逢瀬の定式



 不運というのはとびきりやんちゃな子犬の群れに似ている。来るとなったら立て続けに殺到し、あっという間にこちらを取り囲んで引き倒してしまうと、べろべろと遠慮なくこちらの顔やら身体やらをなめ回す。身動きがとれないでいるうちに、仲間の唾液のにおいにつられてまた新たな群れがやってくる、という寸法である、一度目の予兆を見落としてしまったら最後、怒涛の中になすすべもなく飲み込まれてしまうほかない。 
 トグサたちの場合、遠征先で行った仕事が思った以上に長引いてしまったのがその予兆だった。それから、いちどは逸れたはずの台風が再接近したのを皮切りに、悪天候でチケットを取っていた飛行機が運休、その他の交通機関も右へ倣えでストップしてしまい、これはまずいと思ったときには、近場のホテルは軒並み満室のありさまだった。

 その不運の帰結として、トグサとサイトーはこの場所へたどり着いたのである。  

 「ここまで来たらもうあきらめろ」
 パネルを操作しながら、サイトーがしごく落ち着き払った声を出した。サイトー自身は今の状況をとうに割り切っているらしく、反発するだけ無駄というような態度である。狙撃用のライフルパーツを収納した偽装楽器ケースは九課の支給品だけあり完璧な防湿・防水処理が施されているので心配することはなかったが、それを使う彼のほうは、叩きつけるような大雨の難を逃れることあたわなかった。急場をしのぐために買ったコンビニのビニール傘のごときでは、ふたりをぬれねずみ三歩手前に押しとどめるのが精々だった。トグサはむっつりと押し黙ったまま、自動ドアの外で荒れ狂うおもてのようすをうらみがましく見つめている。 
 
 「それなりにいい部屋をとったぞ」
 「そういう問題じゃないだろ!」
 たえかねてトグサは大きくかぶりをふった。いからせきった肩まで伸ばした髪はすっかり濡れているために、そこら中に水滴が飛び散る。そんな彼の憤る様子は、長毛の大型犬が鼻息荒く奮い立つかのごとしだった。
 トグサは踵をかえすとずんずん歩いていって、自動ドアをくぐり外にでる。途端に横殴りの風と雨とが吹きつけ、轟音が耳を聾したが、彼はひるまず、ぎりりと奥歯を食いしばった。
 こんな雨がなんだ、こんな風がなんだ。武装テロリストだの、国家ぐるみの陰謀だのを相手取って戦ってきた公安九課の一員が、台風程度で意気地なく引っ込むなど……。
 
 「……くしゅん!」
 大きく肩をわななかせて、トグサは数回鼻をすすった。いちいち顧みずともあまりに間抜けな様相である。それですっかり気勢を削がれたかたちになって、トグサはやるせなくうなだれた。おのれの不首尾がはなはだ呪わしい。仕事が長引いてしまった時点でそのまま直帰できるなどという甘い考えを捨ててしまえばよかったのだ。あるいはもっと早く、台風再接近のニュースを仕入れていたら!
 「っていうか、なんでよりにもよってこんな場所なんだよ……そりゃあ、ここしかまともに雨風しのげる場所ないけどさ……だいたいここって……」 
 なおも未練がましく、トグサはひとりごちる。すると、玄関の軒先に設置してあるピンク色のネオン看板が、彼の言葉に呼応するようにして視界の端で小賢しくまたたいた。
 
 【女性同士・男性同士のご利用も大歓迎!】

 「……そういう問題じゃない!」
 『おい、いつまでやってる。早く来い』
 あきれたような声の電通がはいり、かくしてトグサはすごすごとホテルの中へ引き返していったのである。 



 
 窓がないのでいささか息苦しさを覚えるものの、部屋は確かにいい部屋だった。大きなテレビやふたりがけのソファ、お決まりのカラオケ、少なくともふつうのビジネスホテルよりは設備も充実しているが、むろんそんなことは微塵の慰めにもならない。照明のスイッチをひねって、部屋全体が見事な青色にそめあげられた時点で、トグサはすべてをあきらめてしまった。
 ベッドは枕が二つ寄り添い並ぶ大きなベッドがひとつきりである。当然だ。こんなところに来ておいて、わざわざ別々に眠るカップルがいるはずもない。部屋自体はさして広くもないから、よけいに立派なベッドの存在感が迫ってくるようである。それも仕方のないことだ。そういう場所なのだ。
 このようにしてひとつひとつ満遍なく、順繰りにあきらめをつけていきながら、トグサはジャケットを脱いで手近な椅子の背にかけ、大きく息をついた。これが彼にとって事実上の降伏宣言とあいなったのである。
 
 「ほんと、こういうところって、時代を重ねても変わらないもんだよな」
 「なんだ、来たことあるのか」
 「なっ……!」
 突然サイトーがこんなことを言い出したのでトグサは思わずうろたえて、結果、サイトーから放られたタオルを取りそこねた。
 「いきなり何言ってんだ。俺はただ、ステレオタイプとしてのイメージを述べただけであってだな」
 「ガキじゃあるまいし、別に来たことあったっておかしかねえだろう。いい年こいて何をおろおろしてるんだ」  

 あきらかにトグサの反応を楽しんでいる言葉の弄し方だ。トグサはサイトーのほうをしっかり見据えたまま身をかがめて、床に落ちたタオルを拾い上げる。
 「そういうサイトーこそ、フロントじゃずいぶん手慣れた様子だったじゃないか。よく使うのか? こういうとこ」
 口調こそふてぶてしく、余裕をたっぷり含ませたつもりだったが、言っていることはまるで子供じみた負けおしみで、こんな反論になんの意味もないことは明白だった。口に出してから後悔した。かえって相手の興をそそるだけである。げんに、サイトーはいよいよ笑みを深くして、だまってトグサを眺めているのである。
 「……風呂、出してくる」
 トグサはしばしサイトーのほうを見て、何か言いたげにしていたが、やがて憮然とした面持ちでこういった。もちろんこれは、先だっての降服宣言と同じく、ほとんど敗北宣言に等しかった。


 風呂は予想通り広めのジャグジ―風呂で、こうまで来るともう微笑ましかった。脱衣所には小さいながらもちゃんとした洗濯機と乾燥機とが据え付けてある。
 「よかった、乾燥機ある。サイトー、服、乾かせるぞ。朝までには乾くよな」
 二人分のシャツやら靴下やらをまとめて放り込み、クローゼットからバスローブを出して、ふたりしてそれを着た。ソファに並んで座り、冷蔵庫から発見した缶ビールで労をねぎらいあう。
 「まあ、遊園地みたいなもんだと思えばいいか」
 ビールを半分ほど飲み終えたころには、トグサもこの不運を受け入れて、のちのちの笑い話にでもしようというあかるい諦観がうまれはじめていた。だから、こんな軽口を叩くだけの余裕もできたのである。 
 「遊園地?」
 「非日常的空間、って意味では、ここもテーマパークみたいなもんだろ。恋人同士のテーマパーク」
 これをきいて、サイトーはいささか過剰なほど明朗な笑い声をあげた。九課の誇るポーカーフェイスである彼は、しかしあるていどまで気を許した人間には特に気取ることなく、屈託ない笑顔を見せるたちでもあった。だがそれにしても、このおかしがり方は少しばかり異様と見えた。トグサのほうが思わずしげしげとサイトーを見つめてしまったぐらいだ。もしこの場に全身サイボーグの同僚をはじめとした九課の古株連中が居合わせたとしても、だいたいトグサと同じような反応をしたに相違ない。
 サイトーは上機嫌にビールをあおりながら、
 「なるほどな、恋人同士のテーマパークか」
 悪くないな、サイトーが小さくつづけたのをトグサはききのがしてしまった。もう頭から、サイトーの一連の反応を疲れのためだと結論付けていたからだ。そこで、仲間思いの彼はこう提案したのである。
 「そろそろお湯、溜まったかな。サイトー、先に風呂入っちまえよ。今日いちばん疲れてるのはサイトーなんだから」
 「ああ、悪いな。そうさせてもらう」
 立ちあがったサイトーはそのまま風呂場に向かおうとしたが、ふと、立ち止まって、トグサのほうをじっとみつめた。

 「ん? なに?」
 「いや……」 
  トグサが問うとサイトーはすぐに彼から背をむけて、とくにこだわりもなさそうに去って行った。ますます困惑するのはトグサである。
 どうもここへきてからサイトーの様子がおかしい、と思う。たんに疲労だけの問題であろうか。トグサはここへきて疑念をいだく。思い返せば、エレベーターからおりて部屋に向かうまでの廊下でも、サイトーはいやに颯爽たる足取りだった。彼の歩みはいつもきびきびと、いかにも無駄を嫌う仕事人然としているのだが、平時のそれと今日のそれとでは、なにかが決定的に異なっているような気がした。
 浴室からシャワーの音がきこえてくる。その水音に耳をすませていると、ここがどういう場所であるかおのずからまた意識してしまって、トグサはまた大きくかぶりを振らざるをえなかった。
 
 (バカじゃないのか、俺は……これじゃあまるで……そういうことを、期待してるみたいじゃないか) 

 ひとりでああだこうだと考えているうちに、サイトーがバスタオルを腰に巻いて風呂から出てきた。湯に浴(つ)かっただけで 風呂に入る前はたいして気にもとめなかった彼の肉体が、こんな軽薄な照明のしたでも艶めいて見えてくるのはもはや神秘だった。  
 サイトーはトグサよりいくぶん身長が低く、大柄な男ぞろいの九課ではこと小柄なほうに見えたが、それなりの重量を持つ狙撃銃を支え、自在にあやつるため、特に上半身はかなり鍛え上げている。胸板は厚く、腰の引きしまった、均整のとれた体つきである。やみくもに鍛えただけではこうはならない。肉体のもちぬしに似て、むやみとその威容を誇示することはないけれど、一度ふれれば誰しもが、そこに精悍で堂々たる精気が充溢していると知りえる。
 トグサの目線は肉のつまって盛り上がった彼の肩にすいよせられた。癖で、夢中になってくるとつい歯を立ててしまう場所――。
 「どうした?」
 「えっ!? あ……なんでもない」
 トグサはぎこちなく目線をはずして、足早に風呂場へ向かう。その背中に、サイトーの視線をはっきりと感じ取っていた。



 ジャグジーバスはさかんに湯の噴流を吹きだしてはうねっている。縁からあふれてタイルにこぼれた湯がすっかり冷えてかじかんだ足指を温めてくれた。透明で豊かな湯が張られた浴槽にゆっくり身を沈めると、トグサはぐっと手脚を伸ばす。と、彼は正面の壁に何やらいろいろとスイッチのついたパネルを発見した。
 「もしかして……」
 操作してみると、思ったとおりだった。数々のスイッチはやはりお約束通りのもので、湯の色をピンクだのブルーだのグリーンに変えてくれる代物であった。さらにその脇にすえてあるスイッチをひねると、簡単なホログラフが浮き出てきて、浴室全体が南国のプール風だの、夜景を望む露天風呂風だのに様変わりするしくみである。
 「あはは」
 トグサはあえて声を出して笑った。次々にスイッチを切り替えて、またそのたびに声を出して笑い、いちいちおおげさに面白がった。脱衣所に置いてあったアメニティの泡入浴剤なども投入した。自分を鼓舞して、はしゃいで、とにかく一刻も早く、脳裏でサイトーの裸体を思い描くのをやめようといういじらしいような心算から、トグサは童心にかえって、なかば義務的にはしゃぎつづけた。
 

 「なにをはしゃいでいるんだ、お前は」
 子どもに言い聞かせるようなもっともらしい口ぶりなので、よっぽどトグサも反論したかったが、かなわなかった。
 ジャグジーバスであれやこれやと試して遊んでいるうちにすっかりのぼせあがってしまったトグサは、結局、浴槽から出てすぐめまいを起こして立ち上がれなくなり、電通でサイトーを呼び出して助け起こしてもらうというなんとも情けない末路をたどることとなった。着せてもらったバスローブもわずらわしいように思われて、トグサはシーツの上で何度か身じろぐ。 
 「……おちついていられるわけ、ないだろ……」
 「なんだって?」
 「こんなとこで、二人っきりで……」 
 いろいろ伝えたいことはあるのだが、のぼせあがった頭ではうまくまとまらなかった。
 トグサはまたけだるげに身体を揺すって、悩ましく息をつく。それを見たサイトーがごく短く息をひいたことに、ぼんやりしているトグサは気がつかない。彼としてはさきほどのため息にしたって、格別に意識したわけでない、ひどくなにげないものだったのだ。だからこそ危険である。この無意識の媚態は見るもののふところにいきなり飛び込んでくるような、有無をいわさぬ迫力がある。受け止めずにはいられない。それでいてトグサ自身のほうの無防備さは一級品である。そういうしぐさがどれほど男の心をおののかせるかを、彼自身はまるでわかっていないと来たものだから、こんなに危険なことはない。
 上気した頬に洗いざらしの髪がひとすじ流れる。だが、トグサはやはりなんにも気がつかないまま、ちらりと舌を出して唇をすこし湿した。

 するととつぜん、目の前が翳ったので、トグサは伏せぎみだった瞼を持ちあげた。サイトーの顔が目前に迫っていた。 

 「ちょっ、サイトー……」
 喉元に彼の唇を感じ、トグサは反射的に彼の身体を突きのけようとした。だが、湯あたりでまだうまく力の入らない腕はたやすくとらえられ、押さえつけられてしまう。 
 「おい、冗談よせよ……いくらなんでも、こんなときに、あ、あっ!」
 不覚の性感を探り当てられ、トグサは期せずして声と腰とを跳ねさせた。ボディソープの匂いにまじって、喉を蒸すような男の体臭をかぎとる。その匂いは身体の芯をまたふやけさせるようであったが、霞がかった朦朧たる心持と同時に、それとは相反する、しびれるような快感も波打っておしよせてくる。ゆるく顔をあげたサイトーの、情慾が脈打つようなまなざしに射すくめられてしまえば、もう抵抗などできなかった。
 サイトーがふたたび唇を寄せてきたので、トグサはさっと顔をそむけたが、なかば儀礼的なしぐさだった。あらがう意志はとうに失せていた。
 すぐに両の頬をしっかりとらえられ、ほとんど半開きになった唇がきつく吸われる。トグサが呼吸を整えるのを見計らってから、すかさず舌がねじこまれた。トグサは 性急に求められるのは、彼自身嫌いではなかった。微妙に角度を変えてキスを繰り返しながらも、サイトーの左手は手探りでトグサのバスローブの前紐をすばやくほどき、肌をあらわにさせてしまう。サイトーの左腕は義体であるために、ほてった身体にひんやりと心地よく染みた。だが、それだけで済めばよいものを、彼の手がふれたところはあまさず皮膚の毛穴が開いて、そこから甘酸っぱいような官能が突き上げてくるので、トグサは息をはずませ、呼吸を震わせる。そうこうしているうちにサイトーの手がいよいよバスローブをトグサの身体からひっぺがしまったので、トグサはいつものように、彼の首のうしろに手を回して、目を閉じたのだった。 

 ……息もたえだえになりながら、トグサはずっと気になっていたことを、ふと問うてみる。
 「あのさ……」
 「ん?」
 「なんか今日、はしゃいでない……?」
 サイトーは答えず、ただかすかに笑うだけだった。吐息めいた例の笑い方、その末尾で震える息の余韻が、トグサのこめかみにあたる。額にかかる髪をかきわけ、そこに口づけてやりながら、サイトーはトグサのしっとりと湿った太腿に手を這わせた。



 舌にのせた冷たく甘いアイスクリームは申し分ないおいしさであったし、腹のあたりに回された逞しい腕、汗ばんだ背中に伝わってくるおだやかな心音、どれもひどく心地よかったが、トグサはあくまで心を鬼にした。
 「信じられねえ。ふつう、のぼせた人間にあんなことするか? エロい漫画の読み過ぎじゃねえの?」
 それから、聞こえよがしに咳払いなどしてみせる。
 「あーあ、まだ喉いがらっぽいし、顎は痛いし……」
 トグサは腹に回された腕に自分の手をかさね、その上からゆっくりと自分の腹を撫でるようにした。
 「……やめろ、って言ったじゃないか。大変なんだぞ、いろいろ」
 「そう拗ねるなよ。それよりどうだそのアイス、なかなかうまそうだな」
 彼の声は涼しいもので、甘くささやくような調子さえあった。反省の色もないのは明白なのに、まったく腹がたたない自分にトグサは腹をたてた。だから懸命に、突き放すような声で言葉をかえす。
 「子供じゃあるまいし、まさかこんなもので機嫌をとろうと思ってないよな」
 「おいおい、うぬぼれもいいとこだな」
 サイトーが忍びやかに笑ったので、当然トグサのうなじのあたりにその吐息がかかる。トグサは身をよじった。
 「機嫌をとろうなんて気はさらさらない。ちょいと雑学めいた話になるが、こういうところは甘い食いもののメニューが充実してる。なぜだかわかるか?」
 「は? いや、そんなの知らない……あっ、おい、んっ」
 耳のふちをやわらかく食まれる。さきほどの余韻もさめやらないうちにそんなことをされてしまうと、たまったものではない。にわかに敏感さを取り戻した身体がびくりと跳ねさせて、トグサはぐっと声をこらえようとする。
 「ヒントをやろう。一、疲労回復。二、二回戦」
 「……それ、ほとんど答えじゃないか……?」
 サイトーはここでもやはり答えなかった。しかしトグサは、またしても予兆を見落としてしまった己の不始末がまた新しい奔流を呼び寄せているのをはっきりと自覚している。そして、今回の最大の問題は、その奔流の中にすっかり取りこまれてしまうのを、トグサ自身まんざらでもなく思っていることだった。いまだって、腰にまわした腕に力を込めはじめたサイトーに口ではさかんに抵抗をしながらも、まるで逃がれようとはしないのである。だったらいっそおとなしくしていたほうが潔いのだが、それでは面白くもないし、何をしたところで、どうせサイトーにはトグサの本意などとうに知れているに違いないのだ。
 
 
 (了)

・SACのBLではサイトー氏とトグサさんの組み合わせがかなり好きです。ホモカプを長らく書いていないので慣らし運転的に私的「BLのお約束事」が怒涛のようにやってくる小説にしてみました。ラブホテルへのやむない宿泊とか、お風呂上りの相手にドキッとするとか、突然の発情とか。やおいやおい。