哲学する胃袋



 虚無とはなんであろう、とトキオは考える。あらゆる国々で、さまざまの人種の哲人たちが追い求めた人類至上のテーマであり、彼らの英知と執念をもってしても、その真理を射抜く言葉はいまだ茫漠の彼方にある。 
 トキオは哲学者ではない。すべてを見通す星でもない。凡愚なこの頭では虚無の真理はおろか、その定義さえ語ることはかなわないだろう。けれど、ひとつ確かなことがある。いま眼前に広がる光景は、まさしく虚無というものの本質を語りうる微小な片鱗なのではないか――。
 
 とにもかくにも、冷蔵庫は空だった。

 一度扉をゆっくり閉めて、きっかり五秒経ってから開けても同じことだった。目をこすろうが見開こうがきゅっとつぶってからまた開けようが、冷蔵庫の中身はいっこう変化しない。
 
 より正確に表現するなら、完全に何もない状態というのではなく、いくつか物はある。問題はその品ぞろえだ。
 缶ビールが一本と、賞味期限をとうにすぎたヨーグルト、バター、いつ封を開けたかおぼえていない海苔の袋。そういった品々がダンスパーティーであぶれた男女のように、ある種の開き直りでもって冷蔵庫の中に鎮座している。すがすがしいような空っぽよりも、かえってみじめで寒々しい。
 
 「由々しき事態だ、アカミミ君」

 よれたTシャツにすねのあたりまでめくりあげたジャージのズボンという出で立ちのまま、トキオは水槽の中の相棒に呼びかけた。アカミミはこの時間にはめずらしく起きていたものの、いつも通り水槽の片隅で、化石のようにじっとしている。

 「敵はついに兵糧責めで来たぞ。そりゃあ策としては古典的で合理的だ。けど、あまりに人道に悖るとは思わないか? 俺が何かしたかね? 人から金をだまし取ったとか、金をいつまでも返さないとか……いや後者には何件か覚えがある。でもそれにしたってこの間のカムイ事件の調査で入ってきた金できっちりしっかり返したともさ。今の俺は証言台に立つまでもなく清廉潔白なブンヤだぜ。 どころか、まっとうに働いて社会貢献を果たしてる。なあ、おとといまで俺は寝ることさえかなわなかったんだ」
 
 某グラビアアイドルが妻子ある大御所俳優と不倫関係にあるのが発覚し、その清算として大手アダルトビデオ制作事務所に身売り寸前。そんな記事を、トキオは連日徹夜で書いていた。『中学生でも通じる童顔とそれに見合わぬわがままなバストで、一部のマニアに絶大な人気』だの、『区内高級ホテル最上階・熱帯夜の一部始終』だのという表現をひねり出すのに、コーヒーを何杯淹れ、煙草の空箱をいくつ潰したか知れない。けれど仕事は仕事だ。それで金をもらっている以上は誰に文句を言う権利もなく、また誰に文句を言われる筋合いもない。  
 労働に貴賤はないのだ。そうとも、深夜番組で真っ白い水着姿を衆目に晒し、四方八方から水鉄砲をひっかけられてきゃあきゃあ言っているB級グラビアアイドルも、そのスキャンダルを飯の種にしているフリージャーナリストも、立派な職業だ。きちんと社会の経済活動に加わっている……。
 こんなことを考えている時点で、みずからも立派に職業差別意識の塊だと気付かされる。だが、それが普通の人間の普通の感性だとトキオは思いなおした。みな差別意識に頭まで浸かりながらも、表向きにはそれをいろいろな言葉やふるまいで隠蔽しようと試みる。
 そういうやり方は、もはや好む好まないの問題ではないだろう。どこまでも道徳的でどこまでもエゴイスティックな一般大衆の中を泳いでいくにあたって、誰もがとうぜん身につけておくべき世知なのだ。
 聖人君子じゃあるまいに、そんな感性や手段を軽蔑する人間はただの世間知らずか、自分だけは清らかな真人間のつもりでいる勘違い野郎だ。純真で飯は食えない、とトキオは口の中でつぶやき、床に大の字に寝転がった。
 先日の仕事料の振り込みは三日後の約束だった。財布の金をかき集めてもたかがしれている。金が入ってくるまでは必然的に自炊の日々だ。そして冷蔵庫が空となれば、この蒸し暑い中であっても買い物に出るしかない。  
 ここ最近、取材にかまけすぎて外食ばかりしていたつけが回ってきたらしい。取材のあいだは冷蔵庫を気にすることもなかったし、外食にともなうよぶんな出費を省みることもなかった。カムイ事件調査の報酬をいっぺんに借金返済にあててしまった己の浅慮を、いまさらながら悔いずにはいられない。
 「うおー、めんどくせえ」 
 
 寝返りを打つと、その視界の先、水槽の横にアカミミの餌が置いてあるのが見える。犬や猫ならともかく、亀の餌というのはどこでも取り扱っているような商品ではない。以前は最寄りのショッピングセンターを利用していたが、ある個人的な理由から、トキオはあそこには一切近寄らなくなってしまった。今は少し足を延ばしてでも別の店で買いだめをしている。 
 アカミミの好物であるヨコエビの袋を、トキオはじっと注視する。昨日封を開けたばかりで、袋の中にはたんまりと中身が詰まっているのだ。じっと見つめていると、六月の湿気でふやけた脳みそに、ある疑問が浮き上がってくる。
 
 「……あれ、うまいのかな」 
 
 炒めればなかなか香ばしい匂いがしそうだし、かりかりとしていて結構いけるのではないだろうか。ちょうどバターもある、バターをからめて醤油をちょっと垂らせばよりおいしくなりそうだ。なにより、あれを食べているときのアカミミはふだんの寡黙さが嘘のようにはしゃいでいる(ようにトキオには見える)。きっとそれほどの美味なのだ。 
 そこまで考えたところで、トキオの人間としての沽券が全力を挙げて思考中止を訴えた。我にかえって、トキオは脳内からヨコエビに関するすべてを捨て去った。
 かくなる上は、とトキオは目を閉じ、空想の中で目出し帽とショットガンを装備した自分を思い描いた。空腹に耐えかねたあわれなモリシマトキオは、思いあまってついに近所のファミリーレストランを襲撃してしまうのだ。気弱そうな店長を人質に取り、叫ぶ。
 
 『命が惜しかったら店にあるありったけのチーズハンバーグとコーンポタージュを差し出せ!』
 
 宙へ向けてショットガンを一発、客たちの悲鳴、そこへ踏み込んでくる凶悪犯罪課のクサビ捜査官。
 『おとなしく鉛玉をくらえ、この腐れブンヤ!」
 火を噴くクサビの銃、チーズハンバーグとコーンポタージュが胃を満たす夢を見ながら、トキオはゆっくりと地に倒れ伏す……。  

 「いやいやいやいや、アホか」
 
 くだらない空想や思考に身をやつしたところで、現実は依然としてトキオの前に立ちはだかっている。梅雨の終わりを認めたくないと言わんばかりにしぶとく室内にへばりつく湿気が厭わしい。じっとしているだけでも、霧吹きで散らしたように汗が浮かび上がってくる。これのせいで、だるくてたまらないのだ。
 空腹とけだるさを秤にかけること数秒、トキオはスーパーマーケットに向かうことを決めた。幸い集合住宅の多い地区なので、車を出すまでもないような距離にその手の店が林立している。外は暑いだの湿気がどうのとはもう言っていられない。腹が減っているのだ。普段ならばさらに家から近いコンビニでおにぎりやカップラーメンを買い込みにいくところだが、冷蔵庫のあの気合いの入った虚無具合を見てしまうと、胃袋まであれに侵されて、本格的な食事でないと満足できないような気がしてくるのだった。

 「たまには自炊も悪くないか。なあアカミミ、俺は料理ができないんじゃなくて、あくまでしないだけなんだよ。何しろ後片付けが面倒だろ? でもその気になれば俺だってなかなかやるもんだぜ。だてに長いこと独り身やってないんだ。お前にも俺の作った味噌汁を飲ませてやりたいぐらいだよ。ありゃあたぶんクサビのオッサンだって感激してプロポーズにくるレベル……・やべえな、本格的におかしいぞ俺」
 ふだんたいして使わない腹筋に力を入れて、ひといきのうちに起きあがる。さすがにこの格好で表に出るのは忍びないので、トキオはまず三日ぶりに服を着替えることからはじめた。






 先週までは雨雲と太陽とが毎日交互にあらわれて制空権を争っていたが、今週に入ってからは全日、晴れ空に軍配があがっている。ますます気勢をあげた太陽が、トキオの肌を直に灼く。街は着実に夏へ近づきつつあった。   
 まぶしく白い制服の胸元に紺色のリボンを跳ねさせて、下校途中の女子中学生たちがトキオの横を通り過ぎていく。深夜番組にも不倫にも身売りにも縁のない、健康な生身の女性を久方ぶりに目にして、トキオはわずかばかり心が安らぐのをおぼえた。ほんの二カ月ほど前にカムイ事件を追っていた時に直面した出来事のせいか、こういう日常の何気ない風景が妙に目に付くようになっている。

 
 家から一番近いスーパーに入るころにはもう汗だくだった。冷房の風を存分に享受しながらも、同時にトキオはひどく落ち着かない気分である。ベビーカーに子供を乗せた母親や、体格のよい中年の主婦が客の大多数を占める店内で、若い男など自分ぐらいだ。場違い、の三文字を背負って買い物をしなければならない。
 ぺなぺなしたシンセサイザーのBGMに、オレンジのエプロンを身につけてせわしなくあちらこちらと動き回る店員と、少し目を向け耳を傾けるだけで、中流階層家庭に育った身にいやおうなくノスタルジーをもたらす要素が目白押しだ。眼前の光景が代表するような平凡とした人生をおくってきたトキオだが、すれ違う親子連れなどを見るとどうにもむずがゆい。
 仕事に生きる都会派ジャーナリストを気取るつもりはさらさらない。むしろトキオは、自らを正真正銘に凡庸な一市民だと自負している。スマートな都会派ジャーナリストはグラビアアイドルの身売りの記事で日銭を稼いだりしないし、タレントの自宅のドアにテレコを仕掛けたりもしないのだ。あえて言うなら、滞留式都会生活派ジャーナリストといったところか。自分でも意味がよくわからなかった。
 カゴを提げて適当にぶらぶらとしてみる。そういやなにを作ろうか決めてなかったな、と気が付いたところでちゃらけたチャイム音が聞こえ、店内放送がはじまった。

 『まもなく、週に一度の超・超・お客様感謝タイムサービスのお時間でございます』
 「おっ」
 
 タイムサービス。金なしの滞留式都市生活派ジャーナリストには魅力的だ。さっそくトキオは売場の方へ向かう。ごく気楽な心持ちで。その間にも、アナウンスは続く。

 『店内のお野菜、お魚、その他今夜のお夕飯に使えるもの、だいたいぜーんぶお値段半額以下。早いもの勝ち、弱肉強食、望むな奪え、世はまさに大戦国時代――』
 「――ッ!?」
 
 途端に肌を蒼白い電流がかすめたような気がしたかと思うと、店内の空気はもう今までとは変わっていた。背筋が一気に粟立ち、濃密な獣の匂いにむせかえりそうになる。トキオは先ほどまで子供をあやしながら買い物を続けていた若い母親が、のんびりとカートを押していた老婆が、なにか別の、鋭く強靱な生き物へ転化してゆくのを目の当たりにした。
 こんな、漫画の世界でしかお目にかかれないようなお約束がよりにもよってこの24区で実現しているというのか? にわかには信じがたい話だった。だが絶え間なくトキオの肌を焦がす感覚は、ことの真実を如実に物語っている。
 
 「アカミミ君」
 
 トキオは天を仰いだ。あらゆる物語に語られた戦士たちが、しばしばそうして、愛するものの名前を呼びながら死地に赴いていったように。
 
 「マンガの世界は虚構だが、そこで描かれているのがかならずしも誇張された現実とは限らない。ひょっとすれば虚構で描かれる嘘のような現実こそが、その誇張性ゆえにリアルに作用しうるのではないだろうか……現実逃避終わり」
 両の足に全力をみなぎらせ、トキオは来るべき怒涛への覚悟を固めた。数瞬ののち、大挙をなして押し寄せたご婦人方は、モリシマトキオのちっぽけな身体をいともたやすく飲み込んだ。 




 あらゆるものが蹂躙される戦場において、トキオは歴戦のつわものたちの中に手違いで紛れ込んだピカピカの新兵卒同然だった。あの嵐の中、パスタ麺を確保することができただけでも勲章ものだと思う。もっとも、トキオが望んで掴みとったものではなく、戦いのさなかにたまたま掌中に転がり込んできただけの話なのだが、運も実力のうちだ。おかげで献立も決まったのだから僥倖というほかない。
 元の平穏を取り戻した店内を歩きながら、賞味期限が近いという理由で安くなっていた豆腐も籠に放り込んでおく。子供の頃、冷や奴が好きだったのを思い出したのだ。とくに夏は、夕食の席にこれが並んでいるだけで無条件にうれしかった。豆腐の中に住めたらさぞ心地よいだろうな、などと考えるほどに、それは熱烈に好いていた。
 四方を真っ白でやわらかく、それでいて厚い壁が囲む冷ややかな部屋。今考えるとそんな部屋は不気味このうえないのだが、子供の自分は本気でそこに居心地のよさを感じていたのだ。
 ひとたび回想の蔦に足をとられてしまうと、そこから抜け出すのはなかなかに難しい。とうとうトキオは子供のころに好きだったぶどうジュースまで籠に入れてしまった。
 もともとはトキオの父の好物だ。彼のナイター中継観戦につきあうと、父はいつもトキオにこれをすすめ、いつの間にかトキオの好物にもなってしまった。 

 トキオの両親は家族というものに対してこだわりのある夫婦だった。子供たちが味わうべきひと通りの幸福を、トキオにも目一杯味わわせようとつねに尽力していた。彼らは休日の水族館ゆきやら、トキオの学校の運動会やらをとても大切にした。
 といっても、早いうちからモリシマ家へ養子に出されたトキオの境遇の哀れを、ついぞ実子をもうけることのかなわなかった自分たちの不運になぞらえたような湿っぽい愛情はなかったように思える。本当にまじりけのない、血をわけた我が子へ向ける流水のような自然の情だった。それだけは疑いようもない――。
 トキオは頭を振って、過去の記憶を追い払う。だからこういう場所はあわない。柄にもないようなセンチメンタルな回想に浸りそうになる。彼は足早に野菜売り場へ向かった。





 家に帰り、さて調理をしようという段階になってから、トキオはある重大な問題に気がついた。一人暮らしの長い身だから、当然米も炊けるし味噌汁だってつくれる。本気になればシチューだって作れることをトキオはひそかな自慢としていたが、さすがにパスタなんて洒落た食べ物は作ったことがない。とりあえずトマトと玉ねぎは買ったものの、あのソースはどうやって作るのだろうか。知っていそうな人間にひとり心当たりはある。トキオは振り返って、電話を一瞥した。
 それからさんざん台所と電話の前を言ったりきたりしたあげく、彼はようやく決心して受話器を手に取った。背に腹は代えられない、とコール音の聞こえるあいだ、言い聞かせるように胸中で繰り返す。
 
 『もしもし』
 よそゆき用らしい、控えめな声が耳朶にやわらかく触れた。
 「あー、俺」
 『……俺さんという方は存じ上げませんが』
 途端に電話口の向こうの声が低くなる。それでも先日のように呼びかけるなり電話を切られることがないだけ、進歩である。  
 
 「どうだい、景気は?」
 「そこそこね……。それよりどうしたの? また何か調べてほしいことでもできた? だったらメールで」
 「いやね、調べてほしいというか、お前の知恵が必要になったんだ。知恵というか、記憶かな。そんなに手間はとらせない」
 トキオは手短に用件を話した。彼女は黙って聞いていただ、トキオが説明し終えると、心底からいぶかしむような声音で、
 
 『何で今、そんなこと訊くの?』
 「そりゃあ、お前が作ったパスタがいちばんうまかったからだよ。どうしてもあれが食いたくなってさ、でももう作ってくれる人間はいない。だったら自分で作るしかないだろ? 男を本気にさせるにはまず胃袋を掴めっていうけど、その点きみのあれは完璧で……」
 『切っていい?』
 「悪い悪い、おしゃべりが過ぎたな。でも、君が作ったパスタがうまかったのは本当だ」
 彼女の深いため息が聞こえる。しょうがないわね、と同義のため息だ。
 
 『私も忙しいから、一度しか説明しないわよ。心して聞いてちょうだいね』
 「ありがとう。頼む」
 なんだかんだで情の深い、いい女だ。自分には本当にもったいなかったと思えるほどに。

 彼女は丁寧に調理の手順を教えてくれたが、実際に調理するとなると結構な難事だ。まずトマトを細かくカットするところから苦戦を強いられた。記憶の中の彼女は実に手際よくさっさとものごとを進めていたから、ずいぶんたやすそうに思えたのだ。
 
 「なんだが私が行って作ったほうがいい気がしてきたわ」
 「おっと、そんな大胆なこと言っちゃっていいのか? 俺から電話しておいてなんだけど、今のおまえはもう」
 『切るわね』
 「あ、おい、そんな怒るこたないだろう」
 「怒ってないわ、呆れてるの。料理をあまりなめてはだめよ。不慣れな人間がくだらないおしゃべりの片手間にできるようなものじゃないんだから」
 「わかってるよ。それに不慣れなわけじゃない。最近やってないだけだ」
 『それを不慣れっていうの。パスタのゆで方はメモしたわね?』
 「バッチリだ」
 『ちゃんと煮詰まるまでは鍋のそばにいたほうがいいわ』
 「了解」
 「……言い忘れてたけど、お誕生日おめでとう」
 「は?」
 鍋をかきまぜる手が止まった。思わずパソコンデスクの上の卓上カレンダーをあらためる。――六月二十五日。 

 『だって今日でしょう? 六月二十五日。……ねえ、まさか忘れてたの?』
 トキオの無言を、向こうは肯定と受け取ったらしい。彼女はまた例のため息をこぼし、
 『じゃあ今度こそ切るわよ。おやすみなさい』
 「あっ、待った、エリカ!」

 彼女の名を呼んでも遅かった。切れた電話の音を聞きながら、ふいにトキオは誕生日とはまったく関係のない事柄に気がつく。
 なぜ自分はパスタのゆで方ぐらいインターネットで調べなかったのだろう。ちょいとキーワードを打ち込めばいくらだって懇切丁寧なレシピがでてきたはずだ。ふだんの仕事であれだけネットを使った情報収集をしているのに、なぜわざわざエリカに電話をしてしまったのか?
 考えていると、とつぜん、猛烈な恥ずかしさがこみ上げてくる。トキオはむきになって、ひたすらトマトソースのかきまぜに専念した。





 来客があったのはようやく完成したトマトソーススパゲティをテーブルにのせ、あとは食べるだけとなったところだった。ようやく訪れた至福の時間に水を差されたのを癪に思わないでもなかったが、しぶしぶトキオは立ちあがってドアを開けた。
 「ども」
 立っていたのはトキオより年下であろう、ひとりの青年である。唇に開けたピアスと、トキオよりもあかるい金髪がいやおうなく目を引く。眉は細い。というよりほとんど剃り落とされていて、青い剃りあとが眉のあった場所に細い影のように尾を引いていた。目つきはするどく、一見してどこかのパンクロッカー、それもかなりファンキーなパフォーマンスをする部類の青年と思えた。もちろんそんな知り合いはトキオにはいない。
 
 「すんません、ここ、モリシマトキオさんのお部屋であってますよね?」
 「いかにもここはモリシマトキオの部屋だけど」
 「俺、四階に住んでる者っす。こんな時間に突然すみません」
 きっちりと頭を下げる。見かけによらず礼儀正しい青年であるらしく、トキオもつられて、必要以上にていねいに頭を下げてしまった。
 青年は左手に提げていた真っ白な箱をトキオに差しだした。よく見ると、ケーキ屋のものとおぼしき店名が印刷されている。
 
 「あの、これ。モリシマさんに、『ジャックハマー』のマスターから」
 出し抜けに行きつけのバーの名前が登場して、トキオはおどろいた。
 「俺に? ああいやそれより、なんであんたがこれを持ってるんだ?」
 「俺もたまにあの店行くんで。今日バイトの帰りに店ん前通りがかったら、ちょうどマスターが開店の準備してるとこだったんす。で、声かけられて。「近所なんですか」って聞かれたから、<タイフーン>に住んでるって教えたんす。そしたら、『だったらそこに住んでるモリシマトキオという人にこれを渡してください、誕生日祝いのケーキです』って」
 トキオはますます眉間にしわを寄せて、差し出されたケーキ箱を凝視した。
 確かにタイフーンに住んでいることはマスターに教えたが、誕生日まで教えたおぼえはない。そもそもトキオ自身が、エリカに言われるまで自分の誕生日の存在を忘れていたのだ。  

 「ん、あのときか……?」
 
 思い当たる可能性をひとつ発見した。少し前にバーで飲んでいたさい、自分は写真うつりが悪い悪くないという話になった。そこでトキオは財布から免許証を出してマスターに見せたことがある。そのとき彼は、免許証に記載されたトキオの誕生日を見たのではないか。
 それにしても、客の一人にすぎない男の誕生日を一度ちらと見ただけで記憶し、プレゼントまで渡してくれる甲斐性は並大抵ではない。水商売業ゆえのぬかりなさ、と片付けるのは簡単だ。だが、相当なひねくれものの自覚があるトキオでも、人の好意をそういうふうに受け取るほど落ちぶれてはいない。
 
 「あのマスター、若い頃はさぞかしモテただろうね」
 「でも肝心の本命にはいつも振り向いてもらえない、っていつだったか言ってました」
 「世の中うまくいかないもんだ」
 笑いながら、トキオは箱を受け取った。
 
 
 ケーキそのものは小さいながらもきちんとバースデーケーキの体裁をしていた。真っ白な生クリームと、周縁をみずみずしく彩る苺たち。一本だけだがご丁寧にもろうそくまで立っている。
 トキオはひととおり、テーブルの上を見渡す。ミートソースのスパゲティにぶどうジュース、冷や奴にケーキ。

 「なんつー組み合わせだ」
 このルール無用異種混合戦ぐあい、両親のもとですごした誕生日のようだ。母はトキオの嗜好を重視して取りそろえたために、ハンバーグといなり寿司とざくろが同じ食卓に並んでいたりしたのである。

 「いただきます、と」
 
 ひとくち喉へ流し込むたびに、その料理の思い出を胃の中へおさめてゆくような心持がした。もともと記憶とは身体の内側にあるはずのものなのに、外側から注ぎこむイメージというのも妙な話だと思う。 
 至極平凡なトキオの人生の中で、養子に出された以外にもうひとつ、彼は特殊な事情を抱えていた。モリシマ家に養子に出されるまでの記憶が一切ないことである。生物学的両親の顔や名前はおろか、自分がどこに住んでいて何をやっていたかさえ抜け落ちている。両親もそれに関することにだけは口を閉ざしてしまい、何も教えてはくれなかった。
 だが、幼少期のごくわずかな空白など、結局は目の前の料理にまつわる思い出だけでじゅうぶんに補填できる。何しろ人生は長いのだし、幼いころの記憶などたいていみんなあいまいだ。たった数年その時期の記憶がないからといって、たいした支障をきたしたこともないのである。いまさら思春期の子供のようにいちいち気にはしない。
 人間は、多かれ少なかれ、何かしらの空白、欠損――虚無をかかえて生きていることを、ジャーナリストになってトキオは痛いほどに感じた。自分の場合はたまたま記憶であっただけだ。
 だから、モリシマの両親のことを「実の両親」とトキオは思わない。「実の」などとわざわざ付けるのは、それに対比する存在があるときだけだ。トキオにとって両親といえばモリシマ夫妻である。そしてそれと同じように、彼らもごく自然にトキオの父親であり、母親なのだ。そこにはどのような理屈も意味もない。家族とは、そういう小さな偶然の化学反応から成り立っている。
 ――あるいはそれを、奇跡と呼ぶ人間もいようか。

 「まあつまりだ。虚無とは、腹が減っていることなのだよ、アカミミくん」 
 
 水槽をのぞくと、アカミミは夢中で、しあわせそうな笑顔さえ浮かべて(いるようにトキオには見える)ヨコエビを食べている。おいしい食事がもたらす作用は人間も亀も共通らしい。平凡な記者の平凡な誕生日にふさわしい、平凡な幸福である。とりあえず、しばらくヨコエビを食べようなどと言う気は起こさないであろう。




(了)

・モリシマトキオ氏誕生日記念に書いたもの。誕生日の設定は「シルバー事件25区」プラシーボ編で言及されているものに則りました。暗証番号が誕生日ってマズイ気もしますが一周回ってむしろわかりづらいかも…ないか。

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