凱歌は過去より鳴り響く



 街はずれに立ち並ぶ廃工場のひとつが彼らの遊び場で、お城だった。そこにはすべてがあった。
 カントウ開発計画の過渡期と目された80年代を数年後に控えてなお、ミクモ村は文明の足音を聴くにはほど遠い日々を送っていた。村八分、封建主義、相互互助、家名、そのような言葉がまだ大手を振って歩いていられた。最初こそミクモ村の人々はこぞって変化を拒否し、なおも穏やかな全体主義の中に生きようとしていたが、近代化を受け入れ、日進月歩での発展を遂げる近隣の地域に、村も、村の人間たちも、精気を吸いとられてゆくようだった。やせ細り、疲弊した山あいの寒村。そこへ来てあのユキムラ財閥の介入は、まさしく夢物語の筋書きだったかもしれない。
 たちまち村は潤った。ミクモの名を冠したユキムラの工業施設で働きながら、人々は魔法のような再生劇に酔わずにはいられなかった。ミクモ村はただの寒村から、次世代の工業を担う巨人の体内にていきいきと働く内臓器官として生まれ変わったのだと、だれもかれもが声高にとなえていた。コダイスミオをはじめとした少年たちは、そんな歓喜の中で生まれたのである。
 
 
 緑なす深い森を抜けた先に、ユキムラグループが誘致されてすぐのころにひとまずの拠点としていた工場区域がある。本格的に村の開発が進み、もっと利便性のよい場所に工業地帯ができるとすぐにそこは閉鎖・破棄されたが、そのすたれて、まるで洗練されていないさびしさが、かえって子供心をくすぐるようであった。臆病だが好奇心旺盛、ハツカネズミみたいにかわいらしい少年たちにとって、これほどまでに安全で、なおかつ探究心をかきたてられる場所もない。彼らは色彩豊かな異世界よりも、日常の延長線上にあるほの暗い秘密のほうを恋い慕う。川沿いの高架線の下や、狭くて暗い押入れの中で身を寄せ合い、ただいたずらに大人たちの視線から隠れ回るだけでも、彼らにはこのうえなく愉快な遊びだ。さまざまの木々が寄り集まり、時折そのはざまから薄い絹の扇を透かしたようななごやかな陽射しの差し込むミクモの森、その奥に突然現れる、文明に擦り切れたような工場の墓場たちは、なにより心躍るに違いなかった。
 
 この絶好の遊び場を発見したのはもちろん、フユキとヒセキ、村でも有名な悪ガキをとりまとめるスミオの功績だった。 スミオはほんの六歳だったが、村のどの子どもより頭がよかった。利発で、よく気が付き、それでいて生意気げなところがない。くわえてその賢さを必要以上にひけらかさず、ある程度のところでとどめておくような知恵まで持ち合わせていた。大人たちがスミオの聡明を口々にほめるものだから、もちろん、周囲の子どもたちは結束して彼を孤立させにかかった。スミオは平然としたものだった。彼と同じくらいか、それよりもっと年上の少年たちが、おのおのの自立の夢を熱っぽく語っているのを、彼はいつも遠巻きに眺めていた。うたぐり深げな目である。ともすれば、幼いながらに侮蔑すらのぞくようだ。事実、スミオは彼らを見下しているような節があった。自分が仲間外れにされているから、というようなかわいらしい自己防衛からではなくて、純粋な非難からだった。 

 ミクモ村は工場と森ばかりで、狭くてちっぽけにすぎる。世界からつまはじきにされているような、つまらない村だと彼らは言う。こんな村からは一刻も早く出ていって、もっと広い世界を見つけ出すのだと言う。そして次にはお定まりのように、こんなところに自分はふさわしくない、もっと別のところに、かならず自分の探し求める、自分だけの世界があるはずなのだと語ってみせる。
 スミオは少年たちの無知を軽蔑した。彼らはこのミクモ村がどんなに尊いものであふれかえっているかも知らないくせに、安易に他の世界なんてものに希望を託そうとする。あんなことを言っている人間は、どこへ行っても同じだ。勝手に裏切られたような気になって、やっぱりここも自分にふさわしい世界はない、ならもっと別のところへ行こう。そんなことを繰りかえす一生に違いないと、スミオは決めてかかっていた。
 この美しいミクモ村、親友のフユキとヒセキ、そしてユキムラリルでスミオの世界はすべて事足りた。ユキムラリルはお姫様であり、スミオたちは彼女を守る勇敢な三人の騎士だ。このささやかでうるわしい王国が、スミオにとっては世界と等価値、いや、世界そのものだった。わざわざ外に探しにゆくまでもない。
 彼らのお城となる廃工場の前まではじめてリルを連れていった際、スミオは大人顔負けの口調と動作で優雅にひざまづき、「姫さま、こちらでございます」 とおどけてみせた。リルは、彼女にはめずらしく、目を丸くしておどろいたようだったが、一拍おいてから、
 
 「ええ、よきにはからってね」
 
 それを聞いてスミオはぱっと顔をあげた。おだやかにほほ笑むリルの、ばら色に透き通る肌が、スミオの視界にしっとりと染みわたる。この大人びた少年に、誰よりも翳りのない輝きが宿る瞬間だった。明け方の雨に洗われたあとの葉叢のように黒い、リルのふたつの瞳に、彼は世界のきらめきのすべてを見た。
 



 工場の中はほとんど操業していたころのまま残されており、電気や水道が止まっているのを除けば、子供たちにはぜいたくすぎる秘密基地だった。うねうねとしたダクトやパイプなどは追いかけっこを楽しくさせたし、きらきら光る鉄くずを宝物に見立てて宝探しごっこにも興じることができた。そこへたとえばどこからかフユキが黙々と運び入れてくる綺麗な布切れや壊れたアンティークの時計などの装飾品、ヒセキがやはりどこかからくすねてきたお菓子やくだものやジュースが加わると、いよいよ秘密基地はすてきなお城となった。
 このお城の唯一の欠点と言ったら、屋根に一箇所、大きな穴が開いているぐらいのものだった。それも大した問題ではなかった。なにしろだだっ広い工場なので、雨風はいくらでも他の場所でしのげたからだ。
 むしろその大穴はスミオたちにいいものをもたらしてくれた。時間を忘れて、暗くなるまで遊んでいると、彼らの帰宅をせかすように、月が大穴から顔をのぞかせてくることがある。そうすると、ひっそりと降りつもるような月明りをいちはやく感じ取って、リルが静かにつぶやくのだ。

 「月がやってきたわ。帰らなきゃ」
 
 彼女が空を見上げると当然、そのやわらかい顎も上を向き、白い喉があらわになる。なだらかに仰向けられた喉を月影がすべる。そのきよらかさに少年たちは魅了された。神々しいようなその横顔に、彼らがおさない脳裏に思い描く理想の姫君の姿が、丹念に織り込まれているのだった。

 ユキムラリルは美しい少女だった。いずれ花ひらくであろう美の芽生えが、はっきりとその横顔にあらわれていた。ミクモ村の監督にやってきたユキムラ分家の男、その一人娘が彼女である。夜明け前のような清潔さとあやうさが、小さな身体のうちであらそうことなくひっそりと同居していた。
 スミオたちが知る他の女の子たちのように、真っ赤な頬で村を走り回るようなたぐいの娘ではなかった。いつもみんなの輪から少し外れたところで、本を読んだり草花をながめている。スミオたちも同年代の子供たちのあいだでは外れ者のようなあつかいをされていたし、彼ら自身すすんでそのような立場にいたので、リルにもすぐ親しみが湧いた。その親しみは次第にあこがれへと純化され、彼らはリルの友人から、リルだけの騎士となることを望むようになった。  
 リルの美しさはたんに顔立ちが整っているとか、そういう表面的なものばかりでは済まされないものがある。ありていに言ってしまえば、彼女はあまりにも早熟すぎた。表情やしぐさのみならず、身体にもしっかりとそれは現れていた。彼女はスミオたちのふたつ年上、八歳の少女だったが、その肉体はすでに二次性徴のきざしがめざましかった。乳房は硬くふくらみ、臀部や腰にも女の線が隠しようもなく浮き出ている。
 ときおり虚空をさまようその目がふっと憂いを帯びるとき、大人の男たちでさえぎょっと目を見張るような凄艶さが生まれた。媚態というのではない。彼女の仕草に計算されたものなど、ひとつとしてなかっただろう。だからいっそう、おそろしいのだった。何気なく微笑を洩らしたり、ぼんやりと宙を仰いだりするその仕草が、意図せず男の心をかき乱す。リルという少女が刻んできた時間と、その色香はあきらかに不釣り合いであった。そういう不均衡もまた、男たちの野卑な想像力を煽り、揺り動かす。当然ながら彼女は気味悪がられた。魔性、と侮蔑を隠すことなく口にする者もいた。 
 けれど、スミオたちのような無垢な少年たちには、その艶めかしい美しさも純粋に崇拝の対象だった。ますます彼女の神秘を際立たせる神聖なものとして迎えられた。 
 廃工場の片隅に咲く花の健気さにリルがその唇をそっとほころばせるとき、あるいは物思いにふける彼女の横顔を、夕陽が瑠璃色に染め上げるとき、少年たちは幼い手足の隅々にまで、甘酸っぱい波の湧き立つような心持ちになったのである。
 

 リルはときどき自分の持っている絵本をスミオたちに読み聞かせてくれた。とらわれのお姫様、失われた王国、剣を取り立ちあがる勇敢な騎士たち。壮麗な銀の鎧を身に纏った騎士たちは、野を越え山を越え、暗黒の魔法がかけられた森を抜ける。姫をさらったうえに、国を石の廃墟へと変えたおぞましい魔物を相手に、彼らはひるむことなく立ち向かった。
 騎士たちの勇気はついに魔物を打ち破り、彼らはひとびとの喝采の中で輝かしい凱旋を遂げる。姫は彼女にかしずく三騎士ひとりひとりに、心からの感謝を述べ、王国には永久の繁栄と栄光とが約束される……そんな一文で物語はしめくくられていた。
 
 「ねえねえ、リルもお姫様にあこがれる?」
 読み聞かせが終わってヒセキが訊くと、リルはすこし頬を赤らめて、
 「言ったら、ヒセキたちきっと笑うわ。だからないしょ」
 「リル、それじゃあこがれてる、って言ってるのとおんなじだよ」
 「あっ……」
 スミオに指摘され、リルはますます朱色を濃くする。「そっかそっかあ」とにやにや笑うヒセキにつられて、フユキがやや申し訳なさそうに、ほんのわずか口角を持ち上げた。
 そして三人の少年たちは顔を見合わせ、示しあわせるようにうんうんと頷く。次の日、三人の中でいちばん文字のきれいなフユキが、やぶったノートの一枚にみんなで考えた騎士の誓いを書きつらねた。
 

 ――ひとつ、騎士は強くなくてはいけない。ふたつ、騎士は優しくなくてはいけない。みっつ、騎士はなにがあっても、国とお姫様を守らなければいけない。
 
 

 「ねえリル、歌をうたって」
 かくれんぼや鬼ごっこと言った遊びがひと段落したあと、ねだるのはいつもスミオだった。リルが歌ってくれるのはたいてい英語の童謡や子守唄のようなもので、歌詞の意味などまるでわからなかったが、もちろんそんなことは問題にならない。スミオがねだると、すぐにフユキとヒセキも期待に目を輝かせて同意を示した。

 「じゃあ、今日はすこし長めの歌ね……」
 
 リルが歌いはじめると、少年たちは思い思いの格好でお姫様の歌声に酔いしれた。
 スミオの耳は、いつだってリルのために開かれていた。彼女の歌声や、言葉や、ささいなため息のひとつひとつに至るまでを彼はていねいに拾い上げ、耳の奥にしまいこんでゆくのである。リルの歌声は、どんな絵本や物語よりもあざやかに、さまざまな幻想をスミオの胸にひらかせた。小川のせせらぎや、鳥のさえずり、古めかしくも堅牢なお城と、庭に咲き乱れる花々。どの花も意気揚々と首をもたげているのは、風に乗ってやってくる、お姫様の歌声にやさしく撫であげられたからに違いない。
 ヒセキは、リルの姿をその丸く澄んだ目におさめるのに夢中であった。自己中心的で陰湿だと周りの子どもたちから嫌われている彼が、野うさぎを大事そうに抱きかかえて連れてきたり、泥だらけになりながらも珍しい花をつんでくるのは、ただリルの笑顔が見たい一心からだった。彼の目はリルが喜ぶものの発見のため、いつもせわしなく動いている。けれど、リルを見つめるときには、一転してじっと落ち着いたものになる。もしリルの表情が少しでも悲しみに曇ったら、いちばんに自分が元気づけるのだと彼は日ごろから宣言してはばからない。
 フユキは無口な少年であったけれど、彼がリルのためにつむいだ言葉はつねにやさしく、彼女へのいつくしみに満ちていた。リルのことを語るとき、フユキの、小さくも透き通った声はより澄み渡る。リルとまともに目が合うと、すぐ恥ずかしげに右下のほうを向いてしまうのだが、スミオもヒセキも、その一瞬の目線の触れ合いが一日中フユキを幸福な気分にさせるのを知っていた。リルと言葉をかわすとき、ほんのわずかにほころぶフユキの唇は、丹精込めて育て上げられた蕾の花開く瞬間に似ている。

 リルの歌がぴたりとやんだ。歌が終わったのではなく、途切れてしまったのだ。その理由はすぐにスミオたちの知るところとなった。
 
 「……この音」
 耳ざといスミオが、まず真っ先に気がついた。遠く、街の方角から、鬱蒼とした森の木々さえ突き抜けて、うねるようなどよめきが聞こえてくる。リルの絵本に登場したあの盲目の大蛇、それが獲物の匂いに興奮し、狂おしくのたくりまわるようすを思い起こさせた。拡声器で何倍にも増幅された怒声、それを煽りたてるために無秩序にかきならされる鈴や太鼓、踏みならされる人々の足、そして幾重もの呪詛の言葉が、大蛇の躰をつくっている。
 パレード、とヒセキがつぶやくのがきこえた。蒼ざめたリルが、力なく地にへたり込むのは同時だった。
 「リル」
 スミオはとっさにリルの手をとっていた。 まっしろな手は小刻みに震えていて、その動揺は瞬時にスミオにも伝播する。一瞬ののち、もう片方の手も添えて、いっそう力強くリルの手のひらを握ってやることに思い当たった。

 「だいじょうぶだよ」
 「スミオ……」
 
 こわい、と聴こえた気がした。
 「だいじょうぶ。ぼくらがついてる。ぼくたちはリルの騎士なんだ、騎士はお姫様を守るんだ。だからぜったい、なにがあっても、リルを」 
 言葉こそいさましいが、スミオもリルと同じくらい、動揺していた。舌がもつれてうまく言葉が練り上げられない。この場所を遊び場所に選んだのは、好奇心ばかりが先行したわけではなかった。あのいまいましいパレードの物音をリルに聞かせないために、なるべく村の中心から遠い場所を探したのだ。いままで木々の風にすれ合う音や、鳥の鳴き声といった平和な音楽につつまれていたこのお城にまであのパレードの音が届くようになった。パレードそのものの規模が大きくなっているのは自明である。
 ミクモの自然を犯すな、ユキムラグループはミクモより即刻撤退せよ、工場閉鎖、責任を、補償を……シュプレヒコールは遠く、しかしまがまがしく響く。森を覆う魔の呪文のようにも聞こえた。
 こんなときに彼女を勇気づけ、慰める言葉すら浮かばぬ自らの知恵をスミオはひどく呪った。大人たちが無責任に褒めそやすしかしない、無駄なものばかりのこの頭より、ただひとこと、お姫様に希望を抱かせる言葉が欲しかった。
 
 パレードの過ぎ去るのをただ堪えしのぶばかりかと思われた矢先、ふたたび、工場に歌声がうまれた。だが、その声の主はリルではない。
 立ち上がり、背筋をのばして、フユキが歌っていた。
 小柄で、夕方過ぎの朝顔に似たつつましさを持つ少年の喉から、朗々とした歌声の奔流がうみだされている。先ほどまでリルの歌っていた曲を、彼は懸命に再現しようとしているのだった。もちろん一回聴いただけの曲、音程もところどころはずれているし、歌詞にいたってはほとんどでたらめだ。しかしそれゆえに、彼の可憐さ、いじらしさはいっそう際立った。
 いつだってスミオの従順な右腕であり、彼の指示もなく勝手に物事を実行したためしのないフユキが、みずから率先してなにかを行うというのは、この時がはじめてだったかもしれない。
 やがてそこへヒセキの、野放図なほどに明るく、すがすがしく調子を外した歌声がくわわり、ほどなくスミオもその歌声の中へみずからの声を溶かす。
 つたなくも勇壮な聖歌であった。城へと殺到する敵の軍勢を押しとどめんとばかりに、騎士たちは声の限りに歌う。




 
 スミオたちは村にひとつきりの小学校に通っていたが、この日も午後の授業はとりやめとされた。
 今月に入ってもう五度目であった。体調不良をうったえて学校を欠席する児童があとをたたず、授業がろくになりたたないのである。まだ健康な子どもたちも、学校が休みになったり、授業が早く終わるのをその場では喜ぶものの、日に日にものものしさを増す親や教師たちのようすに多かれ少なかれ気圧されていた。それを振り払おうとして無理にはしゃぐものだから、ますます村の浮つき方は病的なものになっている。
 
 「最近さ、パレードの音、また大きくなったと思わない」
 いつもの廃工場へ向かう道を歩きながら、ヒセキがふと漏らした。
 「ヒセキ」
 「いいよフユキ、ほんとうのことだ」
 すかさずフユキがとがめるような目線を向けたが、スミオがそれを制した。
  ユキムラグループがミクモで実権を握ってからというもの、泉の湧き出る勢いで村は豊かになった。しかし、ミクモ村を熱病のように浮き立たせた夢物語は、人々がさらなる富をと目をぎらつかせているうちに着実にその澱みを溜め込んでいた。そしていま、いよいよ、村の日常にまで浸食をはじめている。
 体に不調をおこしているのは体の弱い子どもや老人ばかりではない。大の大人でさえ、突然苦しみ出して病院に担ぎ込まれるということが頻発している。村の病院では治療が追い付かず、何キロも離れた町の病院へ入院した村民も少なくはない。ユキムラの工場から垂れ流される排水で汚染された川の水が、みなの身体をむしばんでいると人々が確信するのに時間はかからなかった。

 当然のことながら、ユキムラの娘であるリルへの風当たりはいっそう強くなりつつある。責められるいわれなどなにひとつない、ただユキムラの家に生まれたというそれだけで、彼女は人々からこぞって悪意を向けられた。リルは生贄のようなものだった。彼女は無力で脆弱で、まっさらだ。だからこそみな、彼女の身に罪業を押し付けたがる。おさない少女にまで憎悪を投げかけなければならない、自分たちの悲劇性をより強調するために。そうやってなかば義務的に、自覚的にリルを責めさいなむ大人たちもいれば、彼女が実は魔女なのではないかというたわごとを本気で信じ、恐れおののく大人も少なからず存在した。つい先日も、リルを魔女とののしって、石をなげつけようとした男の向こうずねをヒセキが思いきり蹴り飛ばして、ひと悶着を起こしたばかりだ。
 
 「大人たちも最近おかしいよ。きのうだって、また近所で怒鳴りあいがあった。すぐに殴り合いのケンカになっておまわりさんが来たんだけど、最後にはそのおまわりさんまで殴り合いに入ってさ……前までこんなのなかったじゃん。こんな、肩がぶつかったとかちょっと目があったとか、そんな理由でケンカなんて……」
 ヒセキの声は次第に縮こまっていって、最後の方は口の中でもぐもぐと転がすような調子になってしまった。彼の言うことはもっともだった。村中の誰もかれもが、正体の判然としない、濃密な精気に憑かれていた。
 
 「弱気になるな、ヒセキ。リルは僕たちが守るんだ」
 「うん。わかってる。騎士の誓い、たてたもんね。騎士の誓いは絶対だもん。宿題よりたいせつ。給食のプリンより、もっともっとたいせつ」
 「そうさ、騎士は、何があっても……」
 「国と、お姫様を、守る」
 「……うん」
 
 しばらく、三人とも無言のままに歩を進めた。途中でぶち模様の、やせた野良猫とすれ違ったさいに、ヒセキがひとりごとめいた口調で、
 「弱そうだなあ」
 とつぶやいた。スミオもフユキもその言葉には答えず、ヒセキもそれきり口を開かなかった。
 たとえスミオたちがほかの子供たちより数倍、頭がきれるとはいえ、実体はまだほんの六歳の子供でしかない。とりわけスミオたちは感受性の強い子供たちだった。本来なら、彼らもほかの子供たちのようにがむしゃらにはしゃいで、頭上に垂れこめる漠然とした不安をかき消すのに躍起になってしかるべきなのである。彼らがそれをしないのは、みなその小さな胸に、リルを守るという、騎士の誇りを持っていたからだ。スミオも、フユキも、ヒセキも、自分はただの子供ではなくて、リルの騎士なのだとつねに心の中で言い聞かせていた。絵本に描かれるあの勇敢な騎士たちになりきろうとすることで、彼らは繊細や臆病というものをみんな鎧の下に押し込めていた。彼らは自らが脆弱な少年でいることを許さなかったが、それこそ少年らしい無垢の心から来るいじらしい使命感だった。そんな皮肉を、もちろんスミオたちは気付かない。それが幼さというものだ。
 

 「……ぼくは、リルが好きだ」

 雑木林を抜けた先、そろそろ森の入口に差しかかろうかというところで、とつぜんフユキが口にした。スミオは思わず足を止め、ヒセキはあからさまにけげんな表情で、立ち止まってうつむいたフユキの顔を覗きこもうとする。

 「へんなフユキ。ぼくだって好きだよ? 決まってるじゃん。リルがきらいな人なんてこの中にいないよ」
 「そうじゃなくて……あの。えっと……」
 口数は少なくとも、意見を求められればごく短い言葉で、はっきりと意思表示や受け答えをするのが平時のフユキだが、今回ばかりはどうにも歯切れが悪い。もちろん、スミオにはその理由がわかっていた。
 
 「女の子としてリルが好き、ってことだろ」
 フユキは白いおもてをうつむけた。
 「え……うええええええっ! マジ? ほんとなの、ふゆちゃん!」
 「ふゆちゃんはやめて」
 「だって、だってさ、ふゆちゃん、クラスのカナコちゃんとかマユちゃんにブランコさそわれても、本が読みたいからっていっつもことわってるじゃない。あとさ、ほらあの髪の長い、変な髪留めばっかりしてるコ、そうだカズミちゃん、あの子給食当番でカレーが出るとフユキのぶんだけ多めによそってるんだよ、でもさ、フユキそんなのぜんぜん気付かないから、てっきり女の子嫌いなのかなって」
 興奮のあまり矢継ぎ早にまくしたてるヒセキの勢いにやや引きながらも、フユキは雨だれの落ちるように、訥々と語る。
 「そんなこと、ないよ。その子たちだってきらいじゃない。でも、リルへの好きとは違う。何が違うか、自分でもわかんないけど、とにかく全然違うんだ」
 「あー、うん。わかるけど。つまりさ、リルとケッコンしたいってことっしょ? およめさんにしたいってことっしょ?」
 「け、けっこん」
 フユキはいよいよ耳まで真っ赤になった。ヒセキがその反応を面白がらないはずもなく、彼は見かねたスミオに止められるまで、「けっこん、けっこん、フユキの夢はリルとけっこん」とフユキの周りを跳ねて回って、フユキをひどく狼狽させた。
 
 「フユキ。騎士がお姫様を好きになっちゃいけないんだ」
 ヒセキを取り押さえながら告げるスミオの声音は重々しかったが、いましめるというよりも、おおいに同情の色合いを帯びたものだった。
 「フユキの気持ちは、わかるよ」 スミオはためらうように一呼吸置いてから、
 
 「……僕も好きだから。リルのこと。フユキとおんなじような意味で」
 
 例年よりいくぶん勢いの弱いような、遠い蝉の声だけがスミオたちのあいだの空気を震わせていた。いよいよ、誰も何も言い出すどころか、動くことさえできなくなった。
 生ぬるい風が吹く。と、どこからか、その風に乗って一枚の紙切れが地面を這いずるような低空飛行でやってくるのである。ちょうどスミオにはがいじめにされたままのヒセキの靴に紙は弱々しくぶつかって、落ちた。
 ヒセキはスミオの腕からひょいと抜け出し、その紙を拾い上げる。スミオとフユキはあいかわらず、互いに視線を別の方向へ向けたまま、言葉を探して黙りこんでいた。
 紙はパレードでばらまかれたビラだった。ヒセキは漢字に疎く、『ミクモの自然を破壊する愚かなユキムラ一族に天誅を』などと書かれた文字の半分も理解できなかったに違いないが、ろくなものでないことぐらいはすぐにわかったらしい。ヒセキは力いっぱいにそのビラを丸めてからまた広げ、両手を使って好き放題にちぎり始めた。
 
 「なーんだ。ふたりしてかくしてたんだね。みずくさい、みずくさい」
 「ヒセキ?」
 「ああ、よかったあ。ぼくだけじゃなかったんだ。リルの王子様になりたいの」
 
 期せずして、スミオとフユキは互いに顔を見合わせることとなった。当のヒセキは悪びれもせずに、胸さえ張って、こう続けた。
 
 「あ、でも騎士もやめるつもりないからね! それならリルを女の子として好きでもいいんだし。騎士で王子様。一石二鳥!」
 「一石二鳥はそんな意味じゃないし、そういうの、いいとこ取りって言うんだよ、ヒセキ」 
 「へへーん」
 「褒めてないから」
 「……リルは、みんなのプリンセス」
 「あ、ふゆちゃんいいこといった! そういうこと!」
 「ふゆちゃんはやめてったら」
 「そうときまったら……」
 ヒセキがぴっと、森の方角を指差した。あの森を抜ければ彼らのお城があり、彼らが恋い焦がれ、誰よりも慕うお姫様が待っている。
 
 「だれがリルのところまで一番はやく行けるか、競争!」

 言うが早いが、ヒセキが腕をふりまわして走り出した。フユキがあわてて後を追う。この競争においては毎度のようにスミオの勝利が約束されていたが、ヒセキもフユキも勝負を投げ出すようなことは決してなく、むしろ果敢に挑んでくるのだった。
 不意を突かれたものの焦ることなく、むしろ悠々と駆け出したスミオは、ふと近くを流れる小川に目をやった。川の色はまた濁ったようにも思えたが、それよりも彼の目をひいたのは、腹をあおむけにしてぷかぷかと浮いている、一匹の魚の死骸だった。スミオはすぐさま目をそむけ、かわりに地面を蹴る勢いを強くした。
 スミオだけでなく、ヒセキもフユキも、やがて来たるであろう不吉な出来事、そのささやかな予兆たちを身体が自然と察知するようになっていた。毎日はいかにその予感をやりすごすかとの戦いだった。ゆえに、スミオの中で、フユキや、ヒセキや、そしてリルと過ごす時間の幸福さはいっそう際立ったのである。そう遠くないうちにかならずおとずれるであろう悲劇を意識のどこかで汲み取っているからこそ、彼らの時間は尊さを増した。破滅の予感が彼らをより深く結びつけていた。







 夜を迎えた森は、黒々とした闇がどこまでも延びていて、女の長く濡れた黒髪が広がっているのを思わせた。ふんだんに湿り気を帯びた盛夏の風を受けると、森全体がむずかるように、重たく揺れる。
 スミオたちはその暗闇の中を駆けてゆく。先頭を目のいいヒセキ、しんがりをフユキがつとめ、その二人にはさまれるようにしてスミオと、彼に手をとられたリルがいた。森の入口あたりから、大人たちの怒号が連なって聞こえてくる。

 「いたか!」
 「こっちにはいねえ! もっと人呼んで来い、あっちは魔女を連れてるんだ!」
 「あんなこどもたちまで、魔女にたぶらかされたとは!」 
 「逃がすな! 魔女を逃がすな!」

 このような声が聞こえてくるたびに、スミオはしっかりとリルの手を、枯れゆく寸前の花のようなか弱い指を、いつかのように強く握ってやった。
 追いすがり、絡みついてくるような濃密な狂気は、とうに体力の限界を迎えたスミオたちの足を突き動かすに十分だった。蜂起した村人たちはついにユキムラの自宅を襲撃し、夫婦が娘を置いて逃げ出したと見るやすぐにその娘をとらえるべく村中を血眼になって探しまわっている。自分たちが追っているのが十歳にも満たない子供であることなど、彼らは意にも介していなかった。いささかの良心の呵責さえ見当たらない。かと言って、無力な生き物を追いつめる快感に酔っているわけでもなかった。そのような野蛮な楽しみを見いだせるような精神の余裕など、彼らはとうになくしている。追い詰められた無力な生き物は、あるいは彼らのほうだったかもしれない。リルが魔女であり、生かしておけばこの村に必ずや破滅をもたらすだろうというたわごとを、スミオたちをのぞいた村の人間はみな真剣に信じ込んでいた。
 あるものは魔女への恐怖にわななき、あるものは魔女狩りに気炎をあげて幽鬼のごとく村を駆けまわる。大人も子供も十字架を首から下げ、数珠を手首に巻き付けて、さまざまのお札やお守りのたぐいを握りしめている姿は、はたから見れば滑稽どころか、狂気の沙汰としか思われまい。だが、彼らの目はいっさいの愚弄を受け付けぬほどにおごそかだった。聖人から天命をくだされた信徒さながらである。
 そのような敬虔な狂気でもって追いまわされたスミオたちは、もはや体力的にも精神的にも限界を迎えていた。いち早く村の狂騒を感じ取ったスミオがリルを家から連れ出したのち、彼らは比喩でなく村中を逃げまどうこととなった。首尾よく森に逃げ込むことはおろか、ここまで逃げられたことさえほとんど奇跡、僥倖である。
 とうとうリルがふらつき、近くの木の枝にぐったりとしなだれかかった。それを合図のようにして、スミオたちも次々に膝を付く。

 「リル、へいき?」
 「ええ……」
 こんなときでも、スミオは息も絶え絶えにリルの身体を気遣うのである。リルも胸をおさえ、震えながらも懸命に呼吸を整えて頷く。もともとリルは身体が丈夫でなく、野山を駆け巡ることに慣れているスミオたちとくらべてその体力はあまりにも貧弱である。自分がもっと早く気づいていれば、こんな無理を強いることも、追われる恐怖を味あわせることもなかったのだとスミオはまた己を責めずにいられない。もしもリルが捕えられたら、おそらく死ぬよりもおぞましい出来事が彼女の身に振りかかるとスミオは確信していた。少年の賢さと豊かな想像力が、捕らわれたリルが受けるであろう世にもおそろしい責め苦のかずかずを鮮烈に思い描かせ、彼はわれ知らず、肩を震わせる。

 「スミオ、まずい。ここも、もうすぐ……」

 あえぎつつ、フユキが後方を指し示す。懐中電灯とカンテラの光が、百鬼夜行の行列を思わせるように群れをなしてこちらへ近づいてくる。鬼火のようだとスミオは思った。あの光のひとつひとつに、村人たちの狂気や怨念、憎悪が燃えている。このままではあと数分もしないうちに、スミオたちは発見されてしまうだろう。
 スミオは深く息を吸い込み、吐いた。今の呼吸ですべての疲弊は消えたのだと、強く自分に言い聞かせる。 

 「山へ逃げよう。山の中なら広いし、隠れる場所もたくさんある。それから、ふもとに公衆電話があったはずだ。それを使って外に連絡して、助けてもらう」
 「……僕たちだけで、山を超えるってこと?」
 
 ヒセキが目を見開いたあと、森の奥、ちょうど山のある方向へと視線を向けた。スミオの提案がいかに困難であるかなど、スミオ自身も含めてみながよくわかっていた。もはや自分たちが逃げ込むにはそこしかないということも。
 
 「……僕は行く。リルを守る」
 フユキが真っ先に同意を示した。迷いのかけらも見当たらない、強い言葉が、ヒセキをも鼓舞したらしい。彼もやおら力強く頷いて、
 「うん、そうだ、そうだよね! 僕らはリルを守るんだよね! 山の一つや二つやみっつ、越えられるって! そりゃあ、リルは女の子だから山なんてつらいし、おなかすくかもだけど、だいじょうぶ、ぼくさ、ビスケットたくさん持ってきたんだよ。すごくおいしいんだ。それに、リルが退屈しないようにおもしろい話もする。マザーグースって知ってる? リルが好きだと思って、図書館で借りて覚えたんだ。あ、あんまりでかい声だと見つかっちゃうから、小声になっちゃうけどもさ、それから、それから……」
 たまらずリルがうつむいた。その黒い瞳にみるみる涙の球が膨らんでゆくのを、暗闇の中にあってもスミオは見逃さなかった。彼女は嗚咽を必死でこらえながらも、「ありがとう……」とだけ、なんとか口にした。
 「スミオ、私……」
 「わかってるよ、リル。リルの望みはみんなの望みでもあるんだ」
 
 スミオはリルのやわらかい耳に唇を近づけ、そっとささやきかける。
 
 「山を越えたら、もう安全だ。ミクモにも、僕らのお城にも、絶対帰れるよ。約束する。だって、僕らは……」








 ■ ■ ■

 腹の底、臓腑のひとつひとつまで突き上げるような衝撃が、かなりの高度を維持したままホバリングを続けているヘリコプターの内部にまで打ち寄せてくる。コダイスミオは目を閉じたまま、身体が揺さぶられるにまかせた。数十秒ほどで振動はおさまり、彼はゆるやかにまぶたを持ち上げる。  
 クサビが耳を押さえて渋い顔をしている。爆音のせいだろう。村一つを吹き飛ばすだけの量と威力だ。しばらくは耳鳴りがやまないかもしれないが、なにしろスミオはその音を受容する器官を失ってしまっている。これまでならクサビのように耳を押さえて痛がるふりをしたかもしれないが、もうそれも必要ない。
 

 「テツさん、少しドアを開けてもらっていいですか」
 「身投げでもする気か?」
 スミオは彼らしくない冗談に笑った。凶犯課に身を置き、捜査官として事件を追いつづけてきた青年の、いやしさのかけらも見当たらない笑いだった。しかしクサビの目を見ると、彼はすぐにその笑みにあわい陰をまとわせた。スミオを見据えるクサビの目が、至極真剣なものだったからだ。これまでスミオが幾度となく傍らで見つめてきた、犯罪者と対峙するときに彼が見せる、獣の目つき。獲物を冷静に伺い、隙あらばその喉笛へ喰らいつこうとする獰猛さと賢明さとをしっかり焼きこまれたその双眸は、いまはスミオ自身に向けられている。だからスミオも、クサビテツゴロウの相棒であるスミオではなく、一連の爆破事件の首謀犯であり、ミクモ村出身のコダイスミオとして向き合うことに決めた。それが礼儀だと思った。

 「まさか。この期におよんでそんな見苦しい真似はしませんよ」
 「……わかった。ちょっと待っとけ」
 クサビは操縦士に手早くいくつかの指示を出し、ほどなく、ドアは半分ほど開かれた。途端にごう、と塊になって吹き上げてきた風がスミオの髪を乱し、細かな灰を含ませて彼の眼球にぶつかってくる。その灰の量に爆発の規模がうかがえた。まばたきを繰り返しながらも、彼はしっかりと目を見開こうとした。遥か眼下、灰と瓦礫の山と化したであろうかつてのふるさと。二十年という永い月日を経て、ようやく、村は邪悪な魔法から解放されたのだ。
 スミオは上着のポケットから、手のひらにおさまるくらいの小瓶を取り出した。

 「ヒセキの遺灰です」
 誰にともなく、スミオはつぶやく。
 
 「手に入れるのに苦労しました。なにせ自殺した爆破犯の遺灰なんかを、いち捜査官が必要とする理由がありませんからね。いろんなルートに手をまわして、こそこそとあちこちを巡って……ああそうだ、これ手に入れるのに科研でハチスカの名前使っちゃったんですよ。あとで謝っといてください。
 ……でもよかった。やっとあいつも戻ってくることが出来たんだ。本当はフユキも一緒がよかったんですが、なにせあいつ、文字通り灰も残らなかったから。昔からきっちりしてて、なんでも自分でやっちゃうやつでしたけど、自分の遺体の処理までやることないのに」

 もうこの世にはいないふたりの親友をスミオは想った。ヒセキとフユキ、ふたりはみずからの死をもって、過去の悪夢に風穴を開け、道を切り開いた。彼らは澄み渡った心持ちのままに、死を待ち望んでいた。その命がついえる瞬間に、騎士である彼らの名は永遠となり、姫君の腕の中でとうとい輝きを放つ。彼らの肉体は滅んでも、この聖地でずっと生き続ける。
 スミオは深く息を吸った。終幕の予感は、彼の唇からさまざまの言葉を引き出そうとしている。彼はそれにあらがうことなく、彼は語り始めた。思い返せば読唇術のほかにも、こうやって言葉を発し、自在に抑揚をつけ、発音を明瞭にし、あるときはあえて言葉をいいよどむことによってかえってその発話を人間らしく自然に見せるような訓練、つまりは健常者とまるで同じような会話のやりかたを身につけるのに、血のにじむような努力をスミオは重ねてきた。捜査官になるために、耳の障害だけは隠し通さねばならなかった。
 
 「結局、俺たちは逃げられなかったんです。王国を、お姫様を守れませんでした。所詮子どもの抵抗、悪あがき……。僕たちはあまりに無力だった。
 山に入ってすぐ、僕たち三人とリルはあっけなく捕えられました。先回りされていたんですよ。あのときの大人たちの目を、ぼくは一生忘れられない。
 ぬめぬめと赤いたいまつの炎に照らされた大人たちの瞳。ひとめで正気じゃないとわかりました。人間はあそこまで理性というものを放棄することができる。切り取ることができるんです。
 
 そうしてぼくたちは、彼らが拠点としていた工場のひとつに連れていかれました。リルの姿を見るなり、まわりの人間は魔女をとらえた魔女をとらえたと大騒ぎでしたよ。 
 あとはテツさんも知ってのとおりです。僕は魔女リルの言葉に耳を傾けたとして、鼓膜を突きやぶられた。フユキは魔女リルに忠誠を誓ったために、口に煮え立った油を流し込まれたあとに口を縫われ、ヒセキは魔女リルの美しい外見に騙されたと目を潰されたうえ、ご丁寧にも瞼を縫いとめられた。そうしてリルは、あらん限りの凌辱と暴行を……人間としてのありとあらゆる尊厳を踏みにじられた。その生の遍歴に誰もが唾を吐きかけていった。女という性別に生まれたことを後悔するぐらいの仕打ちを受け、夜も昼もなく犯され続けた。
 
 今でも思い出せる。僕が最後に聴いたのは、リルの悲鳴だった。痛い、スミオ、助けて、と泣くリル……あんな声は聞いたこともなかった。いつだって痛みをじっとこらえていた強いリル、ぼくらにいつも優しい言葉をかけ、歌や物語を聞かせてくれたリルが、声を振り絞り、喉が枯れ果てても、助けを求めていた。
 ヒセキが最後に見たのは、リルの身体に群がる男たちの姿だったそうですよ。とても人間には見えなかったといっていました。魔女を見てはならない、見られてはならない、と顔隠しなんかしておいて、その群がり方はウジ虫かなにかに近かった。彼らは狂気に身体をすっかり明け渡すかわりに、かならずや魔女を罰し、滅するのだという揺るがぬ信念を手に入れた。だからあんな、けだもの以下の醜態を平気で、誇らしげにさえ思っているような風情で人にさらす。
 奇声を発しながらリルを壊しにかかったあいつらに、フユキはずっと叫んでいた。リルをはなせ、リルをはなせ、何回も何回も繰り返していましたよ。それが耳障りだったのか、あいつがまっさきに罰を受けた。
 殴る音、蹴る音、リルの泣き声、吐き気のするような臭い。時折大人たちの身体の隙間から、リルの細い足や手が見えるんです。空を掻くようにもがいて、天に向かってぴんとこわばる。そしてすぐにぱたりと落ちてしまうんです。蝶が力尽きてくずおれるように……。覗くたびに、あのまっさらな肌にはあざや傷が増えていった。ぼくらはそれをみんな覚えている。たとえ音を失い、光を失い、語る言葉さえなくしたとしても、この魂が記憶している。
 想像しうる限りの苦痛のさなかで、彼女は死んでいった。……でも、それでも、リルは穢れてなんかない。あの清らかで美しく、はかないリルのまま、ぼくたちが救い出しに来るのをこの村でずっと待っていてくれていた。僕たちがここに光を取り戻すのを。石になった王国の魔法を解き、お姫様を呪われた鎖から救い出すのを」

 スミオの言葉には信仰告白めいた厳粛さがあったが、いっぽうで滔々と流れるような、別世界の物語を語る調子もあった。スミオの唇から紡ぎ出される悪夢は、その豊饒な言葉たちに彩られ、ふたたび現実へ顕現する。
 瓶のふたを慎重に開け、彼は瓶の口をまず親指でしっかりとふさいだ。開けられた窓の隙間へ腕を伸ばす。吹きつけるというよりもぶつかってくるような勢いの風の中で、スミオはそっと親指をはなし、瓶をかたむけた。たちまち小瓶の中の灰は、強い夜風にかすめ取られていく。スミオはその行方に思いを馳せた。この灰はきっと、あの穢れたミクモの地に落ちることはない。風の中をさすらい、やがてどこかの大地に舞い降りて、うるわしい花々を咲かせるのだ。
  
 「おかしいな……」

 遺灰は風に招き寄せられるまま、星のひとつも見えない、緞帳のように暗く重い空を突き進んでゆく。そうして残りわずかとなった灰は、最後にスミオの指先へそっとまとわりついたかと思うと、すぐに、高く、高く、舞い上がっていった。

 「おまえたちの方がさきに、リルのところに行くなんて。僕がいつも勝ってたのに」

 彼らの王国は長きにわたる忌まわしき呪縛から解き放たれた。王国から時間が消え、永遠がやってくる。過去は死に、未来さえも王国を衰えさせることはできない。スミオが生き続ける限りずっと、王国では今この瞬間の、光り輝く繁栄と平穏がすべてだ。だれにも、なにものにも、王国は侵されない。蝕まれない。
 たとえミクモ村が歴史から見放されたとしても、あの王国はいつもスミオとともにある。そして、彼の愛した、あのきよらかな姫君も。

 パレードの音がする。国中の人々が、騎士を、王国を、そして姫を讃える歌を捧げていた。今やスミオは、その歓喜の声のひとつひとつさえ、拾い上げることができる。音を失った耳の奥で、スミオは高らかな凱歌を聴く。

 (了)

 My Girlfriends Dead


   ・全エピソード中、「パレード」はとくにプレイヤーへの衝撃度が高い話でした。
 ミクモボーイズは感受性が強すぎたゆえ孤立した子供たちの集まりであったような気がしています。だからリルをあそこまで崇めていたのではないかと。
 スミオ、ヒセキ、フユキ、そしてリルと清らかな子供たちの美しい思い出、それがあのような、最悪に近い形で踏み荒らされたからこそ悲劇性が増すわけです。
 実に20年ものあいだ戦い続け、最後には自らの命、あるいは魂をもって過去を清算したスミオたちの自己犠牲含めて、まさしく現代のおとぎ話。


 
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