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マッチメイカー

「平和主義もそこまで行くと立派なもんだよ」
 責めるふうもなければ労わる調子でもない、彼女がこの男と言葉をかわすときの常である、からかうような響きさえ今は消え失せていた。とうの昔に置いてきた若さのもたらす愚を、呆れ半分まぶしさ半分、とにかく完全に別のいきものを見る目でカラシナはながめる。 自分も二十代とかいう、青臭さの塊みたいな時期に身を置いていたころはこのような浅はかさを堂々ふりかざして生きていたのかと思うとぞっとする。
 
 「申し訳ありませんでした。とんだご迷惑を」

 さきほどカラシナが貸したハンカチでかるく袖口のあたりをぬぐったあと、アカギは苦々しく彼女に詫びた。彼自身のハンカチは、さきほど顔やら髪の毛から垂れるシャンパンを拭いた時点で使い物にならなくなっている。赤ワインやコーヒーのような、色味の強いものでなかったのがせめてもの幸いだったかもしれない。どちらにしろ、彼が着ているワイシャツは洗濯機ではなくクリーニング屋送りになるだろうが。

 絨毯張りのロビーで、カラシナたちはエレベーターが来るのを待っているところだった。今年の授賞式のほかにもなにがしかの記者会見をやっているらしい本日のコトブキホテルは、いつにも増して人の出入りが多く、エレベーターはなかなかふたりのいる七階に到着する様子を見せない。
 数メートル先で行われているパーティー会場のさざめきがやけに遠かった。あと三十分もすれば今年の授賞式の主役・ナナカマドがいつものように一分の隙もないタキシード姿で壇上にあらわれ、退屈なまでに美しく整った文句の散りばめられたスピーチを始めるだろう。もともとカラシナの目的は授賞式で供される食事と酒―――乱暴に言ってしまえばタダ飯タダ酒であったから、アカギの世話にかこつけて会場を出ることにはなんのうしろめたさも伴わなかったし、履きなれない、重いばかりのパンプスにもいい加減うんざりしていたところだ。唯一の後悔は食事を持って帰るためのタッパーを忘れてしまったぐらいのものである。
 
 「ああせずにはいられなかったといいますか……身体が勝手に動いていまして」
 「まあ、あたしとしてはあそこから抜け出すいい口実になったけどね。立食形式って言うの? 年寄りにはああいうの辛いから」
 「そんな、博士はまだ」 
 「はいはい、そういうのは結構だよ」
 
 べたついた世辞を言うような男でないのは知っているが、だからといってそのいかにも誠実そうな表情を盾にして言葉を鵜呑みにするほど彼女も若くない。 
 カラシナは、日に日に老い衰える自分の身をのろったことは一度もなかった。むしろ年数のぶんだけ積み重なる様々のものを誇りに思う節さえあった。だから、そのように安易な賛辞を受け入れるのは、過ぎた時間の一刻みまでも己の糧としてきた彼女のプライドが許さないのである。 
 年齢はもちろん、はやくに夫を亡くし、そのうえ生涯の半分以上を神話研究にやつして来たからか、カラシナの持つ、性としての女の側面はすっかり枯れている。だがその枯れ花の上に、彼女の場合は目を見張るほどの美をもつ婀娜花が咲いた。
 彼女は美しい女性である。神話研究の最前線で活躍するに足る、溌剌とした若々しさがあるし、アカギと同じ年の、あと数年もすれば三十の足音を聞くような孫がいると初対面で考え付く者は少ないであろう。皺がすくないとか肌に潤いがあるとか、そういう至って表面的な美ではない。カラシナの持つ美とは、自分を捕らえていたさまざまな枠組みを取りはらってあらわれる自由な魂の美しさだ。年齢に見合った孫のいる年齢にしては、という但し書き付きの美貌。だが、確かに忍び寄るような色気が含まれている。未亡人ゆえのほのぐらい魅力ではない。真に女の性別から解き放たれた彼女は何に縛られることなく、己の欲求に忠実に生きるようになった。若い娘のそれとはくらべものにならぬ、梅の枝めいて節立った指のつくりに、しかし時折あやしく胸を乱される男がいるのは、その痩せた手の向こうに、カラシナの奔放な魅力を透かし見るからである。凋落がもたらすのは必ずしもみにくさばかりではなかった。
 
 
 「ほら、拭き終わったらとっとと返す。結構気に入ってるんだよ、それ」
 「とんでもない、きちんとクリーニングに出してからお返しします。……気に入られているのなら、なおさら」
 「いいけど、いつかみたいにきざな花束をおまけにくっつけてくるのは勘弁しとくれ。このあいだはそれで研究所中の花瓶を引っ張り出さなきゃならなかったんだから」

 笑いながら、丁寧な手つきで彼はジャケットのポケットにシルク素材のハンカチをしまいこむ。三白眼で、おまけに眉がなく、頬も削いで落としたようなこけ方をしているくせに、浮かべた笑いは実に品よく整っていた。鍛錬のあとがうかがえる表情である。
 何事も整い過ぎていれば不気味さしか与えない。カラシナは肩をすくめて、大きくため息をついた。まじめくさった顔で歯の浮くようなせりふを度々ささやいてくるのも、過剰なほどにフェミニストの作法を重んじるのも、彼の紳士としての自然がそうさせるからでなく、その内に秘めた野望を達成させるためのプロセスとしてやっているに過ぎなかった。  
 そうしておそらく彼は、カラシナがそこまで見抜いているのを知った上でなおも紳士の仮面をかぶりつづけ、彼女がその隙に飛び込んでくるのを待っている。ちらつく影が己を男としてより魅力的に映えさせるのをよく理解しているからだ。

 
 (ご苦労だこと)
 カラシナは彼がシャンパンをひっかぶるはめになった経緯を思い返し、あらためてこの男のしたたかさに感服した。
 

 酒の席とはいえ由緒ある授賞式の会場であのような怒鳴りあいをしているような輩たちだったから、おそらくいさかいの理由もとんでもなくくだらない些事からだったのだろう。さておきカラシナが気付いた時には、近くにいた二人の男が学者とは思えぬほどにセンスのない言葉のかずかずで互いを罵りあっていた。
 他の参列者も、好奇の視線だけは遠慮なく浴びせかけるのだが、その目はあくまで沈静で、どこまでも遠巻きだ。仲裁にはいろうとするものはだれ一人いない。
 カラシナも無関係な他人の喧嘩に興味などまるでわかなかったから、ちらりとそちらの方を伺うだけであとは完全に無視を決め込むつもりだった。激しくなるならホテル側から仲裁が入るだろう。それよりも彼女は今手にしている、まるでジュースみたいなカクテルについて傍らのアカギに不平を漏らそうとしたのだが、
 
 「……ん?」

 さっきまでカラシナの隣でシャンパンをあおっていたアカギの姿は忽然と消えていた。次の瞬間なんともいやな予感がして、もう一度口論の現場をふりかえる。予感は見事的中した。ああ、面倒なことになるーーー次なる予感の到来は、男のうちの一人が、とうとう手近に置いてあったシャンパンのグラスを引っ掴んだのとほとんど同時であった。

 若さとはこうも愚かな美徳であっただろうか。とっさに両者の間に割って入り、結果シャンパンまみれになったアカギを見てカラシナはかるくこめかみを揉んだ。 

 「祝いの席です。やめませんか」
 そう静かに告げる毅然とした表情から、私の顔に免じて、と冗談めかした笑顔への瞬時の転化。シンオウ名士の呼び名は伊達ではない。まわりに悟られぬよう場の主導権を握るための声音、微細な仕草、そういったものを心得ている。
 近くのボーイに飲みさしのカクテルグラスを押し付ける。カラシナは彼を会場から引っ張り出すべく、形だけの小走りでそちらへ駆け寄って行った。
 思えばあれも、彼からすればカラシナの前で自分を引き立たせる壮大な舞台装置であり、イベントであったのだろうか。だとしたら―――。


 
 「博士」
 我にかえってみると、開いたエレベーターの扉を押さえて笑うアカギがいた。どうぞお先に、と促され、素直に歩をすすめる。この時間帯、二人のほかに乗客はないのはいささかに奇妙な気がして、カラシナは作為を疑わずにはいられなかった。だがそれは不愉快ではなく、推理小説のページを繰るような無垢な好奇心と同列のものである。目の前の男がこの密室を使って、いったい今度はどんな立ちまわりを見せてくれるのか?彼女はかるく微笑み、エスコートを受ける。




 まずアカギがパネルを押した。もちろん、彼が部屋をとっている二十九階。カラシナはそれより下、十九階のスイートルームに孫と泊まっている。腹もそれなりに膨れたし、こういった場についてまわる、華やかな歓談の仕事は麗しのリーグチャンピオンである孫に任せようと彼女は勝手に決めた。自分は部屋でゆっくり飲みなおそう。しかしそうなると、ますますごちそうを持ち帰れなかったことが悔やまれる。あの生ハムなど酒の肴に最適だったろうに……。

 そんなことを考えながら十九のパネルに伸ばした細い腕を、ごく当たり前のような動作でアカギが捕らえた。そのままやわらかく包み込まれて、抵抗なく彼女の手は落ちる。彼の手は冷えているが、年若いぶんの瑞々しさは肌のうちにかすかに残していた。
 なかば規定されていた出来事じみていたのでカラシナは特に驚きもしなかったが、彼の手の絶妙な力加減には感心した。少し力を入れればふりほどける程度のいましめながら、そのいっぽうで、自分からは決して離さないと暗に主張する。なんとも誘惑上手な手だった。
 二十九階のパネルのみが点灯したまま、ドアが閉まる。ゆるやかな上昇。高層ホテルであることと、様々な客が利用するのに配慮してスピードはかなり抑えてあるようだ。

 「嘘をつきました」
 その口調は懺悔と言うより、いたずらのばれた少年の照れを多分に含んでいた。 

 「義憤にかられて飛び出した、というわけではないんです。いくら私でも、甘ったれた平和主義だけでは酒をかひっかぶりにいくようなまねはできません」
 「なんだ、自分でも甘いってわかってるんだね?」
  

 「ええ、下心があるんですよ」
 「下心! へえ、あんたの口からそんな言葉が聞けるとは思わなかった。で、どんな下心?」
 「意識している女性に自分をよく見せたい、という男として当たり前の虚栄心ですよ」
 
 ひどくあっさりとアカギは己の下心を白状してみせた。が、それが純然たる下心(この表現はいささか奇妙に聞こえるかもしれない)でないのは明白であった。
 きまじめで、一見青臭いほどの平和主義者である男。そんな彼がひそかに、老いた未亡人の女性学者に心惹かれている―――なるほどいかにも、日常の刺激を失って久しい人間の心をくすぐりそうな筋立てだ。
 カラシナは知らず、笑いをこぼしていた。そうまで自分は人生に退屈しているように見えているのだろうか。それともこれも彼なりの策略なのか。見極めるには接近しなければならぬ。それも、彼が手をこまねく奈落を覗きこめるぎりぎりのところまで。悪くはないと思った。
 
 
 「ははーん? つまりあんた、一丁前に口説いているわけだ、あたしを」
 
 アカギは答えず、唇の端をわずかに持ち上げただけだった。
 気まぐれに、若い男を何人か愛人として囲っていたこともある。ありあまるほどの若さを撒き散らして生きる男の肉体というのは、そばに置いておくだけでリアルな生を実感できた。肉体をもたない自分にはちょうどいい寄り辺でもあったとカラシナは思う。
 
 (うん、おもしろそうじゃないか)
 
 なによりもまずこの老女を突き動かすのは好奇心だった。女の肉体を失った自分だからこそ、理性のよろめきを楽しむような無垢なあそびを嗜むことができる。老いの楽しみにとっておいただけあって、その感触は極上だ。

 
 「あたしは男にはうるさいよ」
 「存じています」 
 「まず容貌がよくないと論外だね。その点から言うと、あんたはまあ、ぎりぎりかな。顔立ちは中の下ってとこだけど、背も高いし、体つきもずいぶんしっかりしてるから。あと、手が綺麗なのも評価できる」
 「手ですか」
 意外なところに目をつけますねと、アカギはカラシナの腕をとったまま静かに垂れている、己の手に目線を落とした。理解しがたい嗜好だと、眉間に寄った皺が如実に語っている。

 「あとは、そうだね」
  彼にならって、見上げるまなざしの艶やかさも、ほんのわずかにゆるめた唇も、締めあげるように絡めた指も、すべてを緻密な計算に基づいて実行させた。今この瞬間、隣にいるアカギの目線だけを一身のうちにあつめられるように、たっぷりと、惜しげもなく、色目を使ってみせる。

 「強引な男がいい」

 
 意地の悪い注文かと考えたが、彼はカラシナの予想を遙かに上回る忠実さで応じてみせた。
 彼女がすっかり言葉を吐き終えたのを聞き届けた刹那、アカギの手と身体は迅速に動いて、瞬時に小柄なカラシナの身体を壁際に追い詰めた。思わず息を飲み込む。細い吐息を頬に感じる。かくれんぼで息をひそめる子供のような、高揚感をともなう息遣い。身を硬くしつつもカラシナは至って落ち着いていた。いっそ残酷なほどに冷静である。真正面からこちらをのぞきこむアカギの藍色の双眸に、軽蔑の色がはっきりと見て取れたからだ。それもカラシナに対してでなく、他でもないアカギ自身への侮蔑だ。この行為は―――ひいてはこの関係は、ひどく彼の矜持を傷付けるものだ。自傷行為といって差し支えない。それに気付いた時、カラシナははじめて、アカギに対して一種のいじらしさを感じた。こうまでして彼が己に求めるのは何なのだろう?その魂を自ら落ちぶれさせるようなまねをする価値のあるものが、カラシナの存在を踏み越えた先にあるとでもいうのだろうか。彼女にはもうほとんど何も残っていない。生まれた時とおなじように、すべてをゼロの状態に戻して死んでゆくのを待っている身だ。
 捧げるものも捧げられるものを受け入れる器も、ずっと昔になくしたはずだ。

 困惑したふうを装いながら、カラシナは横目で現在の階数を示すパネルの方を伺った。―――まもなく十七階。今からパネルを押したところで、十九階に止まるころには間に合うまい。
 だから、その頬を撫でてやろうと手を伸ばした。かすかに香水の匂いをまとう指先が、青白い肌に触れた。ざらりと冷たい、土を思わせる感触は、カラシナにある空想をもたらす。今まさに枯れ果てんとしている花、その散り際のかがやきを己が養分にする冷え冷えとした大地。たとえ誰にも必要とされない婀娜花であっても、その輝きは土の中に生き続ける。
 いささかロマンチックにすぎる想像であった。この青年のわざとらしい演技にあてられてしまったのかもしれない。けれど、この時は確かに彼も自分も――。
 
 
 「よろしい?」


 
 鈴の鳴り響くかのごとき、晴れやかな声がふたりの間にするりと吹き込む。
 いつの間にか開かれた扉の向こうで、シロナがたおやかにほほえんでいた。彼女の向こう側に、『19階』のプレートがはめられた壁が見える。
 
 気まずいシチュエーションには違いなかった。密室で孫と同い年の男に口説かれる祖母。しかし三人の中の誰ひとり、頬を赤らめて顔をそむけたり咳払いをしたり、まして上ずった声をあげるような者はいなかった。

 「これは、チャンピオン」
 まず応じたのはアカギである。ごく自然な動作でカラシナから離れた彼は、平時の人好きのする笑顔を張り付けて、
 「会場へ行かれるのでは?このエレベーターは上行きですよ」
 「そのつもりだったんですけど、どうにも気が乗らなくて。上のバーで少しアルコールをいれてから向かおうかなって」
 「なるほど」

 そして二人はまた、そらぞらしいほどに華やかな笑みを交わしあった。アカギとシロナはいかに涼しい顔でこの場をやりすごせるかというなんとも子供っぽい意地の張り合いをしているらしい。
 カラシナはこみあげてくる笑いをこらえるために俯いて、さっさとエレベーターから出て行くことにした。我ながら完璧な退場の仕方だと思ったし、なにしろおかしくてたまらなかった。
 すでに女として死んでいるにひとしい身のうえであるこの自分に振り回され、躍起になって、若いふたりが見るも無残な茶番を繰り広げている!
 ……失ったものの代替品としては、十分すぎるくらいだ。
 この婀娜花のために、せいぜい若さをやつして生きるがいい。
 誰に向けることも、誰の心を揺さぶるでもない、凄艶な笑顔を浮かべつつ、彼女はひとり部屋への道を辿る。



 エレベーターの扉が完全に閉め切られても、シロナはパネルを押す気配を見せなかった。

 「バーに行かれるのでは?」
 「気が変わったの。そのワイシャツはどういう経緯で?」
 「いいところを見せようとした結果とだけ……。結局ふられてしまいましたがね。今日こそはと思ったんですが、なかなかどうしてうまくいかない」
 「そうね、今のあなたすごくみっともないわ」

 
 ずいぶん前からこの男が祖母の愛人の座を付け狙っているのにはシロナも勘付いていた。決定的なアクションを起こすまでは静観しているつもりだったが、さすがに目に余るようになってきた。そろそろ先手を打っておいて、本格的な戦いに備えるべきだろう。
 
 「そうまでしておばあちゃんにこだわる理由はなに? 夢中にさせておいてからこっぴどく捨てて、ちっぽけな自尊心でも満たすおつもり?」
 
 無秩序なほどに奔放な祖母の生き方は熟知している。その生き方を見守りつつも、悪意からはしっかり守ってやるのが孫たる己の使命だとシロナは当然のように考えていた。たとえその尊い使命感さえ、祖母の意識では暇つぶしの一環としてまとめられ、無邪気に笑い飛ばされてしまうものだとわかっていてもだ。その使命感に酔うぐらいでいなければ、遠からず自分自身を見失ってしまうことを彼女は本能で理解している。
 けれど彼自身もまた、シロナと同じくそういう歪んだ使命感を抱えて生きていることに、自らの正義を貫くのに精いっぱいの彼女は気づけない。あるいはそれが、彼と彼女の若さだった。

 「まさか。私はもっと崇高な目的のもと彼女を―――失礼、博士を口説いているんです」
 「下心があるのは否定しないのね」
 
 「むしろ博士は下心のある私に好感を抱いてくださっているようですよ。あなたの邪魔さえ入らなければ、もう少し目標達成に近づけたのですが」
 「世界ってそううまくはできていないものよ」
 「まったくもって……反吐がでる」
 彼らしからぬ粗野な言葉づかいにシロナはきつく目を細める。

 「あなたもあたしも、いいようにおばあちゃんの退屈しのぎにされてるのはわかってるかしら。だったら努力しても無駄なんじゃない?結局遊びなんだもの」
 「もちろん」
 しらけたような無表情でアカギは答えた。妙な話だが、いつも貼り付けている温和な笑顔よりも数倍、人間じみた表情にシロナには見えた。

 「わかっているからこそ、そこにつけこもうと思ったんですよ。遊びで結構。私が欲しいのは博士の身体でも心でも彼女にともなうどうでもいい肩書きやらでもない」
 「なあにそれ? 謎かけ? 抽象的なこと言っておけばそれっぽく聞こえると思ってる?」
 「―――私は、自分を試しているだけですよ」
 「ああ、なるほどね。ぜんぜんわからないわ」
 「理解してもらおうと思っていませんから。特にあなたには」
 「そんなはっきり否定されると逆に清々しいわ」
 シロナは素直に感心し、だからこそこの男を徹底的に見下そうと決めた。
 
 「かわいそうなひとね。そうまでしなきゃいけないほどの事情があるなんて。同情するわ」
 アカギの腕に自分の腕を絡ませ、振り払われる前にをすり寄せる。ちょうど二の腕あたりに、己のゆたかな乳房が押し当たるように。そうして彼を見上げる表情といったらコケティッシュさのかけらもない、ただ情欲をいたずらにあおるようにみだらな秋波をひたひたと溢れさせる、娼婦じみたしぐさだ。
 パーティー用か、いつもより色味の濃い口紅から桃色の舌がちろりと覗く。それからもったいつけるような速度で、その舌は唇を一周した。彼女に憧れるトレーナーが見たらまず卒倒し、何人かはそのはしたないまでの淫媚さに背徳の高鳴りを感じるであろう。

 

 「だったら、手玉にとられているもの同士仲良くしない? あたし、ずっと前からあなたのこといいなって思ってたのよ。だって後腐れがなさそうだから」
 「構いませんよ。あなただったら罪悪感もまるで湧かない」
 
 シロナの意図を察して、アカギも受けて立つ気になったらしい。耳元あたりに流れる金の髪をすくいあげて、そっとすり上げるような真似をしてみせた。
 このいけすかない女のからだを、この卑怯な男のからだを、己のうちにくすぶる汚い感情のはけ口に使ってやろうと賢い二人は考える。そうやって相手をさげすみ見下げることで、常に精神的に優位に立っていようと考えたのだ。さもなくば、奪えないし、守れない。少なくとも彼らはそう思い上がっていた。
 
 みたび、扉が開く。二十九階。シロナではなくカラシナが踏むかもしれなかった、やわらかく照明の落ちる廊下。
 仲睦まじい恋人同士のように身を寄せ合って、ふたりはエレベーターを出て行った。
  
 
  (了)
 


Good Looking Guy

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