余香を曳く舟



 だしぬけにサクラの視界をさえぎったのは、最近とみにすさまじく整って感じられるスミオの顔だった。肌はなまじそのあたりの女よりも白い。やや青白すぎる、といってもいいだろう。池の上をただよう蓮の花の色だ。鼻梁はなだらかで鋭すぎず、睫毛はその奥にある無警戒なほどすきとおった瞳を守るために濃く長く伸びて、陰をつくっている。どこまでも澄んでいるのにまるで底の見えない湖、あるいは青々とした水中で燃える篝火を思わせるその瞳は、つまりおおきな矛盾を住まわせている。  

 しかし、ここ数年のあいだに少々のことではたじろがぬまなざしと物腰とを会得してしまったサクラは、冷えた耳のふちにぬるく息がかかるほど顔を寄せられてもいたって平然としていた。もともと彼の突拍子のない言動にはなれきった身である。眼前で文字通り息づくさえざえとした美貌を学芸員のような目つきでながめながら、サクラは身じろぎひとつせず、スミオの挙動を見守っていた。 
 
 スミオは無遠慮なほどのためらいのなさでサクラの首筋あたりまで鼻を寄せる。耳と顎とをむすぶ線にほのぐらく影がはびこっていた。やにわに彼はすっと息をひく。
 「男の匂いだ」
 サクラから身体を離して、サクラの瞳を真正面からのぞきこみ、スミオがつぶやく。サクラは咎める様子もなく、ただただ無言でスミオを見つめ返した。彼の口にしたことをきちんと受け止めていながらも、どのような感情の機微もそこにはあらわれない。磨きぬいた鏡を思わせる面差しをしている。 
 「男の匂いだよ」
 スミオは恋人に言い聞かせるようなやさしい口調で繰り返した。
 「それも濃厚だ。なまなましいほど」
 「誤解でしょう」ようやくサクラは反応らしい反応を返したが、声音はごく平坦で、いま彼女に向けられている言葉の露骨ななまめかしさにそぐわない。だがそれこそが、逆説的にこの一組の男女の並みならぬ関係を語るようでもある。
 
 「今現在、私にその手の異性はいませんよ」
 サクラはとくに気分を害したふうもなく、捜査のときと同じように淡々と真実のみを述べた。ちかごろは感情のたかぶりどころか、生きているうえであたりまえの感懐や、日常におけるささやかな情動の起伏さえ、生まれた端から揮発していってしまうのである。凶悪犯罪課の捜査官として純化されてきた証左か、管理された犯罪者たるアヤメとしての素養が順調に熟しているきざしなのか、おそらく両方であろうとサクラ自身はとらえていた。どのみち自分で選びとった宿業だ。その因果が滞りなく、おのれの身にさしむけられているだけの話である。  
 「本当か?」
 「ええ、誓って」
 春先とはいえ宵にさしかかると気温は一気に地を這うごときだ。石像の肌のような、しんと清冽な冷気が廃ビルの割れた窓から入り込み、いっこう進展をみせない張り込みをつづけるふたりにつつましく身を寄せてくる。

 「とはいってもな、本当に匂うんだから仕方ない。俺の嗅覚をみくびられちゃあ困る」
 「見くびってはいません。むしろ信用しています」
 ここでもサクラはすなおに真実を述べた。コダイスミオは聴覚をうばわれたかわりに、鋭敏な皮膚感覚と嗅覚とを身につけている。彼はひとの言葉にまどわされない。世界に渦巻くあらゆる有象無象にかたむける耳をもたない。触感の発達した膚でもって人間も、犯罪も、感情も察知する。その事実のほうが、整った顔貌よりずっと人の情慾にうったえるような気がした。スミオにとっては膚のふれあう感触が、そのまま世界とのつながりなのである。スミオは今年で三十いくつのはずだが、年を重ねるごとに彼の存在はすきとおって透明さを増した。現実世界を生きているうえでは避けて通れないはずの傷やよどみの数々を、彼は肉体の最奥、その深奥も深奥にすっかりしまいこんでいる。腐乱して朽ちた木々や葉が土に還り、澄んだ泉のみなもとになるように、彼の肉体は瞳と同じように、死と生という相反する概念にくっきりとわかたれている。彼の身にふりかかる穢れは肉体の奥深くに沈殿し、きれいに分離されているのだ。だから、少し彼という男を見通してみると、先に述べたような異様に矛盾した光景にゆきあたることとなる。繊細で落ち着きある態度を見せたかと思えば、とつぜん周囲がぎょっとするような幼稚なはしゃぎ方をしたりもする。そもそも身体のすみずみまで矛盾が行きわたっているような男なのだから、当然といえば当然だった。
 
 「でも、本当に心当たりが……そうですね、このあいだ、男ばかり五人で組んでいた強盗殺人犯を処分しましたが」
 サクラは右手にたずさえていた銃を軽く上下させた。 
 「ああ、そんなもんじゃないよ。もっと君と、身体の奥底まで、強固にむすばれてる男の匂いだ。いわゆる深い関係ってやつだな。長い時間をかけて愛を育まないとこうはならない」

 つらつらと並べられた言葉たちは本来、下品な匂いを宿命的に纏っているはずのものばかりなのだが、それがすこしも漂ってこないのは、言葉を重ねるたびに憑かれたような調子になってくるスミオの語り口によるところが大きい。話が興にのってくるといつもこうだった。サクラも、他の凶犯課員もすでになれたものだ。特定の女への度を越した執着さえ、彼が語ると神話かおとぎばなしの様相を呈してしまう。コダイスミオは自分のうちにいつまでも少年の純心を持ち続けることをなかば使命のように課していて、それを意識するあまり言動が妙に安定しなくなることが多々ある。  

 「私は」
 「処女だろ? もちろん知ってる」
 スミオは晴れやか言い放ってみせた。   
 「君から匂う男の匂いは、並大抵の男と並大抵の関係をもったぐらいじゃあ及びもつかないほど濃厚なんだ。それこそ、血の一滴まで君とつながっている男でないと」
 そこでようやく、サクラはスミオの言葉の意を知った。謎かけめいた迂遠なもの言いもいつものことだ。サクラはもういちど自分の手の中にある銃を見つめた。サクラの手元に残った数少ない父の遺品のひとつだった。凶犯課に配属されて今までずっと使い続け、一番はじめの処分、サクラの運命と末期とをさだめることになったあの二発の弾丸も、この銃から放った。

 ――父の因果を、娘が引き継ぐか。

 そう言ったのは、父と袂を別ったかの捜査官だった。皮肉げに嗤うでも、悲しげに目を伏せるでもなく、ただどこかあきらめたような目つきをしていた。血は争えない、といかにも言いたげなようだった。 
 だがサクラにすれば、この宿業の道こそが、自分と、むこうがわの父とを何よりも強く繋ぐ鎖なのだ。すべては父の罪であり娘の罪だ。そしてその罪は、何にも代えがたい絆と言い換えることもできた。ふたりが、同じ血をわかちあっているからこその。 

 「そしてきみは今でもその男が忘れられない。ずっと想い続けている。これからも……たぶん、永遠に」
 「……もう二度と、会えませんけれどね」
 銃身に指をすべらせると、鉄の冷たい感触が皮膚の穴に染みいってくるのをサクラは感じる。それから不意にスミオの腕をとって、その手の甲に鼻を寄せた。清らかにつめたい彼の手。指の間からわずかに煙草の匂いを嗅ぎ取ることができる。サクラは顔をあげ、言った。

 「コダイさんからも、女性の匂いがします」
 「俺?」
 「それも一人じゃなく、複数」
 「おいおい、人を遊び人みたいに言ってくれるな」
 「事実です。――でも、あなたの身体なのに、あなた自身の匂いはまるでしない」
 スミオはただ笑うだけだった。
 
 空虚、というのではなかった。いまのところはまだ。スミオはサクラが憧れを抱くに足る優秀な捜査官で、希有な人材だ。人心の察知にも長けている。他愛ない冗談もとばせば、神妙に事件解決の策を練ることもある。まるきり感情をうしなっているわけではない。その肌の内側では実にさまざまな情報と感情とが混然たる渦を成している。だが、その渦はどうにもスミオの精神を一切巻き込まない。彼の魂は肉体の影響をまるで受けない場所にある。肉体だけがおきざりになっている。

 スミオはもう、ここにはいないのかもしれない。サクラはつねにそう感じながら、彼と肩を並べていた。 
 いまの彼は、おだやかな海上の小舟に似たものだ。不気味なほどに風も波もないので、いまだサクラのそばをただよっているだけにすぎない。ひとたび大きな波がくれば、彼はたちまちのうちにサクラの前から姿を消すだろう。青い大洋のむこう、それこそこの世になんのしがらみもないような人間が目指すような場所に 彼の目指すむこうがわ、そこにおぼめくまぼろしの正体に、サクラはわずかながら心当たりがある。霧が晴れたとき、彼の痕跡はもはやそこにはない。残滓さえもたぐりよせられない。 


 「冷えてきたな」

 スミオは黒いトレンチコートを脱いで、あたりまえのようなごく自然な動作でサクラに着せかけた。サクラはちいさく頷くようにして謝意をあらわす。コートからはなんの匂いもしない。だが、その生地には数瞬前まで、サクラではない、別のだれかの人肌を抱いていたぬくもりがかすかに残っている。
 スミオがまたぼんやりと宙を眺めだしたのを見計らってから、サクラはコートの襟元をかきあわせて、そこに鼻先をうずめた。どうやら自分にはまだ、ごく個人的な、未練らしきものがあるらしかった。



 (了)

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