すきとおるようなこどもたち

 


※キャラクターの過去捏造描写があります


 西日はいよいよ傾きはじめて、大窓に面する広い検査室前のろうかは黄金色に燃えさかるようだった。

 先生はまだもどってこない。大がかりな手術になるだろうから打ち合わせに時間のかかるのは当然とはいえ、やっぱり待つ身としてはおちつかないものだ。手術なんかうんざりするぐらい受けてきたから、いまさら身体のどこにメスが入れると言われてももう緊張なぞしない。どうぞご勝手に、といったところだ。けれど今回の手術は、ちょっと話がちがうのだ。
 ぼくは車いすにすわったまま、そわそわと、しきりに手を握ってはひらいたり、あるいは指をピアノでも弾くときみたいにぎこちなくのたうたせてみたりした。べつに緊張ばかりが先んじてこうしているわけじゃない。なんてったって、あと数時間もすればぼくはこの手や指と永遠におさらばできる。つまりこれはぼくの手指とそれをつなぐ脳神経との最後の睦みあいなのだ。

 現状、ぼくの身体の中でいちばんまともな動きをしてくれる、というか、いちばんぼくの意思に一生懸命応えようと努力してくれる身体の器官にはちがいない。他の器官、たとえばあのにくたらしい二本の足なんかまるで単なるお飾りだ。ぼくがどれだけ自力でベッドから這い出て、自分の足で庭を散歩したいと願ったところでぴくりとだって動きやせずにとりすましている。ぼくの病室からフロア一階ぶんしか離れていないこの検査室前の廊下へ来るにしたって、ナースガイノイドに車いすを押してもらわなければたどりつけなかった。ぼくは自分で車いすを動かすこともできない。他の筋肉や臓器の脆弱さはといえば――言うだけで情けなくなってくるのだけど――すこし身動きしたり気圧が変わったり、とにかくそういう些細な変化があるだけで痛んだりしびれたりした。

 そう考えれば我が親愛なる両手くんたちはそこそこよくやってくれたと思うけど、でもやっぱり、このやせ細って青白い、ちょっと力を入れて引っ張ればたやすくちぎれそうな、綿菓子ていどの強度をしか感じさせない手は、名残惜しさはあれど強いてひきとめようという気にはならない。本とお箸をまともにあつかわせてくれたのには感謝するけれど、逆を言えばそのぐらいしかろくろく自由にならなかったということだ。ぼくは思い出す。車いすを押してもらいながら中庭をめぐっていたとき、ぼくより幼い、でもぼくよりうんと健康そうな体つきをしていた子供たちがボール遊びをしていた。彼らのひとりが放ったボールがぼくの足元に転がってきて、車いすの車輪に軽く当たって動きを止めた。そのボールを拾って投げ返すこともできなかったあのくやしさ、かなしさは、ちょっとほかの人には理解されないと思う

 でも、こんな無力感に揉まれて生きるのも今日までだ。あと三時間もすればぼくは、いや、おれは、義体化できる。世界情勢の変化とともに法律が変わった。いまこの国は若いサイボーグをたくさん求めている。義体のあつかいに慣れた、ちょっとやそっとじゃ壊れない兵士がたくさん必要なのだ。軍に入隊をきめた十四歳から十八歳までの少年少女を対象に、国から義体の貸与が行われるのだ。保護者の同意は不要で、おれはただ電脳に届いた、紙に刷れば数百ページほどの規約類に目を通し、最後の契約書類に電紋でサインをすればよかった。日がな一日病室にいて、取り寄せてもらった本を読んだりネットにダイブしていた日々は無駄ではなかった。

 やがて来るべき、軍での訓練を思い浮かべるとどうしようもなく胸が高鳴るのを感じる。夜もしらじらあけに叩き起こされて、おれは何十キロも自分の足で走らされるだろう。あるいは屈強な同期を相手に格闘訓練をすることもあるかもしれない。きびしい上官に叱責されながら小銃と装備の満載された背嚢を背負い、山道を自分の足で踏破するなんてしょっちゅうのはずだ。そして一日に終わりにはものも考えられないぐらいへとへとになって、やはり自分の足でベッドまで帰り付いて、すこやかに眠ることができるのだ。

 おれはずっと入れ子構造になった鳥籠のなかにいた。ちいさい鳥籠はこの病院で、おおきい鳥籠はあの家だ。義体化して軍に入ればこの鳥籠をいっぺんに抜け出すことができる。さてそうなれば、ぼく、なんてはなはだのんきな一人称はもう使っていられない。おれは十四歳にして中堅サラリーマンの年収程度の借金を背負うわけだが、自由の値段としてはあまりに安すぎるぐらいだ。この借金は負担というよりむしろ誇りとして感じられた。ほかならぬおのれの選択によって背負わされる義務、その重みをおれはこのとき生まれて知ったからだ。おれはそもそも自分でなにかを選ぶことなどできない身だった。

 過酷と名高い義体化後のリハビリだが、おれには耐え抜ける自信がある。鳥かごの中にとじこめられて、両親や親族のくだらない親権争いやら相続問題のカード扱いされるのはもうたくさんだ。自分の状況は自分できめる。自分の未来は自分で作る。自分の苦しみも喜びも好きも嫌いもなにもかもすべて俺がつくる。義体化したら、そう、手始めにそのささやかな序曲として――。

 そのときふと、おれの車いすの隣に据えてある長椅子に、見なれない少年がすわっているのに気がついた。

 「あ、れ」

 思わず声が出てしまい、おれはあわてて口をつぐんだ。だって、つい数十秒前までまでそこには誰もいなくて、おれ一人だったのだ。いくら物思いにふけっていたとはいえ、検査室前のろうかにはこの時間おれしかいない。誰か来れば足音や気配で気がつくはずなのに、その少年はなんの前触れもなく、まったくとつぜんに俺の横に出現したのだ。
 年のころはたぶんおれと同じくらいだ。さすがに病身のおれほどではないが、細身である。上品な紺のブレザーにグレーのパンツ、えんじ色のネクタイとシャツとが白い首元をしっかりといましめていた。その堅苦しい、肉体をおしこめる衣服が反射的にうらやましいと思った。生まれてこのかた入院着だのパジャマだの検査着だのゆったりした服にしか袖をとおしたことがないおれは、制服というやつにひとかたならぬあこがれがある。

 初対面の人間にこんな評は失礼かもしれないが、はっきり言って印象に残らない目鼻立ちの造形だ。とりたてて美少年というわけでもないが、かといって個性的な顔をしているわけでもない。苦しまぎれにそえられたようなきゃしゃな銀のフレームの眼鏡だけが、少年をかろうじてこの世に立体物としてとどめている感じがする。この距離だ、少年がさきほどのおれのまぬけな声を聞かなかったはずがないし、そもそもこれだけぶしつけな観察眼を向けているんだからなにかしら反応があってもいいはずなのだが、少年はおれに眼もくれず、どころか身じろぎひとつしなかった。彼は本を読んでいたのだ。

 おれのなかに残っている「ぼく」が身をもたげた。物ごころついてから今まで、鳥籠のなかにいたぼくの相手をつとめてくれたのは本だった。外の世界へのあこがれを運んできてくれたのはもちろん本だった。八歳の誕生日に積んでもらった電脳をつかって繰り出したネットの海には未知の情報がごまんとあふれており、その中を泳ぐのは刺激的で楽しく、信じがたいほどの可能性にみちていたけれど、それでも読書の習慣は失われなかった。というのも、あまたの人間の意識が飛び交うネットの海をたくさんおよいだあとは、きまって孤独にさいなまれてしまったからだ。その孤独とたたかうために、ぼくは本を読んだ。ネット空間は修行場で、本は師だった。

 だから、紙をとじたものと見るとナースさん(こちらは人間)が夜勤の時間にめくっている旅行のパンフレットだって読みたくなってしまう。ナースステーションの監視カメラを電脳を使って勝手にのぞき込みながら、ぼくは遥か異国の「エルメスの路面店」とか「ハワイのアロママッサージ」とかに想いを馳せた。もっと高級なものを読んでいるナースさんもいて、ぼくはそこから性愛と純愛のちがいとか、いい男とかいい女というのはたいてい誰も本気で愛さないで、ただ自分だけを懸命に愛するものだとか、そういう世の節理や訓戒をも学んだのである。

 少年がこちらを見ないのをいいことに、ぼくはそっと首だけ動かして、本の表紙をのぞきみようとした。

 「――”鳥は卵のなかから抜け出ようと戦う。卵は世界だ”」

 ぼくははっと顔をあげた。うすいレンズ越しの涼やかな瞳が、ぼくをじっと見すえていた。

 「読んだことはある?」

 やわらかい布がほどけるみたいな声だ。ナースガイノイドの計算されつくした優しい合成音声でも、生身の医者のもそもそしたパンみたいな声でも、母と父以下有象無象の親族たちのきわめてみみざわりな声でもない。だからぼくは突然なげかけられたこんな質問にもさして混乱することなく、すんなりと頷いてしまっていた。

 「しってる。ヘッセでしょ」
 「そう」
 少年は栞をはさんで読みさしの本を閉じた。あれだけ熱中していたのにその動作には何の未練もなさそうだった。読書を邪魔された不快の気持ちもないようだけど、ぼくの答えに関心をもったような雰囲気もなかった。ただなにかに透かしたような、うすい微笑みだけが唇のはしにたたえられている。

 「義体化、するんだ?」
 「えっ? ああ、うん……えっとさ、もしかしてきみもぼく――おれと同じ?」
 「ううん、今日は別件」

 今日は? 気になったが口にする前に少年が言葉をつづけた。

 「じゃあ今日がきみの義体化記念日になるんだ。おめでとう」
 「ありがと……。まさか見ず知らずのひとに祝ってもらえるなんて思ってなかった。だってさ、このこと誰にも言ってないんだ。家族にも」
 「家族にも? ということは……ひょっとしてきみには足長おじさんがついてる?」
 「いいや。費用はぜーんぶ、おれが持つんだ。この年にして借金を負う身だよ。でもいいんだ、おれは自分の未来をちゃんと自分で買ったんだ」

 もうすぐあたらしい自分になれる、という高揚感がおれをひどく饒舌にさせていた。人見知りきわまりないこのおれが、数十秒前に顔を合わせたばかりの、見ず知らずの少年とこうも気やすく話ができるなんて思わなかった。すでに内側のほうから新しい自分に組み換えがはじまっているような気がして、ますます心が浮き立つ。それからこの少年のもつ、冬の空気に似た透明な雰囲気のせいもあるかもしれない。塵も埃も、人の息もことばも、みんなきらきらと輝やかしく見せてくれそうなけはいが、彼にはあったのだ。

 「あのさ、義体化したらまっさきにやりたいことも、もう決めてあるんだよ」
 「なに?」

 少年はちょっとだけ首をかしげておれの言葉をうながした。物静かそうにみえるけど、おしゃべりなナースたちなんかよりずっと話し上手、というか聞き上手だ。

 「大好物を食べるんだ。……ねえ、ピザって食べたことある?」
 「うん」
 「おれはないんだ」
 「ないのに、大好物?」
 「だって絶対おいしいって、わかりきってるから。好きになるってきめてるんだ」

 ネットや本でさんざんしらべた。医師の定めた電脳の使用制限をこっそり解除して――いまのおれの腕前ならそんなにむずかしいことじゃないーー疑似食事として「ピザ」の味を電脳空間内で再現することもできたけれど、おれはやらなかった。まず本物にふれなければ意味がないと思ったのだ。

 味も色もうすい病院食と点滴とがおもな栄養源だったおれは、テレビドラマで見たあのいかにも不健康そうな、油と塩分が山盛りのジャンクフードにいつしかほとんどあこがれを抱くようになっていた。生地のうえに敷き詰められたとろとろのチーズにはところどころに焼け目がついていて、トマトソースにしっかりからめられた玉ねぎや、ハムや、じゃがいもがこれでもかと詰まっている。あれこそがおれの自由の象徴のような気さえしはじめていた。

 「好きなものを食べて、好きなときに自分の足でどこかへ行くんだ。義体化して、おれはおれになるんだ。ずっとずっとなりたかったおれに」
 「そこまではっきり理想があるって、すごいな」
 「きみにはないの? 『こうなりたい』ってやつ」
 少年は淡く、うすく、微笑んだ。そのはかなさが、落ちた花びらを思わせた。

 「そういうのがないから悩んでる、と言えたらいいんだけど、実はなくてもそれほど困ってないから始末が悪いんだ。……そうだなあ、君の望むものにでもなろうかな。君、ぼくにどうなってほしい?」

 おれは眼を丸くした。しかしすぐ一つの提案を思いついた。おれははじめて、自分の手と言葉で、他人とのあいだになにかを生み出そうとしていた。

 「ねえ、だったらさ、おれの――」



*  *  *


 ふっと我にかえると、そこはあたらしい職場のドアのまえだった。公安九課。総理直属の秘匿部隊にしてあらゆる権限を許されたこの国唯一の攻性組織、ときかされているが、本日をもって俺もそこの構成員だなんて、どうも実感がわかない。しかしそこはたしかに俺の望んだ場所のようにも思えた。俺という存在を最大限に発揮できる場所のような予感がした。ふと遠い昔の記憶が脳裏によみがえったのは、あれが俺が『俺』になりたいとねがって歩きはじめた、いちばんはじめの記憶だからかもしれない。

 さて俺の新しい上司である草薙素子少佐からの電通によれば、ドアのむこうにはどうやら俺とコンビを組んで初仕事にあたってくれる先輩がいるのだという。先輩と言っても俺より一週間はやく配属されただけだから、ほとんど同期といっていい。きかされているのはおれとおなじ全身義体の人間である、ということだけ。図体がでかくなっても根本的に俺の人見知りは改善されておらず、もっと情報が欲しかったが、出勤一日目から九課の人事ファイルに勝手にアクセスをかけるほど命知らずでもない。

 覚悟をきめてドアをあける。なめられてはいけない。侮られてはならない。一週間程度先輩だからといってばかにへりくだる必要もないだろう。 俺は図体にみあった、大物らしいやや不遜なふるまいをして、毅然とした俺でなくてはならない。なぜなら俺がそうありたいからだ。

 「――失礼するぜ」

 室内には一人の男がいた。鳶色のと同色のひとみ、痩せぎすの体躯を茶色のスーツに包んだその男がこちらを見た瞬間、俺は反射的に身をよじって回避の動きをとりたいような衝動にかられた。その切れ長の目からはなたれる視線は透明な刃のような、痛みもなく身体の内側まですっぱり両断されてしまいそうなするどさがあった。  しかしこんなジャブごときでポッキリ出鼻をくじかれるほど俺もやわではない。つとめて明るく、あっけらかんとした新人の顔で、

 「新人のボーマだ。今日から世話になるぜ。こんなナリだが、電子戦と爆発物の取り扱いにはちと自信があって」
 「少佐から聞いてる」

 彼は吸っていた煙草を携帯灰皿のなかに落とした。その声音ときたらあまりにもそっけなくて、俺に一ミリたりとも関心がないというのを隠す配慮さえないらしい。だがここでめげてはいけない。俺はしんぼうづよく「ふところの広い男」の笑みを浮かべて続けた。

 「そうか。でもこれはきいてないだろ? 今あんたが追ってる仕事だが、この瞬間をもって俺と一緒に捜査することになるんだぜ。 つまり俺とあんたはいまから相棒ってわけさ。コンビ誕生」

 俺は鷹揚に握手のためのてのひらをさしだした。握り返されることはまったく期待してはいなかったが、どちらにしろあんたの態度にちっとも気を悪くしていないという、器の大きさのアピールになる。
 しかし彼はゆっくりと俺の手のひらを見つめたあと、ごくささやかに笑った。透けるような笑顔だった。
 「……それも知ってた。ずっと、ずっと前から」

 【了】


 「実は昔会っていた」というようなシチュエーションはふだんそんなにときめかないんですが、数ある世界のうちのひとつにこんなボマパもあればなと思ったりしました。ボーマの義体化前童貞→病弱なので義体化が早かったという連想