1.48秒異国の旅



   共有室の扉がひらく音がした。サイトーは整備の手をやすめ、首をめぐらせてそちらをふりあおぐ。同僚が外回りからご帰還らしい。だから彼はかるく手をあげて、

 「おかえり」

 とほがらかに言った。

 さて痩身の同僚は面白いほどにぴたりと動きをとめた。サイトーの鋭敏な視力は、彼の葉脈のように細い眉がごく微細に、しかし確かに寄せられたのをとらえた。得難い反応に彼は内心してやったりだったが、お得意のポーカーフェイスで、いかにもなんでもないような顔を張り付けたままにしておく。
 同僚はあいかわらず顔をしかめたままだ。さきほど耳に入ってきた言葉はいかなるききまちがいであったのか、頭の中で検討を重ねているにちがいない。なのでサイトーは親切にも、もう一度聞きまごうことのないようくりかえしてやった。小筆でひとつ刷いたように細い、彼の切れ長の目でも見のがさぬように、ほがらかな笑みさえうかべてみせる。  

 「おかえり」
 「なんだって?」
 パズが声をひそめた。いましがた「戦況はなはだしく劣勢」との報告を受けた、謹厳な部隊長のごとき表情と声音である。

   「挨拶さ。人が帰ってきたら『おかえり』だ。常識だろ?」
 こともなげにサイトーは返す。パズはしばしなにか言いたげにしていたが、やおらにふところに手をさしいれて、おなじみの煙草の箱をとりだした。流れるような動作で火を付ける。こうしてきゃしゃなシガレットが彼の薄い唇をとざし、腹の底からわきあがってくる、さまざまの疑問や言葉を封じる役割を担った。
 
 「身体に悪いぞ」
 「全身義体に何をいってる」
 「煙草じゃねえよ。いまさらお前にそんなこと言うわけねえ。そうじゃなくて、言いたいことがあるなら、はっきり言ってみたらどうだ? 抑え込むのは毒だ」

   いよいよ瞼を半分も落とし、不審を隠さぬ顔つきになったパズをながめながら、サイトーはいまここにいない彼のことを思い出していた。彼がサイトーにはじめてそうしたときも、そしてその応対に呆然としてしまったサイトーを見たときも、いまの自分とおなじ気持ちになったのだろうか。しかしすぐ、彼はこんな意地の悪い興がり方など考えもつかないだろうことに思い至った。

 そもそもかの男のすみかというのは、こういうささやかで健全な言霊がいきいきと闊歩している世界なのである。彼はサイトーのいる九課に、そのあかるい世界の言語を――異国の太陽の匂いをたちのぼらせるみじかい言葉たちを、山ほど輸入してきたのだった。どころかあの男は、その小ぶりではあるけれどはじけるほど実の詰まった果実に似た言葉たちを、なんの躊躇もなくサイトーにさしだした。

 なごやかな回想にふけっているあいだに、パズはかけるべき言葉をさだめたらしい。彼は人差し指と中指のあいだに煙草を挟めると、きわめて平坦な口調で言った。

   「たぶん、なにがしかの毒が回ってるのはおまえの方だ」  


 * * *

   待ち合わせた居酒屋は平凡なチェーン店であった。店員に案内されて通されたちいさな個室で、彼はお通しのキャベツをつついているさなかだったが、サイトーに気が付くと、すぐにかるく手をあげ――ちょうど数時間前サイトーがパズにそうしたように――気安く微笑んでみせた。

 「おっ、おつかれ」

 サイトーは同じように手をあげて応じた。いつぞやのように「おかえり」と声をかけられて、二秒ほど真顔でその場に立ち止まるようなことはもうない。
 ビールを頼み、軽く乾杯をする。この手の店らしい迅速さで、つぎつぎと料理がはこばれてきた。焼き鳥、半熟玉子ののったサラダ、ほっけの開き、刺身の盛り合わせ等々のメニューが、広くもないテーブルをたちまちのうちに占拠した。

 「今日は一日張り込み張り込みでさ、ろくなもの食ってないんだよ」

 トグサはさっそくテーブルの端に据えられた箸箱から一膳をとりだした。そのままがつがつと食べ出しかねない勢いであったが、娘息子の模範たる「いいお父さん」になることをつね日ごろから標榜してやまない彼が、「あの儀式」を忘れてそのような真似におよぶことが決してないことを、サイトーは知っている。

  「ああ、腹減った」
言って彼は手をあわせる。儀式の合図である。サイトーもそれにならう。 
  そして声をあわせて、
『いただきます』
サイトーが遠い昔におきざりにした異国の言葉が、ほんのいっとき、日常として戻ってくる。

    「順調にまわってるみてえだ」
  「なにが? 酒? ビール一杯でなにかわいこぶってんだよ――あ、からあげレモンしぼっていいかな」
  「いや」サイトーはわざと神妙そうな表情をつくり、「毒だ」
 
  トグサはレモンを手にしたまま固まった。そろそろとテーブルの上の品々に視線をめぐらせる。彼はとりわけ刺身の盛り合わせを、穴があくほど凝視した。
 
  「フグの刺身なんか、ないけど……」
  笑いをおさめるまでに、ずいぶん時間がかかった。
 
    どういうことだよと目を白黒させ、怒っていいのか心配していいのか混乱しているトグサを適当にいなしながら、サイトーはとりわけたサラダのトマトを口にする。水っぽいその野菜は、ふしぎと、太陽をふんだんに浴びて充実したものよりも舌にうれしく思われた。
 
  【完】