残照のころ

 


※注意
・サイトーさん死ネタです。作中で直接の死の描写はありません。
・サイトー×トグサ前提ですがトグサは登場しません。
・ボーマ×パズ要素が一ミクロンぐらいあります。
・以上のことをどうぞご留意ください。
・時系列はSSSのあと。






 「全身への転移が見られます」

 義体化なさっている心肺といくつかの器官をのぞけば、ほとんどの箇所に、といってもいいでしょう。骨転移とリンパ転移も。全身義体化は難しいと思います、まず手術に耐えられませんーーそうですね、保って一年、でしょうか。

 サイトーよりいくらか年上と見える医師からそうきかされて、まず己の口から出てきた言葉といえば、「はあ」であり、一拍おいて「そうですか」というなんとも無味乾燥な返答がつづいた。いまこの瞬間も病魔は刻一刻と我が身を蝕んでいる。だというのにこの反応、我ながら己の生命にさえずいぶん恬淡なものだと思わないでもなかったが、考えてみればいままでずっとこういう態度で自らの人生に接してきた。いまさら不治の病ごときで改まるような殊勝さの持ち合わせはなかった。

 「いまは良い薬もあります。マイクロマシン療法と投薬で、なるべく、穏やかにすごせるようにしていきましょう」

 苦痛を緩和させようと彼は言う。一日でも長く、とか、戦っていきましょうだとか、延命を匂わせるような言葉は出てこなかった。つまりはそういうことなのだった。

 「わかりました。では、よろしくおねがいします」

 軽く頭をさげて診察室を出る。サイトーは怒りも悲しみもうろたえもしなかった。かといって命の終わりを知らされた人間がのぞかせる諦念や悟りめいた表情とも無縁だった。ともすればことの重大さをいまひとつ理解していないかのようにさえ見える態度には、医師のほうがかえって所在なげにしていた。もっと年若い医者ならこの無関心さを命への冒涜ととって内心腹を立てたかもしれない。
 あの医師は今日まであまたの患者を見てきたことだろう。いくたびも残酷な宣告を突き付けてきたことだろう。その中には、告げられた死期を悲壮な決意でもって毅然と受け止め、最後の日まで戦い抜こうと顔をあげた者もあったに違いない。あるいは涙をこぼしながらも、残された日々を悔いなく生きようと拳を握りしめた者も。しかしこうもあっけらかんと、せいぜいが「明日はどうも大雨らしい」ときかされた程度の反応をしか返さぬ患者に遭遇するのははじめてだったにちがいない。

 支払いをおえて玄関の自動ドアをくぐると、見覚えのある車が彼を待っていた。葡萄酒のようなカラーリングのフェアレディZは九課きってのプレイボーイの愛車だ。フェアレディ(貴婦人)に乗るとはどこまでもお前らしい、と猥雑な冗談を交えた軽口を叩いたのはいつのことだったか、よく思い出せない。いっしょにきいていた彼も一緒に笑っていた気がする。その笑顔のほうをよほどおぼえている。あのとき彼の髪はまだ肩にふれるぐらいまで伸びていて、毛並みの豊かな犬のようだった。たまの宴席で、酒に酔ったふりをしてぐしゃぐしゃとかきまぜたりなどすると、太陽に当てた藁に似た匂いがはじけた。あれは笑い男事件を追っていたころだったかもしれない。
 日々の移り変わりにはとくに気を払わぬサイトーだが、彼の表情や変化のようすは自分でもおどろくぐらいよくおぼえていた。だから、あるひとつの事象がいつごろ起こったかを忘れたとしても、そのときのトグサの様子、何を着ていたか、どんな表情であったか。
 たとえば、トグサはきわめて暑がりであり、また非常に寒がりでもあった。だから季節ごとの服装も気候にあわせて顕著に移り変わる。そのとき彼がさわやかな水色のポロシャツを着ており、袖からは日に焼けた腕を快活にのぞかせていたのを覚えていれば、そうだあの話をしたのは夏の盛りだったと思い出せる。または表情。加入したてで緊張していたか、やや打ち解けてきたころだったか、あるいは事件に追われて疲れた笑顔を浮かべていたか……そんなことを順繰りに思い出せば、たいていのものごとの時系列は逆算できるのだった。

 運転手席のパズがつまらなさそうな目つきでこちらを一瞥した。乗れ、と言っているのはあきらかだった。  病院までの道行きに、サイトーは自家用車ではなく電車を使った。運転中に例の激痛に襲われ事故を起こすわけにはいかない。自分一人が死ぬぶんには何ら構いはしないが、無関係の周囲を巻き込むのは遠慮しておきたいところだ。

 助手席に乗り込むと、パズは黙って車を発進させた。どこに連れて行かれるかは知れない。迎えにこいなどとは言った覚えはもちろんなく、そもそもの話、この男に通院のことなど告げてもいなかった。けれども不思議には思わなかった。無口無愛想無表情の三拍子で鳴り響くこの男が、その実並外れた洞察力をそなえかつ、ときどき拍子抜けするような情のふかさを披露してみせるのを、サイトーはよく承知しているからだ。

 彼はおそらくサイトーの身体に生じた異変を、ずいぶん前から看破していたにちがいない。パズはサイトーでさえ自覚していなかったような些細なしぐさや変化のかずかずを、抜かりなく蒐集した。愛好していたブラックコーヒーをちかごろ飲まなくなったこと、遠距離狙撃訓練でのスコア項目に生じているわずかな数値の偏り、食事内容と量の変化、そういったものを拾い上げては精査し、まとめあげ、積み重ねて、己の推論に確信を得てこの場所にたどり着いた。付け加えるなら彼の相棒は電脳戦の手練れでそれを用いた情報収集も得手だ。彼らがその気になれば書類の上ではオフとなっているサイトーの足取りを読んで先回りするなど、造作もないことだろう。  そうしてパズの予測は見事に的中していたわけだ。まったくふだん開いてるかどうかわかんねえような目をしてるくせにな、とサイトーは胸中で軽口を叩く。

 ようよう日が傾き始めていた。白っぽい金色の光が、建物や、帰途につく人たちや、街をかたちづくるものものの輪郭をゆったりとあぶり、溶かしていく。夏ももう終わりだった。すなわち、サイト-がこの目で眺めうる夏という季節も、終わりに近いということだ。目と肌を焼く強烈な日光、冷えたビール、不快な湿気、彼の快活な青い半袖のポロシャツ姿。もう見ることはかなわないだろう。そう思うとにわかに名残惜しさのようなものが湧かないでもない。けれどサイトーはすぐに窓外から目線をはずした。かわりにハンドルをさばく運転席の男の横顔を眺める。

 隊長としても義体化した人間としてもまだまだ未熟といっていいトグサの補佐に抜擢されたのが彼だった。責任感が強くやや頑固、おまけにひとりで物事を抱え込みたがる。美点にも欠点にもなりうるトグサの性質をよくよく理解し、うまく操縦するにあたっては、諜報戦で鍛えた洞察力を有し、人心掌握に長けたパズは適任だった。それはもう、自分などよりずっと。なにより――先ほども述べたとおり――パズという男はこう見えて、いったん自分が認めた相手にはなかなかに面倒見がよい。さりげなくだがおどろくほど細やかに心遣いのゆきとどいた言動をみせる。今がいい例だ。決定的な告知を受けたサイトーを、頼みもしないのに迎えにきた。実際、現在のポジションを得てからのパズのはたらきはめざましかった。

 「保って一年だとさ」

 だからサイトーは、あえてすべての説明を省き、結論のみを単刀直入に切り出した。それ以上の理屈を重ねることも、感情を語ることも、必要ないと感じたのである。そういう意味では、サイトーはパズという男を九課の中ではいっとう信頼していたといっていいかもしれない。
 思った通り、パズは「そうか」とだけ答えた。ほんの少し間をおいてから、
 「トグサには話さないんだな?」と言った。それは問いかけというよりも、ほとんど確認の語調にちかかった。サイトーは微苦笑で応じた。

 「おまえがときどき気味悪くなるよ」
 「……なに?」
 「俺のことをよく知りすぎだよ。前からそうじゃねえかとは思ってたんだが、ひょっとして俺に気があるのか」
 「くたばれ」
 「死ぬさ。じきにな」
 「そうだった」

 パズは表情一つ変えない。信号が変わって、なめらかに車が発信する。この男の運転は実にしずかだ。本人の身のこなしとよく似ている。
 驚愕、あるいは怒りや悲しみ、そういった感情の片鱗をパズはいっさい覗かせなかった。無慈悲とはちがう。無関心ともまたちがう。感情はきちんと顔筋の下でうごめいているけれど、彼はそれをおそるべき理性と技巧でもって表層にのぼらせてこないようつとめているだけだ。長いつきあいのなかでサイトーはパズの性分を知っている。というよりも、自分も似たような生き物だから、わかる。
 ただひとつ、自分と彼とのあいだに決定的な違いを挙げるとすれば――。

 「おまえの意思は最大限尊重するつもりだ。だが個人的にひとつ言いたい」
 「この際だ、何でも遠慮なく」
 「最期までよくもまあ面倒ごとを押しつけてくれる」
 「それに関しては、まあ、すまん。草葉の影で毎日おまえに感謝してやろう。なんなら盆にはおまえの家に帰ってもいい」
 「遠慮しておく」
 「遠慮するなって言ったじゃねえか」

 タチの悪い女の生霊ぐらいなら追っ払ってやれるぞ、もちろんタダでだ。なんならボーマの浮気監視も請け負ってやる。サイトーの軽口にパズは応じない。

 「あいつは泣くぞ」
 「だろうな。泣いて、怒って、また泣いて、の繰り返しだろうよ」

 まったくあの男は根っからお人好しに出来ている。自分はいくら貶められようが踏みにじられようが、泣くどころかうなだれもせず、かえってぎりと歯を食いしばり、顔をあげてふてぶてしくも笑ってみせるような人間なのに、他人のことには実にたやすく涙を注いでしまう。

 だからこそ、トグサが新生九課の隊長に抜擢されたとき、サイトーの脳裏には不吉な予感がずっと瞬いていた。トグサには人に慕われる才があり、彼らをまとめあげて率いてゆけるだけの才もある。だが、頂上に座して彼らを統べるとなると話はまたべつだ。人々の先頭に立つことと、上に立つこととは、似ているようでまるで違う。

 人の上に立つことになった人間が身につけねばならないのは、ある種の冷淡さであるとサイトーは思う。いかなるときであれ、他人の感情からも、また自分の感情からも、一定の距離を置くこと。自分のなかに、私情さえも立ち入れぬ領域を築き上げて、隊長という機構でありつづける必要がある。だが知ってのとおりトグサはそんな真似ができる男ではない。良くも悪くも他人の感情にのめりこみすぎる。あるいは、優しすぎると、言いかえてもいい。
 理想の隊長としての在り方を貫くことが、彼にどれだけの負担を強いるかは想像に難くない。サイトーの懸念はすぐ現実となった。トグサの双肩にのしかかった隊長の名は、日ごとに彼を押しつぶさんとして重責を増した。

 「平気だよ」
 「大丈夫だって」
 「いつまでも新人だと思わないでくれよ」

 見え透いた強がりを繰り返すトグサの姿に、サイトーは時に苛立ちさえおぼえた。誰よりもトグサを支えるに相応しい位置にいながら、かたくなに沈黙を守るトグサの相棒には、もっと腹を立てていた。なにより――トグサの抱えた苦しみを見通していながら、全くもって、なんの手出しもできない自分にいちばん、憤りが煮えていた。メキシコで草薙素子に敗北を喫したときさえ、ここまでの悔しさは湧き上がってこなかったかもしれない。そもそもの話、素子とのあの一戦に悔しさなどおぼえるのはかえって見当違いのような気さえしている。思い上がった若き身を神が打ち据えるのは当然のことだ。つまり、素子は無神論者のサイトーにすらそう思わせるに足る存在だった。
 だからこそサイトーは内心驚いていた。こんななまなましい怒りを、他者や自己に対して燃やせるだけの火種がまだ自分の中にくすぶっていることに。

 「……くりかえすようだが、すまんな。『そうなったとき』のあいつのケアは、いつもどおり補佐のお前に任せるしかない」
 「いつもどおり、か」

 パズはいかにも含みありげに復唱した。サイトーとトグサがかつてどんな関係にあったかなぞ彼はとうに承知しているだろう。俺だけじゃなくお前も請け負っていたことじゃないのか、と切れ長の目が語っていたが、それは買いかぶりだ。
 サイトーとパズとに決定的な違いがあるとすれば、人心のあつかいに関する器用さだ。 サイトーはパズほど器用にはなれない。どころか、自分はどうも絶望的に不器用らしいとずいぶん前から確信をもってさえいる。おのれの性分などよく理解していた。自分はどこまで行っても、どこまで生きても、狙撃屋だ。それ以外の在り方などもはや不可能であり、標的を正確に撃ち抜く以外のことはてんでできない。……なるほど自分は、一時的にトグサの葛藤を忘れさせることはできたかもしれない。けれど支えることはついぞできなかった。倒れかかったなにかを支える役目は、それと同等の質量と重みを持ったものにしかつとまらない。空っぽの自分には荷が勝ちすぎる。

 「俺は少佐の影にもなれない」

 あの日、二人きりになったミーティングルームで、トグサはそう言って笑った。かつての明るい笑顔をかたちだけなぞったような微笑みの空虚さが、どうしようもなくサイトーの胸を衝いた。ある大規模な作戦のあとで、トグサの指揮は現場で起きたイレギュラーを前に空回りをし、結局、本来なら咎められるべきバトーの独断によって制圧は成功した。トグサは数分前まで、課員を前に、己の失敗を、ぶざまを、淡々と自分の口から説明せねばならない立場にあったのである。

 「きっと少佐は、ここを出て行った時以上に失望してるだろうなっていつも思うよ。九課はずいぶん変わっちまった。……俺が、そうした。そうさせたんだ」

 九課という組織を純粋に愛し、その在り方をだれより誇りに思っていたのはトグサだ。それゆえ、おのれの非力のせいでこの尊い、正義と理想のなされ得るべき最後の城が、日増しにべつのものへと変ぜられているのではないかという恐れにも似た感情が、隊長の座についた彼を始終おびやかしていた。

 こんな心中を吐露されたサイトーはといえば、いまいましさのあまり眉間にこまかな皺の寄るのを抑えきれなかった。自分を貶しめられるよりもずっと腹が立っていた。うつむいて、サイトーが差し入れた缶コーヒーの口をぼんやり見下ろしているトグサは、彼の表情に気づかない。トグサにさきほどのようなまがいものの笑顔なぞを身に着けさせたあらゆるものを、サイトーは胸の内ではげしく罵った。そして直後に、自分は、自分だけは、おのれの時間を彼のために使ってやろうという気持ちがにわかに噴出した。ほかの何ものにも人生を費やすあてのない身の上だからこそ、トグサに寄り添ってもやれようという確信が湧いたのだ。べつにサイトーはとりたてて忠誠心やら友情に篤い男なぞではない。だが、今にも押しつぶされそうな戦友を目の前にしてなお、傍観者の立場に甘んじられるほど、自分を安くした覚えもない――サイト―は自分にすっかり言いきかせると、トグサのスーツの腕をとらえて、ぐいと引き寄せた。

 とつぜん抱きすくめられて、トグサは当然ながら身を固くし息を呑んでいた。しかし抵抗のそぶりはなかった。戸惑いの気配はどちらかといえばサイトーの行為そのものよりも、この腕に身をゆだねるていいものかどうかを迷うたぐいのものだった。サイトーはすかさず囁いた。それは、彼がトグサに提供できる、唯一の奉仕の手法であった。

 「もういい。なにも考えるな」
 「無理だよ」
 「無理じゃねえ。今だけでいいからすべて忘れろ。どうにもならねえことにいちいち感情を割くな。心を殺せ」
 「俺のいちばん苦手なことだ」
 「知ってるよ。だが俺は得意だ。――だから」

 ひとりでそれができないと言うのなら、俺が手伝おう。考えられないようにしてやる。
 トグサはながいこと黙っていた。けれども、自らの身体を強固に囲うサイトーの腕を払いのけようとすることも、なかば顔をおしつけられるようになっている胸板を突きのけようともしなかった。サイトーもながいこと待った。三十秒か、三十分か、三十年か、とにかくずいぶん時間がたったあとで、背中にトグサの腕がおずおずと回された。ごく小さな声がきこえた。

 「………疲れた」

 そのひとことが応諾のあかしだった。
 サイトーはもちろん約束をたがえなかった。一晩中、トグサをものも考えられないぐらいに責め立てた。彼は泣いていたけれど、ほとんど初めて味わう、理性ごと飲み込まれるような感覚に動揺していただけであり、鳶色のひとみから零れていた涙にはひとかけらの自責も後悔もないのを見て取ると、潮のような充足がサイトーの体内を突き上げた。

 ふたりの蜜月は、お互いの多忙さから期間にすればわずか一年足らずだった。その間にサイトーのアフリカ行きが決まったり、トグサの仕事が増えたりで、実際に恋人らしくすごした時間のみを計上すれば半年にも満たないだろう。しかし単純な時間の多寡がかならずしも濃密さに直結するわけでないのはよく知られたことだ。しかしこの手のものごとを形容する語彙を蓄えてこなかったサイトーは、あの短い季節をふりかえるたびにきわめて陳腐な言い回ししか出てこない。夢のような日々。
 ――けれどついぞ、自分が彼に与えることのできた唯一のものさえ失われようとしている。

 「俺があいつにくれてやれるものなぞ、自分の時間ぐらいだと思っていたんだがな」
 「そういうのを何というか知ってるぜ」
 「あん?」
 「思い上がり」
 容赦ないパズの言葉に、サイトーは笑った。てめえに言われなくともよくわかってるさ 。そう返して、彼はまぶたをゆるやかに伏せる。

 (――そもそも前提がちがったわけだ。俺は、あいつに何かをくれてやりたかったわけじゃなかった)

 与えたかったのではなく、欲しかったのだ。ごくごくシンプルな話。それをなんと呼びならわすかは、さしものサイトーだって知っている。
 愛。あるいは、執着。

 「俺があいつに話さない理由だって、おまえにはわかってるんだろうな」

 目をとじたままサイト―は運転席の男に問うてみる。返答はない。ただ、呆れた、とでも言いたげな、ごく小さな嘆息がきこえた。
 サイトーが病に冒され余命いくばくもないと知れば、トグサはあらゆる手を尽くし、サイトーを一日でも長らえさせる方法を見出そうとするに違いない。素子の帰還から二ヶ月が経ち、いまだ彼女の処遇と現隊長のトグサとの兼ね合いで揺れる九課に、あらたな波紋を投げ込んでこれ以上の混乱を招き、トグサの心労を増やしたくははない――もちろんこういういじらしい理由もある。けれどすべてではない。

 ――目前にせまった死期を医師からきかされたあのとき、サイトーの頭にひらめいたのは、いかなる未練でもなかった。これでトグサは俺のことをずっと引きずって生きてゆくだろう、という、明瞭で、幸福な予感だった。

 優しく豊かなあの男は、自分が最期まで何も告げずに世を去れば、泣いて、怒って、泣いて、そしてひどく後悔するだろう。やがて家族に囲まれ、絵に描いたように美しい人生の終わり日を迎えることがあったとしても、その脳裏の片隅には、太陽の黒点のように、一抹の後悔としてサイトーの名がこびりつくにちがいない。彼の人生がこれからも豊かで、愛情に満ちているかぎり、孤独のうちに死を迎えたひとりのスナイパーの存在はいよいよ濃厚に影を増していく。死してサイトーはようやく、彼のそばに寄り添うことができる。そう思えば、夜ごと体内で暴れ狂う、熱した鉄棒に臓腑を打ちのめされているような激痛にも耐えられようというものだ。


      十分もすると、車は見慣れた街並みへ入り、見慣れた道をとおってサイトーの仮住まい(のひとつ)であるマンションの前に停まった。もちろん住所を教えたことはない。
 ドアを開けようとして、サイトーはふと思い立ち口をひらいた。

 「なあ」
 「礼ならやめろ。……自分のほうでまだ整理のついていないうちに、その言葉は受け取れない」

 サイトーはこの表明をきいて少し意外そうに右目をみはった。それから、わずかにくちもとをゆるめると、
 「わかった。あと一年待ってやるから、気の利いた返事を考えておけよ」
 「善処する」

 去りゆく貴婦人の後ろ姿を見ながら、そこではじめて、あのヘビースモーカーが自分を送るあいだ一度たりとも煙草に手をつけなかったことに気がつく。死ぬ前には、彼に形見として自分のもっているいちばんいいライターをくれてやろうと思った。

 (だから――許せよパズ。あいつの魂のひとかけらぐらい、持って行くのは)

 湿気をはらんだ夏風が頬を打つ。この上ない幸福な未来の予感に満ちた、最期の四季がめぐろうとしていた。


   (了)