』と『白』になるのよ。紅白。おめでたいでしょう」
「は?」
「だから、紅白。ほら、歌合戦とか、おまんじゅうとか、垂れ幕とかの」
「待った、待ってくれ……。すると、あれか? まさか君が自分の名前が好きになった理由というのは、私と君の名前を並べるとたいそう縁起のいい言葉になるからとかいう……それだけの話なのか」
「うん、そうよ」
あまりにもあっさりと首肯され、アカギはおなじみの皮肉さえ練り上げることができなくなった。呆れて肩をすくめたり、一笑に伏すような気力すらも起きない。
どうしようもなくなって、彼は天を仰いだ。住む世界が違う人間? そんななまやさしいものじゃない。もう、生きる銀河からして違う。浴びる太陽も違う。こんな女と接していたら、調子どころか磁場まで狂ってしまう。
「あたしだけでもだめ、あなただけでもだめ、二人揃ってはじめて、縁起のいい名前になる……。だからね、『シロナ』って名前でよかったなって思うの」
「大げさな……。理解に苦しむよ。頭が拒否する」
「あなたのほうがおおげさよ、こういうのは理屈以前の問題で、理解するものじゃないの。もっとシンプルな話なのよ」
「では簡潔に説明を頼む」
「いいよ」
シロナは無邪気にほほえんだ。アカギの背筋をあの不吉な予感がぞっと駆けぬけていく。
「あなたの名前を呼ぶたびに、あたしは『シンオウリーグチャンピオン』ってだけじゃなくて、ただの、なんでもない、ひとりの『シロナ』でもあるって思いだせる。へんな話なんだけどね、チャンピオンに就任してからときどき、あたしってだれだったかな、って考えてしまうの。もしあたしからチャンピオンの称号を取ったら何になっちゃうんだろう、って。
あの日、チャンピオンに任命されて、はじめて自分のチャンピオンルームに足を踏み入れた瞬間、悩んだり苦しんだりして、ここまでやってきたカンナギタウンのシロナはどこか遠いところに行ってしまったような気がしてた。あれだけ苦労して集めたジムバッジが、なんだか赤の他人に揃えさせたみたいにそらぞらしく見えたりね。 ……あの感覚は、なかなか怖いものだわ。いろんな責務や権力が一斉にあたしめがけて飛びかかってくるの。それでどんどんあたしはシンオウリーグの、強くて威厳あるチャンピオンに作り替えられてしまう。いやがおうなしにね。チャンピオンはさすがお強い、王者にふさわしく美しい戦い方だ、ってみんな褒めてくれる。
……そう、みんなあたしがチャンピオンであることが前提なの。自分が何か、とても強くてきれいなものになったような気がするのと同時に、どこまでいっても、誰もあたしをあたしとして認識してくれない気もするのよ。チャンピオンは強く、眩しい。だからこそカンナギタウンのシロナは、チャンピオンの影になってしまった。
チャンピオンになることは子供のころからの夢だったし、その座に就いたことを後悔したことなんて一度もないけど……チャンピオンになることを夢見てがむしゃらにがんばっていた時の方が、あたしはあたしらしくいられたんじゃないか、今のあたしはただ王冠をのっけてぼんやり玉座に座ってるだけの、からっぽの人間なんじゃないかななんて、ちょっとした瞬間に思ったりね。
でも、あなたに会ってあたし、気付いたのよ。あたしはまだちゃんと、カンナギタウンのシロナでもあるんだって。好きな人と歴史を語り合ったり、ポケモンの話を聞いてもらったりして、そのたびにどきどきしたり、嬉しかったりする。あなたと対になる名前。あなたとふたりでいることで、あたらしい意味を持つ名前……こんな小さなことで喜べる、ありふれた女だってちゃんと実感するの。影かもしれないけど、確かに存在はしている」
「ちっとも簡潔じゃない」
「じゃあものすごくかいつまんで、ずばり一言――ありがとう、アカギ」
まただ。またこうやって、わけのわからない言葉を笑顔と一緒に向けてきて、それから耳と頬を赤くし、こちらの目をじっとのぞきこんでくる一連の行動、これがアカギの胸を不必要にかき乱す。
「君は……」
「うん?」
「君は、誰だ」
「あたしはシロナよ。それで、あなたはアカギ」
トレーナーたちが焦がれ、追い求めるのは、いつでもリーグチャンピオンである。しかし裏を返せばこうも言える。チャンピオンはもはや概念だ。普遍的な強さとカリスマとの象徴。個人としての差異も、趣向も、その大きな概念の中に回収される。そうして彼女には、整った容貌や若さといった記号ばかりが残るのだ。王者の椅子はかずかずの栄光や名誉とひきかえに、彼女からシロナという名前をすっかり奪ってしまった。
そう、彼女もまた、名前を己の名前をなくしつつある。アカギと同じように。
それに気付いた瞬間、アカギは身体の中に小さな宇宙を抱いてしまったような錯覚にとらわれた。星々が遠くまたたく中、自分とシロナは、あたかも小惑星間をただよう無数の遊星たちのように、広大な銀河をいつまでもたゆとっている。
「あの、だから……これからもよろしく、ね」
白い手が、ゆっくりとアカギの指先にふれてくる。
(本当になんなんだこの女は……なにがしたいんだ……!)
彼女の言動のひとつひとつが、かのビッグバンに比するだけの情報量でアカギに殺到してくるのだ。このままでは圧し潰されるか、熱死する。
このままシロナのそばにいれば、この胸のうちで未開の銀河はどんどん拡大してゆき、遠からずアカギの手に負えなくなるだろうという嫌な未来だけが鮮明に見えていた。
わからないことばかりが増えていく。シロナという女のこと、彼女が持ち去った自分の名前、それから、
「……あ、手あったかいね。めずらしい」
こんな女の重力にとらわれたまま、つかずはなれずの状態から抜け出せない自分が、何よりもわからない。
「どうして、世界を変えようとするの?」
まっすぐにこちらを見据えた彼女は美しかった。王者の気高さと凛々しさに満ちていた。いかなる私情も見えないその瞳に、悪を滅ぼさんとする使命感が燃えている。
彼女はチャンピオンだった。そして、彼はギンガ団のボス。シロナでもアカギでもない。頂点に上り詰めた者は等しく、あらゆる個を失う。そういう宿命を受け入れることで、彼らの強さはさらに純化されていくのだ。
そしてこの二人は、実体ある己より強さを選んだ。
「この世界が嫌なら、自分ひとり誰もいないところにいけばいいでしょう」
「……なぜ、私が世界から息をひそめるようにして生きなければならない?」
刻一刻と、あの名無しの銀河が朽ち果てていく。
(了)
BEAUTIFUL NAME
・過去捏造でアカギ×シロナでした。だいたい23歳ぐらいを想定して書いています。シロナはチャンピオン就任3、4年目に突入し、周囲の環境の劇的な変化に適応するだけで精いっぱいだった1年目あたりとくらべ、だいぶ己のことをかえりみることも増えてきた…みたいなイメージで。
アカギはどこぞの研究員をやっています。わたしの脳内では2年ぐらいつきあったのち、互いの決して相容れない部分を痛感してしまい袂を分かつ、という流れ。
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