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 どこに目を向けてもたえられないほど下品な男だった。
 極力明かりの絞られた店内、ほの青い間接照明が淡く光を投げかけるなかで、カウンターの一角に陣取ったその男は場違いの三文字をみごとに体現している。
 アオギリはロックグラスに注がれたウィスキーで唇を湿らせながら、じっと横目で彼らをうかがう。連れらしい、いかにも商売女といった風情の若い娘をふたりはべらせ、彼女たちのあいだで野卑な笑いを浮かべる彼は、もはやアオギリにとって嫌悪を通りこし、自意識からすみやかに排斥すべき対象だった。意識すれば自分までそのけがらわしさがべったりと、日なたに放置された生ゴミの汁みたいなしつこさでまとわりついてしまうからだ。
 歩いていた道の先にぶざまに轢きつぶされた毛虫の死骸を見つけたとして、それを好んで凝視するような人間はあまりいない。けれど、彼と毛虫の死骸には決定的に違う点がある。とにかくやかましいのだ。だからアオギリは、いまだにうまく彼を意識から追い出せずにいた。
 スツールをがたがたと、たちの悪い借金取りのノックのごとくに鳴らして笑い、煙草をふかし、酒を飲みながら器用にも女二人の話の相手を並行してやってみせた。耳を塞ぎたくなるような猥雑な話が、軽薄具合を示すように薄い唇から次々と飛び出し、次の煙草に火をつける片手間に女の太ももやら乳房を遠慮なくまさぐったりした。会話の内容も仕草も下種きわまりないのだが、男の動作の俊敏さだけはおどろくほどあざやかで無駄がなく、颯爽とさえしていた。アオギリは頭の中で、考えうる限りの罵詈雑言を抜き出してきては男の頭上に積み上げていたが、そこには侮蔑と、それにささやかな嫉妬が混じっているのだった。むろんアオギリの気性からして、この嫉妬の存在など知りもしないだろうし、そもそも認めようともしないだろう。だが、彼があの男から目を離せないのには、こういう理由もあったのである。 
 
 このやかましさでは、店内に流れるジャズ・ミュージックが聞こえないじゃないか――そうはいっても、アオギリ自体はジャズにとくべつの思い入れがあるわけでもない。もっと言うなら、彼はほとんど音楽的な知識、教養は皆無である。ただ、このような反応を取った方が人間的に高級に見えるだろうという、いたって俗な発想が根底に流れていることに、さいわいにも自信家の彼は気がつかない。
 なによりもアオギリを苛立たせたのは、男の装いだった。光沢のあるワインボルドーのシャツ、と言えば聞こえはいいかもしれない。だがその光沢は、シルクの持つそれなどには遠く及ばない、にせものと言うのもおこがましいような安っぽい輝きだった。赤いセロハンを何枚も重ねて思いっきり引きのばしたような具合だ。ちょうど彼の隣できゃらきゃらと笑っている女たちが、そのくちびるに建築用パテのようにして分厚く盛りつけているリップグロスのつやめきに似ていた。

 (類は友を呼ぶ、ですか)

 子どもでも知っているあたりまえの言い回しを、あたかも自分のすぐれた知性がみちびきだした機転のように、アオギリは満足に浸りながら胸中で反芻する。   
 そのような趣味の悪いシャツに、さらに趣味の悪い、ネイティオの大群を思わせるような毒々しい色彩の柄が入ったネクタイを締めているのである。ハードジェルのいやらしく粘っこい匂いがここまでただよってきそうなほどに固めた赤茶の髪、厚い瞼の下の目玉はけだものの不作法さでぎらりと光っている。とがった犬歯を遠慮なくむきだしにして笑う野蛮さもだが、なにより、めくりあげた袖から伸びる腕、カウンターに投げ出されたその二本のなんと不気味なことか。にごった河のような土色、骨ばった腕が時折うごめくさまは、おとろえてなお旺盛な蛇のようにおぞましい。
 
 アオギリは自分の服装をかえりみる。糊のきいた純白のシャツ、細身の黒いパンツにシンプルなバックル付きのベルト。どれも質素なつくりながら一級品だ。これだけあればもうじゅうぶんなのである。じゅうぶんどころではない。十全といってもいいほどだ。 この、あやうくすれば野暮ったくさえ映る装いも、肉体、精神両者の妙をきわめた者には最高の一張羅なのだ。 彼らは装いの華美さにたよる必要がないのだ。    
 朝、クローゼットを開けて、薄暗がりに整列する白いシャツたちを眺めていると、アオギリはなんともいわれず惚れ惚れとしてしまう。たったこれだけの装飾品だけで、自分はだれにも胸のうちの野望を悟らせることなく、おろかな民衆をあざむき、世間を渡り歩いている。支配者のパーソナリティをすべて満たした己を発見して、アオギリは魂のそぞろになるのを覚える。そういう意味では、あのクローゼットは彼の目指す理想郷の、ごくささやかなミニチュアとも呼べるかもしれない。
 アオギリは自らを、すでに完成された人間だと思っていたので、過剰に自分を飾り立てることはしなかった。かといって、あえて貧相な格好ももちろんしない。完成された人間には、装いそのものが、あらかじめ彫り込まれているのだから、纏うという行為をわざわざ必要としないのである。だから最低限の装い、機能美の尊重こそが肉体の十全さを引き立てる。あの美しい、白亜のギリシャ彫像たちのようにだ。彼はいわば、自分を飾り立てない、飾り立てる必要もないのだというおのれへの過剰な信仰にとりつかれ、酔っていた。
 そして彼は、たとえば磨き抜かれた革靴や、上等の腕時計、果ては金でできた小ぶりなシャツのボタンというような、ディテールに並外れたこだわりを示すようになったのである。こういったものたちが、自らの均整にいっそうの色彩美をくわえるものと彼は考えていたのだ。たとえばいまアオギリがはめている腕時計、これは外国から取り寄せたものだが、これみよがしに見せびらかすようなことがあってはならない。だから、彼は鏡の前で、どのような角度ならば、この腕時計の、厳粛なほどの銀のきらめきがちょうどいい風に袖口から覗いて、見る人の目を奪うかの懸案に注意を傾けた。あんまり熱を入れすぎて、夜通し研究したこともある。完璧に己を演出し、周囲の視線をコントロールするのも、彼が考える支配者の美学の一環だった。
 
 男はあいかわらず下劣な話題で盛り上がっていたが、ほんの少し両隣の女たちから目を離した際、偶然にもカウンターの隅に腰掛けたアオギリの執拗なまなざしとぶつかる。すぐに目を逸らした、ようにアオギリには見えた。

 「そろそろ出るか。店変えようぜ」
 
 ロックグラスの中身をひといきにあおったのち、女たちの肩を叩いて、男はそう促した。もちろんその声はアオギリにも聞こえていた。アルコールのもたらすよりずっと濃密な陶酔が心臓や胃を心地良くもみしだく。 自分と目があったとき、あの男はすぐに視線を逸らした。そうしてすぐに店を出ようと言い出したのだ。ほかでもないこの自分にひるんだのだと考えるのが自然だろう。彼がこの世で至上の快楽としているのは、このように、他人の行動を己の手のうちでゲーム盤の駒のようにあやつることだった。とりわけ、自分の持ちうる才覚で圧倒し、専制的に従わせるやり方をもっとも好んでいる。児戯的なエゴイズムをそのまま抱えて、生きてきたような男なのである。
 男がスツールから立ち上がり、懐中からくたびれた札入れを取り出していた。酔いが回ったのか、足どりはおぼつかない。この男が自分の軽蔑の視線におじけづいて出てゆくのだと思って、すっかりいい気になっていたアオギリは、グラスを持ち上げて残り僅かのウィスキーを飲み干そうとした。だから、ちょうど自分の真後ろまで男がやってきたとき、彼がバランスをくずしてたたらを踏んだことも察知できなかった。 

 「おおっ、と」
 よろめき足のもつれた拍子に、男はアオギリの背中へ肩からつっこんでいった。
 ウィスキーを口に含む直前だったので、不特定多数の人間がいるなかでおおげさにむせかえったり、まして酒を噴き出すようなみっともない真似だけは、阻止できた。しかしとっさにグラスから手をはなしたせいで、グラスはカウンターの上を転がって、アオギリのシャツの胸元を冷たく濡らした。当然、純白のシャツにはどこかの小島に似た見事なシミが広がった。

 「ああ、わりいわりい。やっちまった、おうい、平気かあ? 生きてるかあ?」
 
 アオギリはゆっくりと振り返り、ぼうぜんと男の顔を眺めた。高い頬骨の筋肉がひくりと動き、男が笑う。    

 「おーおー、派手にこぼしちまったねぇ。赤ん坊のよだれかけみたいになってら」 
 
 女たちの笑い声を聞きながら、アオギリはこの自失が、煮えたぎるような怒りの予兆にすぎないものだと思い至った。自覚した瞬間に、脳髄に直接焼けた鉄の棒を突きいれられたような衝撃がまっすぐ彼を貫いていった。 
 
 「悪かったってぇ。そうおっかない顔すんなよぉ」
 
 男はあの悪趣味なネクタイを引きぬいて、手品のような早業でそれをアオギリの太い首にひっかけた。目が合い、男のよどんだ瞳のうちに、あまりにも無防備なもうひとりの男の姿をアオギリは目撃した。鎖につながれる奴隷と商人の絵が記憶から井戸のつるべのようにしてせりあがってくる。
 (奴隷……! 奴隷だと! この私がか!)
 彼は己の想起にさえ腹を立て、自らの連想の責任さえ目の前の男になすりつけた。アオギリはネクタイというものがきらいだった。そもそも、首周りを圧迫されるような服が好きではない。今着ている服にしろボタンを二番目まで開けている。首どころか肉体のぜんぶを束縛されるような、あの苛立たしさ。人間にとって不可欠で、基本的な動作のひとつである呼吸の経路をなぜわざわざはばむような真似をしなくてはいけないのだ。うっとおしくてたまらない。 
 憤りは、しかし喉のあたりにおそいかかった息苦しさによってかき消された。比喩でなく息が詰まる。この許しがたく下品な男が、獲物に牙を突き立てる瞬間の、正しくけだものの表情を作ったからだ。皮膚にこの気分の悪い柄のネクタイがぎゅうぎゅうと食いこんで、喉を押し潰しす予感がアオギリを戦慄させた。心臓だけが踊り狂うように動き、そのほかの機関はいっさい、アオギリの随意にしたがわなくなってしまった。永遠に等しい一瞬というものを、その純然たる恐怖を、彼はこのときはじめて体感した。

 「ほれ、出来た。うまいこと染みも隠れたぜ。似合う似合う。鏡見るか? あ、持ってねえや」

 男の手が離れる。アオギリのシャツには、中央からすっぱりと一本のラインが引かれていた。気分の悪いネクタイが、蛇のように垂れ下がっている。
 
 「それ、やるわ。お前の方が似合ってるし」
 目の前が真っ白に眩んだ。いくつかの明滅が通り過ぎ、アオギリはカウンターを飛び越えてボトルを引っつかみ、去りゆく男の後ろ頭に投げつけてやろうかという凶暴な衝動にさえ駆られた。だが、久方ぶりの激情に目がくらんで、身体がうまく動かせない。 女たちの香水の匂い、ひらひらと振られる男の手の残像と、甲高い笑い声が混然一体となって、アオギリの尊厳を踏みつけてゆく。   
 結局、アオギリが自我を回復させたのは男たちが店を出ていったあとだった。アオギリは引きちぎるような勢いで荒々しくネクタイをほどき、床に叩きつけた。そして、磨きぬいた革靴で、何度も何度もそれを踏みつける。



 
 なぜ、今になってこのようなことを、刹那に火花の散るごとく思い出したのか、アオギリにはわからない。水の上をアメーバのようにはいずりまわって、彼は両断された鎧にむかって手を伸ばそうとしている。
 忘れがたい屈辱の夜から一か月ほど経ったのち、アオギリはあの男がアクア団と対立する組織、マグマ団の頭領・マツブサであることを知った。
 このことをアオギリはもちろん喜んだ。なるほどあそこで私が彼に出会い、恥をかかされたのは必然の出来事だったのだ。なにせ屈辱の記憶は、勝利をいっそう甘美にする……。
 一度は潰えかけた夢、支配と永遠の  マツブサを葬り、彼は剣と、悠久の時を内包した白銀の甲冑を手に入れた。もう彼に装飾など必要なかった。この永遠の鎧が彼の肉体となったからだ。すなわちそれは、この世のすべてを支配するにふさわしい、神のような存在への転化であった。アオギリはその身に永久を宿したのだ。
 しかし、その鎧がこざかしい少年たちによって破壊されたいま、アオギリは生きながらにして生皮を剥がされたのと同じだった。彼が今ものを考えたり、動かしている身体はもはや単なる殻のようなもので、脆い上にもうすぐ壊れてしまう。気道を直接締めあげられているように苦しいのはいよいよこの仮の肉体が限界を迎えている証拠だ。しかしあともう少し、もう少しで、彼は自分を取り戻すことができる。
 両断された鎧の内側はふしぎな暗黒で満たされ、まさしく悠久の時をきざむ銀河のようだった。その向こうに、彼の望む王国があるのだ。
 視界が薄暗くなってゆく。おお、このかりそめの肉体の、なんと軟弱で愚鈍なことだろう! 一刻も早く、ほんものの身体を取り戻さねばならない。しかしさきほどから皮膚を浸す、冷たくて重たいこれはなんなのだろう。いやな感じだ。たしか、水? 水とはなんだったか? いや、今はまず私の鎧、身体が先だ。
 彼はこのとき、すでに言語機能の一部を失いかけていた。 
 
 ――クローゼットを開けたとき、いつものように陳列した白いワイシャツの列の隙間には、あのけばけばしいネクタイが巻きついていた。死んだようにだらりとなっているが、ほんとうは、この暗闇の中でひそやかな呼吸を繰り返しながら、アオギリが不用意にこちらへ足を踏み入れる瞬間を待ちかまえている。
 
 指が兜に触れた。届いたのだ、と認識するのと同時、毛穴という毛穴が開き、身体中の血が間欠泉のように血管の中でつぎつぎと吹きあがった。彼は獣のように咆哮し、そして……。

  
 
 ほの暗い場所だった。
 地面に張り付いたアオギリを見下ろすようにして、マツブサが立っていた。彼の目を見た瞬間、アオギリはたちまち腕も足も頭も唇も、動かせなくなった。息をするだけが彼に許された唯一だった。
 マツブサはその手にうねうねとうごめくあのネクタイをたずさえている。荒い呼吸に上下するアオギリの喉仏をじっと見つめて、薄い唇の端から滴るような笑いが落ちる。 

 (了)


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