瞳のゆくさき

 


 「あっ……んぐぐぐぐぐぐ」
 
 彼なりの抵抗には違いなかった。だが、その口中に無理やり押し込まれたものは太く、あらがうにはあまりにも薄弱にすぎる。舌一枚ごときで押し返せるはずもない。にも関わらず、噛みちぎってやると脅す気配すら見せないトグサに、パズはなかば呆れ、なかば安堵した。一度敵と認めたものには容赦なく牙を向くのに、生来お人よしで、なおかつ生一本に出来ているこの男は、身内に対してはどうにも甘さを切り離せないところがあった。この天分の美徳かつ最大の弱点でもある性分は、たとえ隊長の座についたところで、容易にあらためられるものではない。先に述べた、パズの半々の呆れと安堵とはここからきていた。

 泥酔状態のところをトイレの個室に突然連れ込められ、ろくな抵抗もできぬまま口内を好き勝手に犯されているトグサは、度を越した酩酊でうるんだ目をパズに向けた。赤くにじむ白目と、暗い茶色の虹彩とが今しも溶け合おうとしているようにゆらいで見える。と、そのまなじりがひどく不器用にゆるめられた。困ったように微笑もうとしたのだと気づいた瞬間、パズはらしくもない衝動に駆られた。どこか義務感めいたものだった。咄嗟に、トグサの喉の奥を強く突いてしまったのはそのためである。
 
 「うぁっ――! がはっ、げほっ!」
 
 ひどく籠ったうめき声とともに、便器の縁を掴むトグサの指先が白くなる。すかさずパズはまとめて突っ込んでいた二本の指を引き抜く。唾液でぬらつく指をハンカチでぬぐっているあいだに、トグサははげしくえずき、堰をきったように嘔吐しはじめた。
 パズは落ち着き払った動作でハンカチをたたんでしまうと、トグサの背中にそっと手を添える。嘔吐の合間に荒く上下する肩のうごきをなだめるように、数回、その背を軽く叩いた。
 



 
 最初から決まりきった行程だった。パーティーは退役軍人とその取り巻きで構成されていた。彼らは次から次へとトグサに強い酒を強い、さんざんに酔わせ、これでもかと入念に酔い潰して、最後には意識の朦朧としたトグサひとりを会場に残してめいめい帰っていったのである。事前に打ち合わせたかのごとき周到さと迅速さで、ことは執り行われた。

 ちょうど近くで別の仕事をしていたパズが彼を迎えにきたとき、トグサは広いパーティー会場の隅でほとんど行き倒れの風情だった。とても事情をきけるような様子ではなかったが、パズは彼の身に何が起こったか薄々察していた。それでも一応有線をして、トグサの目線から事の次第を確認したのは、新米隊長として逃げることなく役割を果たした彼の補佐役として、相談役として、そうするのが当然の礼儀だと思ったからだ。  
  
 彼らの行いを悪辣かつ陰湿な仕打ちと簡単に片づけるのは、いささか浅慮である。こんな事例は非常にありふれたもので、どこにでもある話だからだ。ほとんどしきたりと言っていい。そしてトグサが公安九課の新隊長に就任した以上、これらは避けて通れない宿命だった。
 総理直属の攻性組織の名目のもと、秘匿部隊とはいえ様々な恩恵にあずかる公安九課は、つねに注目の的だった。良くも悪くも。彼らの仕打ちは新隊長のトグサがどのような男であるかを推しはかり、見定めるためのいわばテストの一環である。トグサに様々なシチュエーションを課して、それに彼がどんな反応をするか、どう受け答えるかを逐一観察しているのだ。
 もちろん、全員が全員、純粋に彼の力量や器を確かめようとしてこういう暴虐に及んだわけではなかったはずだ。たかが警視庁の、それも一刑事あがりの若造が分不相応に出世したのを気に食わなく思い、テストに乗じて単純に悪意をぶつけようとした者も山といるだろう。あるいは、自分に都合良く操縦できそうな男かどうか。海千山千の軍人たちのもくろみが絶妙に互助しあった結果、あの周到さが発揮されたのだ。そんなところまで秩序化されているのはさすが軍人だとパズは胸中で皮肉をもらした。  

 渾然たる思惑の視線に体の奥底までさぐられ、時にはむきだしの嫌味さえ投げかけられながら、トグサは勧められただけ酒を飲み、笑顔で歓談に応じ、真摯な顔つきで議論に参加した。多くの人間は、とりあえず彼に及第を与えただろう。その及第の内訳もまた、彼を推しはかろうとする理由同様におのおの異なっているに違いなかった。新隊長としての経験不足を自覚しているからこそ、あらゆる打撃の数々も甘んじて受忍し、九課の隊長としてふるまおうとした姿勢に清廉さや誠実さを感じたのかもしれないし、青臭い正義感のいまだ抜けきらない彼を、以前の女隊長と違ってずいぶん扱いやすそうだとあなどった結果かもしれない。
 
 水道でトグサに口をゆすがせたあと、パズは今にもその場にへたり込みそうなトグサの脇の下に腕を差し入れて身体を支え、歩き始めた。泥酔した人間の身体は水を吸ったように重い。自分の身体をまともに支えることさえままならないのだから当然だ。それでも死体を運ぶ手間よりはずいぶんマシである。
 トグサは気丈にも、なんとか自力で歩いてみせようとする努力をみせたが、ますます足取りに危なっかしさが増すだけだった。結局、ほとんどパズに引きずられるような形になる。
 うなだれたトグサの、燃えるように熱い頬がパズの頬をときおりかすめた。だが、何かのはずみで今度は彼の手にふれたとき、当然のように頬と同じ熱を持っていると思われたそこはまったくの平温を保っていた。だからパズはほんの一瞬たじろいでしまう。九課唯一の完全生身(フレッシュ)の座をトグサが捨て去って一ヶ月にもなろうとしていた。
 三日の徹夜仕事ではびくともしない身体、を目安に義体化したとトグサは語っていたが、こうまで容赦なく酔いつぶされるのは彼の定義する仕事の勘定には入っていまい。
 吐息と背中は熱く湿り、頬の紅潮は彼の体内を流れるあたたかい血の色を濃厚に想起させる。パズの身体でさぐれるだけでもこれほどに、あふれるほど生の感触がみちみちているのに、手だけはトグサの苦痛など素知らぬふうで、清潔につめたかった。それがいっそう、ひとつの身体のうちでせめぎあう無機と生身の肉とをつよくパズに意識させる。自分が遠い昔に置き去りにしてきた葛藤を、彼はおのずからに思い出していた。
 「ほら、行くぞ。すぐどこかに部屋を取るから、今夜はそこでおとなしくしてろ」
 「待った……まだ、仕事」
 「酔っ払いにやる仕事はない。税金つぎ込んで改築した九課の新しいオフィスを、隊長自ら先陣切ってゲロまみれにするつもりか? 課長にさんざん絞られたいなら止めんがな」
 トグサはしばし黙った。何度かもの言いたげに唇をはくはくとさせ、またつぐむというのが数回続いたのち、
 「ごめんな」
 うわごとめいたひとことが耳朶にふれた。
 

* *

 パズの手際は実に鮮やかだった。九課のオフィスにほど近いホテルの一室をすぐさま確保すると、タクシーをつかまえ、その車中でトグサの心配ごとであるおびただしい残務処理をオフィスに残っている課員で分担させるよう素早く手回しを済ませた。その間に自らの仕事の報告も電通でおこなう。信号待ちのたびにフロントミラーをのぞき、トグサの顔色に露骨に嫌な顔をする運転手へチップを握らせて、従順にさせておくのも忘れない。
 窓外を新浜の街灯りが緩慢に流れてゆく。トグサをおもんばかってわずかに開けた窓から夜風が入り込み、肌を涼ませた。肌に粘つくような湿度はもう感じられない。十月も終わりが近かった。街を行き交う人々の中でも、気の早いものはもうコートを羽織っていたりするのである。

 ついこの間までは真夏の陽射しの下、ウチコマのポッドに籠もって新人の訓練に勤しんでいた気がする。だが時期的には二、三ヶ月ほどの違いしかない、あの桜の二十四時間監視だけは、百年も前の出来事のように思われた。
 ぐったりしているトグサのネクタイをゆるめ、ワイシャツのボタンをふたつほどあけてやる。あらわになった喉が、一秒ごとにかたちを変えて車中に差し込む灯りに陰った。
 「着いたら起こす。寝ていていいぞ」
 トグサは頷いたものの、瞼を落とそうとしない。かわりに彼は少しだけ、パズの身体にもたせかかる。そして頬にえくぼのできるほど、強く口をつぐんだ。 
 その目のうちに、苦悩と葛藤がうずくようにまたたいているのを見ることができる。自らの力不足による周囲からの侮り、双肩に食い込む重圧に肉体も精神もむしばまれながら、彼はその痛みをやり過ごしたり、なるべく早く忘れようとは試みない。むしろしっかり見据えている。身体と魂のすべてでもって、苦痛を受け入れているのだ。いつかその傷のなまなましさこそが、容赦なく抉られた痛みの記憶こそが、唯一自分の力たりえるものだと無言のうちに語らんばかりである。  
 パズはふたたび窓の外へ視線を戻し、トグサが身をゆだねるままにさせた。 

 
 
 ホテルの部屋に足を踏み入れた途端、トグサは完全に気力が抜けてしまったらしい。亡霊めいた足取りでなんとかベッドまで歩いてゆくと、うつぶせに倒れ込み、ぴくりとも動かなくなってしまう。パズはそれを見届けてから、トグサの身の回りをいろいろと整え始めた。カーテンを閉めて、冷蔵庫を開け、備えつけのミネラルウォーターを取り出す。
 「水はベッドの脇に置いておいた。白湯がほしいなら言ってくれ」
 「……ん」
 トグサの上着をハンガーにつるし、パズは窓際の椅子に腰かけた。いつもならここでさっそく一服やるところだが、泥酔して気分を悪くしている人間の前で悠々と煙草をふかすほど彼は無神経ではない。しかしどうにも手持ちぶさたになってしまい、机上のルームサービス表をつれづれにめくってみたりした。 ちらとトグサのほうをうかがってみると、トグサはこちらに向けた背中を丸め、真っ白なシーツに身をうずめて微動だにしない。動物のこどものごとき無防備さだった。以前は何かの願掛けか、髪を襟足近くまで長くのばしていたのを、隊長就任に際して短く切ったために、男にしては明澄に白いうなじがのぞいている。これだけの状態でもベッド横の脱いだ靴はしっかりそろえられていたのが、トグサの頑なさを語るようだった。

 「フロントに言って、何か果物でも持ってこさせるか?」
 パズの言葉にトグサはやや身じろぎしてみせた。パズがいさめても、彼はゆるくかぶりをふって、けだるげに身を起こした。枕を立てて、背をあずける。
 「言わないんだな」
 「何をだ」
 「……中途半端に義体化しないで、消化器系も義体化しろ、とか」

 アルコールをどれだけ接種しようが、特定の臓器を義体にしていれば任意のタイミングで瞬時にアルコールは分解され、ものの数秒で酔いから醒める。こんな苦しみからは無縁になる。
 だがトグサが内臓器官で義体化をほどこしたのは心肺機能のみだった。胃や肝臓をはじめとした消化器系統の内蔵はいまだ生身のままになっている。 
 「言わん」パズは手短に答えた。「そこを義体化したら、嫁の手料理が食えなくなるだろう」
 トグサは意外そうに目をみはった。 
 「パズもそんなこと、言うんだな」
 「お前の愛妻家ぶりなんか嫌と言うほど知ってる。時々言ってやりたくもなるさ」
 「いやいや、そっちじゃない。今の言葉、カミさんの料理とか、そういうの、大事なものだって認識してないと出てこない言葉だろ? パズってそういうのあんまり重視しないと思ってた」
 「お前の中で俺は相当に非情な男で通ってるらしいな」
 「同じ女と二度寝ない、なんて堂々と宣言してる時点でそう思われても仕方ないぜ」
 「情はある。ある程度解してるつもりでもいる。ただ、愛がないだけだ」
 「なるほど、パズ君は非博愛主義者だな。でも、多情だ」
 「多情はどっちの意味で言ってる?」
 「両方」
 ずいぶん呂律がはっきりしてきたのが、パズをひそかに安心させた。胃を空っぽにしたうえで他愛もないおしゃべりに興じ、気分がほぐれたのか、顔色も先ほどに比べこころもち良くなってきたようだ。
 トグサはひとしきり笑い声をたてていたが、にわかに神妙な顔つきになって、 
 「ほんと、ごめんな」
 「それはさっきもきいた。酔っ払いは同じ話を何度もするから困る」
 「今のことだけじゃなくて、ずっとだ。俺の補佐役なんて任せちゃってさ。正直なとこ、やりづらいだろう?」
  トグサの声色は話になるべく深刻な色合いを持ち込むまいとして気軽なふうだったが、その明るさは病床に飾られた花束のように、かえって彼の抱える暗い劣等感を垣間見せるようだった。 

 最古参のイシカワは人員拡大で大量に補充された新人の指導に日夜奔走しているし、前線に立って戦闘を指揮する隊長の任をあずけるにはいささか年が行き過ぎている。バトーはといえば、素子なき九課にどうしても以前ほどの意味を見いだせなくなっているのが誰から見ても明らかだった。何の表情も動きも生み出さないはずの無機質な義眼は、物憂く、驟雨の予感を思わせる暗い雲の陰りがかかっているように見えた。まっさきに彼にもちかけた隊長職の話を蹴られた矢先、ならばと隊長補佐の任を彼に勧めるのは 荒巻とてはばかられただろう。結局バトーは新人たちの訓練教官におさまったので、パズに補佐の役割が回ってくるのは順当といえた。パズはほとんど機械的にその話を受けた。トグサの補佐になってこの方、やりづらい、などと露ほども考えたことはない。もっと言えば、仕事においてやりやすい、やりやすくないを考慮したことが彼はほとんどないのだった。だからいつものように、己に課せられた職務を全力で遂行しているだけだったのだが、トグサはそうは考えていないらしい。
 
 「パズは本当なら、単独での内偵や捜査がいちばん得意なはずだ。誰かの側について仕事をサポートするような役割は、向いてないとまでは言わないけど本分じゃないだろ」

 期せずしてパズはじっとトグサを見つめてしまった。思った以上に、この男が自分のことをよく観察し、パズ自身でさえとりわけて意識していなかった長所を明確に簡潔に言語化した感慨に少なからず打たれたからである。
 「わかるさ」彼の胸中を見透かしたように、トグサが力なく笑う。「ずっと見てきた。パズも、旦那も、他のみんなも。置いていかれないように、必死になってたからな」
 「……驚いた。お前はバトーばかり追いかけてたと思っていたが」
 「パズのこともちゃんと見てたって」

 ほとんどが軍属あがりか、それに等しい経歴を持つ九課において、ここでもトグサは異色だった。荒事に慣れているとはいえしょせん彼は従軍経験もない一介の刑事で、おまけに所帯をもっていた。そんな経歴のところへきて生身である彼の戦闘力がほかの課員に劣ってしまうのは当たり前のことで、たとえトグサ自身がいくら努力を重ねても、溝が埋まるはずはない。だからトグサはせめて、皆の足を引っ張らないようつとめ、その背中を死に物狂いで追い続けてきた。だがトグサは一夜のうちに、彼らの背を追うどころか彼らを率いる立場になってしまった。シンデレラ・ボーイなんてなまやさしい話ではない。トグサ自身の実力が隊長の座をさずけさせたわけではないのだ。その自覚さえ、いったいどれだけ彼を傷つけたかしれない。 
 
 「隊長なのに課員の良さを活かしきれないどころか、隊長自身の力不足でみすみす削ぐような真似をしてる。情けないよな。こんな俺が少佐の後釜なんて」 
   
 草薙素子は絶大な存在だった。逸材揃いの公安九課でも頭一つどころではない抜きん出方をした女性であり、およそ人の上に立つためのあらゆる天分に恵まれていた。彼女の背中はいつもはるかに遠かった。トグサからすれば、どんなに追いすがってもその影さえつかめなかったに違いない。パズにしてからがそうだったのだ。九課のメンバーがつねに個の最高の力を発揮できたのは、彼女の采配に依るところも大きかった。その彼女が抜けた穴を塞げる人間などおいそれといるわけがない。結局、素子去りし後の九課は、以前より内々に話を進めていた新体制への変革を強固に推し進めるよりなかった。
 公安九課は荒巻と、そして素子とともに歩んできた組織といって遜色ない。表だって口には出さぬものの、かつての九課のメンバーの中で彼女の影を胸裡に住まわせていないものなどいない。瞼を閉じればあの鮮烈な美しさを、苛烈な強さを、だれしもが思い出せる。彼女の代わりを務められるだけの人間がはたして世界に何人いるか。
 事あるごとにトグサは自らの非力さをむざむざと見せつけられ、同時に素子の絶大さをも繰り返し突きつけられる。今日の出来事など可愛いものだ。この先幾度となく彼は膝を折り、泥靴で内臓を踏みにじられるような痛みが到来するのを覚悟せねばならない。それも予感ではなく、すでに決まり切った予定として。
 九課での経験はトグサに多くのものを獲得させたが、そこで得たものをもとにして、新人が堅く強固な大樹に育っていくにはどうしても時間がいる。だが、彼は九課において中堅の立場というものをほとんど味わえなかった。がむしゃらに他のメンバーの背を追っていた新人の身分からいきなり頂上に引き上げられて、自らの成長すら自覚できないまま、そもそも本当に自分は前に進めているのかという疑念にさえしじゅうかられている。いつ崩れるともしれない足場の不安定さにおびやかされながら、二本の足だけを頼りに立っていなくてはならない。 
 
 「俺は無力だ。誰かに……家族や、仲間に……支えてもらっていないと、ひとりで満足に立つことだってできやしない」
 額を手のひらで覆うトグサの瞼に、車中で見たのと同じ苦痛の重しが見えた。パズは椅子から立ち上がって、足音もなくベッドのほうへ歩み寄った。縁に静かに腰を下ろす。
 「確かにお前は弱い。九課で戦っていくには、まるで研ぎ澄まされちゃいない」
 「……鈍い、ってことか」
 「少し違う。そうだな、純化されていない、とでも言いかえればいいか」
 ふだんあまり多弁でない彼は、しかし腰をすえて物事を語るときには淀むことなく、簡潔にすぱすぱと言葉を並べるたちであった。
 「つまり……俺は不純?」
 「不純だ。こういうところで戦っていくのに、お前の身一つ投げ打つだけじゃまるで足りない。自分に関係するありとあらゆるものを切り離して、あるいは手放す覚悟をして……完全な個になってようやくだ。その点お前はどうだ。自分以外の人間の人生をしっかり抱え込んで、あまつさえ必死に守ろうとしている。手放す気もないときた。わかるか? トグサ、お前は重いんだ」

 パズの言わんとしていることをさとったのか、トグサは額にあてていた手を退かし、顔をあげてパズの瞳をじっと覗きこんだ。自分の弱さを突きつけられたときこそ、誰よりまっすぐな目でそれを見据える。トグサがそういう男であるのを、パズは知っていた。 
 
 「だが、少なくともおまえはただ弱いだけじゃない」
 だからこそ、彼は一呼吸置いてこう付け加える。
 「弱さと向き合うすべを心得ている。……おそらく、九課の中のだれよりも」
 トグサはほんの一瞬、パズにも見覚えのある眉のひそめ方をした。外部記憶を漁るまでもない。バトーに連れられて壊滅したと思われた九課のメンバーと再会を果たした時、急激にせりあがる想いにはしなくも心の操縦を奪われてしまった時の、あの顔だった。
 
 「ありがとう。……俺はいい補佐に恵まれた」
 「だろう? もっと自分の幸運に感謝したほうがいい」
 らしくもない軽口の調子で返したのがいけなかったのかもしれない。トグサは邪気のない笑みを浮かべて、
 「でも、世話焼いてくれて、叱ってくれて、補佐と言うよりいまのパズはまるで母親みたいだな」 
 男を相手に悪気なくこういうことを言ってしまうのである。さすがのパズも閉口したが、当のトグサにはまるで自覚がないようで、「パズ?」と首をかしげる始末だった。
 パズは応じないまま、ベッドサイドのペットボトルを手に取った。栓を開けて、水をひとくち、ふたくちと口に含んでトグサに向き直る。短い睫の陰で、彼の瞳は微塵の警戒もない。だから、後ろ頭を引き寄せて、いともたやすく唇を重ねることができた。濃厚な酒の匂いが鼻腔を通じて流れこむ。息をひいたはずみに弛んだトグサの唇へ、口内でいくらかぬるめられた水を送り込んだが、もちろんトグサが冷静にそれを受け止められるはずもない。ほとんどは重なった唇の隙間からこぼれ出て、二人の顎と首とを遠慮なく濡らすことになった。
 パズは意にも介さず、トグサの口内の粘膜を舌で味わうのに専念した。トグサは抵抗を示さない。あまりのことに放心しているのだろうか、わからないがどのみちパズには都合がよい。首に腕を回してさらに密着し、なじみある女性のそれとはまた異なる、弾力のある下唇に吸いつく。とうとう力をうしなって深く枕に背をもたせかけたトグサの、跳ねあがる心拍を合わさった胸に感じた。
 
 「ん、はぁ……ん……ぷはっ」
 さんざんになぶりつくしてから唇を解放したが、またもや、けれど今度はアルコール以外の要因でうるんだトグサの目もとにちょっとした意地悪心を呼び起されて、パズは油断しきったその耳の裏に軽く息を吹きかけた。
 「ひぁっ!」
 面白いほどに肩が跳ねた。
 「それで」パズは水の滴り落ちる顎をすばやく手の甲で拭ってから、冷静に言った。「お前は母親とこういうことをするのか? オイディプスか?」
 「しない……」
 トグサはすっかり息のあがったほうほうの体で、それだけ答えた。


 「やっぱ、パズはパズだった」
 「どういう意味だ」
 「無表情で落ち着いてるように見えるけど、腹の中ではものすごいこと考えてて、とんでもないことも平気でやらかす。しかも、ためらわない」 
 「そうでないと九課も、お前の補佐も、つとまらん。……隊長の命とあらば、なんでもやるぞ」
 「な、なんでも?」
 「どんなことでも……」
 ゆっくりと身を乗り出し、トグサにふたたび顔を近づけていく。あらゆる辛苦を前にして、削られ、抉られるごとに冴え冴えと精悍さを帯びてゆく面差し。  
 「じゃあ、パズ」
 濡れた唇を開いて、トグサが彼の名前を呼ぶ。
 「ルームサービス、頼んでくれないか。フルーツ盛り合わせ。うんと豪華なやつ。――で、一緒に食べよう」
 それをきいて、パズはそっと瞼をふせた。彼にはこれが微笑のかわりである。
 「了解だ、隊長」
 トグサから視線をはなさぬまま、パズは手探りでベッド脇にある受話器を持ち上げた。



 (了)