孤影と幻痛の海で



 診察室から出た瞬間、抑えていたため息がこらえきれずにすべりおちてしまい、チヅルはあわてて口もとを手で覆った。自分を落ち着かせるために少しのあいだ、だいぶすりへってしまった黒いパンプスのつま先をじっと見つめていなくてはならなかった。
 

 ホテルのロビーほどはある広い待合室であっても、彼の姿はよく目立つ。時代と流行を周回遅れした服装、そこへきて画竜点睛といった風情のあのサングラスである。ほとんど、大昔にはやった俳優のコスプレだ。サングラスを屋内だろうが夜だろうが日常的に着用しているのには、まだ目を瞑れる。彼のあれは単にファッションアイテムであるだけでなく、遠視の矯正を兼ねた度入りのものだからだ。しかし、それならそれでもっと日常的かつシンプルなデザインのものがあったはずである。服装との調和を考えるならむしろあれが模範解答かもしれないが、そもそもの話があんな格好で捜査官を堂々名乗るあたりからして、モリカワキヨシという男の奇特さがいかんなくあらわれているのだった。
 
 モリカワはたいしておもしろくもなさそうに週刊誌を読んでいたが、チヅルの姿に気づくとかるく手をあげた。チヅルより十三年、年齢を重ねたぶんの乾燥と皺とを請け負った頬、それに唇とが、わずかな微笑をつくる。けれど、目の方もそれにならっているかはわからない。うすい紫色のサングラスが病院の清潔な明かりを反射して、その奥にあるはずの彼の瞳を伺い知れないものにさせていた。


 「おかえり」
 「ごめんなさい、手間をとらせて」
 「構わんよ。どうせ今日は暇だ」
 

 チヅルはモリカワの隣に腰を下ろし、非番のところをつきあわせてしまったことにかさねて礼を言おうとした。話したいこともいくつかできていた。それらを丁寧に順序立てて話そうとしていたのに、言葉は突然、ふっと彼女の前から姿を消した。消えたというよりも、落下していったのだ。診察室を出た時から用意していた言葉が、フォークに巻きつけそこねたスパゲティのように、するりとほどけて胸の底に落ちていく。チヅルは内心ひどく動揺したが、どうにかそれを表に出すことだけは全力で防いだ。かわりに、なにごとかを言いよどんだまま開きかけた唇から、細いため息が漏れだす。

 ちらとこちらを伺うモリカワの視線を感じたが、いぶかしむ類のものではなく、長い待ち時間と診察とでチヅルが疲弊していないかを確認するものらしかった。チヅルはそれでひとまずは安堵する。見かけによらず、モリカワは人の感情の機微には人一倍敏感な男だ。

 彼の真似をして、チヅルは手近なマガジンラックにおさめられていたタウン誌をめくってみたりもしたが、文字も写真も見事に頭にはいらない。ふだんは一定の魅力をたたえて映る記事の数々が、そしらぬ顔で彼女の真横をとおり抜けてゆく。そういうわけで、またしばらく彼女は雑誌の誌面と、自分の靴とを交互に眺めていた。モリカワから何か話しかけてくれることを期待したが、彼のやさしさがそのようなかたちで差し出されるようなものでないことも、彼女は知っている。
 さとられぬよう、髪をいじるふりをしながらモリカワの横顔をうかがってみた。ふだん、どうでもいいようなおしゃべりやつまらない冗談でチヅルをいらだたせる唇が、今はきっちりと閉ざされている。そこからはどのような言葉が紡がれる気配もなく、口腔の内側から氷の張ったようであった。
 こういう場面ではきまってモリカワはなにも話しかけてこないし、訊きだそうともしない。冷淡な気質というわけではなく、彼らしい、一種の透明な誠実さのあらわれだった。虚実を巧みに弄して情報をあやつるのを得手とする彼は、同時に、言葉というものの空疎さを痛いほどに理解している。だから、彼が本当に人を気遣うとき、たちまちいつもの多弁と軽口はなりをひそめた。それも今回のように、女の身体に関わるような問題なら、なおさら彼の口は重い。
 
 数ヶ月前、チヅルはあのカムイ事件の犯人・シモヒラアヤメに銃で撃たれ、脇腹のあたりに傷を負った。さいわいかすり傷程度だったが、傷そのものはふさがっても、銃創は彼女の肌にしぶとく残っていた。女の肌に残る傷というのは、男のそれとはまるきり意味が違ってくる。そのような未知の領域に、また、男である自分が決して到達できない立場に無分別に切り込んでチヅルを二重に痛めつけるような愚を犯す男ではない。   
 それでも、とチヅルは思う。そのような優しさの形態もあるとわかっていて、なお自分はモリカワにそれ以上の、身を投げ打たせるような苛烈なものを求めようとしている。自らの貪欲さを卑しいと思いつつも、チヅルはあきらめがつかないままでいた。 

 

 会計を終え、自動ドアをくぐって外に出た。白昼の日差しが街に漲り、一瞬くらりとなるほどまぶしい。

 「そういえば」
 いかにもたった今思い出したといったふうの何気なさで、チヅルは声をあげた。が、実際はこのひとことを口にするだけでも、相当の勇気を強いられた。

 「傷だけど、このまま治療を続ければ残らないそうよ」

 他人事のように、なるべくそっけなく聞こえるように、チヅルは細心の注意を払った。意識しまいと心がけすぎたせいでいくぶん早口で棒読みめいた調子になったのは否めないが、及第点といったところだろう。
  この調子であのことも話してしまいたかったが、それを切り出すための言葉はいまだ腹の底あたりに張り付いて、息をひそめたままだった。喉の方へ上がってこようともしない。
 
 「うん、そうか。何よりだ」
 「ええ……」
 「あー、どんなに清潔であかるくても、病院って場所はどうも肩が重くなる。昔から苦手だった、病院とか歯医者とか……喉乾いた。どこかでコーヒーでも飲みたいんだが、少しつきあってくれるか」
 「いいけど」
 「悪いね。己のおごりってことで構わんから」
 
 その誘いは、一見彼の都合から出てきたふうに聞こえたが、実際はチヅルを気遣っての提案に違いなかった。
 太陽が彼の着ている真っ白なシャツに差して、つるりとした光を散らした。その光を視界の端に捉えた瞬間、チヅルは指先から急激に錆びついてゆくような感覚におちいった。彼のそばにいるとほとんど確実におとずれる、慣れた感覚だ。意識する暇もなく過ぎ去るはずの今この瞬間というものが、ぐっと押し迫ってきて目の奥に焼きつき、彼女を閉じ込めてしまう。これから来るあの責め苦を逐一、チヅルの魂にまで刻みこもうとするためだ。言うなればそれは予兆だった。
 嫌なできごとにはだいたい、精度のいい予感も一緒に付いてくるのが世の常である。身体的に敏感な人々が、雨の降る前に気圧や大気の微妙な変化を身体で察知し、めまいや頭痛を起こすのとちょうど似たような現象だ。予感がいずれ現実となる不安におびえる時間もふくめて、「嫌なできごと」に織り込まれている。待ち受けている物事が苦難であればあるほど、予感の精度とあざやかさは増すようにできているのだ。




 
 喫茶店はおそろしくすいていた。チヅルたちのほかには学生風の若い男がふたり、茫洋とした顔つきでコーヒーを啜っているだけである。
 チヅルの要望で、ふたりは少し薄暗くなっている、奥まった場所に席を取った。これからどんどん青ざめるであろうおのれの顔色を、モリカワに見られたくはなかった。
 いよいよチヅルの身体はぎりぎりと軋み音をあげはじめていた。意識して深く呼吸をしないと、すぐに息が乱れそうになってしまう。催促されているようだ。いいから早く彼にあのことを話してしまえ、と痛覚が要求してくる。どう切り出せばいいのかわからないのよ、とチヅルは半分捨て鉢になって胸のうちで言いかえした。即座に、生意気な口をきいた仕置きとばかりにひときわするどい疼痛が走る。
 
 すぐにコーヒーは運ばれてきたが、口をつける気がいっこう起きなかった。のどは渇いている。だが、目の前で渦を巻く黒い液体を見ていると、どうしても自分の体内にこの色を流し込むのをためらってしまう。いま自分の身体を侵す痛みの色を連想してしまうからだ。
 モリカワはといえば、いつものようにすいすいと砂糖を五杯沈め、スプーンでかきまわしている。ようやく話のとっかかりになりそうなものを見つけて、彼女はすかさず飛び付いた。
 
 「ねえ」
 「うん?」  
 「前から思っていたけど、入れ過ぎよ。減らしたら」
 「四じゃ数が悪い」
 「じゃあ、三杯にしたらいいわ」
 「それじゃ苦いな」
 「……そう」

 またしても言葉はチヅルのもとから一目散に逃げてゆく。彼女は曇ってもいないのに眼鏡を取って、ナプキンでていねいに、ていねいに拭いた。偏執的なほどに。そうすることでしか平静を保てないのだ。何を言えばいいのか、どう振る舞えばいいかわからない。思考が痛みに阻害される。
 白けた沈黙がやって来ようかと思われた矢先、チヅルを見据えるモリカワのくちもとが、はっきりと苦笑いのかたちをつくった。

 「……何か、他に訊きたいことがあるんじゃないか?」

 図星であった。チヅルは全身がかたくこわばるのを感じた。眼鏡を拭く手が止まる。モリカワは結局なにもかも見透かしたうえで、チヅルの方から話を切り出すのを待っていたらしい。
 彼は物事についてまわる重さというものに敏感だ。チヅルの言葉を横から奪い、胸の奥底にまで引きずりおろしていってしまうほどの重量を持つなにものかが彼女の中に巣食うているのを、モリカワは感知している。そういう存在はたいてい個人の問題に深く根を張っているものだから、他人がうかつに触れてはならない。それで彼は、なるべくチヅルが話をしやすいような場所へ誘い出したうえで、自分からは何も問わずにいた。モリカワの慧眼と配慮とがうかがえるが、こうも隙のないお膳立てでは、病院を出てから今まで必死でよそおってきた自分の平静など小賢しいと切り捨てられたような気にもなってしまう。
いつもこんな調子だ。モリカワと組んでから一年近くが経とうとしていたが、彼はチヅルに対し徹底してこのスタンスを崩さなかった。どんなにチヅルが凶悪犯罪課の旧弊な捜査方針にいらだち、情緒不安定になって、やりどころのない焦燥感の何割かを理不尽にモリカワにぶつけたとしても、彼は飄然と構えている。そのくせ、なかばやけになって弱音や愚痴を吐くと、モリカワは一転して寡黙になり、いつまででもチヅルの話を聞いていた。あるいは言葉以外でみずからの苦痛を訴えようとするとき、彼女はしばしば子供じみた、無謀な行動をしでかそうとした。すると彼はそれを諫め、平時からは考えられないような真摯な口調で彼女を諭す。チヅルがたとえ拒もうが、彼はほとんど無尽蔵といっていいほどに、こちらの弱さも重さも受け入れてしまう。しかし、モリカワのほうから歩み寄ってくることはない。彼はいつだって待っているだけ。

 チヅルは下腹部をおさえた。こらえられぬほどに、傷跡の残る脇腹が痛み出していた。熱を持ち、傷そのものがひとつの生き物のように昂奮して、どくどくと脈打っているのである。しかしそんなことは本来ありえない。傷跡は残っていても、傷そのものはとうにふさがっているからだ。いちおうひととおりの精密検査もやったが、ごくごく健全な結果だけが出てきた。痛みの要素は彼女の身体からもう取り除かれている。にも関わらず、もう数カ月も前からこの症状はチヅルを苦しめていて、今日ようやく意を決して、担当の医者にこのことを相談したのだった。医者はいたわるような微笑みを浮かべて、やさしくこう告げた。


 『きっと、精神的な不安からくるものだと思いますよ』

 チヅルの担当をしている女医は、チヅルに少しばかり気を回した程度の年頃である。左手の薬指に、質素だが品のいい銀の指輪がきらめいていた。このあいだ来院した時は、そんなものははめていなかった。
 幸せそうな人、と心中でチヅルはつぶやく。隠しようもないようなあざけりと嫉妬との響きにまみれていて、彼女は自身をはげしく非難した。


 『実銃で撃たれた、というショックがあなたの中で大きかったんでしょう。その傷跡がひょっとしたら一生残るものかもしれない、という不安もあって、精神が不安定になってらっしゃるんです。一人で抱え込まずに、どなたか、信頼できる方に相談して、なるべくそばにいてもらうようにしてください。ご家族とか、恋人とか』
 
  
 この幸せな女医は、私が凶犯課の捜査官であるのを忘れているのだろうか、とチヅルは思った。
 後方支援の身であっても、凶悪犯罪課の職務に携わる以上、無傷のまま安穏に過ごせるはずもなかった。科捜研から異動が決まったときから覚悟は決めていた。権威ある父の口添えでやってきた頭の固いキャリアのお嬢さんと古手の捜査官たちに揶揄されるのは、人一倍プライドの高いチヅルには耐えがたかったが、科捜研にやってきたときだって、さすが区長の娘は待遇が違うと陰口を叩く者は少なからず存在した。それを彼女は実力でもって見返してやったのだ。凶犯課で受けた侮りに報いようとするなら、何事にも動じない、氷のような心を保っている必要があった。チヅルにとって凶悪犯罪課の捜査官になるということは、それだけの決意を要する出来事だったのである。
 もとより神経質といっていいほど繊細な気質のチヅルだ。その決意を固めるのに、彼女がどれだけの苦悩と時間を要したかは自明であろう。しかし、現実がチヅルを屈服させるのにはたった一刹那で事足りた。実銃でかすり傷を負わせるだけで、いともたやすく彼女の決意とやらを根元からへし折った。

 チヅルの虚栄心をあざわらうようにじくじくと傷跡は疼く。このまぼろしの痛みは、ほかならぬチヅル自身が生みだしたものだ。弾丸が皮膚を破き、激痛とともに熱い血がほとばしったあの一瞬を、彼女が今でもひどく恐れていることの証明に他ならない。そんなことを打ち明ければ、自分はまたモリカワに不必要な重さを押し付けてしまう。それに、彼が無条件に受容するからといって、その度心中で失望を買っていないなどと誰にも言い切れない。あれほどモリカワの捜査方針にけちをつけておきながら、当の自分はつまらないかすり傷程度で心を病むほどに脆いのだ。みずからの真意を隠して人と接するのも彼の得意技であるから、もしほんとうにチヅルに対して失望していたとしても、彼はおくびにも出さないだろう。
 あるいは、そんな心配も今更かもしれない。シモヒラアヤメに不意をつかれ、逃亡を許してしまった時点で自分はとうに見限られていたのだろうか。いや、それよりももっと以前、凶悪犯罪課に配属された時から? モリカワはそれでも自分を気遣っていたのか、それすら告げるのも面倒だったのか。ならいっそひとおもいに、手ひどく突き放してほしいとも思う。


 「チヅル? どうした?」
 
 眉根を寄せ、額にうっすらと汗まで浮かべはじめたチヅルに、モリカワはただごとならぬ気配を感じたらしい。彼女は絞り出すような声で、言った。
 
 「……傷が、痛むの」
 「痛む?」 
 おうむ返しにモリカワは応じた。自分の脇腹を指差し、
 「治ったんじゃなかったのか?」
 と、問う。
 「そうよ。傷はもう治ってる。とうの昔にね。でもね、ことあるごとに傷が痛み出すの。ありえない話でしょ?」
 「確かに、普通に考えたらありえなくはあるが」
 「普通…そう、普通はね。もう私の肌には傷跡しか残っていない。傷が開いたわけでもない。細菌が入ったわけでもない。なのに痛いの。撃たれた時よりずっとずっと痛いの」 
 「……チヅル、落ち着け」
 「何?何だっていうの? シモヒラアヤメが使ったのは私の銃だったわ、モリカワさんも知っているでしょ? 隙を見て私に当て身をくらわせて、彼女は私から銃を奪ったの。ええそうね、ナカテガワさんに散々嫌味を言われたわ! 一般人に銃を奪われるような出来そこないの捜査官。だからって、私の身体まで私に当てつけをしてるってわけ? かすり傷程度をずっと痛がってるような情けない女でいろって、そう言いたいのかしら」
 
 あの傷跡の熱がチヅルの口調にも伝播したようだった。彼女は憑かれたように、堰をきったように、矢継ぎ早に言葉を連ねた。  

 「私の身体がおかしいの? それとも私の痛覚がおかしくなったの? 両方? ねえ、おかしいって言ってよ」
 「チヅル」
 「言ってよ」
 「言わない」
 「言って」
 「――言わん」

 返されたモリカワの声はぞっとするほど平坦だった。感情的になっているチヅルに呆れているからでも、苛立っているわけでもない。今しがたチヅルの話した内容にまったく何の感慨も抱いていないというような、そういう声音である。  

 「それはおまえの痛みだろう。当然己はお前の痛みを共有できない。理解だって半分もできないだろうさ。だったら己には最初から、お前の傷が痛む痛まないで意見を言う権利なんかありはしない。完治したはずの傷が痛むことそのものがどういう意味を持つかなんて、大した問題でもない。誰にも関係ないんだからな。それはチヅル、お前がひとりでどうにかすることだ。それよりもお前がその痛みに追い詰められて、ずいぶん苦しんでるらしいことのほうがよほど問題だ」

 チヅルは思わず呆然となって、彼の顔をながめた。まったく知らない彼とが奇妙な形で折れ合った結果、突如として新しい彼があらわれたようだった。サングラスの奥はあいかわらず見えないが、その瞳のうちにはどんな感情も動いてはいないだろうという奇妙な確信が深々と彼女を貫いて、たまらずうつむく。自分の目の前にいるのが誰なのか、とうとうわからなくなってきた。彼女は信じていたかったのだ。モリカワが差しむけるさりげない優しさの源泉に、生身の、かたちある感情の存在があることを。しかしこのどんな感懐も伺えない声と、それでもチヅル自身を決して突き放そうとはしない言動とが、チヅルを混乱させる。
 広域捜査団に所属していたころ、つまりチヅルがモリカワをまだ知らなかったころ、彼はゴーストと呼ばれていたらしい。捜査中だろうはなんだろうが突然消えて、また突然現れる神出鬼没ぐあいからそのような異名をいただいたらしいが、そればかりが理由でないような気がチヅルにはしていた。どんなに目をこらし、耳を澄ませ、プロファイラーの目で男を見据えても、彼らしさというものがひとつも見えてこない。彼はあまりにもいろいろな要素を持ちあわせていて、いったいどれを本質ととらえていいのかわからないのである。不気味なほどにいろいろなことを知っていて、不気味なほどになんでも好む。そうかと思えば、たいして何事にも関心のないようなそぶりを見せたりもする。あの新人とはまた違った意味で、人間としての重量感がない。
 虚実を使い分けて人間を翻弄し、喧騒の中から本質を見極めるためには、なるべく自分を自分たらしめるものを犠牲にしていく必要がある。主体的な目線や個々の感性というのは、事実をゆがめてしまう危険因子を常にはらんでいるからだ。チヅルの得手とするプロファイリングはまず自分の人格を抹消して、人の人格を受け入れてやることから始まるから、似通った部分はある。
 ゆえに、彼は習慣や癖といったものを、真の意味では持ち合わせていない。あの五杯の砂糖は、いわば自分で定めた設定を忠実に遂行しているあかしなのだ。また別の場所に赴いて別の誰かを相手にするとき、彼はコーヒーに砂糖など入れないだろうし、そもそもコーヒーではなく紅茶を飲むことを習慣として設定するのかもしれない。
 少しばかり個性的な格好や、常識の域をはみ出ない程度の突飛な言動だったりが、逆説的に己の凡庸を際だたせるのをおそらく彼は心得ている。見る者によってモリカワという男の映り方はまるで異なる。人間の恐怖心と想像力とが、枯れたすすきの穂を亡霊の影に作り替えてしまうのと本質的に違いはない。なら、彼の正体はいったいなにものであるのか?

 一秒ごとに締めあげられる心臓と、それに呼応して跳ね上がる心拍。果実の熟れるようにして、痛みはずぶずぶと彼女を浸食する。唇がふるえた。
 女の方が痛みに強い、などという定説は嘘だと思う。強いというより、あきらめが早いだけだ。抵抗してむやみに傷を増やすより、甘んじて受け入れてしまったほうがまだ利口である。
 途方もなく巨大な生き物の影のように黒々としたあの海を、チヅルは身体の中でずっと飼っていかなくてはならない。現実の痛みというのは刹那的なものだが、この痛みはまぼろしであるからこそ、彼女の中に降り積もり、蓄積され、内側から宿主をどんどん水に呑みこもうとする。いつしかチヅルの心臓や肺や子宮は、冷たい海水で満たされてしまうだろう。
 さらにやっかいなのはチヅルはこの痛みを的確な言葉で表現できないことだった。内蔵という内蔵をしっかりと握りしめられていながら、彼女はそれをうまく伝えるための言葉を持てない。いつも比喩的な、まわりくどい言葉でしか言い表すことができなかった。モリカワに自分の気持ちを伝えようとするときと同じように。
 どうして、とチヅルは思う。どうして私はこんなに言葉を知らないのだろう。溺れるように苦しい。痛いほどにいとおしい。それなのに私は、なにも伝えられない。

 これは私だけの痛みで、私だけの愛でしかないのだ。



 
 チヅルの祖父にして24区初代区長であったハチスカウミノスケの数えきれないような理想都市政策の一環で、24区には大小様々の公園が多い。真に素晴らしい都市にはむやみやたらと高層ビルが乱立していたりはしない。文明的な建造物と明快な自然美が微妙な均衡のもとに管理され、成り立ってこその理想都市――ここも、その箱庭を愛でるような理想のもとに設立された自然公園の一角だった。
 日はもう落ちかけている。夕陽は消えかけのろうそくに似て、自らが没する間際であると悟るとひときわ猛烈に燃え上がった。

 「私がただの情緒不安定になってるって思ってるんでしょう」

 チヅルとモリカワは噴水を取り囲むベンチのひとつに座っていた。先に口を開いたのはチヅルだったが、彼女は喫茶店を出てからどういう経緯でここへ来たか忘れてしまっていた。わずかにやわらいではきたものの、脇腹を拠点とした鈍痛はいまだ不規則にのたくっている。  

   「そんなことはないさ」
「それか生理だとか。男の人ってすぐそれよね、女がちょっと機嫌悪いとすぐ生理生理って、原因を自分にはない身体のシステムに押し付けたがるのよ」
「いやいやいや……そうひとまとめにしなさんな。理知的なチヅルちゃんにしては短絡的じゃないか。暴論といっていい。己はそうは思ってないよ。だっておまえが情緒不安定なのは今に始まったことじゃあないからね。いちいち気を揉んだりなんかしない。慣れたよ」
「慣れた?」
「水曜日の燃えるゴミの日とか、資料室の掃除当番とか、月イチでナカの嫌味を聞きながら提出しなきゃいけない報告書なんかに似てるな。多少ひっかかりを感じたり、面倒くさく感じたとしても一度習慣として根付かせてしまえばわりと受け流せるもんだから」
 
 モリカワが習慣ということばを使うのはなんとなくそらぞらしい気がした。チヅルはちょっとむきになってきいた。  
「だってそういうものは義務的なものじゃないの。あなたは私に義務で優しくして、義務で私と寝ているの?」
「義務じゃない義務じゃない。ほら、それはあれだな、惚れた弱み。欠点が日常回路に回収されてしまうぐらい惚れているということで」

 チヅルは肩を落とした。なにが日常だ。この男は、どこまでいってもだれかの幻想の化身なのだと痛感(皮肉な表現だ)した。そうでなければ、こうまでチヅル自身の理想に照り映えさせたような返答ばかりをよこしてくれるはずがない。

 「そうやってあなたはいつまでも、私のしちめんどうくさい質問に答えてくれるんでしょうね。でもね、私は、本当はあなた自身の考えなんてどうでもいいの。ただ自分を卑下して卑下して、そうじゃない、ってあなたに言ってもらいたいだけ。お人形みたいな、理想の男がほしいだけなの。そういう観点からしたら、あなたは完璧かもしれないわね」


 彼に対しこんな険租な物言いをするのには、チヅルが遠まわしに自身を罰そうというもくろみを持っていたからである。みずからが依存する男にこういう態度を取るなど、彼女にとっては自傷行為以外のなにものでもない。
 チヅルは考えうる限りのきびしい目つきでモリカワをねめつけた。そうしてモリカワのサングラス越しの瞳とまともに視線がぶつかった。ぶつかってしまった。
 果たしてチヅルを映したモリカワの瞳には、ずっと心待ちにしていた誰かがやっとあらわれたかのような、そういう安堵が灯っていた。あぶない、と本能的に思ったが、遅かった。幽霊が生身の人間に取り憑くのにはその一瞬で十分なのである。現実を押しのけて、たちまちのうちに彼らは人間の心の奥深くへ入り込む。

 モリカワは唇をゆっくりとつり上げ、

 「そりゃ光栄だね。惚れ直してくれたか?」

 すべてを観念せざるを得ないような笑顔だった。チヅルはすっかり負けたような気分になって、またしても目の前がくらくらとした。 
 わずかな間ののち、チヅルは周囲を見回して、誰もいないのをよく確認した。そして、覚悟を決めて、彼の肩にそっと頭を乗せた。あたりまえだがそこにはきちんと生身の体温があり、質感がある。
 私が求めているのはモリカワキヨシの実体ではなくて、彼の幽霊なのだろうか。チヅルはまぶたを閉じて、考えてみる。
 ほんとうのわたし、というのがもはやれっきとした空想の産物でしかないように、実体というものもそれらしく取り繕ったまぼろしであるのかもしれない。実体ではなく、幽霊のほうが本体。いや、本体という概念がそもそも無意味だ。幽霊は幽霊でしかない。だから彼はいくらでも彼女の痛みと影と重さとを受容できる。
    
 こうまで特定の人間を愛してしまった場合、生来が後ろ向きな彼女をおびやかすのはいつ訪れるかもしれない破滅だ。たいして強靭でもないチヅルの身体と心は、やがて様々な重みに耐えられなくなって、あの痛みの海の底へ引きずり込まれてしまうだろう。その時、自分はモリカワを巻き添えにしてしまうかもしれない。彼はその結末さえも受け入れて、一緒に沈んでくれるのだろうか。それともその前にするりと彼女の手をほどき、忽然と消えうせてしまうだろうか。なにしろ幽霊が沈むなんて話は聞いたことがない。
 どちらでもあってほしかったし、どちらでもあってほしくなかった。
 ……けれど、もしモリカワがこの重さと最後まで添い遂げてくれるような選択肢をとってくれたなら、果てしない罪悪感を抱きながらも、ばかな自分はそれと同じだけ満足してしまう。
 孤独の二文字にさんざん打ちすえられて沈んでゆくより、誰かがともにいてくれて、自分はひとりきりではないと思えるささやかな救いを得て沈みたい。たとえその誰かが自分の作り出した影にすぎないとしても、だ。どうせ沈むのに変わりはないと、この痛みが予言している。

 「まだ痛むか?」
 「……大丈夫よ。だいぶおさまったわ」
 「己のおかげだな」

 ほとんど寄りかかるような姿勢なので、モリカワの声はとても近い。彼が何か言うたびに、その発音にきちんと対応する吐息が柔らかく耳殻を撫でた。鼓膜を震わせながら、身体の中へもぐりこんでくる。チヅルはその穏やかな振動にあわせて、ようやく自分の鼓動がおちついてくるのを感じる。

 「自惚れもそこまでいくと感心よ」
 「あっはっは」
 モリカワは陰ったところのない、実に快活な笑い声をあげた。
 「己自身は、そう的外れな自惚れでもないと思ってるけど。否定するか?」
 「いいえ」
 と、チヅルはゆるやかにかぶりを振った。
 「現に今だって、あなたのことをこのあと家に呼んで、夕飯でも作ってあげようかと思ってる」
 「……うっそ。そのお誘い、本気にしてもいいのか」
 「私がくだらない嘘をついたことがあって?」
 「ありませんとも」
 「その代わりと言ってはなんだけど」
 「なに?」
 「今夜はずっと一緒にいてくれる?」

 ささやかな沈黙があった。微塵も息苦しさを感じない、こんなに心地良い静寂(しじま)も世の中にはあるのだとチヅルは久しく忘れていた。痛みですっかり鋭敏になった彼女の肌は、モリカワらしからぬ困惑をじかに感じることができる。

 「あー、チヅル、それは額面通りに受け取るんじゃなくて、何らかの寓意を読み取らなきゃいけない類の言葉か?」
 「そのぐらい自分で汲み取ってよ。あなた私の理想の男なんでしょう」
 「あのだな、己だって超能力者じゃあない。お前の痛みがお前だけのものなのと同じで、お前の理想だってお前だけのものなんだから」
 「私の気分が変わる前に返事を出してね」
 「返事自体はもちろんイエスなんだが……問題はそっから先だろう、いやいまさら過ぎるけどな、どこまでオッケーでどこまでがエヌジーなのかっていう……はあ、わからんわからん。ナカでも呼んで訊いてみるか。己より女には詳しいだろうから」


 チヅルは薄く目を開けた。靴のつま先からふたりぶんの影が長く伸びているのを見て、とつぜん、彼女は靴を買いかえたくなった。うんと華奢でヒールの高い、ひとりで町を歩くには頼りないようなものがいい。それを履いて、土曜の夜の町中だとか、砂浜だとか、とにかく歩くのに死ぬほど難儀そうな場所へ彼を誘う。
 確実に足が痛くなってしまうだろうし、彼といればまたあの痛みの予感がやってくるに違いない。けれど、足が痛くなれば今みたいに傍らの彼に寄りかかってしまえばいい話である。そしてそんな「今この瞬間」にならば、いつまでだって閉じ込められていたいとさえチヅルは思っていた。


(了)





  


 
template by TIGA