野薔薇の姫君

「あの、あのねシキミ……髪、とかしてもらってもいいかな」

 おずおず少女が差し出したのは、まだ真新しいピンクのブラシであった。
 シキミの返答を聞くより先に、アイリスの日焼けした頬はにわかに赤く染まっていった。自分で自分の頼みごとに恥じ入ってしまった様子である。二年前には手持ちのポケモンたちと砂埃にまみれながら野山を駆けめぐり、太い幹と枝とを広げる木に軽々と登っては街の姿を眺めていた少女の成長を、明確に見た瞬間だった。おまけに、つぼみのようにふっくらとした、突きだしぎみに結ばれた小さな唇には、よほど注視しないとわからないぐらいのつつましさで、ピンクの色つきリップがのせられていた。シキミはそれでもう微笑ましさでいっぱいになってしまい、豊かな胸がいきおいよく揺れるほどに大きくうなずいたのだった。
 
 いつになく緊張気味のアイリスを自室の鏡台の前に座らせる。肌と同じように日に灼かれて、ところどころ焦げ茶の入り混じった黒い髪を、シキミは丹念に梳いてやった。肥沃な河のようにゆたかに流れるアイリスの髪は、いくらか青みがかっているのが特徴だ。ブラシをすべらせるごとにおもしろいほど艶が増していく。黒髪の中に時々混じっている、日焼けのしてやや茶色くなった髪が明かりの反射でわずかにきらめくのは、ちょうどいまの時間、イッシュリーグ本部の真上に広がっている夏の星空を思わせた。
 
 「はい、できました。それじゃあカトレアちゃん、仕上げお願い」
 
 指の隙間からさらりとすべり落ちたアイリスの髪の感触にいくばくかの名残惜しさを抱きながら、シキミはふりかえる。アイリスとは示し合わせたように正反対の、アラバスターの肌色にゆるく波打つブロンドという取り合わせのカトレアは、いつものように地面から一メートルほども浮いた状態で悠然と紅茶をたしなんでいた。

 一日の大半を寝るかティータイムに費やしているような彼女は、真っ白い手をカップを持ち上げるか人を呼びつけるか以外に用いたことのない生まれ育ちを経た少女の例に漏れず、退屈を嫌っていた。リーグ内で何かいつもと違うことが起きる、あるいは持ち上がりかけているのを察知すると、それがどんなに些末な事態であれ、暇つぶしにとやってくる。だから今日もこうして、イッシュリーグ最年少にして新チャンピオンのはじめてのおめかしを見守りにきていたのだった。


 「たしかに、コテを使えば確かに髪を傷めるとはいえ……。アタクシのランクルスは美容師じゃなくてよ」
 
 可憐な唇からため息を漏らしつつも、カトレアはほっそりと伸びた人差し指を、一筆をすべらせるようにかろやかに宙へ踊らせた。
 途端、魔法のステッキの一振りがごとくに、シキミとアイリス、カトレアの間に突如としてランクルスが姿をあらわす。出現と同時にあるじの命を感じ取ったランクルスは、間髪をいれず、腕を模したであろうゼリー状の部分を思い切り振りかぶった。
 するとそれに呼応して、アイリスの小ぶりな耳の手前、両頬にかかる髪の一束二束ほどが、まるでみずから意志を持ったように中程でくるりと巻かれたのである。カトレアからランクルス、魔法の漣のひといきに寄せてくるあざやかな連携は、さながら絵本の挿絵の一枚が飛び出してきた風情であった。
 魔法はまだ終わらない。ランクルスが腕を振り下ろすと、今度は後ろ髪の一部がきゅっとまとめられ、すかさず飛んできたリボンが形の崩れないうちにそれをしっかりと結いあげる。最後の仕上げにシキミの用意した、王冠に似せたティアラがのせられると、鏡の中のアイリスの顔は緊張と羞恥から、うってかわった明るい興奮と喜びに輝いた。

 「うわ、うわ、うわわわわわ〜! ねえシキミ、これ、あたし? ほんとに?」
 「うん、アイリスちゃんすごく可愛い!アタシのデスカーンにだって負けてませんよ!」 
 「……シキミ、あなたはともかく普通の人はそれ、誉め言葉にとらないわよ」
 「すっごーい! あたし、なんかほんとにお姫様になったみたいだよ!」

 アイリスはひとしきりさまざまな角度で自分の姿を見つめ、このささやかな変身にはしゃいでいた。ようやく少女の予備期間を迎えた、まだほんとうの意味で未分化の「女の子」には、自然のままに伸ばしてきたまっすぐの髪がカールし、まつげが上を向いて唇と頬が色付けば、それはもう立派な大事件なのである。シキミはその姿に、はじめてよそゆきの格好に身を包んだ幼い日の自分の浮かれ具合を重ねて、いっそう、笑みを濃くするのだった。
 くるり、とアイリスは一回転する。チャンピオン就任が決まった際、お祝いにとシャガからプレゼントされたというドレスは、ちかごろはイッシュでもひろく普及した七夕伝説に登場する織姫の衣装によく似ていた。光沢のある白い生地は絹、腰から下は薔薇色のスカートが袖口と同じようにゆったりと裾を広げている。

 「えへへ……えへへへへー」

 景気よくもう一回転。子鹿のようにすんなりとした身体が回るのにあわせて、長い髪とスカートの裾がひらめく。小さく回れば微風のそよいだように、弾みをつけて回れば広大な草原を吹き渡る風を受けたように。はためく自らの髪と服とが、愉快で仕方がないようにアイリスは回りつづけた。頬は上気し、スカートの裾をかるくつまんだ彼女は、いよいよ絵本の世界のお姫様の風情であった。
 絹とはいえ布をふんだんに使った衣装であるから、山々を駆け回っていたころの服装よりも数倍重く、動きづらいに違いないのだが、今の彼女にはその重みさえ心地よいものらしい。

 「ちょっとチャンピオン? はしゃぐのはよろしいけど、そんなパッチールみたいにくるくるしていたらせっかく整えた髪が乱れちゃうわよ」 
 
 カトレアの言葉に、アイリスはねじの切れたオルゴール人形さながら、ぴたりと動きを止めた。あれだけ回ったのちに急停止したその足もとには危ういところもなく、つま先はしっかりとそろえられていて、彼女の並外れた身体感覚がうかがえた。
 
 「……アイリスちゃん?」
 「……あのね、あたし決めたんだ。チャンピオンになったんだから、あたしもうおてんばはやめるの。だって今までみたいにばたばた騒がしく走り回ったり騒いだりしてたら、おじーちゃんがくれたこのお洋服にふさわしい、優雅で威厳あるチャンピオンにはなれないと思うから。木登りもかけっこも、とっくみあいも卒業する。だって、チャンピオンのあたしがいつまでものんきな子供みたいじゃ、チャンピオンに勝つのを目指して毎日頑張ってるトレーナーとポケモンたちみんなへの示しがつかなくなっちゃうもん」

 鏡に映った自分の姿を一途に見つめ、唇を引き結んだアイリスの横顔は、必死で己のうちのあどけなさを押し込めようと努力してつくりあげたのが如実に伺える。だがその懸命さが、かえって少女らしいいじらしさを強調していることにアイリスはまるで気が付いていない。
 
 どこまでもすなおに育った身体と心は、見るものにすがすがしい心持ちをもたらすと同時、一抹の不安をも抱かせる。
 この先アイリスには、チャンピオンの名前の持つ責務のかずかずが、あるいは彼女の若さに危惧と嫉妬とを抱く心ない人間たちの言葉がほとんど既定事項として待ち受けている。のがれることはできない、玉座についたものが否応なしに背負わねばならぬ宿命だった。彼女の師のように精神も肉体も強靭に鍛え抜かれた者ならば、その批判も苦難も真正面から受けて立ち、おのが糧にさえできるだろう。かつてシキミたちそれぞれの導き手であった前チャンピオンなら、風前の柳のごとくにそれらを躱し、チャンピオンも楽じゃないと笑い飛ばすぐらいはしたに違いない。だがおさないアイリスはそのどちらも、まだ持ち合わせてはいない。本来なら微笑ましさで迎えられるはずの無垢さとまっすぐさゆえに、彼女はそういう無慈悲の前にぽきりと手折られてしまうかもしれないという危惧がシキミにはつねにあった。
 この子鹿のように純真な背中は、せまくすんなりとした双肩は、はたして先人たちが請け負けたのと同じだけの重み、耐えられるのだろうか。
 
 シキミはとっさに言葉をさがした。物書きである彼女の頭の中にはすぐにいくつかの言葉が浮かんでいたが、どれもこれもが突きつめれば単なるおためごかしに過ぎないのも十分承知していた。大人のずるさだ――結局何も言えぬままに歯がゆい思いをしていると、とつぜん、アイリスの肩がぴくりと跳ね上がった。
 
 「……お兄ちゃん」
 「えっ、なに?」
 「トウヤお兄ちゃんだ!」
 
 「えっ、トウヤさん? 帰ってきたの? あっ、というかその前に、あのねアイリスちゃんーー」
 
 ニ年前、伝説の白い龍を従えて諸国放浪の旅へ出た少年の名である。イッシュに何度か帰ってきたこともあったが、その際もきまって何の予告もなくふらりと現れては、相変わらずの強さでシキミたちを手合わせをし、満足げにまた旅立ってゆくことの繰り返しだった。そういえば、アイリスがチャンピオンに就任してからはまだ一度も訪れていない。あの幼い少女がチャンピオンになったと聞いたら、彼はどんな顔をするだろう。
 
 「聞こえたんだ、あのうれしそうな翼の音! レシラムだよ!レシラムがお兄ちゃんを乗せて、遊びに来たんだよ!」
 あたし迎えに行ってくる! と言うが早いが、シキミたちが何か言うより早くアイリスは夜風のようにすばやく部屋を飛び出していった。ドアの閉まる音が耳に届いたときには、彼女の足音はすっかり消えうせていた。
 
 「……アタクシの耳と目が正しければですけれど」
 先ほどの労をねぎらうために、大きく開かれたランクルスの口中へ念力でマカロンを放りこんでいたカトレアが口を開いた。
 「彼女、ついさっき『もうおてんばはよすの』と決意に満ちた目で言ったわよね?」
 「あ、あははは……ほら、女の子の気分っていうのはポワルンのようにうつろいやすいと言いますし……」
 

 再度ドアの開く音がして、まさかもう帰ってきたのかとシキミは弾かれたように振り返ったが、それはさすがに違っていた。連れだって入ってきたのは買い出しに出かけていたギーマとレンブの二人であった。二人してサロンへ続く廊下のほうをしきりにふりかえっているあたりから察するに、どうやらアイリスとすれ違ったらしい。

 「今さっき、ずいぶんきれいにめかしこんだうちのお姫様とすれ違ったのだがね、こちらが挨拶をする間もなくものすごい勢いでホールの階段を三段飛ばしで駆け降りていった。約束の十二時にはちと早いんじゃあないかな?」
 日用品の詰まった紙袋をいかにも大儀げに床に置き、ギーマはいつもの大仰な身振りでもって肩をすくめてみせた。
 「あの子はかぼちゃの馬車なんかなくても走って帰れるでしょうし、ガラスの靴だって途中で邪魔になって、自分から余った一足も投げ捨ててしまうわよ。……ねえレンブ、その手に持っているのはなに?」
 「ああ、これか? 姫へのみやげにケーキを買ってきたんだ」
 姫、という単語でカトレアは露骨に眉をひそめた。白い喉を仰向けて紅茶の最後の一口を飲み干すと、
 「なあに、あなたまで姫だなんて。似合わないこと」
 「む、いや、つい……ギーマがお姫様お姫様と呼ぶのでつられてしまってな。なにより彼女はシャガ殿のお孫さんだから、よけいそう呼びたくなってしまって」
 「おやおやカトレア嬢、ライバル出現で心中穏やかでないと見える。イッシュリーグのプリンセスの座を新入りにやすやす譲っちまうわけにはいかないわけだ」 
 「その減らず口をむりやり閉じさせてあげてもよろしいのよ、ギーマさん」
 まなじりをつりあげたカトレアがひとにらみするだけで、不可視かつ不吉な力がギーマの周辺で高まってゆくのがわかった。悪タイプがエスパータイプに強いのはポケモンバトルにおいてのみの話で、トレーナー同士はその限りではない。ギーマはあいかわらずにやにやしながら両手をあげた。
 「不敬をお詫びしますよ、カトレア姫」
 「何がお詫びよ、何が」
 「ふむなるほど、姫が来たことでカトレアもついにお局様とかいうのに……」
 「生意気をいうのはこの口かしら」
 「うぐぬぬぬぬぬッ!? なぜわひゃひにはいきなひじつりょふこうひなんだ!?」
 
 レンブの岩のような頬が、ひとりでにきりきりとつねあげられる。傍目からすれば相当に過酷と思える修行にも眉一つ動かさず、黙々とはげんでいるレンブが本気で痛がっているのを見ると、カトレアのほうも万(念)力込めているに違いない。ふだんは朴訥ながらもあらゆることによく気がつくこの青年は、しかしきまじめな男のたいていがそうであるように、女性の心の機微の察知となるとおそろしく鈍麻になった。それがあまりに顕著で、絵にかいたような滑稽さで発揮されるので故意でやっているようにさえ思えるのだが、どうもおそるべきことに素の言動らしかった。
 ほとんど一種の科学反応である。平時のするどさは、ある一定の条件下ではまるで同極を近づけられた磁石のごとくにひっくり返ってしまうのだった。

 「で、シキミ嬢。結局お姫様はいったいなにをあんなにいそいでいたんだい? きたるべきオノノクスとのかけっこ対決の練習にはげんでいたわけではないだろ?」
 「トウヤくんが来たそうなんです」
 「ほう、トウヤが……」
 なつかしい名前に、レンブが頬をさすりつつ目を細めた。 
 「しかしなぜわかったのだ? 事前にトウヤから連絡でもあったか」
 「いいえ。……でも、聞こえたんですって。トウヤくんが乗ってくるレシラムのうれしそうな羽ばたきの音」
 「ははあ……さすが、竜の心を知る娘。羽ばたきの音だって? 末恐ろしいな、まったく。あんなお姫様が我々の手に負えるものかね」
 「負える負えないの問題ではないだろう、ギーマ。これまでは私たち四天王が師匠に育てられ、導かれてきた。だからこそ今度は四天王の我々が、新しいチャンピオンたる彼女を守り育て、あるいは鍛え磨き、導いてゆくのは道理だろう。たしかに姫は……アイリスは強い。才覚にも恵まれている。だがチャンピオンとして、イッシュリーグを統べるものとしてはまだまだ未熟もいいところだ。なんといっても彼女はまだ幼い。あやういところはいくらでもある。彼女の持つ可能性と力……導く方向を違えればどうなるかぐらい私にもわかる」
 「立派な玉座は最初から用意されているが、そこに座るにふさわしい王様はぽんと用意できるものではないからね。一朝一夕時間をかけて、国民と王を支える側近とが作ってゆくものだ」
 「なるほど、アタクシたちはつまり四人のヒギンズ教授というわけね」
 カトレアはこの言い回しが気に入ったらしく、ようやくわずかに機嫌を持ち直して、宙に浮かせていたポットから新しい紅茶を注がせた。
 
 「あのイライザは怒らせたらスリッパどころか蹴りが飛んできそうな勢いだぜ」
 「ギーマ、カトレア、いったい何の話をしてるんだ」
 カトレアが大げさにため息をついた。
 「あなたも筋肉ばっかり豊かにしてないで、感性も豊かにするために映画ぐらいごらんになったら? アタクシのお部屋にDVDがあるから、今度見るときにお供させてあげてもいいわよ」 
 「ああ、映画か……映画といえば姫がハチクマンの新作が見たいと」
 「あっ、あっ、あー、そうだ!」
 また不穏なほうへ話が流れそうな気配を汲み取って、シキミは大げさに両の掌を打ち鳴らした。

 「せっかくケーキがあるんですし、夜のお茶会にしませんか? もう今夜はカロリーとかダイエットとかそういうの抜きで行きましょう。ああいえそんなの気にしてるのはアタシだけなんですけどそれはともかくとして! そうそう、トウヤくんが来るならもうひとつ余分にティーセットを用意しないといけませんね!」
 「おお、そういえばそうだな、ではケーキは私が切りわけておこう。カトレア、茶のほうの準備は君に頼むよ」
 「よろしいけど」
 「トウヤも長旅で疲れているだろうからな。君の淹れた茶は格別にうまいし、うってつけだろう。きっと喜ぶ」
 
 さっそくケーキの箱を開けているレンブはやはり気付かなかったが、それを聞いたカトレアの頬がみるみるほころんでいったのをギーマもシキミも見逃さなかった。

 「あなたもお茶の味ぐらいはわかるようになってきたのね。ええ、すぐに最高の紅茶を用意するわ。遠方からの客人をもてなす準備もできないようでは、淑女失格だもの。けさコクランから届いたいい茶葉があるのよ」
 
 カトレアがすっと両腕を広げる。すっかりおなじみの要領で、なにもない空中に次々と人数分のティーカップやソーサー、ティースプーンなどの一式が出現した。
 ご機嫌曲線は今の会話ですっかり上方固定となったらしく、彼女にはめずらしい鼻歌など聞こえてくる始末である。


 「ナイスプレーだシキミ嬢。レンブの友人として君の機転に感謝する」
 いつの間にやらシキミの傍らに立っていたギーマが、そっと耳元にささやきかけてくる。シキミは苦々しげに笑いながら、
 「ギーマさん、ご友人ならもう少し女性の扱い方とか、教えてあげた方がいいと思いますけど……」
 「女性の複雑怪奇なシステムは身体で理解するもんであって、口頭で教えられるようなもんじゃないのさ。とくにレンブのような手合いにはね。さあシキミ嬢、私たちもとにかく何か準備しないと。よりたのしいひとときを提供するために、私は部屋に戻ってトランプでもとってこよう」
 「イカサマはだめですよ」
 「トウヤやレンブならともかく、淑女相手に金をふんだくる趣味はないさ。今夜はスリル抜きだ」
 「そもそもお金を賭ける時点でだめです。ところでさっきの淑女って、アタシと、カトレアちゃんと、それに……アイリスちゃんのことですよね?」
 「……それ以外に誰がいるってんだい?」
 「いいえ。合格ですよ、ギーマさん」
 「なんだかよくわからないが、シキミ嬢のおめがねに叶ったなら光栄だね」
 さっと前髪をかきあげるきざなしぐさが、しかし彼にはよく似合う。
 
 「そうだ、ギーマさん。さっきの『今夜はスリル抜きだ』っていうせりふ、次の作品で使わせてもらってもいいですか? いまの言い回し、アタシのセンサーにピピッときちゃったんです」
 「いいともシキミ先生。……ところで誰のせりふ?」
 「あっ、今回は数人の年上マダムを囲って自分は若い少年の血を啜る物好きな吸血鬼の……」
 「ああ、ウン。わかったもういい。前回の男色インキュバスよりはまだいいや。使用料はいつも通り君の時間でいいね? 次の休日ということで。とくに君のシャンデラに効きそうな新しい戦法を思いついたんだ」
 「お手柔らかにお願いします」
 笑いながらシキミは片時もはなさず持ち歩いている手帳を取り出して、さっそく使用許可の下りたせりふと、週末の予定とを書き留めておいた。そこでふと、鏡台の上へ置いたブラシに目をやってみる。

 
 このブラシもドレスと一緒にシャガからプレゼントされたものだと、髪を梳いているときにアイリスが話してくれた。
 思えば彼女の経歴は、まだシキミの半分も人生をおくっていないにも関わらず、なかなかに濃密だった。それだけで長編小説が一本書けそうな筋立てになっている。
 修行のために竜の里をおとずれたシャガにその才覚を見そめられ、見知った人間など誰一人いない異国のイッシュへ単身やってきた彼女。シャガのもとで研鑽を積み、まだこちらの言葉にもなじまぬうちにジムリーダーへの就任を果たしたのは、ほんの九歳のときである。
 そう、シャガの紹介でシキミのもとへ挨拶にきたときのアイリスはイッシュへ来てまだ日の浅い、今よりもっと野性味あふれる娘であった。こちらの言葉に慣れておらず、片言のうえになまりがきつかった。かんたんな自己紹介をするのがやっとだった。出されたケーキを手づかみでがつがつと食べ、そのたびシャガに叱られていたが、クリームでべたべたになった彼女の口元をハンカチで拭ってやるシャガの姿は、血をわけた実の祖父と孫の姿と言ってさしつかえないほどであった。
 シャガはアイリスにあらゆることを教え、与えた。バトルの技術のみならず、イッシュの言葉とその読み書き、食事のマナー、ジムリーダーの義務、ポケモンとの心の通わせ方。すべて、みずからの後をアイリスに継がせるために必要な知恵と心だった。シャガの丹精はアイリスをどんどん成長させ、誰もが目を見張るような速度でアイリスはめきめきと強くなった。
  
  
 
 『最初は、自分の後継者にふさわしい才ある娘を育てることが目的だった。原石を磨き削って、美しい宝石に加工するようにな。それに生涯を捧げようとさえ思っていた。アイリスという娘に私のすべてを託したのちは、それを遠くから眺め想うことで、老いの楽しみにしようと考えたのだ。彼女を弟子にしたとき、私は自分でも年老いた自覚があった。トレーナーとしても限界を感じていたからこそ、後継者を探したのだ。このまま凋落してゆく己を見るのは耐えられない、ならいっそ、誰か才能ある若いものに私のすべてを受け継がせ、私はあくまでその影に徹してしまおうと考えてね』
 
 アイリスのチャンピオン就任が正式に決定したことをリーグまで伝えにきたシャガは、旧友であるアデクとさんざん酒盛りをしたあとと見えて、いつになく饒舌だった。たずねてもいないのに、コーヒーを出したシキミにこんな話をし始めたぐらいであったから。瞳が酔い以外でうるんでいたように見えたのは、きっとシキミの気のせいではなかったはずだ。

 『だが……最近少し、考えが変わってきてね。アイリスはひょっとしたら宝石でも原石でもなく、まだ静かに眠っている花の蕾なのではないか。そうだとすれば私は土だ。私とアイリスは捧げ託されるような関係ではなく、互いに命の輝きをわかちあう関係なのかもしれない。
 アイリスが私の技術と魂と心とを受け継ぐたびに、私もまた彼女の情熱に肉体がみなぎり、心が新鮮に揺さぶられるのを感じる。花がしっかりと大地に根を張るためには堅固な土壌が必要だ。ならば土たる私は、より強くならねばならない。年にかまけて楽隠居、というわけにはいかなくなったわけだ。
 土が弱れば花も萎れ、花が萎れれば大地はただ冷たいだけの不毛の地。アイリスは花瓶に生けられ、愛でられるような花ではなく、野辺に咲き誇ってどこまでもその根を広げてゆく、そんな花だ。彼女の生きる場所に、花開く場所に、私も生き続けることが出来る。たとえ彼女の咲く場所が私の手の届かない、険しい嶺の上、地より天の星に近いような場所であっても――』

 ソウリュウジムのジムリーダーから、イッシュリーグの頂点、あまたのトレーナーたちが目指す場所に立ちながらも、未だいくつもの芽生えの予感を残す彼女の物語は、チャンピオンの座を手に入れたところでは終わらない。ポケウッド映画よろしく壮大な音楽とともにスタッフロールが流れ出し、エンドマークが画面にあらわれても、なおその向こう側では、また新たな世界が星空のように続々と展けてゆく。
 
 (……アタシも見てみたいな、その先の世界)

 シキミは少し考え、ギーマから拝借したセリフの下に、このように書き抜いた。

  『エンドロールの向こう側』

 シャガの語っていたことを、アイリスに教えようかとも思った。しかしすぐに、そんなことはするだけ野暮であると思い直してやめる。彼女がかの地にしっかりと根を下ろし、爛漫と咲き続ける花ならば、いつかその根を伝って、花びらの一枚一枚までに彼の想いは浸み渡ってゆくはずだ。
 だから自分はその手伝いをすればいい。彼女がより美しく、貴く、咲き誇れるように。さしあたりは――毎日のヘアケアを教えるあたりから。
 
 (了)





BWでは若い四天王とそれを育てた(であろう)ベテランチャンピオン、といった図式であったのが、BW2で今度は四天王の彼ら彼女らが、自分たちよりさらに年若く幼いチャンピオンを守り導き育ててゆく、というふうになっているのがとても好きです。

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