夢ひさぐシンデレラ

 ボーマはいよいよ頭を抱えた。ずいぶんつぶさに観察してみたものの、繁華街の一角に立っているのはどうにもこうにもやはり自分の相棒らしいと認めざるをえなくなったからだ。
 宵をむかえた街中、うねるような人の往来からすこし外れたところに、彼はひとりで立っていた。
 
とりたてて目立つ格好をしているわけではない。むしろ、九課のオフィスで仕事をしているときよりずっと控えめないでたちだ。皮肉屋の元レンジャーが「その筋の人間スタイル」としばしばジョークの種にする、大きく開けた胸元や金のネックレスだったりは、いっさい見当たらない。
 それなのに、たたずまいといいなんともいえず蓮っ葉な煙草のあつかい方といい、今の彼はまるきり堂に入った立ちんぼだった。
 いっけんけだるげに目の前を通り過ぎる人々を眺めているように見えるが、少しでも興味ありげに自分に視線を向けて行く男には、辺りはばかりなく媚びるような目線を送っている。はしたなさのひけらかし方を存分に心得ているといったその風情に、すれちがいざま、露骨に眉をひそめる者も少なくない。

 うつくしい休日の終わりが、こんな手ひどい衝撃でもって締めくくられることになるとは夢にも思わなかったボーマは、信号が青になってもしばしそこから動けずにいた。せわしくゆきかう人々の流れの中で、いっとき、自分と彼のみが取り残される。


 長いこと進行表を占拠していた仕事を片付けてようやく掴んだ、念願のオフだった。じっくり淹れたコーヒーを片手に、午前中をまるまる使って撮りためていたドラマを消化し、読みさしのままだった長編小説も読みおえた。新品の鋏が上質の生地を切り進んでいくように、あらゆる物事はよどみなく順調に運ばれていた。  
 もともとボーマは家事を苦に思わないたちであったから、久々の自炊も楽しみのひとつだった。夕飯は前々からもくろんでいた手のかかるメニューをえらんだほどだ。昼間からその準備に精を出していたが、途中でデザートの材料が足らないのに気がついた。その調達のために街に繰り出した矢先の出来事だったのである。

 気がつくと、ボーマはいつの間にか信号を渡り終えていた。どころか、そのままずんずん進んでいって、彼の吸っている煙草の長さが目視できる距離まで接近していた。
 なにも考えてはいなかった。あらがえない重力にすなおに従ったまでの話だ。立ちのぼるか細い紫煙が、ボーマを手招いているようにもみえる。ややうるおいを欠いた彼の横顔は、やぼったくぎらつくネオン、走り去る車の窓から漏れるあかり、そして人々の好奇の視線をやすみなく投げかけられて、あまりにも無防備なままさらされているのだった。しぜん、足が早まる。

 「――こんばんはァ」

 なにしてるんだよ、とは言わなかった。奇遇だな、とも言わない。腰をかがめて、無遠慮に彼の顔をのぞきこみ、親しみよりも苛立たしいほどのなれなれしさを含ませた口調で気軽に声をかけた。つまるところ、まるで初対面といったふうにふるまってみせたのだった。
 動揺を悟られたくなかったのももちろんある。けれどどこかで、彼が――パズがもたらした驚きになにかしら報いてやろうと張り合う気持ちがあったのかもしれない。いたずら心というよりも、子供じみた意地だ。
 パズはといえば、予想はしていたもののたじろぐようすもなかった。眉のひとつも動かさない。悠然たるしぐさでふところから携帯灰皿を取り出すと、吸いかけの煙草をおしつける。    

 「おにーさん、おひとり?」
 「……ああ、ずっと」   
 削ぎ落としたようなおとがいをわずかに引いて、パズは切れ長の目を静かに細めてみせる。餌をぶらさげた人間にいましもすり寄って来ようとする猫のように。まぎれもなく、娼婦が客に対して気軽に配り歩くたぐいの微笑だ。どんなきまぐれか、パズはこのしらじらしい芝居に乗ってきたのである。
 
 「いけてるね、そのコート」
 「どうも」
 「センスいいじゃん」
 「……どうも」
 
 パズが着ている黒いトレンチコートは、以前彼とふたりで出かけたときに買ったものだ。よく覚えている。そのコートをパズにすすめたのは他でもないボーマ自身だったから。春用のコートをさがしにきていたパズは、目をつけたものを何枚かはおって、決めかねていたようだった。ボーマは一番最初に着た黒いやつがパズには一番似合っていたとすすめた。ほどほどに悩んでいたらしいのに、それをきくとパズはひとつ頷いて、さっさとボーマの選んだコートをレジに持っていった。
 
 いまボーマが被っている帽子も同じ店で買ったもので、コートを選んでくれた礼にとこちらはパズが見立ててくれた。ボーマの帽子とパズのコートの色やかたちはまるで揃いであつらえたようによくなじみ、しばらくのあいだボーマの機嫌をたいそうよくさせたものである。
 あのコートに品も仕立ても手触りもいいグレーのマフラーなんかを巻きつけたパズが街を行く姿などは実に颯爽としていた。下品さなんて見つけ出そうとする方が無謀なほどだった。
 
 今や、あのしなやかな品格は見る影もない。同じ格好でも立ち居振る舞いひとつでこうまで変化をつけられるものかと、ボーマはなかば感心してしまう。それほどまでに、彼のたたずまいは、俗気な店が軒をつらねる街並みの中にあまりにもしっくりと溶け込んでいた。遠慮なく下品さをふりまいて客引きをしている男娼が目立たないはずがないのだけれど、きつい香水の匂いのように、その鮮烈な印象もわずかな不快感を残してすぐに薄らぎ消えてしまう。卑俗な街の下品な男娼、そういう記号で彼は処理される。街の空気すべてが巨大な光学迷彩となって、パズという男の名前を奪い、覆い隠している。そうなってくると、なぜ自分でもそんな中からパズを見つけ出せたのかボーマは不思議でしかたなくなってくる。

 (ゴーストの囁きってやつかね)
 素子の言を拝借すればこういうことなのだろう。とにもかくにも見つけてしまったし、気が付いてしまったのだからどうしようもない。
 
 「で、おにーさん、ヒマなの?」
 「ごらんのとおり」
 「誰か待ってるとか」
 「さっきまで待ってた」
 「過去形?」
 パズは笑みを深くした。今までボーマも見たこともないような美しい笑いだったが、低級な感情にのみ作用する種類の笑いだからそれも当然だった。パズがこんなふうに笑ったことは一度としてない。その不吉さと、しかし思わず息をひきそうになる嫣然さにボーマは彼から目が離せなくなる。
 
 「……いまさっき、待たなくてもよくなった。違うか、おにいさん?」
 
 凄艶な上目づかいは、そのままとろりと滴り落ちるような媚びに潤っている。背筋をするりとなであげてくるような声音、ボーマは意地でも動じるまいと必死になって軽率な笑顔を保ったが、その隙にパズはすかさずボーマの手をとった。厚い掌にゆっくりと頬をすりよせて、小指のあたりにかるく唇をおしつけてくる。彼の上唇はずいぶんかさついていて、いくらかささくれ立った皮の部分が指の腹をささやかに刺激するたび、しびれるような感覚が腰のあたりで波打った。わかっているのだ、おそらく自分はためされている。
 
 パズのふるまいにもだが、通りすがる少なくない数の人々から、あからさまな嫌悪のまなざしが次々ふりかかってくるのにも相当参った。はたから見れば人目はばからず客を誘う恥知らずの男娼と、それを買おうとしているこれまた輪をかけて恥知らずの男以外のなにものにも見えないだろう。
 そんなさなかにあって、ボーマはパズの愛想笑いの中に、見なれた彼の面持ちを――九課で仕事をしているときの、あるいはボーマの傍らに立って静かに少佐の指示を待っているときの、凛としたたたずまいを、重ねあわせようとしている自分に気がつく。それはごく自然なことのように思われた。シンデレラを市井にふたたび見出した王子は、ひょっとしたらこんな心持ちだったのではないだろうか。

 つぎはぎだらけの服を着たシンデレラを前にして、王子は絹のドレスに身を包んだまばゆいプリンセスの面影をけんめいに見出そうとしたはずだ。埃にまみれ、しみったれた顔をして雑巾がけをしている娘のあわれさが、王子の中にあざやかに息づいている舞踏会での尊いひととき、あのたぐいなく麗しい思い出を根こそぎ奪ってしまう。ボーマも同じだ。『いつものパズ』を、自分のうちに取り戻したかったのだ。
 
 「コートもいかしてるんだけど」    
 感じを悪くしない程度の力加減でパズの手をふりほどき、ボーマは彼の足もとに目を落とした。こころなし、彼の目線がいつもよりずいぶん高いような気がしていたのだが、それも当然だった。彼の足は、峻厳な山を切り崩したかのごとくそびえたつハイヒールの中におさめられていた。遠くで彼を観察していた時にはひとごみの中に足元が隠れていて見えなかったのだ。ヒールの高さだが視覚サイトを用いてはかったところなんと十五センチもあった。

 粉雪をまぶしたようなきらめきがちらつくその靴は、光源のぐあいで白とも銀とも見えて、いまは海中から見出されたばかりの真珠の色をしていた。疎いボーマでも一見して質のよいものとわかるしろものである。コートとスラックス、折り目正しいスマートなシルエットの中で、その靴だけがひどく機能性を欠いた、異質なものとしてたしかな立体をもっていた。そしていつ見てもそのフォルムは、足を保護するという靴本来の役割をはたしているとはとても思えない。

 人ひとりの体重を支えるにはあまりにもこころもとないような細長い棒に無理やりもちあげられたかかと、指をきつくいましめる形状の丸まったつまさきの覆い、とにかくかたっぱしから、履きやすさ歩きやすさといった観点に反している。ふだんボーマらがはきなれているような革靴ならば感じ得ない痛みと束縛に、みずから足をさしいれられるのは、そういう不自由をあえて享受できる権利をもった人間である。足が痛くなっても支えてくれるやさしい人間がいるか、そもそもそんなに歩く必要のない身分か。すなわち、お姫様か娼婦である。どちらにしろ男のはきものではない。 
 
 「いま流行ってんの? 男でもそれ履いちゃうの。俺ほら、見て通りの色気より食い気タイプでそういうの疎いんだよね。ファッション誌なんか久しく読んでねえんだ」
 こういう状況に面したときのマニュアルや予備知識があるはずもない。しかし場の主導権をパズにゆずりわたしたくない一心で、ボーマは常よりも饒舌になった。 
 「べつに流行ってはいないと思う」
 「じゃあ、それもおにーさんのセンス?」
 「いや、コレクトネス」
 「……なに?」
 パズはかるく首をかしげてみせた。これまでのしぐさとは違う、どこか幼い子供を見守る教師めいた雰囲気だった。すくなくともボーマの不安にうったえかけるような表情ではない。返答は、頭の中に直接きこえた。
 『男娼は男娼らしく』
 次の瞬間、常時オープンにしてある仕事用の回線へ、ひといきにデータを流し込まれた。音声ファイル、文章データ、その他諸々、慣れ親しんだインターフェイスのつらなりが一瞬にして目の前に展開されてゆく。それらをざっと解析してから、ボーマはようやくすべてを察して肩をすくめた。  
 
 『……なるほど、仕事中ってわけね』
 『そういうことだ』
 パズはハイヒールのつまさきで、こつこつとコンクリートの上を叩いてみせた。
 
 『こいつはここでのローカルルールみたいなもんでな。ここらへん一帯で営業活動をしてる男はみんなこれを履いてる。ウリのめじるしってわけだ。誰が発祥かは知らんが、いい趣味してる』
 『コイツ、ずいぶん前からうちが目ぇつけてた……なんだこのじいさん、ひょっとしてソッチか』
 『正解……ガードのお堅いやつはまず女関係を洗うのがセオリーだが、これがなかなか引っかからない。もしやと思って『女』関係から『男』関係に変更して探りをいれたら驚くほどすんなりいったわけだ』   
 『うちの課長より年上だろあのじいさん。まだお盛んかよ』
 『その年だからこそ、じゃないか? 焦ってるのさ。自分の身体が男から離れていってるのが、よくわかるんだろう。だから必死になってすがりつこうとしてる。金だけは余ってるから、相手には困らない』
 『冷静に解説すんなよ……オエッ、よけいに生々しい』
 
 こういう会話を電通で交わしているあいだにも、パズは手ぬかりなく男娼役を遂行している。頭の中にきこえる、いつもの調子を保ったパズの声と、目の前でふんだんに色目を駆使しているパズの姿が奇妙な二重写しとなって、ボーマの視界の中でかわるがわるにその姿をちらつかせるのだった。
 仕事上の演技とはいえ、このカメレオンぶりはすさまじい。ここまで、今いる場所や環境にあわせて己の色を自在に変えることができるのだ。
 パズが内偵活動にすぐれているのはもちろん知っていたけれど、彼がその手腕を発揮する時はたいてい単独での潜入調査だったから、ボーマも実際に目で見て確認する機会にはなかなかめぐまれなかった。
 器用な男だ。役者と演出家、両方の才能にめぐまれている。ここまでくると変装などというなまやさしいものではない。仕事に応じて必要とされる人格を実に精緻に作り込み、そうして完成した人格、いもしない架空の人間の生き霊に、やすやすと身体を明け渡せてしまう。
 みずからの個性をすべて削ぎ落すのも辞さず、どんな下品な男にも、仕事とあらばためらいなくなりさがってみせる。そのためならどんな習慣も、理念も、ためらいなく捨てられるのがパズの矜持なのだ。彼の才覚は素子も高く評価している。だから彼女も信頼してパズにこの仕事を任せたにちがいない。九課の隊長の判断としては正しいし、このうえない適任といえよう。

 今までもパズはこうやって、ボーマが知らない顔を、知らないところで、知らないうちに、知らない誰かに披露していたのだ。そう考えると、どうにも落ち着かなくなってくる。
 ボーマの無言を話の続きを促していると思ったのか、パズは続ける。  
 『別の場所でトグサが待機してる。奴の行動パターンからルートを絞りこんだが、この日は俺かトグサがいるほう、あるいは両方に会うルートを通って今日の品定めをする確率が高い。同じ商売してる男たちの人払いもしてあるし、どっちかには当たるはずだ』
 『なんでトグサなんだ? そういう趣向のやつって、たいていバトーとかサイトーみたいなのが好みなんじゃあねえの』
 『やつの【お買い上げ履歴】を見る限り、俺みたいないかにもなすれっからし風か、トグサのような一見ごくごく普通で、そういうのになれてない雰囲気のいわゆるノンケ風がお好みらしい』     
 「極端な好みだなあ」 
 思わず生の声が出た。ボーマには縁のうすい世界の話である。パズはわずかにくちもとを緩ませて笑った。そうやって笑うと完全にいつもの彼だった。ふしぎとほっとする。  
 「交互にためすことが多いらしいぞ?
 「あー、甘いモン食ったらしょっぱいモン食いたくなるってアレみたいなもんね。気持ち的にはわかるね」
 「面白いな、おにいさん」
 「だろ?」
 ふと、ボーマはあることが気になって、きいた。
 
 『……じゃあよ、トグサもその靴はいてるわけか?』
 『履いてる……とびきりかわいいピンクのやつだ。少佐のセンスには頭が下がる。俺の見た限りでも五回以上は盛大にコケて、イシカワとバトーが呼吸困難になりかけた。動画に残しておけばよかったな。しばらく自分で歩く練習してたが、しまいには銃の整備してたサイトーの背中に思いっきりつっこんで……』
 『でも、じいさんからすりゃその生まれたての小鹿みたいなたどたどしさがたまらないってわけだろ? ハイヒール履いてかかとビクビク、フラフラよろけてる三十代の男のさ……ああ、世間の需要の奥深きことよ』
 
 ボーマは大仰にかぶりを振った。そのはずみで、なにやら気になるものが視界の端をかすめた。ふりかえると、二人から少し離れたところに男が一人立っていた。携帯をいじるふりをしながら、ちらちらと、こちらを伺っているのである。
 そこそこに仕立てのいいスーツに身を包んだ一見してごくありふれたサラリーマンふうの男だ。年齢はパズやボーマと同じか、それより少し上だろう。なにかさとられてしまったかとボーマは一瞬あせったが、すぐに杞憂だと気付いた。男が画面からわずかに視線をあげ、上目づかいにパズをかいま見る。そこには明らかな品定めのまなざしがあった。焦げ付くような熱さがひといきのうちにボーマの胃の底を灼いた。
 
 男はボーマの視線に気づいたのか、ゆるやかにこちらへ目線をよこす。目があった、と思った瞬間に男は顔をこわばらせて、たちまち落ち着かぬそぶりになった。数秒ののちにそそくさとその場を立ち去っていく。
 図体からして威圧感ただようところへきて、目は義眼という出で立ちのボーマに気圧されたのだろう。こんな男が先客として口説いているところに割って入っていくには相当の勇気を要する。
 
 ここでボーマははっと思い至った。それではいけないのだ。パズの目的はボーマではなく男色ごのみのじいさんを釣りあげることであり、そもそも彼は仕事中なのである。ボーマはといえばジャケットのポケットに買い物メモなんかをしのばせて、立派にオフの身だ。仕事と知らなかったとはいえ、本来なら接触するのも避けねばならなかった。自分がいることで九課の業務に支障が出てはいけない、とボーマはずいぶん遅れてやってきた己の論理的思考におびやかされる思いだった。
 
 少し冷静になって考えれば、オフでもないパズが夜の街角に立っていたとして、まずは仕事の線を考えるのが筋というものだろう。確たる証拠がほしいなら常時オンラインになっている九課のオフィスの回線につないで、オペレーターにパズについての確認をとればいい。数分ですんだはずだ。自分はそれらのことがすっかり頭から抜け落ちていて、ただ衝動に身をまかせるがままだった。あらがおうともしなかった。同僚としてではなく、他人のふりをして話しかけたのが不幸中の幸いだが、なんのなぐさめにもならない。 
 猛烈に恥ずかしさがつきあげてきた。己の軽率をかえりみるにしのびない。公安九課の一員としてはお粗末すぎる失態を堂々演じてしまったうえ、途中までその失態の自覚すらなかったのだ。 
 

 (とはいえ仕方ねえだろ……)
 往生際の悪いのは承知の上で弁明させてもらうなら、ボーマの言いぶんはこのひとことに尽きる。
 本物の夜鷹だかウリ専だか、とにかくその手の人種よろしくお客を待つ己の相棒の立ちふるまいは、あまりにもしっくりと板についていた。仕事で要求されている演技とはいえ、その姿はボーマの知っている彼の姿をひどく侵犯しすぎた。それで、いやな想像に取りつかれてしまったのだ。  
 女に対しては唯一絶対のルールを彼がみずからに課し、遵守しているのはボーマもよく知るところではあったが、たとえば男に対して件のルールが適用されるかといえば怪しいものだと、日ごろから考えていたせいもある。
 パズはふしぎな性質のもちぬしだ。性に関して学者じみた深遠な理屈を展開させる一面と、すこしでも興味をひかれた相手とはためらいなく寝るというような、己の性をかろやかに乗りこなしあやつってみせる騎手の側面とを矛盾なく同居させている。
 相棒のボーマでさえ完全には見通せない性質、常よりの懸念、そこへきてのあの光景、だからよけいに狼狽してしまった。もっとも、パズのそういう度しがたい一面にいちいち不安になりながらも心惹かれて、どんどん彼の深間にいざなわれている自分の存在もボーマは嫌というほど知っている。つまり、難儀としかいいようがなかった。 
  
 『……わりぃ、俺もう行ったほうがいいな。俺がいたんじゃあ、やっこさんも先客が付いてると思ってお前に声かけづらいだろうし、おとり捜査の意味がねえ』
 『そうとも限らんぞ。むしろいたほうがいいかもしれない』
 パズの返答はいやにあっさりしていた。
 『なんでだよ』
 『プライドの問題だ』
 『プライド?』
 『ああいうじいさんのような手合いは、買い手が多いほど燃えてくるもんなんだよ。そういう連中がおいそれと出せないような大金をちらつかせて、競り勝って、他の買い手の羨望の視線を浴びるのが至上の楽しみ……。競りの対象も、たとえば美術品とか車じゃない、下品でくだらなくて低俗なものほどいい。こういうふうに』
 パズはゆるやかにヒールのつまさきを浮かせてみせる。ひそやかに月ののぼるようだった。言っていることはごもっともにちがいないのだが、彼の物言いはどうにもボーマの胸中に不穏なざわめきをもたらす。 
 『価値のないものに大枚をはたいてみせるのが、金持ちってもんだからな。夜の相手といっしょに自尊心まで買えるんだ、お得な買い物だろう』
 『まあ……そうだな、うん』
 歯切れ悪い返答しかできない。とにかくボーマはうまいことこの場を離れる理由をさがした。しかし、そうしているあいだにパズはボーマのほうにすかさず身をよせてきて、腰に手を回してくる。
  
 『おい、よせよ』
 『なんでだ? もとはと言えば、お前のほうから声をかけてきたんだろう。ちょうどいい、奴の競争心をあおるためにも、通りがかるまではしばらくこうやっていちゃついておこう』  
 『だーっ、手ェ握んな! 俺から声をかけてきたってそりゃあ、驚いちまったからであって……まさかこんなところで、パズがそんなもん履いて立ってると思わねえし……だから指を絡めない! いやらしい感じに腿をさすらない!』
 『……下心はないと?』
 『当たり前だっつーの!』
 『じゃあ、さっきのあれはなんだったんだ?』
 『さっき?』
 『サラリーマンが俺に声をかけようとしてただろ』
 パズも気づいていたようだ。ボーマの脳裏に、遠巻きにパズの様子をうかがっているさきほどのサラリーマンの姿がよみがえってくる。あのねぶるようなまなざし、唾液のねっとりと糸を引くさまに似た目つき、その視界にとらえられるたびに、パズがあの男の体液によごされるような心持ちがした。思い出すだけで、憤りで臓腑が煮え立ってくる。
 
 『その顔だ』
 『は?』
 『だから、その顔だ。あのリーマン、お前のそのおっかない表情にびびって逃げ出したようなもんだぞ?』
 『な――』
 言葉が続かなかった。自分が今どんな顔をしているか、パズの視覚野に乗ってあらためずとも想像がついてしまったからである。 
 『正直驚いた――プライベートでもあんな顔ができるんだな。悪くなかった……。今にも胸倉掴みに行きかねないって感じで、傍から見てるぶんにはなかなかいい見ものだったぞ。なあ、お前が俺に声をかけてきたのは、ほんとうにただ驚いたからだけなのか?』
 『……もういいだろ、その話』 
 『よくないな。俺は知りたい。教えてくれよ、だったらどうして、あんな顔をしたんだ? あの男が俺をいかがわしい目つきで俺を見てたのがそんなに気に食わなかったか。恥ずかしげもなく客引きしてる俺をいますぐホテルに連れ込んで、髪の毛引っ掴みながらさんざん犯してやりたいって欲望駄々漏れの顔でながめてたのが、ムカついたか? 自分以外の男が、俺にそんな感情を抱いてるのが我慢ならない?』
 
 たえかねてボーマはパズを引きはがそうとしたが、パズはますます密着してくるばかりだ。ボーマが本気でかかれば突き放すことはわけないが、彼がそんなことをするはずもないとパズは熟知しているのでたちが悪い。結果、パズのひややかな掌の感触が頬をつつむのをゆるしてしまう。しなやかな指先に、まだかすかに煙草の匂いがまつわっていた。匂いは徐々に近づいてくる。言いようのない危機を感じてボーマはとっさに何か言葉を発そうとしたが、かなわなかった。唇の上を、身もだえするほど狂おしい感触がゆらめく。 
 
 『なあボーマ』ボーマの唇を薬指でなぜながら、パズは静かに語りかけてきた。『それはひょっとして独占欲ってやつじゃあないのか』 

 ろくな受け答えはもはやできそうにもない。彫像のように立ちつくして、ボーマはただされるがままだった。冷静で理性的な理想の自分はとうに、からかうな、とパズの手をはねのけているのだが、下唇のうえでさざめく、彼の指先のなまの感触は、その理想をやすやすと凌駕してくる。だから、パズがとつぜん唇から指をひいたとき、ボーマがまっさきに感じたのは安堵ではなくて、甘酸っぱく口中をうずかせる名残惜しさだった。
 
 波のひいていくように表情を醒めさせていくパズをまのあたりにして、ボーマもすぐわれに帰った。どちらからともなく交わした目配せののち、ボーマの電脳に送りこまれてきたのは、どこかここよりもさびれた飲み屋街の一角の映像だった。インターフェイスにはバトーの視界を示す表記がなされているが、彼自身はどこかにしのんで、その一角の様子を監視しているらしい。薄暗く、人通りもほとんどないが、表示されているポイントはここからそう遠くはない。
 パズが、自分への連絡で送られてきた映像をボーマにも共有できるよう設定したのである。その意味はすぐにボーマの知るところとなった。
 
 バトーの視界がとらえているのは、あるだけ哀れといったような具合の髪をなでつけた老人が、ずいぶんしおらしい様子のトグサと連れだって道を歩いている姿である。よくよく観察すると、しおらしく見える姿勢やしぐさはパズのような職人芸の演技からではなく、すべて履きなれないヒールの靴に強制されてのもののようだ。歩くのどころかまっすぐ立つのもやっとなので、しぜん足運びがちょこまかとなってしまい、己のひとあしひとあしを注意深く確認するため頭は下がり、傍目にはしずしずと歩いているように見えるのだ。
 トグサにすればたまったものではないだろうが、きまじめな彼のことだ、これは職務だと胸中で念仏のごとくとなえているにちがいない。その一心で懸命に足を前へ進めている姿は実にいじらしくて、庇護欲さえさそう。とはいっても、傍らに立ってトグサの腰をしっかり抱き、隙をみてはぬかりなく尻を撫でまわしている老人の性癖はいっこう理解できそうにないし、理解したくもない。 映像が小刻みに揺れる。バトーが忍び笑いをまるでこらえきれていないのだ。

 バトーからの通信が切れても、パズは目を伏せたままだった。数秒ののち、軽くうなずいてから薄いまぶたをもちあげ、ゆるく息を吐く。目の前のパズはもうすっかり、ボーマの見知った彼のすがたをとっていた。つい数分前、淫魔のごとき凄絶な秋波でもってボーマをたぶらかしにかかっていた淫蕩な男娼の顔はかげもかたちも見当たらない。

 「……任務終了。イシカワが、俺はこのまま直帰でいいとさ」
 「おいマジかよ。ずいぶんあっけねえのな」
 「あとはバトーと少佐が頃合いを見て乗り込んでいくだけだ」
 少なくともトグサがかわいそうなことになる前に、と締めくくってから、パズはほんの少し不服げなようすで鼻を鳴らした。
 「しかし、即決かあのじいさん。どうせなら俺のほうも見てから決めりゃいい。もったいないことをする」
 「今日はういういしい子の気分だったんだろ」
 「にしたってトグサには向かねえ……目標のポイントにおびきだすまでにボロが出なきゃいいんだが。だから俺一人でいいと言ったんだ、この手の仕事は」 
 「どういう意味だよ」
 ボーマは眉をひそめた。もっとも、両目ともに特殊仕様の義眼をはめこんでいる彼には眉がないので、ちょうど眉山のあったあたりの筋肉がうねるように躍動する。見た目はほとんど金属製の丸蓋といってさしつかえない義眼は、まなじりを下げることも目を細めることもかなわないために表情にとぼしくなると思われがちだ。けれど、ボーマやバトーの表情豊かさをみれば誤解であるとすぐにわかる。笑うときも顔をしかめるときも、彼らは目でものを語れぬかわりに、顔の筋肉全体をどよめかせて表情をつくる。剃りあげた禿頭もあいまって、彼の顔は雄大な山岳にみえた。ボーマの感情に呼応し、山自体が大きくうごめく。そういう規模の広さが、彼の感情表現の豊かさをそのままにあらわしているようにも思えた。
 
 「意味もなにも……」       
 対するパズははなはだ不思議そうな目をして応じた。ボーマとは対照的に、パズはなにかしらの刺激にまみえても、たいして顔面の筋肉をうごかさないのである。 
 
 なんの感情も抱いていないわけではない。心とゴーストとはきちんと、外部よりもたらされるあらゆる事象へ感応し、ものを考えている。パズの場合、むしろ常人よりもその感度は鋭敏なはずだ。人心の機微を察するのにすぐれていなくては、九課でも屈指の潜入調査・内偵のエキスパートにはなりえないだろう。
 ひときわ無愛想で他者への関心など皆無なふうに見えるが、踏み入るべき領域の分別は誰よりもついているし、それでいて決して押しつけがましくない、さりげない気配りを知る男だということもボーマはよく承知している。多くの命を住まわせながらもゆらがぬ水面を持つみずうみのように、彼はその手の動きをほとんど表出させないだけだ。

 「おかしなことを訊く。お前ならわかるだろう? いかにも俺におあつらえ向きじゃねえか。男娼のふりしてターゲットを引っ掛ける、こんな下品な仕事、俺以外にだれが――」 
 「あのよ」
 耐えきれずにボーマはその先をはばんだ。パズの口調に卑屈な響きがすこしもないのがよけいに彼をいらだたせた。あたりまえのことを語る時の口ぶりである。
 「……どうした」
 らしからぬ強い語調に違和感をおぼえたのか、パズがこちらの顔を見上げてくる。  
 「……あー、いや」
 「いや、じゃないだろう。なんだ?」
 
 わきまえすぎていると、ことあるごとにボーマはパズに対し思っていた。パズは周囲が己に抱いているイメージのかずかずを熟知している。堅気とは思い難い風采、無類の女好き、他者がつくりあげた像に、みずから言動を沿わせてやっているふしさえある。周囲からのその手の心象が、結果として九課における役割分担を円滑にさせているのを理解しているからだ。要するに彼は非常に仕事熱心で、かつ巧妙な気配り屋なのである。
 
 九課におけるみずからの役割、周囲が期待する姿をわきまえすぎているからこそ、自嘲や卑屈をいっさいぬきにして、平然とさきほどのような発言をしてしまう。たしかに、そういった側面も彼の一部であることには違いないけれど、それだけではないはずなのだ。なのにパズは、他人に己の定義をあっさりとあずけてしまう。   
 
 たとえばビリヤードなんかで見られるようなあの意外に負けず嫌いなところも、所帯持ちで刑事あがりでおまけに生身というイレギュラーづくしのトグサがこういう仕事に駆り出されたことを気遣うような一面も、りっぱにパズの一部だ。けれどパズは、仕事が絡まないときの己の顔にはいっこう無頓着で、軽んじてさえいるようなところがある。
 いじわるな継母や姉に押しつけられるままふたたびぼろを纏うことを受け入れたシンデレラのように、パズはいつでも、仕事や他者から求められる自分の再現ばかりを優先する。彼のそういうささやかな美しさをこころから愛している存在が、こんなに近くにいるにも関わらずだ。
 
 
 言葉の途切れたボーマをいぶかしみながらも、パズは仕事終わりの一服をやろうとふところに手を差し入れ、シガレットケースを取り出そうとする。またあの抑えがたい衝動が大きく脈打ちはじめるのをボーマははっきりと自覚した。    
 今回は、逆らえなかったというよりも、すすんで逆らわないようにした。
 たちまちのうちにボーマはパズのすんなりとした手首をとらえた。とっさにこちらを見上げてくるパズの虹彩にほんのわずかだがたしかな驚きの色がみてとれる。やっと彼に一矢報いた気がした。そのまま、ビルとビルとのあいだの暗がりへ彼を引き込んでしまう。
 たやすくその身体を身近な壁に押しつけたられたのは、パズの体躯の細さやボーマの力強さばかりではなく、パズ自身がまるで抵抗をみせなかったのも大きい。掌の中で静かに拍をきざむパズの脈が、皮膚をすりぬけ、ボーマの身体の底で低く唸るように打つ鼓動に重なっていく。
   
 「さっきの質問には答えてくれないのか?」
 「野暮なこと言うなよ。――まだ言ってなかったんだけどさ」ボーマはめったに引っ張り出してこないような、とっておきの声でパズの耳朶を湿した。「おにーさん、隅から隅まで、どうしようもないぐらい俺の好みなんだよね」
 「高いぞ、俺は」
 「安心しろよ、これでも公務員だから羽振りはいい」
 一本一本が葉巻のごとく太いボーマの指に、パズは親指から順繰りにみずからの指をからみあわせた。ボーマからすればむごいほどに細く思える指だが、一度とらえられるとこちらからは決してふりほどけない神秘の力を持ち合わせている。  
 「両手の指ていどの金じゃ足りない」
 「両足の指を足しても?」
 「話にならん。たぶん、あんたの身体の中身をすっかり売りはらっても」
 ボーマは口の端を不敵なかたちにもちあげた。 
 「いくらでも言ってみな」
 「余裕じゃないか。そんなに蓄えが?」
 
 大樹の幹に似た首筋に額をすりよせ、パズが問うてくる。首の皮膚の後ろを通る太い血管の血液を直にさざめかせるような息吹を含んだ声だ。腰のあたりにじんと、陶然たる感覚が湧き出してくるのを感じる。このままひといきに彼を抱きしめたくなるのをこらえながら、ボーマはポケットの中から取り出したものをパズの手に握らせてやる。   
 
 「心も身体も満たしてあげちゃう自信があるんだよ……前金、払っとく。これで判断して」
 パズは視線だけ動かして、その中身をあらためる。そしてひとこと、 
 「悪くない」
とだけつぶやいた。  
 


 
 十数センチのヒールでさえパズの颯爽たる足取りをはばむことはできないらしかった。ふらつく様子もなければ姿勢を崩すそぶりもない。ボーマの広い歩幅にもなんなくついて来る。その手をとってエスコートしてやるような機会にはめぐまれそうにもないのが、ボーマにはほんの少し残念である。とはいえ、シンデレラを迎えにきた王子をいまさら気取るには、あまりにぶざまを晒しすぎてしまったのだが。
 「ミルクチョコレートに薄力粉……ケーキでも作るのか?」  
 先ほどボーマに握らされた買い物メモを、パズは指の間にはさんでひらひらとやってみせる。 
 「大正解~。俺特製ガトーショコラだ。しかもそれだけじゃねえんだぜ? 家では昼間からたっぷり時間をかけて煮込んであるビーフシチューと、とっておきの赤ワインがメインディッシュでお待ちかねだ。で、シメにガトーショコラ」
 「しょっぱいもののあとは甘いものと」
 「そのとおり。このコースはパズでも舌とほっぺがとろけるぜ、賭けてもいい」
 
 それにしても、とまるでぶれる気配のない彼の歩みをボーマは感心の目で追うた。  
 「ずいぶん、静かに歩けるもんだな。そういう靴ってもっとやかましいもんだと思ってた」
 「別にふつうだろ? 革靴より少し音がするぐらいだ」
 「そうなの? 昔付き合ってた子がデートにこういう感じの靴履いてきたけど、そんときはもうすさまじかったぜ。彼女も背は大きかったけど、俺が規格外にでかいからせめて釣り合うようにしてくれたんだろうけどさ……話す声がときどき聞こえねえぐらいカンカンカンカン」
 「靴のメンテナンスを怠ったな。この手の靴は履いているうちに踵がすりへって金具が露出してくる。少なくとも俺はそんなだらしないようにはしないがな。そういう女は人間関係のメンテナンスも怠るから、さっさと別れて正解だ」
 「人の彼女に向かって……」
 「元だろ、元。それと、買った男に昔の女の話をするのはいささかどうかと思うぞ」
 「お、妬いてる?」
 この返答はもちろん彼のお気に召さなかったようで、ごく冷淡なまなざしのみが容赦なく突きささってくる。けれど、今はその痛みさえ妙にこころよかった。

 「それより、さっさと買い物をすませて家まで連れてけ。舌と頬とがとろけるディナーとやらが誇大広告じゃないかどうか確かめてやらないといけないからな」
 「へいへい」  
 応じながら、ボーマは悪気のない、無邪気な笑いを口元にたたえて、こうきいた。
  
 「ところでさおにーさん――とろけさせるのは舌とほっぺだけでいいのかなあ?」
 返答はなかった。しかしかわりに、ボーマの足の甲へヒールの踵がすみやかに振りおろされてきた。結果、ボーマはしばらくあたりを犬のように跳ねまわることとなる。
 スーパーの前にまずは靴を買い与えるのが先決かとも思ったけれど、数瞬考えてからやめた。家に帰ってパズのあしもとにひざまづき、その靴をうやうやしく脱がせてやる光栄、彼がお姫様より娼婦より何倍も魅力的な男のすがたを取り戻す瞬間を、この手でもたらせる歓喜、それらをみすみすのがすのは、あまりにも惜しいと思われたから。


 (了)