棺の海

 

 うとうとまどろんでいると、横で寝ているトグサがふとなにごとかを口にした。寝言ではないらしかったが、うまくききとれなかった。
 
 「なにか言ったか」

 トグサのほうはまさかサイトーが起きていると思わなかったらしい。わずかに動揺するけはいがあったのち、 
 「起こした?」

 と彼は声をひそめた。

 サイトーは寝返りを打った。それだけの運動をするにあたっても、けだるい身体は水を掻くような抵抗をおぼえる。なにしろ二週間も顔を合わせていなかったので、柄にもなく盛り上がり、はしゃぎすぎた。自分も彼も。
 
 そういうわけで寝返りを打った先で真正面からトグサと視線がぶつかるかたちになったが、彼はサイトーの瞳を見るとたちまちついと目をそらしてしまった。
 この至近距離とサイトーの視力とをもってすれば、少しすねたようにとがらせた唇や、寄せられた眉から羞恥の影を見出すのはたやすかった。耳に触れればきっと真っ最中みたいに熱いだろう。しごく単純に、その表情をいとおしいと思う。 
 
 「なんだかぐったりしてたから、疲れて寝ちまったのかと思ってたんだ」
 「お気づかいは嬉しいが、あのぐらいでへこたれる男だと思われてたのか。まったく心外だな。お前こそすっかり寝たもんだと思ってたぞ、あれだけ『いやだやめろ死んじまうほんとにもうダメー』だのなんだの言ってたもんだから……」
 「あー、あああ、聞こえない!」

 シーツの下で軽くみぞおちのあたりを小突かれる。その力加減にたしかな親愛の情を感じるが、妙に心臓のあたりにふかぶかと響く拳であった。
 
 「いい年なんだからあんまり無理すんなよな」
 「ご心配痛み入る」

 俺の年齢など知りもしないくせになにを、と笑いながら反論しかけて、サイトーはふと思いとどまった。年齢どころか、一般に真実とよべるものをなにひとつとしてこの男には教えていないのを思い出したのである。本当の名前も、年齢も、過去も、男女別経験人数も――こうしていま、彼と共に寝ている理由も。冗談とはいえ彼をとがめられるような立場ではなかった。

 とつぜんサイトーが押し黙ったので、トグサは不安げにこちらを見た。彼はこともなげに笑ってみせた。

 「なんでもない――それより、さっきなんて言ったんだ」
 「ん、ああ? いや、たんなるひとりごとだけど……」トグサはまだ気遣わしげな目線を向けながら、「この部屋が、海の中みたいだなあ、って」
 「海?」
 「うん。見たことないか、『海中の神秘』みたいな動画。ああいうの、思い出すんだ。この部屋にいると」
 「墓のまちがいじゃねえのか」
 
 自虐でもなんでもなかった。終末的にしずまりかえり、ひんやりとしていて、四辺を味気ないコンクリートで囲まれた室はどう努力してなけなしの語彙を尽くし詩的な表現をひねりだそうとしたところで、「ひろびろとした棺」が精一杯であった。こういったトグサの感性はときおり、サイトーのはるか斜め上をゆく。
 
 もともとはただ肉体の慰安のためだけに帰ってくる場所だった。夢すら見ないような前後不覚の眠りを貪るための場所で、まさかこの部屋に人を招くことがあるとは思わなかった。そういうことをするための場所は他にもっとおあつらえ向きのところを用意していたし、そこにトグサを連れ込むのはなんだか気がひけた。表面上はその部屋に日替わりでやってくる彼ら彼女らと同じ扱いをしているくせに、あさましいものだと自分でも思う。死人のように眠るための場所にトグサを連れ込んで、生きていると実感するための行為をむさぼっている。ああしかしこれもまた、肉体の「慰安」にはちがいないと彼はふと自嘲することがあった。彼の熱しやすく、それでいてすべてを終えたあとは恥じ入るように急速にさめかかる、しごくうつろいやすい肌が、喉元から唇へ押し出される切なげな声が、ほかでもない自分を求める指と腕と歯とが、サイトーをつかのま慰撫する。

  

 「ううん、海だ」

 ところがトグサは妙な頑強さで断言した。そうしてあおむけになって、まぶたを伏せた。サイトーもまねした。
 なるほど一理ある。洗いたてのシーツが四肢にもたらす浮遊感は、広大な海の中を沈みつつある己の身体を連想させた。底などもちろん見えず、どころかどこまで沈んでいくかさえ、わからない。太陽の光が次第に遠のき、やがて視界を満たしていた翡翠の色が青ざめ、紺碧に侵されてゆく。

 ……サイトーはゆっくりと目をあける。かたわらのトグサはまだ目を閉じたままだ。
 
 「お前の言うところはわかる。だが、海なら、こうだろう」

 サイトーはゆっくりと両の手のひらを、トグサの顎骨に添えた。彼がびくりと肩を跳ねさせる。そこからそれぞれ右と左に手のひらはわかたれて、いまだ汗ばみ、さきほどの熱の余韻もなまなましい頬をも通りすぎ――両の耳にゆっくりとおしあてられた。
 トグサの口元がほころぶ。

 「うん。海の音だ」
 
 何も見えず、聞こえない海中で、ただお互いの存在がそこにあるという事実だけを交接しあう。そこに言葉を持ち出してはならない。言葉というのはあまりにも不純にすぎる。だがなんのことはない、この海中で言葉を持ち出したところで、真っ白なあぶくになって消えさるだけだ。この部屋にいるとき、彼らは棺の中の死人でありながら、あらゆる言葉の残滓を泡と吐き出して、互いの生を確認し合う、あさましくて可憐な生き物だった。

 それでも、あるいはだからこそ、サイトーは口にせずにいられない。

 「――――」

 その言葉はまぎれもなく、彼のひとつの心臓に誓って真実であったけれど、むろん水中では真実も、虚偽も、ひとしく潮のとどろきに呑みこまれ、ただ意味もたぬ無数のはかない泡となって、消えゆくばかりだった。
 あまねく嘘におぼれながら、トグサはまだ水中をたゆたっている。
 
 
 (了)