ナイトメア・シェル

 


 ふと気がつくと、鏡の中の自分と目が合った。洗面台のボウルの両端に手をかけて、なにか秘められたものを見抜こうとするように、彼はじっとこちらを凝視している。

 「―-」

 濃い眉や荒削りな輪郭、それから唇の横あたりまで張り出した頬骨、ともすれば鋭い印象を生み出しかねない要素を、あたたかなチョコレートブラウンの瞳と、ゆるやかな稜線を描くやや大きめの鼻が見事になだめている。薄暗い洗面所の鏡に映っているのは、とりたてて整っているわけではないにしろ、二十数年慣れ親しんだ、己の顔を為す主要部品のかずかずだ。

 しかしなぜだか、そのときトグサがおぼえたのは――違和感、だった。
 過去の記録映像を見せられているような、あるいは自分によく似た誰かの演ずる再現映像をぼんやり眺めているような。そんなぼんやりと靄のかかった既視感と違和感とが、言いようのない不安を胸に蒔く。これは、俺、なのだろうか。

 「あ……れ?」

 思わず発した肉声さえ、録音した自分の声を聞くときの不審さがある。間違いなく自分なのに、致命的に自分ではない。耐えがたい違和感が、神経を突き動かした。
 ゆっくりと右手を動かしてみる。すると鏡の中の自分もおなじようにする。まったく同じ速度で、同じそぶりで、その手は眼前の己のすがたへとのびてゆく。

 「おいトグサ、そっちはどうだ?」

 鏡面に指先がふれようとした瞬間、洗面所の入り口にひょいとなじみ深い顔がのぞくのが鏡越しに見えた。すっ、と胸中に安堵が広がってゆくのを感じる。トグサはふりかえって、

 「――山口」

 と同僚の名を呼んだ。現実がひといきのうちに戻ってきたような気がした。

 ……被害者女性が借りていたマンションの一室だった。すでに初動捜査であらかた調べられた場所だが、行き詰まった現状を打破するための手がかりがまだどこかに眠っている可能性もゼロではない。一縷の望みを賭けて、二人の刑事はふたたびこの部屋へ足を運んだのだった。

 「被害者が風呂好きの女性ってこと以外には、特に収穫はなし。そっちは?」
 「似たり寄ったりだ。日記のたぐいも見当たらないし、隠しスペースみたいなものもない。彼女がきれい好きで片付け上手な女性だったということしかわからなかったな」

 トグサは顎に手をあてて思索のポーズをとった。

 「本棚は調べた?」
 「あれだけ目立つもの、いちばんはじめに取りかかったに決まってるだろ。だがなにも……」
 「本棚そのものじゃない。並んでる本のほうだ」
 「本だって?」

 うなずく。被害者の女性はずいぶんな読書家であったと見えて、リビングには背の高い、なかなかに立派なこしらえの本棚が据えてあったのだ。中身のほうも本棚の風格にふさわしく、ハードカバーの分厚い書籍や大判の画集、箱入りの本が多く見られたように思う。……紙の数枚程度なら容易に隠せそうなほどには、充実したラインナップだった。

 「木を隠すには森の中、紙を隠すには紙の中、だ。ひょっとしたらあの中にメモかなにか挟んでるかも。手分けして探そう……何だよその顔」

 山口は笑っていた。いかにも得心したというように数度、うんうんとうなずいてみせる。

 「いや。やっぱりおまえはどこまでいっても刑事(デカ)なんだな、ってそう思っただけさ。このあいだ頬をゆるませきって娘の写真を見せびらかし回ってた新米パパと同じ人間だなんて、信じられないぐらいだ」
 「……む」

 トグサは顔をしかめた。

 「失礼なやつだな。それに、父親になるのも悪くないぜ、そりゃ大変なこともあるけど、やっぱりすごく可愛いし。おまえのところだってそろそろじゃないか? 先輩パパとしてビシビシしごいてやるから覚悟しろよー」
 「まだ予定はないよ。俺は慎重派なんだ、こんな商売だし、いつどうなるかわかったもんじゃないからな」
 「こら、縁起でもないこと言いやがって。っていうか、それ遠回しに俺が考えなし野郎だって言ってない?」
 「違うのか?」
 「このやろう」

 軽口を叩きつつ二人はリビングに戻った。

 主を失ったリビングはひっそりとしている。けれど数週間前までは、ここでたしかに人が起き伏し、トグサと同じように当たり前の生活を営んでいた。清潔なベッドカバーや、テーブルに置かれたマグカップ、やさしい花の匂いを漂わせるルームフレグランス。生きたひとりの人間の、平凡ながらも穏やかな日々の名残だ。トグサは胸が痛んだ。
 彼女はストーカー被害に悩まされており、たびたび地元の警察署を訪れていたらしい。もっと早く、本格的に警察が動いていれば――。
 「守れたかも、しれないのに……」

 口にしてからはっとなって、傍らの山口を見やる。彼はトグサの独言には気付かなかったようで、た だぼんやりと、うつろな目で本棚に並ぶ本の背表紙を眺めている。自分の数段まじめで、捜査ともなればいかなる状況でも精悍な顔つきを崩さない彼には、めずらしいことだった。

 「あついな、トグサ」

 山口がうわごとのようにつぶやいた。するとそれをしおに、トグサもふと耐えがたいような暑さをおぼえた。なるほどこの熱が山口を朦朧とさせているらしい。確かに室内は空調もきいておらず、じっとしているだけでもじんわりと汗ばむようだ。捜査に夢中になっていたとはいえ、なぜ今までこれほどまでの暑さを感じずにいたのかふしぎだった。ワイシャツの襟元をくつろげる。とりたてて意味のないことと知りつつ、ほんのわずかあらわになった胸のあたりを、トグサはぱたぱたとあおいだ。

 「ああ。エアコンのきいてる本庁が恋しいし、早いとこ本を調べちまおう」
 「あついな、トグサ」

 しかし山口は同じ言葉をくりかえすばかりだった。黒い双眸がぬかるみのごとく澱んでいる。今にも白目からどろりと腐り落ちるのではないか、などという連想がよぎり、トグサは気味の悪い思考を振り払うように陽気な声をあげた。

 「あのなあ、暑い暑い言ってると、よけい暑くなるぞ」
 「あついな、トグサ」

 一言一句、内容も音程も声音もさきほどと寸分違わぬ声音が反響する。背筋が不吉な気配に粟立った。
 「山口!」トグサは語気を強めた。「どうした、熱さでいかれたのか?」
   よもや熱中症か、と危惧した瞬間、不可解なほど素早い動きで山口は首をこちらに向けてめぐらせた。

 「……やま、ぐち?」

 顎から汗がひとつ、したたり落ちる。あまりにも暑い。否、熱い、と言ったほうが的確か。これはまるで、すぐそばで炎が煌々と燃え盛っているような――。

 「あつかったなあ。あつかったなあ。――熱かったなあ。熱かったなあ」

 よく日に焼けたその貌を、朱色の炎が悪魔の舌のようにぞろりと舐めた。みるみるうちにその皮膚は爛れ、焦げて溶け落ち、山口が、山口だったものが、苦悶の呻きとともに正体をなくしていく。

 「熱かっ、た、なアアアアアアアアアあアアあツカッタアツつつつつカッタナナナナナナアアアア」

 トグサは根が生えたようにその場から動けなかった。目をそらすことはおろか、声をあげることさえかなわない。逃避も抵抗も封じられて、トグサの五感はただただ、眼前の凄惨な光景の一部始終を受け入れることだけを強いられていた。

 「な、レナか、っタ」

   一秒ごとにただの焦げた肉塊に成りはてていく友人は、最期に一言、そう告げた。

 「………あの。大丈夫ですか?」
 「――――は……!」
 
 我に帰る。昼間出会った女性――アサギルリコと名乗っていた――が、柳眉をひそめてトグサの顔をのぞきこんでいた。古風な名前にふさわしい、淑やかながらも芯の強そうな面立ちが、いまは心配そうな色を帯びている。 安宿の一室、ところどころに繕い跡のあるカバーのかかったベッドの縁に、二人並んでかけていた。

 ――なにかにひどく、おびえていた気がする。

 「顔色が悪いみたい」
 「いや、大丈夫だよ。ちょっとぼんやりして……」
 トグサはそこではたと言葉を切った。自分を心配する彼女のほうこそ、顔色がひどく青ざめているのに気がついたのだ。口紅の色はとうにさめ、泥靴で踏みつけられた花びらに似た、きわめて不健康そうな色がのぞいている。

 「そう言う君こそだいぶ具合が悪そうだけど、大丈夫かい?」
 「優しいんですね。ええ、実はあまり体調がよくなくて……あ」
 眉間をおさえてふらついた彼女は、トグサの肩にぐったりともたせかかった。とっさに胴のあたりに腕を回して、トグサはその華奢な体を支える。たったいまシャワーを浴びたばかりだというのに、バスローブ越しに感じる彼女の体温は水のように冷たい。彼女のたどってきた境遇を考えれば、相当に心労の溜まっていることは容易に想像がつく。

 「あまり無理しないで」
 「ごめんなさい。だいぶ血が足りないみたいで……だって――だっておなかを刺されたんですもの」

 出しかけた声は喉元で凍てついた。胴にまわした掌が、なまあたたかい感触でしとどに濡れる。
 動けない。また、動けない。

 「あなたはあたしを心配してくれる。とてもやさしいひと。いいひと。でも、それだけ。結局あたしのこと、助けてくれなかったもの」

 やわらかそうな彼女の腹部から、分厚い軍用ナイフの切っ先がつきだしていた。そこを起点にだらりだらりと、とめどなく流れる彼女の血が、ベッドを血の海に変えていく。
 息を飲んで彼女から離れようとした瞬間、ベッドの下から伸びてきた真っ白い手が、トグサの右の足首をつかんだ。

 「ねえ、痛いのよ、すごく痛いの、ねえ、なんであたしのこと助けてくれなかったの」

 この声には聞き覚えがある。義体化した元恋人に襲われていた女性、シズノユカリだ。己の一瞬の油断のせいで、彼女はあっけなく若い命を散らせてしまった。

 「あたし、あたし、死にたくないの。ねえ痛いわ、怖い、死にたくない、どうして、どうして助けてくれなかったの、ねえ、ひどいわ、警察官なのに、あたしを守ってくれなかったじゃない、あたしたちを助けてくれなかった――」 

 肉と皮膚の焼ける臭いをただよわせ、左の足首を黒焦げの腕が骨も砕けんばかりの力でつかむ。

 「おまえのせいで」
 山口の声がする。

 「あなたのせいで」
 アサギルリコの声がする。

 「あんたのせいで」
 シズノユカリの声がする。

『死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたく死死死死死死―――』
 「ああああああああ……!!」

 数限りない怨嗟の言葉が、呻きが、嘆きが、トグサを飲み込んでいく。血と、炎と、煙と、その他あらゆる色彩が渾然と混ざり合った渦が、転げ落ちる万華鏡のなかみのようにひらけては変じひらけては変じ、

 唐突に、砕けた。


 「――起きろ」

 耳の中を満たした破砕音、その中でひときわ明澄に聞き取れた淡々とした声。世界はいちどきに収束し、トグサは凄まじい勢いでもってそこから引き上げられた。
 壁面に無数の液晶パネルの並ぶ、モニタールームの一室である。真ん中にある、トグサが見つめていたひときわ大きなメインモニターは鉛玉の雨を受けて砕け、完膚なきまでに破壊されている。

 「視覚野から侵入するタイプのウィルスだそうだ。詳しい仕組みはボーマにでも訊け」

 トグサの項から有線コードを引き抜きながら、サイトーはいましがたモニターの液晶を粉々にせしめたハンドガンを腰のホルスターにおさめた。トグサは肩で息をしながら、もはや何も映さないモニターの残骸を未だ憑かれたように眺めている。サイトーはひとつ舌打ちし、

 「まったく、いつまで自失してる」
 「――ひ」

 腕を掴まれ強引に引き起こされそうになる。本能的な恐怖が衝動となって身体の神経を駆け巡り、思考よりも先に身体が動いた。触るな、と叫んだ気がする。
 サイトーは避けなかった。拳が肉を打つなまなましい感触が、身体の奥底まででずしりと響く。

 「これで信じたか?」血混じりの唾を吐き棄て、彼は恬淡に言い放つ。「現実だ。少なくとも俺はそう知覚している」
 「あ……すま、ない」

 トグサはうなだれて詫びた。とっさのことで拳の握り方も打ち方も甘かったらしく、薬指と小指の関節がずきずきと痛む。しかし彼はその痛みを快く受け入れた。あらゆる悪事には相応の罰がくだされなければならない。

 「サイトーも、さっきの電脳迷路に……?」
 「ああ。なんとか自力で抜け出せたが」
 「すごいな」

 素直な賛嘆と、彼と比べてあまりに不甲斐ない己への自己嫌悪とで、実に大きなため息が出た。

 「そうたいしたもんじゃない。たまたま迷路に穴を見つけたんで、そこから這い出てきただけの話だよ」
 「穴?」
 「……設計ミスってやつだ。『いくらなんでもありえない』ってことが起きた。それでどうもおかしいと勘付いた」
 「『ありえない』、か……」

 トグサは自嘲の笑みをうかべた。自分が見たものだって、じゅうぶん『ありえない』ものだったのだ。
 夢の内容がいかに支離滅裂で突飛であれ、眠りのさなかにはそれが現実でないと気付くのは難しい。電脳ハックによる疑似体験も同じことだ。しかしトグサとて九課の一員、対電脳汚染への訓練は人並み以上に積んでいるし、刑事時代より遥かに耐性もついている。違和感がなかったわけではない。最初に鏡をのぞいたときのように、はじめこそ理性がきちんと警鐘を鳴らしていた。

 しかし、すでにこの世にはいない人間であるはずの彼らが現れ、あまつさえ化け物じみた姿に変じてトグサに詰め寄ってきたとき――トグサにはもはや違和感など微塵もなかった。オカルトのたぐいを信奉しない彼が、死人が呪詛をつらねておのれを責め立てるという現実離れした光景を、たしかに現実のものとしてトグサは受け入れていた。疑似体験から脱出し損ね、完全に迷路の中へ取り込まれていたからか? ……いまひとつ、しっくりと来ない。

 (どうして……)
 耳慣れた装填音で我に返る。セブロに新しいマガジンを詰めたサイトーが、ちらとこちらを一瞥した。

 「俺はこのままポイントアルファでパズとボーマに合流する。おまえはその顔色をなんとかしてから来い。そのままじゃいい的だ」
 「あ――待ってくれ、サイトー」

 自分でもよく理解できない不可思議な衝動に突き動かされて、トグサは小走りに駆け出したサイトーの背を呼び止めていた。振り返った顔は相変わらず無表情に徹している。

 「……あのさ。こういうことを訊くのはすごく失礼だってわかってるんだけど」
 「――おまえが出てきたよ」

 トグサは思わず目を見開き、先の言葉を口ごもらざるを得なかった。質問をする前に答えを与えられてしまった。まるで事前に予測されていたかのごときですみやかさだったが、それ以上に、簡潔なその返答のしめす意味が気にかかった。

 「俺……?」

 追求しようと思ったときにはサイトーもうこちらに背を向け、モニタールームをあとにするところだった。たんにからかわれただけかもしれない。恐怖してこその悪夢だ。サイトーの見る悪夢に、彼からすれば少し頼りない同僚にすぎぬ自分が登場するなど――ましてや、自分の存在によって彼がおびやかされるような状況になりうるなど、なるほどたしかに『ありえない』ことだ。だから抜け穴に気付けたのだろうか。
 考えていると電通が入った。ボーマからである。トグサたちにハッキングを仕掛けたテロリストの一人をとらえたらしい。
 あの短時間で緊急ワクチンのプログラムを組み上げ送ってくれたことにトグサがまず感謝を述べると、「災難だったな、何回やられてもあれは気分がわりぃよ」としみじみ労われた。

 『これからパズと一緒に楽しい尋問タイムだ。さてさて、何本目で全部吐くかね。記録更新に挑戦だ。パズに奥歯を譲ったんだ。俺はなんと親知らず担当なんだぜ。いいね親知らず、生身の人間って感じ」

 ボーマの声はじつにたのしげである。何の話をしているかは深く考えないようにした。

 『あーそうだトグサ、電脳ハックの被害者としてなんかこいつに訊きたいこととかあるか?』

 問われてトグサはわずかにためらった。ややあってから、彼は静かな口調で、

 『……あの疑似体験、どういう指向性で組んであるのかが知りたい』

 あいよー、と気軽な返答とともに電通が切れる。数分も待つとふたたび、コールを知らせるインターフェースが開いた。さすが仕事が早い、と感心しつつ、応じる。
 ……簡潔な答えをきいて、ようやくすべてに納得がいった。

   あの悪夢が源とするのは、感染者の「願望」だそうだ。ただの願望ではない。ふだんは心の奥にしまわれている、余人にはさらけ出せぬようなたぐいの、ほのぐらい欲望(ねがい)を、あの疑似体験はグロテスクに再現してみせるのだと。
 亡霊たちの言葉がよみがえる。まず目の前の人間を救ってこその警察官であるはずなのに、自分は九課の名のもとに正義をふりかざしておきながら、かつての同僚も、無実の人々も、トグサは守ることが出来なかった。自分の至らなさで絶たれた命のことを考えるたび、途方もない罪悪感に臓腑から焼かれそうになる。
 疑似体験の迷路に登場した彼らは、本物の彼らではない。冥界からではなく、トグサの罪の意識から生まれたまぼろしだ。トグサのゴーストに住み着いた地縛霊、トグサが生きて、ものを考え、なにごとかを想う限り、彼らは永遠に死に続け、また永遠に生き続けるだろう。

 死んだ人間はよみがえらない。死者は悲しみも悔しさも語れず、彼らを守れなかったトグサに対し憤ることさえできぬ身だ。その事実がなににも増してトグサを苦しめる。せめて彼らに罰してもらえたら、と思う気持ちが、どこかにあるのだ。思うさま責められ、罵られ、彼らを救えなかった自分を罰してほしいと願う心こそ、あの悪夢をはぐくんだ羊水にほかならない。
 ああ、とまた深くため息をつきたくなった。

 ――自分が救えなかった人間たちに、このうえ自分は苦痛から救ってもらおうとしている。
 なんと醜悪だ、とトグサは胸をおさえた。圧し潰されそうになる。呼吸が詰まりそうになる。こんな願いを心に秘めていた自分への嫌悪は増すばかりだったが、彼はそこでふと、あることを思い出した。

 「(なら、サイトーの望みって……)」


 合流地点でサイトーを待っていたのはパズだけだった。ボーマは要請を受けて少佐とバトーの援護に行ったらしい。まだ新鮮な血のこびりついたペンチを、パズは手持ちぶさたげにもてあそんでいる。

 「楽しかったか? 【歯医者さんごっこ】は」
 「そこそこだ。ごっこ遊びならボーマと二人の時の【お医者さんごっこ】のほうがよほど楽しい。ベッドの上でやるやつ」
 「するのかよ」
 「俺がナースであいつが患者役。なかなかに燃える」
 「医者はどこにいったんだ」
 「ところで何の用だ」

 サイトーはほんのわずか声を低くした。

 「……見たのか?」

 極端に言葉を省いた問いかけだったが、この男にはこれだけで通じるだろうという確信がある。果たして彼は退屈そうな面持ちのまま、見てない、と答えた。

 「他人の悪夢なんぞC級ホラー映画以下の出来だ。酒とポップコーンがあってもお断りだ。ボーマも同意見」
 「そうか」
 「安心したならさっそく少佐たちの加勢に行ってやってくれ。ポイントは今送った」

 無機質な通路を進みながら、サイトーはさきほどの悪夢を反芻する。吐き気がするほどリアルなまぼろしで、めまいのするほど幸福な悪夢だった。あずけられた肉体の感触、体温、匂い 彼が口にした言葉のすべてを。
 ぜんぶいらない、と彼は言った。
 父の立場も九課の すべてが俺には重すぎるから、だから、もう何もかも捨てて、サイトーとふたりで――。
 サイトーはそこで気がついた。目の前にいるのはトグサの皮を被った、見るもおぞましい自分の欲望であることに。だから彼は、おだやかに笑ってトグサらしき顔と声をした妄想の産物を抱きしめ返し――迷うことなくその心臓に向けて銃のひきがねを引いた。

 「ナメやがって」

 いまいましげにひとつ呟く。直後、曲がり角からテロリストがひとり飛び出してきたが、サイトーはろくにそちらを見もしないまま、その両膝を的確に撃ち抜いた。

 【了】