肉纏う亡霊
人の寝顔、しかも女性の寝顔ともなれば、それをまじまじ見つめる行為を健全な趣味とは言い難い。だが断じてけがらわしい、卑俗な欲求のもとにアカギはそれをしているわけではなかった。なにか崇高な力がはたらいて、アカギの目線をそちらにくぎ付けにさせたのだ。なにしろ、この世で一番憎むべき女の寝姿はあまりにも完成されていた。かつて彼が確固たる理想のもとに追い求めた新世界の姿を投影するにふさわしい神聖さをたたえている。彼女こそ、その新世界の夢を完膚なきまでに打ち砕いた張本人のひとりであるというのにだ!
傍らで眠るシロナはシーツ一枚にくるまって、無防備にその肉体をさらしている。身につけているのは肩から腕にかけてがすっかりむきだしになるような、薄手の黒いワンピースだけで、下着も満足につけていないのは明らかだった。きめ細かい乳白色の肌が、シェードランプの灯りをうけて紗幕を通したかのごとく優美に浮かび上がる。
ゆるく波打つ金の髪、無造作に投げ出された手はかるく丸められ、なめらかなカーブを描く手の甲と指の繊細なつくりがよくわかる。成熟した女であることを声高に主張するすらりとした体躯と、豊かに盛り上がった乳房の質感は実に均衡がとれていた。極端に痩せているわけでもなければ、いたずらに情欲をあおるような肉感的な体つきというわけでもない。万事バランスの整った女の身体に、ひそやかな寝顔が一抹のあどけなさを落とすさまは、神秘的な魔力の息づきすら感じられる。また、彼女自身も何らかの秘術にかけられて眠っているかのような、そのように深遠な眠りであった。
およそ男の好むものをかき集めて作り上げたような女であった。羨望、憧憬、そしてかずかずの男たちの懊悩をその身に受けて彼女はまた一段と照り輝く。頂点に立つ人間とはほとんど例外なく、他者からの信仰や崇拝のほかに彼らの抱く煩悶や踏み越え、己の糧と出来る素養を持っている。アカギがそうであったように。
すばらしい存在だ。アカギの至純な夢をその身体でもって暗喩しているようにさえ見えた。清冽な身体を透かして、アカギはありとあらゆる真理を目にすることができるのだ。 なにひとつ知覚せず、曖昧な心のもたらすいかな罪悪にも染まることはありえない。ここにあるのはもはや、魂と心のいれものとしての肉体だ。これを退屈で魅力のないただの肉のかたまりと形容するのは、いかにも凡人の発想だとアカギは考える。空虚で、まっさらで、みにくい欲求の入り込む余地がないのだから、これ以上に清らかなものもない。時間の停止した生は、濁ることも倦むことも知らぬ。
掲げる正義も、その強さも、立場も、アカギと対をなすよう同等の水準で出来ている。つまりはほとんど完璧に近いかたちだ。だから眠るシロナは、彼の理想をすべて満たす器たりえた。これがひとたび目を覚ませば、その強さも美貌も権力もアカギの憎しみをつのらせるばかりの要因と化す。すべては心のあるがゆえだった。心が、肉体から、ひいては世界から、清廉さをうばう。
「(やはり、心など不要だ)」
心にか、それとも彼女へか、とにかく義憤のようなものがふつふつとこみあげてくる。彼は機械のように緩慢な動きで上半身だけ起こし、背中をヘッドボードに預けた姿勢でシロナを見下ろした。所有欲ゆたかな女性の傾向に漏れず、いささか無駄なものの多すぎるこの寝室で彼女だけは秩序立っている。それはあたかも、木彫りの人形たちの中に手違いで紛れ込んだ、大理石の彫像を思い起こさせた。
いったい昼間のシロナは暴君以外のなにものでもない。敗者をいたぶりつくすのは勝者の義務であり、作法であるにしろ、シロナのやり方は妄念じみている。彼女はたおやかな淑女の微笑みを浮かべたままアカギの所行を罵った。朝の挨拶をかわすようなさわやかさで、今の彼がいかに惨めでみっともない負け犬であるかを何度も何度も説いてみせた。アカギの矜持を念入りにへし折っておくことでうまく飼い慣らすつもりなのだろう。女らしい細心だ。こうやって夜ごと彼を自分のベッドにむりやり引き入れ、恋人同士の同衾のようなまねをさせるのも、屈辱の泥水を身体のすみずみにいきわたらせる作業の一環である。映画や小説ではお定まりの、敵国の兵士が占領した村や街の女を凌辱するのとおなじ道理。理性ある人間の尊厳、その一柱をなしている性の蹂躙によって徹底的に己の優位を誇示するのだ。たとえ蹂躙されるのが肉体であろうが精神であろうが、下劣な行いであるのには変わりない。
そのような所業をやすやすとやってのけるシロナの眠りは、至っておだやかだった。こんこんと底なく眠る彼女に目を落としていると、ふいにこんな思いつきが脳裏をよぎる。あまりに突拍子もない思いつきは、時に天啓や予感めいた高度な神秘の錯覚をもたらす。だからその閃きは奇妙なほど真に迫っていて、生々しかった。
すなわち、アカギにひどく執着する醜い昼間のシロナは、白昼夢か空想のたぐいなのではないかということだ。
こういう筋書きだ。シロナと言う肉体を持つ女は確かに存在しているが、彼女と自分を取り巻いていたあの壮大な物語は虚構である。いつかの夜、妙に鮮明な夢を見たせいで、不幸にも自分は現実と夢の区別がつかなくなってしまった。まぶしい光の残像がしつこく瞼の裏にこびりつくのと同じように。そうであるならあらゆることの辻褄が合う。思いつきにしてはなかなか筋も通っているような気がしたし、何よりやたらと真実味があった。少なくとも、なぜこうものんきに眠っていられるのだという、ここで寝起きをするようになってから毎晩のようにアカギにつきつけられる疑問はきれいさっぱり吹き飛ぶのだ。
そもそもの話、なんの不安もうたがいもなく、かつては敵対し、互いに相手の正義をとことんまで否定しあった男の横でこうも穏やかに眠れるはずがない。おそらく、この世界で一番シロナのことを憎んでいる男だという自負がアカギにはあった。眠っている間にその首を締めあげられたり、ナイフで心臓を一突きにされたり、あるいは……あるいは殺すよりももっとおぞましい辱めをうけることをまるで予期していないなど、ひどい冗談だ。しかしそれならばどうして、彼女は、平然とアカギを自分のベッドで隣り合わせに寝起きさせているのか?
答えを探すのも馬鹿らしくなる。茶番もいいところだ。彼女はもとより、復讐を恐れる必要などなかったのだ。あの出来事は絵空事であったのだから。新しい宇宙、ギンガ団、心のない世界、湖の三妖精、ディアルガ、パルキア、ギラティナ、破れた世界、赤い鎖、ボス、チャンピオン。すべて空想の産物だ。シロナも自分ももっと安穏とした物語を生きていた。臓腑を焦がす絶望も苦渋もシロナに抱く憎しみも、ヒュプノスの魔物が作り出した夢にすぎない……。
「(――私は誰だ!)」
膨大な予感がたちまちのうちにアカギを貫いた。心臓に深くねじこまれた槍の穂先はあまねく可能性の収束によってするどく研ぎ澄まされ、強靭である。熱い血潮のかわりに恐怖がほとばしった。長い夢から目覚めたかのように脳も思考も鮮烈に冴え渡り、喉を通る空気は突如としてそらぞらしく透き通ってその存在を主張しはじめる。いかにも自分はたった今幻想から解放され、正常な現実を取り戻した人間であるという具合に。
幻想?幻想だと?違う。そのように脆弱なものであるものか。あの日々はまぎれもない現実だった。血が通い、燃えるような体温で彼の手中で脈打つ世界そのものであったのだ。
ほとんど衝動的に右手が彼女の肩をつかむ。その冷たさに彼は愕然とした。まさか死んでいるのでは?
「シロナ」
それだけはあってはならない。日頃から沈着冷静を美徳とし、忠実に実行している彼は今やひどく狼狽していた。今まで声にして発することすら忌まわしいと思っていた彼女の名前をはじめて口走ってしまうほどに。隣の女の身体が死人のように冷たい、ただそれだけの理由で額には脂汗が浮き、肺はきつく締めあげられる。
「シロナ」
抗いがたい胸騒ぎに急かされ、アカギは語調を強めてもう一度呼びかけた。
「起きろ、シロナ。起きろ」
掴んだ肩を強く揺さぶる。それでも彼女は目覚めない。およそ考えうる限りの激情が一瞬にして目の前を駆け抜け、脳の奥で火花を散らした。本能と現実とがはげしく擦れあったがゆえの火花だ。
シーツを引っぺがし、シロナの全身に憑かれたような目を走らせる。スカートの裾がめくれあがってきわどくあらわになった太ももの、作り物めいたつややかさにアカギは度し難い悪寒を覚えた。たまらず、シロナの頭の両脇に手をつき、覆いかぶさる体勢をとる。息遣い、鼓動、指先のほんのわずかな動きに至るまでを彼は五感に刻みつけようとした。とにかく彼女が生きている証をこの身体でたしかめなければならない。この自我の砕け散る前に、なんとしてでもだ。
胸に手を当てれば心臓は正しく脈打ち、耳をそばだてればごくひそやかにだが深い寝息をたてているのもすぐわかる。しかしそのどれも、彼に心底よりの安堵をもたらすことはない。ひとえにシロナが目を覚まさぬからだ。
生きている。シロナはきちんと生きている。だからこそ、よりいっそうアカギは彼女の目を覚まそうと躍起になった。夢の住人のようなささやかさといたましさで己の存在を片づけられてしまうなど、考えるだけで息も血の気も引く。ほんの一瞬空っぽになった身体が黒い海水にこじ開けられ、呼吸がままならない。ああ、生命活動さえこの女に管理されているのか。唇を噛みしめようにも海水の冷たさに震えてうまくいかない。私の身体は、意志はどこに行ったというのだろう。本当に、最初から何もなかった? そのような思考の断片が眼前を滑るたび、さんざんシロナに泥靴で踏みつけられた内臓が、海水の塩分が染みて悶えるほどの痛みをアカギにもたらす。
いったいどうすれば彼女が目を覚ますか、アカギは文字通り必死になって方法を探した。声も限りに名前を呼ぶ?いや、その唇に舌をねじこみ、着ているものを引きちぎるのはどうだ。それで目を覚まさぬなら、無理やりに犯すという手もある。みずからの誇りを証明できるなら、人間の品性など今すぐかなぐりすててもいい。
これまでアカギは、崇拝に近い形で眠るシロナを眺めていた。彼女はきよらかな現象であり、アカギの夢を映す水鏡の身体を持っていた。アカギはその心なき形骸の美に酔いしれ、そうすることで新世界の夢をなお見続けるけがれなき男であろうとしたのだ。しかしたった今、アカギはその理想の景色を自ら壊そうとしている。さもなくば、その理想を抱いてあがき続けた高潔な時間のすべてを失ってしまうのだというのに気が付いてしまったのだ。もはや思考も行動もなにもかもが支離滅裂、矛盾のない箇所を探す方が難しい。しかしそれでも、本当に自分は気が触れてしまったのではないかという可能性から彼はひたすらに目をそむけ続けた。
夢であったはずがない。あの尊い理想が、なにもかもを犠牲にして追いかけ続けた、彼の魂ともいえる孤独な戦いが、あわれな狂人の妄想だったなど決して認めるわけにはいかないのだ。
存在の痕跡をことごとく消し去られた人間が果たして生きていると言えるだろうか? 生命を握りつぶされるだけが人の死ではない。一人の人間の抱える遍歴、人格を全身全霊でもって否定し、消し去ることも完全な死、殺戮になりうるのだとアカギはようやく思いだした。それはあたかも悪夢だった。東の空が白むころには意識の淵にあっけなく沈み、目を覚ませば粉々に砕け、つまらない表象の死骸に成り果ててしまう、よわよわしい悪夢だった。
「頼む……」
ついにそのような言葉までもが乾ききった唇から零れおちたとき、アカギは今更ながらにみずからの凋落のほどを思い知らされた。他者に何かを懇願するなど、自ら進化するのをやめた人間の怠惰な礼儀正しさだ。少なくとも彼は今日この瞬間までそう信じて生きてきた。
早く起きてくれ。起きて、手ひどく自分を罵ってほしい。なんと見下げ果てた男か、やはり生かしておくべき人間ではなかった、と。彼女の侮蔑こそが、アカギという男の生の遍歴をなによりも如実に証明してくれる。ギンガ団のボスとして彼がこの世に残した爪痕は決して虚妄ではないと、あの憐れむような眼差しでもって突きつけてくる。
「ん……」
とうとうシロナが身じろぎのようなものを見せた時、彼の血流は歓喜に沸いた。とっさに身体が動いて、彼女の前髪に鼻息のかかるほど顔を近づけた。ふるえる睫毛は今まさに羽ばたかんとする蝶のごとく、この胸を踊らせる。彼女の目覚めた瞬間、世界は一斉に時間を刻み出し、偽りの空間を裂いて真実の世界が開かれるのだという壮大な予言のみがアカギを正気たらしめている。
彼は待った。とび色の瞳が、彼女に覆いかぶさる、みにくいけだもの同然の己の姿をとらえるのを。驚愕ののち、たちどころにその顔が屈辱と羞恥とによってひきつるのを、縋るような思いで待ち続けた。
だが、それきりだった。またしても彼は運命に裏切られる。忘れもしない、鑓の柱での出来事たち……。夢に見た新宇宙の胎動をついぞその掌に感じ、狂喜の絶頂にうち震えて陶酔しきったアカギをあざわらうかのごとく、運命は彼をたやすく転落させたのだ。その生涯のほとんどを賭けた望みを、ただの一瞬にして。
ほとんど奇声に近い叫びが喉の奥からほとばしった。彼は頭を抱え、もんどりうってベッドに倒れ込む。
「はあ……はっ……は……」
激しく動いたわけでもないのに呼吸は荒々しく乱れ、その肩は見捨て子のようにふるえていた。真実、今の彼はまさしくあわれな捨て子であった。たった一人の女に生殺与奪を握られていることへの恐怖、なにより、魂の寄り辺をなくして世界から孤立することに怯え、シロナにすがりつくいたましいまでの姿。
そのような自分を直視してしまった時、ふたたび、落雷のような衝撃がアカギを打ったのだ。今度は予感ではなく、確信だった。
アカギはずっと誤解していたのだ。シロナがアカギを捕らえておくことに対して異様なまでの執念をあらわしているのではない。アカギこそが彼女に執着し、捕らわれつづけることを望んでいた。表がなければ裏は存在しえない。対極であるには、相反する魂を持つ確固とした存在が必要になってくる。シロナが生き続けることでアカギもまた、永遠に彼女と対なす象徴として生き続けることができるのだった。
気付いてしまえばこれほどまでにあっけない。彼は今度こそ、まことの人生と時間とを取り戻した。
この肉体は彼女への執着のみでできている。あの澄み渡るような生命力を、ひたすらに生の輝きを謳歌する、どこか熱病めいて歪んだ明朗さを呪い怨むことによって、彼の血はよどみなく体内をめぐる。忌まわしき敗北の記憶、臓腑を踏みにじられる屈辱こそが骨肉となってアカギという男を突き動かす。
……長い沈黙ののち、彼はふたたびベッドから身を起こした。さきほどと同じようにシロナの顔を覗き込む。喪失することも満たされることもない、ひたすらに美しいだけの眠り。 その上に、アカギの影が音もなく落ちる。
「私には」
彼はさもそうするのが当然というようななにげなさで、彼女の頬に触れた。なんの迷いも葛藤もなかった。長年探し求めた人をいつくしむかのように、その肌の感触を仔細に確かめる。 ふわりと盛り上がった唇を指先でなぞるのにだって、ごく当たり前のようなさりげなさしかない。
女らしい円い身体の線、首筋から狭い肩へと流れる曲線に指を這わせてみると、先ほどまでのつめたさが嘘のように、にわかにシロナの肌はほのかな熱を帯び始めた。いやがおうなしに、己の命の活力を彼女にそそぎ込む連想がアカギをとらえる。この生命が彼女の肉体に流れ、温かい血がすみずみまで行きわたって、生きる源となるのだろうかと想像すると、不思議な充足感が胸を満たした。
「君しかいない」
口に出すとあまりに陳腐なせりふで、はなはだしく滑稽であった。今時分三文小説でもこのような言い回しにはお目にかかれまい。だが真実だった。この身体に魂の息吹を吹き込み、生の意味を与えてくれるのはシロナだけだ。たとえ、彼女にとって自分が、人生においてあまたと踏み越えてきた苦悩する男たちのただひとりにすぎないとしても、構わない。 シロナの目覚めを待つ。黎明とともに目覚めた彼女は、日の光で白金色に照り返す髪をたなびかせ、今は薄いまぶたに閉ざされている双眸を生の恵みそのもののようにきらめかせるのだ。そしてアカギはそんな彼女をいつまでも、いつまでも、憎み続ける。シロナの隣に寄り添って地獄の日々を戦うことが、なにものにも代えがたい生の感触をアカギにもたらすのだから。シロナが生きるのと同時に、この自分もまた生きている。茨の回廊をさまよって絶望し、傷を負い、慟哭するだけの肉体を持っていられる。
小ぶりな頭を胸の内に抱え込んだ。かぐわしく香る髪に鼻をすり寄せる。このやわらかな肉体にはすべてがある。彼が生きる世界も、命も、魂も。アカギのくず折れるその瞬間まで、シロナのもとでそれらは尊い宝物のように守られ続けるのだ。
深い海の上澄みのように黒い影、短針に寄り添う長くひそやかな銀の針、眠りの国の醜悪な亡霊、さまざまな色の奔流をともなった幻視が閉じたまぶたの裏で連鎖し、やがて一本の鎖を作り出す。やはりというべきか、心臓に流れ込む血のようになまめかしく赤い色をしていた。
寝室に静けさが満ち、まどろみの気配とまざりあう。そのころちょうど、シロナが白い手を回してそっとアカギの身体を抱きかえしたのを、むろん、彼は知らない。
(了)
Your Silent Face
徹底的にシロナを憎み、恨むことによってなんとか「己」を保ち、存続させていくことにしたアカギの話。シロナという人物が純化されていくほど、アカギという存在も高まっていく。
よってシロナさんが生きることが、そのままアカギの存在証明につながってくる…みたいな感じでひとつ。
これも「君なしには生きられない」の一種だと思うのです。
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