花に嵐

 



 シャワーを浴びて出てくると、脱衣所には真新しい男物の服と下着とが一式、きちんと畳んでそろえてあった。身体を拭くのもそこそこに、エミヤはシャツの一枚を手にとってみる。黒いサテンシャツは光沢と手触りだけで上等の品と知れた。

 もちろん自分が用意したものではない。厄介な記憶障害を抱えてはいる身ではあるものの、まだそこまで耄碌はしていないはずだ。(明日どうなっているかは知らない。考えたくもない)ここの家主が用意したものだろう。エミヤをバスルームに押し込めた張本人でもあり、そもそもの原因を作った元凶でもある。いまごろはリビングでくつろいでいるはずだ。
 一瞬だけ逡巡してから、エミヤはシャツに袖を通した。数分前に皮膚から引き剥がしたずぶ濡れの衣服はいずこかへ消えうせていて、他に着るものもない。
 いつ、どこから、などという疑問は抱かなかった。加えるならなぜ自分のサイズを正確に把握しているかということにもさしたる興味は湧かない。電話一本かければデリバリーピザよろしく三十分で対物ライフルを調達してくるような少女に、そんな疑問や驚愕はいまさらすぎる。まだ依頼したことはないけれど、相応の報酬さえ積めばたとえカンザスの片田舎に軍用ヘリをデリバリーしてくれと頼んでも平然と応えてくる気がする。ウェンディーズの一店舗でも買い取ってやれば受けてくれるだろうか。

 想像どおり着心地は悪くなかった。こんなものを用意しているあたり、さすがの彼女もエミヤを濡れ鼠にしたことに、それなりの責任は感じているらしい。
 数時間前、ハリウッド映画ばりの追跡劇のすえに、エミヤは彼女の暴れ馬ことゲテモノ改造を繰り返されたモンスターマシンの後ろから放り出された。水面に夜景をきらめかせた秋のハドソン・リバーの、感動するほどの冷たさ!
 当の彼女はといえばカラミティ・ジェーンもかくやのロデオライドを見せ付けたのちにターゲットを撃退し、エミヤがほうほうのていで岸まで泳ぎ着いたころには、あの凶悪な暴れ馬に身をもたせて、仕事終わりの一服といわんばかりにドーナツをぱくついていた。
 おろしたてのスーツとiPhoneという尊い犠牲を払って陸に上がり、水滴を滴らせながら無言でねめつけるエミヤを、彼女はめずらしい水棲生物を観察するみたいな目で見つめていた。そしてひとこと、

 「うむ。なんだ、ひどいありさまだな」

 ここで怒鳴りつけなかったのだから、自分の忍耐強さもたいしたものだ。

 「まあ、そんな顔をするな。ちょうど私のセーフがこの近くにある。仕事を手伝わせたことだし、礼代わりにシャワーでも浴びていくといい」
 「結構だ」
 「うむ。では決まりだ黒アーチャー。ついてこい」
 「人の話を聞いてたか? PBJの食いすぎで脳みそまでピーナッツバターか?」
 彼女はりりしい蛾眉を寄せて、心底不可解そうな顔をした。
 「貴様こそ何を言っている。もとよりお前の意向なぞ聞いておらん。私が来いと言っているのだから、来るのはもう決定事項だ」
 前世というものがあるのならば、彼女は世に鳴り響く暴君であったにちがいない。
 こうしてエミヤはヘルズキッチン(実に彼女に似合いの地区だ。とくに名前が)にある彼女のセーフハウスへ連行されることとなったのである。

 下着とスラックスを身につけ、ひととおりの身だしなみを整えて脱衣所の鏡を見る。湿気にもやもやと灰白色にくぐもったそこはもはや姿見としての要をなしておらず、ぼんやりとエミヤの輪郭らしきものが、粗いモザイク絵のごとくはめこまれている。
 撥ねた水滴によるうろこ汚れが目立つ鏡を見て、エミヤはふと、家主の少女に掃除を申し出ようかと考えた。特別散らかった家でもないのだが、それは単に使用頻度による問題であって、必ずしも清掃が行き届いているわけではない。シャワーを浴びているあいだにも、浴室の排水溝だのバスタブのぬめりだの、気になるところは山ほどあった。この着替えとシャワーのぶんの借りを返すには足るだろう。何なら彼女に手伝わせるのも一興だ。エプロンにマスク姿、きわめつけにいつものあの仏頂面で風呂掃除にはげむ彼女を想像すると、皮膚の内側がふしぎとさざめくような心地になる。
 袖をめくり上げた腕で曇った鏡面をぬぐう。すると、信じられないものが映っていた。わずかとはいえ口の端がもちあがっている。自分は笑っていたのだ。
 なるほどさっき皮膚の内側で生じた感情は微笑であったらしい。とうの昔に擦り切れたような情動と思っていたから、気づいたときには多少狼狽した。だが決して不愉快ではない。

 ――いつの間にか、鏡の中の彼の背後に、女がひとり立っている。
 白布をかづき、黒い質素な僧衣という尼のなりに身をつつんだその女は、エミヤのほうを見て、心からうれしそうな、花がほころぶような笑顔を見せていた。
 はじかれたようにふりむく。もちろんそこに女の姿はない。シャワーを浴びたばかりだというのに全身に汗が噴き出てきそうだった。心臓がやかましく打っている。つい先刻まで血管の中に感じていた木々のざわめきのような感触は足早に過ぎ去って、いまは波のごとくに音高くうねる血潮を感じる。
 エミヤは鏡面に手を突いたまま、深く呼吸を吐き出す。慣れ親しんだ幻覚ではあるものの、近頃は知人が開発した新薬が功を奏したのか、めっきり見かけなくなっていた。医療からハッキングまでお任せの万能系後輩なぞという名をもって自称するのも、あながち大言壮語ではないと思ったものだ。しかしそれもついに限界らしい。薬の量を増やすよう頼まなくてはならない。


 呼吸を整えてからリビングにはいると、家主は黒い革張りのソファの上でシェイクをすすっていた。羽織っていたパーカーを脱ぎ、キャミソールとショートパンツだけの軽装である。むきだしの白いすべらかな太ももが光をはずませているのが目に入った。健康的な男なら少なからず魅力を感じる光景なのだろうが、エミヤの胸にはいかなる情欲も巻き起こってこない。ひとかけらも。それでも彼は儀礼的に、視線をやや上のほうへそらした。
 「……世話になったな、セイバー」
 「む。あがったか」
 セイバー。同業者のあいだで流通している彼女の名であり、彼女自身もそう名乗っているが、むろん本名ではないだろう。間違いなく彼女の、実に大時代的な得物に由来した通り名だ。黒塗りのロングソードなどよほど日本のコミック文化にでもかぶれているのかとはじめは正気を疑ったが、彼女はこの得物をかるがると振り回して、ゆうに自分の倍はある背丈の男たちをたやすくのしていく。その腕前は一介の運び屋兼情報屋にしては際立ちすぎており、練達の剣士のさながらだった。エミヤも仕事柄、戦闘を生業とする人間は数多く見てきたが、彼女はその中でも相当の上位に位置するだろう。最小限かつ洗練された動きで剣を振るう姿は、いつしかおとぎ話に登場する壮麗な騎士をさえ、彼に思い起こさせるのだった。
 セイバーは上から下まで無遠慮にエミヤの全身を眺め、ふむ、とひとつうなずくと、
 「やはり私の見立てに狂いはなかったようだ。似合っているぞ、アーチャー」
 などと、五番街のフィッティングルームのあちこちで聞こえるようなせりふをさらりと口にした。

 彼女はエミヤをアーチャー、ないし黒アーチャーと呼ぶ。銃を使うのだからせめてシューターだろうと反論したが、彼女はなぜかかたくなになって、アーチャーでいいのだとゆずらなかった。それを聞いて自分もなんだかいつになくむきになって、ならば黒というのはなんだ、黒と限定するならほかにバリエーションがなくてはおかしい、白だの赤だのもいるのかとやり返すと、彼女はそのままむっつりと口を閉ざしてしまった。思い返すと互いにらしくもない会話で、忘れっぽい自分が――今のところはだが――よく覚えている出来事のひとつだ。

 「食え。冷めるぞ」
 彼女があごをしゃくって促したテーブルの上には、彼女ごひいきの店の紙袋がぞんざいにおいてある。中身は見なくとも想像がつく。ハンバーガーとポテトとドリンク。言うまでもなくすべてXLサイズだ。
 「PBJのほうがお好みだったか?」
 「はん」
 にやりとする彼女を鼻で笑い飛ばしてソファに座る。テーブルのそばでは彼女の愛犬が、ドッグフードの盛られた椀に鼻面を突っ込んで熱心に食事にはげんでいる。まことに主人によく似た犬だ。相変わらずこの犬の名を、エミヤはよく覚えられない。カルバトスだかキャンパスだか、とにかくそのような名前であったはずだ。エミヤの着替えについてもそうだが、この娘もたいがいわけのわからぬところが律儀だ。自分の食生活においては栄養学というものを冒涜しきった立場でふんぞりかえっているくせに、飼い犬にはバランスのとれた高級ドッグフードを適時適量与えている。

 なぜだか期待するような目つきでこちらを伺ってくるセイバーに不審を抱きつつ、包みを剥いた。
 まずはハンバーガーをひとくちかじり、フライドポテトを数本まとめて口に入れる。塩分過多もいいところの、舌を痺れさせるような辛味に一瞬顔をしかめつつも、疲労した肉体にこの味付けは思いのほか染み渡った。
 それでも時折、ブラックのアイスコーヒーで舌をなだめながらの食事になる。平時の栄養補給をもっぱらレーション食やゼリー飲料に頼っているエミヤは、ここまで濃い味の食事は食べつけていない。最近は近くのダイナーに勤める奇天烈ウェイトレスに「新作の味見係に任命するワン」と拉致されてやたらと凝った食事をふるまわれることもあるが、それ以外の日常においては食事というものに頓着することもなかった。
 視線を感じる。セイバーが金色の双眸でじっとこちらを見つめているのだ。目線はエミヤに固定させながらも、食事の手が休まることはない。知ってはいたがいつ見てももっきゅもっきゅと肉食獣めいた豪放な食べっぷりだ。ごく少量を時間をかけて食んでいる草食動物のごとき自分とは正反対である。

 「……なんだ」
 「うまいか」
 「はあ?」
 「うまいか、と訊いている」
 エミヤは手中の、まだ半分も食べ終えていないハンバーガーを見下ろした。肉厚のパティとおもちゃみたいな色のチーズ、ストリートアートめいた赤いケチャップと黄色いマスタード。肉と野菜をパンで挟んだだけの単純明快な料理ではあるにしろ、やろうと思えばもっと洗練のしようがあるはずだ。
 エミヤは肩をすくめて、
 「うまいまずいの基準で語れる料理じゃないだろう、こいつは。……まあ、さっきのスイミングの栄養補給ぐらいにはなったさ」
 「ならば、良い」
 きわめて色素のうすい、乳白色に近い金色の睫毛にふちどられた瞳が、エミヤの返答をきいて微かになごむ。
 「お前の偏食は目に余っていたからな。いい機会だ」
いっそすがすがしいような傲岸さで言ってのける。しかし不思議と腹立たしく思えないのは、ひとえに彼女の、天稟ともいうべき威厳によるものかもしれない。立ち振る舞いも、言動も、人にものを命ずることを義務としてさずけられた人間の、堂に入った気配をたたえている。十代そこそこの小娘が一朝一夕で身につけられるとはとうてい考えられぬ風格が、出会ったときから彼女にはそなわっていた。この業界は(自分も含めて)一過去を持つ人間ばかりであるし、彼女も単なる運び屋でないのはよくよく承知しているが、それでもセイバーという少女の抱える謎は他よりも一線を画している気がする。彼女の素性を詮索しようなどとはよもやエミヤも考えていないが、それでも――。

 「暴食の化身みたいなアンタに偏食をとがめられるようじゃ、オレもおしまいだ。そのセリフ、鏡に向かって――」
 彼は突然言葉を切った。鏡、という単語に不吉を覚えたからである。セイバーが怪訝な顔をする。
 「どうした」
 「……いや」
 「熱でも出てきたか?」
 とつぜん、額に薄氷のような感触が吸い付いてきたので彼は少なからず狼狽した。それがセイバーの掌だと気がついたとき、いつものエミヤならすぐさま払いのけていた、はずだった。しかし彼は動かなかった。自分でもおどろくほど素直に、セイバーの小さな薄い手を受け入れていた。彼女の真摯な目線が、エミヤの根にある生真面目な部分に訴えたからかもしれない。あるいはその冷ややかさが、けぶった鏡のようにどこかもやもやとした思考を冴え渡らせるような、くだらぬ錯覚に一瞬とらわれたからか。いずれにしろ、彼と彼女は少しの間、真正面から見つめ合うことになった。

 「熱はない、か。しかし顔色が悪いな」
 「……顔色に関してもアンタには言われちゃおしまいだな」
 「これが一部のマニアには好評だ。理解しがたい趣向だがな。……ふむ、これならコンソメスープも注文しておくべきだったか。いや、今のシーズンならハロウィン限定のパンプキンチキンスープのほうが……どうせなら今からチャイナタウンに……」
 腕を組み、いよいよ真剣に検討し始めたセイバーの横顔を、エミヤは食事の手をやすめて眺める。彼女が妙に楽しげに見えたせいだ。思い返せばこのセーフハウスにエミヤをつれてきたときも、愛想のないなりに上機嫌のようすを見せていた。どの勢力にも属さず、誰にとくべつ肩入れもしない、孤高の運び屋として知られた彼女が、いざ人の世話を焼くとなると楽しげな顔を覗かせるのはいったいどうしたことなのか、てんでわからない。けれど、べつだん悪い印象もない。

 ――それでも時折、想いもがけずこの少女のやわらかな表情を見たときなどには、考えることがある。この顔はどんな理由で作られたものなのか、彼女の積み重ねたどの時間と想いとにおいて形作られた表情なのか。  時折、彼女の根にあるなにものかに触れてみたいと、思ってしまうことがある。

 「――まあ、まあ。善いこと」

 その声は世界をとろけさせるようだった。
 心拍が跳ね上がる。身中の血液という血液が逆巻いて、荒立つ波濤のようだ。エミヤは目をみひらいて眼前の女を凝視した。そう、そこにいるのはもはや少女ではなく女だった。さきほどまでセイバーがいた場所に、美しい尼僧がすわっている。膝の上でやわらかく手を重ね、童女のようにこころもち首をかしげている。
 こちらを見つめるまなざしには一抹の媚びもなく、ただただ滴るような慈愛の情がたたえられている。薄黄色の 肌は溶けかけたバターのなめらかさがあり、白粉やなにやら、そういった品々の助けのなくとも、内側から輝くようなまばゆさである。そんなおもての上で唯一の化粧といっていい、ごく控えめな桜色をそえられた唇は、彼を歓待するように弧を描いていた。
 質素な僧衣、華美でない顔立ち。侵しがたい要素は彼女の肉の上にいくつも、さながら厳重な鎖のように巻きついている。しかしその戒めが、かえって彼女という女が、何者に対してでも開かれているような印象をあたえた。彼女の目や、唇や、眉のつくる、とろかすようにみだらな表情と、まったくもって均整がとれていないからだ。エミヤはよく知っている。幻覚にあらわれる、架空の存在にすぎないこの女のことなどなにひとつ覚えていないはずなのに、それでも、誰よりも、知っていた。

「本当に、喜ぶべきことですね。悦ばしいことですね。あなたに、よもやそのような感情が残されていたとは」

 女ははにかむように目を伏せて語りかける。東洋人らしいすだれ睫が、その瞳に影を落とす。
 泥中の蓮の花に似た女だと思ったことがあった。(いつの話だ?)人間の欲を養分として育ち、彼女もまた、満足を知らぬ獣めいた情念にとりつかれている。(なぜ知っているのだろう?)人々を魅す美貌と楚々とした振る舞いを併せ持ちながら、その豊かな肉の下にはどろどろと煮こごった果てのない愛欲がはちきれんばかりに詰められている。これらの要素は蜜のようにねばついて、いちど彼女に見初められようものならその魂の奥深くにまで染み渡り、絡み付いてはなさない。(幻覚にそんな質量めいたものがあるわけもないのに?)
 エミヤは胃の底からこみ上げる吐き気とふるえをもはや抑え切れなかった。動揺ではない。恐れではない。これは、怒りだ。噴き上げるような怒り。名も知らぬ幻覚の女に、自分はたしかに憤っている。

 「ええ、もちろん、あまさずすべていただきましょう。果実は腐り落ちる前が一番甘く美味と申しますもの――」
 「黙れ!」

 この女に見られているという現実が耐えられない。
 この女に声を発する権利のあることが認めがたい。
 この女が呼吸をしている事実が許しがたい――!

 ばねのように体が動いた。女に飛びかかってそのまま押し倒す。すかさず細い喉に手をかけると、万力込めて締め上げた。とにかく一秒でも早くこの女の息の根を止めねばならないと、体のすべてがさけんでいる。女は苦しげな顔ひとつ見せず、どころか恍惚の表情でエミヤを見つめるばかり、それで彼の力はいや増した。体重を乗せて、首の骨を砕くことを試みる。
 すると次第に、金色の瞳にも苦しげな色がよぎりはじめて――。
 金色だと?
 エミヤは二、三度瞬きをして目の前を見据えた。そこにいるのは女ではなくて少女だった。エミヤの手首をつかんで抵抗を見せながらも、そのおもては隠し切れない苦悶の表情が浮かんでいる。鎖骨の浮いた首元はあの女のような肉感をたたえておらず、汗の浮いた額には白金色の前髪が数本、のたうったようなかたちで貼り付いていた。
 息をのんだエミヤの手の力が緩む。その一瞬を突いて、セイバーは彼の体を押し返した。
 呆然と己の両手をながめているうちに、五感の正常がようよう戻ってくる。耳がセイバーと自分との荒い呼吸とを聞く。けたたましく吠えているのは彼女の飼い犬だ。「落ち着け」と息も絶え絶えのセイバーから命ぜられると、ぴたりと吠えるのをやめる。海水を流し込まれたかのように喉が熱くひりついて、息をするだけで苦しい。この身にまだ生のあることをなじられているかのように。

 「間抜けが、ようやく正気に戻ったか」
 顔をあげると、わずかながらも呼吸を整えたセイバーがこちらを冷たいまなざしで見据えている。
 言葉こそ落ち着き払ったようすだったが、薄い胸と狭い肩とが今なおせわしなく上下しているさまを見れば、彼女の受けたダメージが軽微ならざるものとはすぐ知れる。言葉を続けようとして、とっさにセイバーは青白いおもてをそらすとひとしきり咳き込んだ。最後にこぼれた、けほっ、とごく小さい咳が、彼女らしからぬ弱々しく儚げな響きを引きずっており、ますますエミヤの気を重くさせた。

 「私がわかるか、黒アーチャー」
 「……ああ」
 「この犬は?」
 彼女はくりくりの瞳をいまだ警戒の色に光らせている飼い犬を抱き上げて問う。
 「ケバブ先生」
 「カヴァスⅡ世だ。うむ、ひとまずはいつもどおりのようだな。……薬はいつものケースの中か?」
 「……ああ。だがあれはジャケットのポケットの中に」
 「これだな」

 彼女はいつの間にやら見慣れぬトランクを床に広げている。中にはピルケースからホルスターにおさめられた愛用の銃にいたるまで――つまるところ、エミヤがずぶぬれにしたスーツにおきっぱなしにしていた品々が、きちんと水滴をぬぐわれた状態で保管されていた。何か言おうと思って、やめる。
 現在携行しているのは知人が開発した錠剤タイプのもののみだ。アンプルのほうが即効性があるのだが、だいぶ前に濫用を見かねた彼の女主人によって没収されてしまっていた。副作用が強すぎるのだという。
 セイバーはピルケースから白い錠剤を二錠取り出すと、手のひらの上にのせてしげしげと眺めていた。

 「どうした、早くよこしてくれ」
 催促すると、彼女はまずエミヤの顔を見て、それからまた錠剤に目を落とした。次の瞬間、あろうことかセイバーは錠剤を自分の口中へほうりこんだ。
 「おい……!」
 さしものエミヤもこれには焦った。自分のせいでどこかおかしくしてしまったものかと思ったのである。しかしセイバーはそのまま平然とテーブルの上にある飲みさしのミネラルウォーターをあおると、エミヤのほうにぐいと身を乗り出す。
 まだ興奮の醒め切らぬ両の頬に、しんと冷えた感触が寄り添ってくる。
 エミヤは、セイバーの陶器のような肌にもそばかすの生じることがあるのを間近で見て知った。記録的な猛暑となった今夏のNYが、彼女に残した爪痕といったところだろう。たしかにこの夏は外での仕事が多かったから、彼女とて日焼けのひとつやふたつはあるだろう。そう判断できる程度には、エミヤはこの少女と仕事をする機会が多くなっていた。
 下瞼にきわめてほんのりと散らされた薄茶色の粒子は、かえって彼女の色素の薄さを物語る。エミヤはそれをじっと見つめながら、己の唇に押し当てられている、手のひらよりいくらかはぬくもりを宿した小さな唇の感触に硬直していた。やわらかく、ほのかに甘い香りを漂わせているそれは、数ある彼女の好物のひとつであるジェリービーンズの内部を思わせる。
セイバーの意図はだいたい察しがつく。だが理由がわからない。何だってこんなまねをする必要がある? 新品のスラックスの膝が冷たく濡れる感触があって、それでようやく彼は観念して、わずかに口をあけた。途端に流れ込んでくる生ぬるい水をどうにか嚥下する。

 「これでよし」
 何がよしだというのだろう。濡れた顎をぬぐいつつセイバーが離れたとき、エミヤには言ってやりたいことが山積していた。であるにもかかわらず、言葉はどれひとつとして声帯で練り上げることができずに終わってしまう。なのでかわりに彼はさっと立ち上がって、ろくにセイバーの顔も見ないまま踵を返した。
 「待て。どこへ行く気だ」
 「帰る」
 「正気か?」
 「アンタこそ。今のでわかったろう? オレは正気じゃない。だからこそ、これ以上アンタに余計な迷惑をかけないよう出て行くわけだ。薬も飲んだし、じきに効いてくる。問題はない。平気だ」
 矢継ぎ早に言葉を重ねるエミヤを阻むように、セイバーはすばやく彼の真正面に回りこむと、あの黄金の瞳で彼のおもてを見つめ、
 「私の目を見てもう一度同じことが言えるか?」
 とだけたずねた。

 黙りこんでしまう。満月の下にいるようだ。どんなごまかしもできやしない。胸のあたりでわだかまっている、かたちのないもやもやしたものが、その光の照射ではっきりと不安のかたちを取った。
 知るかと答えて、その薄っぺらい体を押しのけて出て行くことなど容易であろうはずなのに、どうしてもそうしようという気が湧いてこない。
 エミヤの沈黙を肯定と受け取ったのか、セイバーは居丈高に鼻を鳴らした。
 「考えてもみるがいい。薬が効いてくるまでには多少なりとも時間がかかる。家に帰り着く前にまた先ほどのようなことが起こらぬと断言できるのか。おもてで私以外の人間に同じことをしたらどうなるか、考えたことは?」

 唐突に、捜査官の職を失いさまよう自分を拾った、あの気高い黒髪の少女の顔が浮かんだ。あるいは顔を合わせれば憎まれ口ばかり叩く、長い菫色の髪をしたハッカーの少女が浮かんだ。なぜかはわからない。しかし自分がセイバーの言うようなばかげた真似におよぶことがあれば、あの二人の少女の顔を真っ先に曇らせるであろうという確信があった。彼女たちが顔を曇らせるさまはうまく想像できない。というより、想像したくないのだと、一拍おいてから気がついた。
 「ふん、それ見ろ。いよいよ貴様を帰すわけには行かない」
 彼女はエミヤの顔から視線をそらさぬまま、部屋の隅にあるベッドを指差すと、
 「今夜は泊まっていけ」
 などと言い出した。つい数分前、発狂して自分を絞め殺しかけた男を一晩泊まらせようなどよほど馬鹿なのではないかと思ったが、冗談を言っているけはいがまるでない。
 「決定事項だ。貴様に拒否権はない」
 力強く言い切られる。彼女がときおり見せる静かな、有無を言わさぬ激しさは、野を渡る夏の嵐に似ている。こうなったらもう彼女の思うまま流されるよりほかない。
 「……少し待ってくれ」
 「少しならな」

 エミヤは彼女のトランクの前にかがみこんで、あるものを取り出した。サブウェポンとして持ち歩いている、オーソドックスなグロックである。彼女の白い手にむりやり握らせた。エミヤの無骨な手にはすんなりと収まるサイズの銃は、しかし蝋でできた百合めいた彼女の手のひらにはむごいような質量を持つ鉄の塊に見えた。実際のところ、子供の背丈ほどもある両手剣を平然とふりまわす少女にはこの程度の重さはたいしたものでもないはずだ。
 「何かあったら使え」
 「何か、とは?」
 「オレがまた、さっきのような馬鹿げた真似をしたときだ」
 セイバーはめずらしいおもちゃでも見るみたいに、手の中でぐるぐると銃をもてあそんではさまざまの角度から検分している。正直なところ危なっかしくて見ていられない。やがて彼女はグリップのところをこつこつと指で叩いてから、得心したようにうなずいた。
 「なるほどよかろう。ここのところでおまえを思い切り殴ればいいのだな」
 「バカか? 骨の髄まで砂糖漬けか? 棒振りしか能がない原始人なのか?」
 「使い方を知らん」
 「くだらない冗談はやめろ。この町でこんな仕事をしておいてこいつの使い方を知らないわけがあるか。とりあえずやるときは頭を狙ってくれ」
 「本当に知らん。私には剣がある。これでも一途なたちなのだ。……それに、貴様の不始末の尻拭いを、なぜ私が請け負う必要がある? 報酬以上の余計な荷物はあずからない主義だ」

 結局、何かあったときには銃のグリップ部分で後頭部を殴打する、というかたちで話がまとまってしまった。
 仕方なくベッドに仰向けになる。飾り気のない白いシーツで覆われた寝台は、そっけないなりとは裏腹に思いのほかやわらかかった。疲労しきった四肢がとろけそうになるのを感じる。伏せた両目のうえに腕を乗せ、深く息を吐き出した。使用頻度が少ないためか、シーツからはかすかな埃のにおいがしたが、そこまでのホスピタリティを彼女に求めるつもりはない。ここはマンダリンオリエンタルではないのだ。
 「ところでオレがここを使うとアンタはソファで寝ることになるが、それでいいのか」
 「問題ない」
 ベッドが軋んだ。体の横にはらりと花弁の落ちてくるような気配がある。腕をずらし、まぶたをもちあげて傍らをうかがうと、当たり前のようにこちらを見上げているセイバーと目が合った。もはや何も言う気にならない。どうせこんなことだろうと思っていたのだ。
 隣で寝転ぶ彼女はエミヤの寝姿を観察でもするように横向きの姿勢をとっている。細い両腕と両脚とはかるく曲げられており、ちょうどエミヤの脇下あたりに小ぶりな頭を置いていた。これではエミヤが腕をおろしたときにぶつかってしまう。セイバーの体の上に腕をまわして抱き寄せるようなかっこうにしてしまえばいいのかもしれないが、さすがにそれはなけなしの良心がとがめた。彼は仕方なく額の上に手の甲をのせたまま、視界の端にセイバーをとらえて口をひらいた。

 「アンタには余計な借りができたな」
 「そうだろうとも。むろん、きっちり返してもらう」
 「何がお望みだ? デザートバイキングの回数券か? オレに出来る範囲にしてもらえると助かるが」
 セイバーはにんまりと口許をゆがめた。それで、どうやら彼女の術中にまんまと足を踏み入れてしまったことに気がついた。
 「魅力的だがその程度ではまだ安い。明日の朝食だ。何か料理を作れ」
 「……は? 料理?」
 「そうだ」
 「誰が」
 「貴様だ」
 「オレか」
 「うむ」
 「オレがアンタにメシを作る?」
 「そうだ。私が好みそうなものを、私のために作るのだ。買出しからメニューの考案まですべておまえひとりで……いや待った、買出しにはわたしも同行する。とにかくそれで作った料理でわたしを満足させろ。それで貸し借りはなしだ」 言葉の中身をきちんと理解するのに数秒かかった。いや、理解はしていても納得がいかなかったと表現するほうが正しいか。

 「オレは……」
 「料理などできない、は通らんぞ黒アーチャー。あのキメラっぽいウェイトレスからすでに情報を得ている。『ずいぶん舌が肥えているようだし、新メニューへのアドバイスも的確、おそらく里の掟的なアレやソレなどの事情で隠してこそいるがデミヤはアタシと並び立つほどの手練と見たワン。いずれ奴とは決着をつけねばなるまい』とな」
 沈黙がおりる。思えばセーフハウスに引っ張り込まれたことからはじまり、有無を言わさずバスルームに押し込まれ、頭がイカれたとしか思えない方法で薬を飲まされて、一晩泊まることをなかばむりやり承諾させられたうえに共寝まで許している。今日一日エミヤはセイバーに押し切られどおしだ。
 かような傲岸不遜の嵐にもまれにもまれて、ほとほとくたびれてはいたものの、しかしエミヤは決して不愉快ではなかった。彼女という嵐と連れ立っていると、せわしなくて、めまぐるしくて、自分にもまだかろうじて、ものに感じ入るような魂の残っていることを思い出させてくれるから。そうして嵐の去った後は洗われたように、頭のどこかがいやにすっきりと、霧の吹き晴れたように明晰になっている自分を発見する。
 ややあってから、エミヤはひとこと、

 「……マーケットが開くのは何時からだ」

 とだけ言って再び目をつむった。セイバーがふ、とかすかに微笑む気配を感じる。しんと冷たい小柄な体が、エミヤの心臓まで浸さんとばかりにいっそう、密着してくる。月と添い寝をしているようだ。あの女の幻覚を見たときには激情に荒立っていた体内の血も、今はただ静かにせせらぎ、自然のままに流れている。

 「時間になったらわたしがしっかり起こしてやる。……だから今は眠るがいい。何も考えず、何を恐れることもなく。そして朝になったら、今度はただ私の喜ぶ食事を作ることだけに心を砕けばよい」

 急速に襲い来る眠気の中で内耳に流れ込むセイバーの声は、暗い洞穴にさしひく潮に似て、どこかたゆたうような響きがある。
 エミヤは閉じたまぶたの内側にある色彩を見る。それはもはや泥中の蓮の色ではない。たとえばマーケットを賑わせる新鮮な果実や肉、焼きたてのパンの狐色、けばけばしい原色の菓子といった種々の食材が織り成す極彩色、そしてこれらの品物のあいだでせわしなく目移りを繰り返すであろう、黄金色の瞳に他ならなかった。

(了)



メイド黒王から黒弓へのマイルームボイスにときめいて結構手早く書いた何かです。
一発ネタなので自分でも設定そんなガチガチに組んでないです…