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残留思念と犯罪力について



 『ルナティックス』にて射殺された華山リョウは、直後に「死念」なる幽霊まがいの存在となって主人公とクサビの前に現れる。

 「よく見ろ! これが犯罪の”死念”だ コイツらの持つ 犯罪力が生み出した悪魔だ」

 クサビの言う「死念」、のちに物語のもう一人の主人公モリシマトキオが悩まされることとなる「残留思念」は非常に似通っており、この両者は呼称に違いがあるのみでほとんど同一の存在であると推測できる。本考察では呼称を「残留思念」として統括する。
   残留思念は先でクサビが述べたところによれば「犯罪力の生み出した悪魔」だそうだが、そもそもこの犯罪力の定義が作中ではあいまいになっている。
 
 犯罪力、というキーワードが再度浮上してくるのは「ライフカット」の中盤、つまり物語も核心に近づきつつある段階になってからだ。すなわちシェルターキッズ政策の目的、「子供たちを適切な区民に育て上げるため、高い犯罪力を付与し管理する」のくだりである。

 シェルターで育てられた「カムイ」・「アヤメ」は幼少時からの高度な教育により潜在的に高い殺人能力を有している。アヤメ部隊の雛型となったシモヒラアヤメは、作中でも高い戦闘能力と残虐性をいかんなく発揮している。少なくとも公安の秘匿特殊部隊をひとりで壊滅に追いやるほどの能力を有していることは、プレイヤーも知るところだ。また、同じく「アヤメ」であるサクラは、小説版『フェイス』にてその射撃能力の優秀さ(研修所に入所して以来射撃の成績は不動のトップ)を描写されており、「さして努力することもなく的の真ん中を打ちぬける」という一種の才能めいた記述がされている。「アヤメ」として犯罪に有用な能力を植え付けられた片鱗がうかがえる。(※小説版はライターが違うためゲーム本編と矛盾している箇所が散見するが、サクラが「アヤメ」であり、「アヤメ」の戦闘力が高いことは原作でも事実として描写されているので、本例では引用した。)

   犯罪力を純粋な戦闘力ととらえるなら、あっさりとシモヒラアヤメに不覚を取られたチヅルが「できそこない」と称されるのもそれなりに納得がいく。そして、シェルターで育てられた子供たちに求められたのは高い殺人能力のほかにその従順さであり、つまり犯罪、人殺し、いかな残忍にも躊躇しない徹底的な「制御能力」だ。命のやりとりをするにあたっては、たった一秒のためらいさえ己の身を危険にさらすことになりかねない。そういう意味では、この「躊躇のなさ」はある意味戦闘能力の高さを示す最たる指標といっていいかもしれない。

 管理された実験場の中で能力を植え付けられたシェルターキッズたちの犯罪力が高いのは当然だとしても、なぜカムイでもないクサビがその存在を感応出来るのか。クサビが並みはずれた戦闘能力の持ち主であり、「処分」――人を殺めることにためらいがないという、「カムイ」たちとくらべてもほとんど遜色ない犯罪力の高さを有しているからではないだろうか。クサビの引き金にはいっさい迷いがない。旧知であったコトブキ、モリカワを射殺した時さえ、寸分のためらいなく一発で仕留めている。だが、彼とてまったく葛藤がなかったとは考えがたい。クサビは作中一貫して昔堅気のデカとして描写され、その情の深さは『パレード』でのスミオ逮捕シーン、『カムイドローム』のラストシーンなどでうかがい知ることが出来る。ただ、彼はそんな内面の葛藤を踏み越えて、「自分の正義」を貫く方に身体を動かすことが出来る強靭な精神力があるのだろう。

 物語中盤から終盤、そしてED後も残留思念の声なき声と姿にさいなまれ続けるトキオだが、彼はチヅル同様「できそこない」の烙印を押されたカムイである。単純にできそこない=犯罪力の低さというならここで少しばかり矛盾が生じる。なぜ「できそこない」のトキオがああまで敏感に残留思念たちに感応するようになったのか?

   トキオができそこないの烙印を押されたのには少しばかり込み入った事情がある。そもそもトキオははじめから劣等生だったのではなく、むしろ優秀な部類であったと「ヒカリ」で語られている。しかし彼にはある欠陥があり、それがもとで人格崩壊を起こしたトキオはすべての記憶を抹消され、一般人として、カムイのできそこないとして、日常に解放されたという経緯があるのだ。

 優等生であったということは、やはりカムイとしての素質(犯罪力)もじゅうぶんにあったということだろう。だが、記憶を消されて日常に放たれ、単なる一般人として長く生きてきたトキオにはもはや「カムイ」としての犯罪力は薄らいでいる。
 
 だが、シェルターでの強力な教育によって植え付けられたカムイの因子はそう簡単に根絶しなかったのだろう。『ユメ』でトキオはナオミケイという「アヤメ」の一人と遭遇し、そしておそらく彼女がシモヒラアヤメによって殺害されるのを目撃した。『デコイマン』で自失状態のまま座りこんでいるのをアキラに発見されたトキオは「カムイガハイッテクル」とうわごとのように漏らしている。アヤメであるナオミケイ・シモヒラアヤメとの接触、そしてその殺害現場の目撃。これらの出来事が、トキオのうちに眠っていた「カムイ」の因子を呼び起こしたのかもしれない。本来自分の内部に周到に植え付けられたものであるが、それがいきなり揺り起こされるのは自分の中に異質な他者が「入ってくる」ような感覚に近いはずだ。
 事実、ナオミケイとのこと、バビロンでのことを思い出してから、トキオは彼女の残留思念の気配を感じるようになり、やがてははっきりと視認し、その声を聞くにまで至る。
 
 それから、これはいささか飛躍した(つまりけっこーむりやりな理屈)だが、できそこないの兄妹ことトキオとチヅルの兄妹は普通の人間より感受性が強いのかもしれない。その特殊な出自の関係もあるにしろ、二人とも根は繊細であることが作中で何度か示唆される。
 チヅルはプロファイリングを得手としているが、モリカワはその仕事に関して「人の意識を受け入れる仕事であり、常に複数の人格に圧迫されている」「自意識を守るので精一杯」と評し、それが彼女の情緒不安定につながっているのだと暗に示している。そしてさらに「恐山のイタコのようなもの」とも語っているのだが、これは回を増すごとに残留思念たちの存在に圧迫されてゆくトキオの状況にもそっくり当てはまる。ほとんどダメ押しで、トキオは「ヒカリ」でシモヒラアヤメの残留思念に一時意識を奪われ、アヤメからのメッセージをみずから打たされたという、いわゆる自動書記を思わせるような描写がある。(アヤメからのメッセージとして送られてきたメールは、当のトキオのパソコンのアドレスから送られてきたものだった)これが恐山のイタコ、というわけだ。

   四六時中狂気にまみれた幽霊もどきを知覚してしまうぶんトキオのほうが話は深刻だが、兄妹そろって「他者の人格に圧迫され」「自意識を守るのに精一杯」という因果を辿ってしまっているのは、二人がカムイでありアヤメであるゆえなのか、元からの感受性の高さと繊細さが関与しているのか、それとも両方なのか、気になるテーマではある。



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