能鷹のやわらかい爪

 


 サイトーは爪を切っていた。
 きわめて丁寧な手つきだった。地に落ちた枯れ枝を踏みわけていくような、ささやかな、しかし実感的な音が一定の間隔で室内にはじける。耳をかたむけているとしだいに、静かな森の奥へ奥へとわけいっていくような、そんな錯覚にすらとらわれかねない。

 ソファの向かいに座っていたトグサは、いつしか夜食に買ってきた牛丼をかきこむのもわすれて、サイトーの爪切りに見入っていた。トグサなら指一本あたり数秒で手早くすますところを(そしてしばしば深爪になったりするところを)サイトーは実に丹念に、精密に、やってのける。すでに死滅し、白くにごった細胞のなれのはてが、しかしサイトーの指先にそなわっていると、時節はずれに降りつもった雪のような、なにか異質なものに見えるのだった。彼は右腕と左目のほかにはどこにも義体化をほどこしていない。つまり内臓機能や基本的な体質は、完全生身のトグサとほとんど変わらないのだ。左腕を除けば時間の経過にしたがい体毛は伸び、汗もかけば垢もたまる。にもかかわらず、この男も爪が伸びる、という事実をいざまのあたりにすると、トグサは妙に胸がざわつくのを感じる。サイトーの右手の五指は、各々がぴんと伸ばされていた。男らしく骨ばった、けれどすこしも不格好なところのない、精緻な指である。その皮膚の下にとぎすまされた神経の通っているのが、たやすく想像できる整い方をしている。それでいてしなやかな表皮の肉付きは、質実たる植物の茎を思わせた。

 このととのった指が、ひとたび戦闘となるとおそろしいほどの精度で敵を撃ち落とす立役者となるのを、トグサはもちろん九課のみなが知っている。単純な狙撃の腕前のみならず、彼はスナイパーに求められるあらゆる才を兼ねそなえ、そのいずれも、ゆきとどかぬ節のない完璧なものだった。あらかじめさずけられた天稟のものを更にたゆまぬ鍛錬で磨きぬいているのだから、かなうものなどなかろう。こと集中力と冷静さにかけては、彼は下手なサイボーグよりもサイボーグらしく、ほとんど機械じみてさえいた。スコープをのぞいているときのサイトーは、動揺や緊張といった、人間らしいひととおりの概念からはいっそう遠ざかって見える。

 トグサは何度かサイトーのそばで狙撃の補助をしたことがあるが、どんな緊迫した状況下、大げさでなく彼の一撃で戦況が大きく左右されるようなときであっても、その横顔には焦りの一片さえきざしたことがなかった。不誠実ともちがう。能天気とももちろんちがう。みずからの双肩にかかった重責をよくよく承知しつつも、そこから泡のように生じる雑念やノイズのたぐいはひとまずすべてゴーストの奥深くに沈殿させてしまい、職務の終わるまでは肉体のほうへ決して浮上させないすべを心得ているのだ。もはやポーカーフェイスなどというなまやさしいものではない。それはほとんど統率だった。感情、心、意識、果ては動物としての反射の域に達するような精神の些細な運動にいたるまで、彼はみずからの内側から絶え間なく生じるあらゆるものを掌握しているように思えた。

 その姿はたびたびトグサに感嘆と、ほんの少しの焦げ付くような感情とをおぼえさせる。なにかと言うとすぐ熱っぽくなり、いっときの感情にのぼせあがっては視野狭窄におちって、それにさんざんふりまわされたあげく最後にはお定まりの自己嫌悪にゆきつく自分と、どうしても比してしまうのだ。

 もしサイトーが全身義体であれば、とときおりトグサは考える。もしサイトーが全身義体の狙撃特化サイボーグであったら、こんな感情はおぼえなかったはずだ。熟練した全身義体の人間は脳内分泌物の抑制もある程度可能にしてしまうらしく、高揚や緊張によって戦闘に支障が出るのをふせぐらしい。しかしサイトーはちがう。彼は左目と右腕を義体化しているのみで、条件的には完全生身のトグサとほとんど変わりがないのである。だからこそトグサの心はざわついてしまうのだ。あの冷静さ、精密さ、揺らがなさ、すべては与えられた才覚だ。生身でありながらその才でもってサイボーグの課員に等しい働きをする彼がいて、かたや生身の脆弱性ばかりが際立ち、戦闘においてはさしたる貢献もできない自分がいる。いくらあがいても埋めようのないものがあると、スコープを覗く彼の姿の、その美しさがなによりも雄弁に語ってくるのだ。背中をあずけて戦う仲間であり、時には窮地を救ってもらった恩さえある男である。こんな感情をわずかでも抱くのは絶対に正しくないと、トグサ自身がいちばんわかっている。

 「――熱心にながめるほど面白いようなもんか?」

 中指を終え、薬指の爪の処理にとりかかったところで、目線は指先にそそいだまま、サイトーが問うてきた。

 「えっ? ああ、いや、ごめん。なんか、ついじっと見ちゃって。すごく丁寧にやってるから」
 「構わんさ。減るもんじゃなし」

 穏やかに答えるサイトーにどこか決まり悪いものを感じ、トグサは箸をもちなおして、牛丼をひとくちふたくちと口に運んだ。ほとんど冷めかかっている。

 「えっと、じゃあついでにひとつききたいんだけど」
 「ん?」
 トグサは米粒のついたわりばしで卓上を指ししめし、
 「そこに並べてあるのって……」
 「私物だ」
 「うっひゃあ」

 テーブルには実に種々の品々が几帳面にならべてある。サイトーのそばにあると一瞬、銃の清掃用具かとも見まごうが、よく見ればまったくの別物だ。ひらべったい爪やすりや、チューブ状のハンドクリーム、それにトグサには用途のいまひとつわからない、ほっそりしたドライバーのようなものが大小あわせて数本、お行儀よく順番待ちをしている。どれもこれも、トグサにとっては寝室に据えてある妻のドレッサーの上でしかお目にかかれないようなしろものだ。サイトーにとっての爪切りという行為は、トグサの知るそれとはとことんまで異なるらしい。ただ爪を切って、そこそこの短さに整えて、それでおしまいではない。爪磨きなど一部の職種にある男性をのぞいてはほとんど女性の領分だとトグサはかんがえていたが、どうやら改める必要がありそうだった。サイトーの手つきにはたかが手指の手入れなどとあなどれない真摯さがあり、ながめているとそのうち神妙な心持ちにさえなってくる。

 「俺みたいな男が爪の手入れなんぞ、はたから見りゃ気味が悪いだろうな」
 「まさか、感心してるんだ。いつもそんなに手のかかること、やってるのかなって」
 「感心するほどのもんでもない。おまえだって、マテバのメンテは欠かさないだろ?」
 「おいおい、俺のマテバとサイトーの爪が一緒なの?」
 「同じだよ。不備があっちゃ戦えねえ。商売道具のメンテも仕事のうちだ」
 「道具、ねえ」

 トグサは濃い眉を寄せた。たしかにスナイパーにとって、手指は目と同等に気を使わねばならぬ部位だ。それを商売道具と表現するのはいかにもサイトーらしい物言いでありながら、しかしトグサを案じさせる含みがある。サイトーはどうも万事において頓着の薄いたちのようで、それは己の身においても例外ではないらしい。なにげない言動のうちに、そういった一面の表出することがたびたびあった。

 先日のジガバチの暴走さわぎにおいて、サイトーが内庁の補佐官なるあのうさんくさい男から受けた扱いは、トグサもバトーからきいていた。それでありながら張本人であるサイトーのほうは、「俺なら慣れてる」のひとことですませ、今にも合田に掴みかからん勢いだったバトーを諌めさえしたのだという。当のサイトーがこれではバトーもふりあげた拳のおろしどころがなく、その場は不承不承、ひきさがったそうだ。一連のできごとをトグサに語ったときの、苦虫を五百匹も噛みつぶしたかのようなバトーのおもてはありありと思い出せる。

 たしかに元傭兵という経歴にしても、狙撃手というポジションにしても、面罵される機会は常人よりよほど多いには違いない。しかしどうもサイトーのそれは、慣れているというよりもたんに無関心なだけのように思えてならなかった。他人が自分をどんな目で見ようが、どんな言葉で評そうが、まるで気にならないらしい。自分の感情にさえ捉われることをしらない彼は、あまりにかろやかにすぎて、またあまりに颯爽としすぎていた。こちらのほうが耳ふたぎたくなる罵詈雑言を浴びせかけられようと、頬をひきつらせることはおろか、眉を寄せることさえしないのである。ただ、微風にそよがれた水面のように、くろぐろとした瞳をほんのわずか、すがめるだけだ。自分に向けられる罵倒も賞賛もことごとくその身体を吹きぬけていってしまう。まるで、「個」としてのサイトーなる男など、はじめから存在しないかのように――あるいは、狙撃手という名札をぶらさげ、スコープを覗いているときにのみ形をもつことのできる影かなにかのように。

   定めし給料の下りる限り、彼は黙々と、きわめて従順に職務を遂行する。九課であろうが、異国の義勇軍だろうが、それはきっと変わりない。名声欲も野心も他者からの評価を求める心も持たぬ彼が引き金を引くのは、その行為こそが彼に与えられた唯一の存在証明だからだ。自分は狙撃手であり、目の前には撃てと命じられた敵がいる。他に理由はない。兵士として評するなら美点に値する思考回路なのだろうし、サイトー自身、そこをセールスポイントにして戦場を渡り歩いてきたのかもしれない。けれど彼はもう傭兵ではない。ずいぶん昔に戦争も終わった。いまのサイトーは公安9課の一員であり、トグサのたいせつな同僚だ。だからトグサには、サイトーのそういう姿勢がつくづく納得できない。

 トグサはサイトーという男を心から尊敬している。あこがれている。彼がほとんど生身でありながら九課でも際立ったはたらきをするのは、同じように生身であるトグサの希望であった。あるいは嫉妬の種だった。トグサは彼の強さに惹かれていながら、また彼の強さに胸を痛めている。この二つの感情が胸中に同居するのはまったく自然なことだった。ゆえにサイトーがこうもおのれに頓着しないと、トグサはたとえようもなくいやな気持ちになる。本来ならサイトーに受け渡すはずだった自分の中の大切なものが、その身をすりぬけてどこかへいってしまうような、自分一人がどこへもやり場のない心を抱え置き去りにされてしまったような、そんな感覚に陥るのだ。

 (――ああ。だから、かな)

 ここまで考えて、すとん、と腑に落ちた。ふしぎなことだが、サイトーがきわめてていねいに、時間をかけて爪を切っているのをながめているあいだ、トグサはなにか安堵のようなものをおぼえていた。爪を切っているときの彼にはたしかに肉体がある。生き物らしい受け答えをしてくれそうな気配がある。食や睡眠への関心も薄いサイトーは、この九課ではだれより生身のトグサに近いのに、どうかすると全身義体のメンバーよりも遠くに感じられることがある。
 ふと、爪を切っている時以外にも、サイトーが肉をそなえていることを明確に意識できる瞬間があるのをトグサは思い出したが、同時にたちまち羞恥がこみあげてきた。慌てて記憶を振り払おうとしたが、一度もたらされた、下腹のふかいところをごくやさしく締めあげられるような錯覚は簡単にはおさまりそうになく、残り少ない白米と肉とをがつがつ詰め込んでまぎらわせようと試みる。それもあまり功を奏さなかったので、こんどはむやみに明るい声で、こうきいた。

 「なあなあ、それさ、どのくらいの頻度でやってんの?」
 「週に一度は、かならず。忘れたことはねえな」
 「マメだなあ……」
 トグサはいささか大仰に感嘆の息をついてみせる。と、あるひとつの発見が脳裏にひらめいた。
 「あ、そっか」
 「どうした」
 「いやほら、だからいつも――」
 痛くないのかなって、と無邪気にいいかけて、トグサはすんでのところでその言葉を飲み込んだ。しかし遅かった。サイトーは唇の片端をつりあげ、かるく小首なんぞをかしげてみせるおまけつきで、
 「いつも、なんだって?」
 「な、なんでもないッ」
 トグサは思わず顔をそむけたが、サイトーのようなポーカーフェイスの天性を持たぬ彼の頬はすなおに赤らむ。牛丼をかきこもうにも、もう器は空だった。

   ものを想うような暇もないにしろ、まるきり不慣れであるトグサの身体に、思い返せばサイトーの指はいつも優しかった。溺れているような息苦しさや背骨をはいのぼるような違和感はあるが、痛みというのとはまた違う。はっきりそこにある、というのはわかる。自分が水槽に張られた水かなにかになって、内に魚を泳がせているような感触なのだ。おぼえのない心地に困惑し、揺すぶられているうちに、あれほどかたくなに思われた身体の準備がすっかりととのってしまう。彼の指に対して、ちかごろでは恐怖やためらいより、焦れて待ち望む思いのほうがずっと強いのをトグサは自覚していた。彼の指はいつもなにかしらの変化をもたらす。ひとたび銃の引き金にかかれば戦況を大きく動かし、トグサの身体のうえと内にあっては、彼の心身を、まったく未知のものに組み替えていってしまうのだ。

 「べつに感謝なぞ不要だぞ。こういうのはマナーの一環だ。当然のことだ。だいたい俺のは道具のメンテの延長だしな」
 「なんでもないって言ってるだろ! 俺はその、いつも、綺麗な指だなってことを言いたくて」
 「わかったわかった。ああ、そうとも。お褒めにあずかり光栄だ。手入れの甲斐があったってもんだ」

 いまにも身を乗り出しさんばかりのトグサを制しつつ、サイトーはおもむろに机上の道具のひとつを手に取ってこちらへさしだした。ごく一般的な銀色の爪やすりである。

 「ほれ」
 「……なに?」
 「仕上げだ。やってくれないか」

 トグサは目を見開いて、爪やすりと、サイトーの顔とを交互に見比べた。相変わらずサイトーの口元には小憎たらしい微笑がたたえられているものの、まなざしにからかいの色は感じられない。

 「いやいやいや。何言ってんだよ。無理だって」
 「お前が大丈夫ということはたいていとんでもない無茶だが、お前が無理と騒ぐことはたいていやってみると無理じゃないという検証結果がある」
 「たとえば?」
 「そうだな、この間の夜……」
 「あああもういいもういい、その話はいい。とにかく、とにかくだな、俺は自分の爪だってそんなので磨いたことないんだぜ」
 「やり方は教える。マテバのメンテよりよほど簡単だ。いいか、爪に対してだいたい45度くらいで」
 「でもさ」
 「頼むよ」

 こう言われると弱い。いつもそうだ。
 結局トグサは立ち上がってサイトーの隣にかけた。思っていたよりもずしりとした質量の爪やすりを受け取ってから、目の前にこともなげに突き出されたサイトーの右手をしげしげと眺めた。実際に引き金を引く左手でこそないにしろ、彼のたいせつな商売道具にはちがいない。むしろ生身のままの右手だからこそ、こんなふうにたやすくあずけられてしまったことに困惑してしまう。
 トグサには内心、ずっと不思議に思っていることがある。徹底した合理主義であるサイトーが、なぜ右腕だけは生身のままなのか、ということだ。ふつうの射撃以上に長距離の狙撃では個々人の癖が強く出るというから、両腕ともに義体化をしてしまうとなにか余人にはあずかり知らぬ障りが出てくるのかもしれないーー実際バトーなどはそう思っているらしい。それはいかにも彼らしい考え方だ。しかしトグサは、狙撃手としてではなく、サイトーという一人の男の、ごく個人的な事情がそこにあるのをひそかに望んでいた。だから今眼前にある生身の右手を見ると、サイトーが常なら胸中の暗がりにしまっている秘密の一端を、故意にか、あるいは彼らしからぬ無防備さで差し出してきたような気がして、それがトグサの感情をひどくざわめかせている一因でもあった。

 「おい、あまりじらすな」
 「じらしてない」
 「そうだな。お前はそんな器用なやつじゃない」

 トグサは思い切り顔をしかめたが、自覚はあるので反論はできなかった。かわりにサイトーの手をとる。起伏ある甲の皮膚を透かして、静脈の走っているのが見えた。トグサとおなじ、あたたかな血の流れている手。トグサが作業しやすいようしっかり伸ばされ広げられた精巧な五指は、あたかもサイトー自身が愛用する対物ライフル、無骨ながらも洗練されたあの巨躯を構成する精密な部品のうちのひとつを連想させた。女の指にあるようなほっそりとした感覚はない。けれどなにか、女の指とは別種の繊細さを感じずにはいられなかった。一本一本が長く、しっかりと育まれた密な骨肉をそなえているとわかる、凛々しいかたちをしている。あらためて美しい指だと思った。ふれると手のひらより一段つめたい。冬のおわり、芽吹きはじめた花蕾の重みをたたえてしなう木の枝にさわったような感じがする。

 トグサはまず親指の爪からとりかかった。短くきりそろえられた教えられたとおりの力加減と角度でもってやすりをかける。ざり、ざり、と粗い感覚と音をともなわせながら、爪の角は少しずつ、白いこまかな粒子となって確実に削ぎ落とされていく。と、爪甲にふりかけられた爪の残滓に気づき、トグサは反射的にふっと息をふきかけた。

 「ん」

 思わず、サイトーがくすぐったそうにしたので、トグサのほうが妙に気恥ずかしくなる。「ごめん」とわざとぶっきらぼうに言いながら、顔をあげぬまま、作業に没頭する。
 しかし親指がおわり人差し指が終わり、中指ももうすぐ整えおわるというころ、トグサの心と体の中にはもはや無視できない、熱っぽい感触が波立ちはじめていた。彼の指を整えるごとに、さきほど振り払ったと思われた記憶やらなにやらが鮮明によみがえってくるのである。サイトーの指はもはや、トグサの心身やゴーストのいたるところに見えない根を張っているらしかった。ただやすりをあてているだけにも関わらず、だ。その指が精巧に整えられていくほどにトグサの記憶はたしかな質感をもち、身体や皮膚のあらゆる場所にせつないほど反響した。腿のあたりをすり合わせたくなるのをぐっとこらえる。

 状況としてはトグサのほうがサイトーのからだに干渉しているにもかかわらず、あたかもサイトーの指が今まさにトグサをさぐっているかのように思われた。今の自分はいわば、彼の指がもたらす快感にみずから奉仕しているーーそんな思考さえちらつきだして、トグサはいよいよ顔をあげられなくなった。サイトーの視線がうつむけた己の頭のあたりに注がれているのを感じながら、どうかこの動揺が自分の指先に伝わり、彼の指にまで伝わらないよう祈るほかなかった。

 時を経ればまた爪は伸びるだろう。サイトーはそれをまたひとりで黙々と処理するだろう。そして平時の、まるで自分は肉体などもっていないとでもいうような、かろやかで危うい男の顔をして、職務をこなすのだ。トグサと同じ生身の身体をしておきながら、なんの痛みもしらぬと言いたげな機械のふるまいをする。
 それはたいそう寂しいことだと、トグサはとてもやさしく、とてもひとりよがりで、とても傲慢なことを思った。
 気づけば中指の爪はすっかり角が取れている。はっきりとした名残惜しさがあった。

 果たして小指の爪まで丁寧にやすりをかけてやり、サイトーの五本の指の爪はすべて、無害に丸みを帯びたものとなった。
 終わってみればものの五分程度のことが、なんと長く感じられたことか。トグサは大きく息を吐いてやすりを置いた。苦手な長距離狙撃訓練のあとのように、肩の筋肉がひどくこわばっている。

 「仕上がりましたよ、お客さん」
 「ごくろう」

 応じてサイトーは己の指先をしげしげと眺めた。そうして、「上手だ」とこだわりなく笑った。

 「ご満足いただけたならなによりだよ」
 「お前らしからぬ繊細な仕事ぶりだ」
 「うるさい」

 軽口を叩き合いつつ、トグサは内心ほっと胸をなでおろす。どうやら一連の狼狽は気づかれてはいないようだ。ソファの背もたれにふかく背をあずけ、一時の安寧に彼は浸ったが、九課随一のスナイパーを前にそれはあまりにも甘い見立てであった。数秒後に、安堵はもろくも崩れさった。

 「まあ、大雑把なおまえでも慎重にはなるな」
 短くそろった爪を仔細にあらためながら、サイトーは微笑んだ。そのいささか穏やかに過ぎる笑顔にいいしれぬ不穏を感じる。眼球をじろっと動かして、横目に、

 「……それ、どういうこと?」

 と聞けば、彼は実にけろりとした様子でこう答えた。

 「どうもこうも、ちゃんとやらねえとあとで痛い思いをするのはおまえーー」

 最後までは言わせなかった。とくに遠慮せず、トグサはサイトーの向こうずねを思い切り蹴り上げた。

 「蹴るぞ」
 「蹴ってから言うんじゃない」

 トグサはできうる限りの威厳を込めた上目づかいでサイトーを睨んでみせたが、やおらに身体から力を抜き、おもてを苦々しげな笑いに変じた。

 「お願いがあるんだけど」
 「お前は大物だ。少佐の後釜だって狙える。人を蹴りあげた数秒後にお願いがあるんだけどなぞと来た。……ああ、なんでも言ってみろ」
 「俺の爪、切ってくれないか」

 蹴られた脛をさすっていたサイトーがふっとこちらを見た。深沈とした黒い瞳の中にわずかでも驚きのようなものがないかをトグサはとっさにさぐろうとしたけれど、彼はすぐに目線を戻して爪の検分に戻ってしまった。冗談と思ったのだろう。
 だからトグサは、サイトーの背に人差し指を這わせた。聡い彼ならば、この動作だけで真意が伝わるだろう。やや伸びがちな自分の爪を見つめながらたどるのは、青いシャツのむこうに広がる、肉と皮膚でできた彼の人生の系図だ。広大で孤独で、遠い場所の匂いがするのに、あたたかさだけはトグサのものと変わらない。その事実を卑怯と思うことさえある。

   果たしてトグサの予想どおり、サイトーはトグサの言わんとするところに気が付いたようだ。こちらを見た彼はなにごか言いかけてーーしかし結局言葉がうまく練りあがらなかったのか、その名残を唇からちいさな嘆息として吐き出すと、肩をすくめてみせた。言うまでもなく否の身振りである。しかしトグサはあくまでおだやかに食い下がった。

 「なあ、いいだろ」
 「さっきの牛丼にでもあたったか」
 「あたってない。強いて言うなら、あてられた」
 「なににだ」
 「わかってるのにそうやって訊くのは意地が悪いぜ。いつもそうだ、なんでも見透かしてる」
 「そうだな」
 「そういうのずるいと思わない?」
 「思う」
 「うん、サイトーは決して善人じゃないけど、とびきりの悪人ってわけでもない。頭もいいしさ。だから自覚はあるんだろうと思う」
 「何が言いたい?」
 「それもわかってるはずだ」
 「ああ、わかってるが言いたくない」
 「じゃあ、俺が言う」

   いつかの夜、この指が彼のそびらにあたえてしまった痛みの跡を指でなぞる。

 「俺もあんたに、痛い思いさせたくないからだ。--頼むよ」

   遥かな異国の戦場で、あるいはトグサたちの目の前で負った戦いの傷が縦横に走っている場所だ。そこへ来ればトグサがこの背にしがみつく際に付けてしまう傷はあまりに浅くはかなくて、可憐ですらある。しかし今もなお生々しく皮膚を隆起させている戦闘での傷より、よほど残酷で惨いもののようにも思われるのだった。
 サイトーはしばらく黙り込んでいたが、やがてはっきりと、

 「俺にはできない」

 と答えた。断る、でも、やりたくない、でもなかった。
 彼らしい簡潔な言葉でありながら、どこか彼らしからぬ畏れを感じる言い回しの真意をすかさずトグサは問いただそうとしたが、結局できずじまいだった。



 * *

 背中に彼の痛みを感じる。
 ことが終わるとトグサはきまってサイトーの腕の中に身を寄せ、このほの暗い静かな寝室でおだやかに寝息を立て始める。実に健やかな眠りだ。長く戦場で生きた身として物音ひとつで瞬時に跳ね起きるようなさとい眠りをしか知らぬサイトーからすれば、一種異様にも映るぐらいにトグサはよく眠る。もっともそのぐらい疲弊させているのは当のサイトーであるし、そういう眠りを彼に与えることこそが目的だ。

 眼球を守るにあたっては心もとないぐらいに瞼はやわらかくとじあわせられており、指一本でたやすくこじ開けられそうに見えるが、瞼の膠を担っているのはあまりにも密な交わりの時間によるつかれだ。そのため、実際は深海の圧に耐えうる貝に似て堅い。筋肉で充溢したサイトーの腰と背に腕をしっかりと腕をまわし、トグサはふたりぶんの重みでさらに深い眠りのなかへ沈んでゆこうとするように見えた。

 「"深く静かに潜航せよ"」

 ひとりごちながら、サイトーは背の上でごくささやかに波打つ疼きに感覚を集中した。鏡であらためるまでもなく、そこには幾条もの掻き傷が薄く朱をにじませていることだろう。トグサがいつものように爪を立てたのである。
 彼と寝るようになってまだ間もなかったころを思い出す。翌朝、ベッドの上で半身を起こし一服などしているサイトーの背をひとたび見たトグサはしきりと謝りどおしだった。そこには我をわすれて快感に溺れた昨夜の己への羞恥と嫌悪とがありありと見て取れた。

 『ごめんーー本当にごめん。悪かった、慣れてないからって、こんな』

 その彼らしからぬ弱々しさとうろたえ方が印象に残っている。うまく言葉をまとめることもおぼつかず、ただ謝罪を重ねるトグサは、掻き傷をつけたという事実のもっと奥にあるなにかに許しを乞うているようにも見えた。  気にするな、と言ってももちろん気にしないようなトグサではない。次に会ったときは引っかくのこそ我慢していたが、いよいよ物狂おしさに前後不覚におちいりだすと、今度はかわりにサイトーの肩のあたり、むやみと歯ごたえのありそうな、筋肉の発達した部位にかみつき始めた。結局引っかくより痛ましい事態になってしまい、あとでトグサをなだめるのが大変だった。

 サイトーのほうはといえば、こんな痛みをよろこんで受け容れていた。トグサが自分のしでかした不始末に暗い顔をすればするほどにひそやかに胸中の奥がわななくのを感じた。常識と秩序に深くわが身を根差して生きる彼は、笑えるほどに善良だった。自分の信念と理想に忠実に生きることを愚直に願い続ける彼は、その理想を否定され裏切られることを許せない。たとえ自身であっても。トグサがサイトーに対し抱く感情は決して好意や尊敬ばかりでなく、ときには焦げ付くような嫉妬のあることも、そもそも「信頼すべき仲間」に対してそのような感情を発生させてしまうおのれをひどく嫌悪し苦悩していることも、とうに気づいていた。知ったときにサイトーの胸にこみあげてきたのは、久しく忘れていたたぐいの感情ーーまぎれもない喜びと渇望であった。
 嫉妬を自覚したとたんに持ち前の理性と自罰傾向を総動員させたトグサは、サイトーの前では妙におとなしくなるか、むやみと微笑んでいるばかりだった。もちろんそれは彼なりのつぐないである。むろんサイトーはそんなものを求めてはいない。トグサにとって恥ずべきたぐいの感情であろうがなんだろうが、そういった情感をこそ、ほかでもない自分の前で発散してほしかったのだ。

 だから彼の爪に傷つけられるのは幸福だった。未知の快感に意識の呑まれる恐怖と期待で引き出された防衛本能が、サイトーの背に爪を立てさせる。あるいは肩に噛みつかせる。そこにはどんな大義もない。ふだん抱え込んでいる理性やら善良さやらをかるがると凌駕して、トグサはただ自分自身を守るためだけに他人を傷つけるのだ。家族のために善い社会のために信じる正義のために、でつねにゴーストまでからめとられている彼が徹底的な自分本位に転じる瞬間は、サイトーに抱かれているときだけだ。

 トグサがもっと深く眠りのなかへ潜れるように、彼の背と後ろ頭に腕を回した。汗ばんだ頭皮の匂いと熱気、それにシャンプーの匂いとが混淆としている髪のなかに鼻先をうずめて、丹念に呼吸をくりかえす。耳の近くに感じる、まだ熱のさめかからぬ頬の熱さがこころよかった。

 サイトーはときおり、自分が肉を纏った一人格というのを忘れる。この肉体はすっかり銃と溶け合って、内臓の細胞から爪の先に至るまで、すべては銃の一部品だった。その一体化をさまたげるものーーたとえば髪も爪などは、伸びたら伸びただけ切ってしまえばいい。適切に手を入れればすむことだ。迷いやらためらいといった感情もそれらと大差ない。死ぬまで、つまり銃の握れなくなるまで、自分はこれをくりかえすのだろうと思うと爽快だった。とりたてて悪くもないが特筆して価値のあるとも思えぬ人生など、さっさと通り過ぎてしまうにかぎる。

 しかし長年完璧に御していた己の心身が、トグサという男はいとも簡単に不随意のものにしてしまった。背に突き立てられる彼の五指は、あまたの戦場を経てすっかり銃と同化したサイトーの意識をたやすく摘み取り、切り離す。脈拍のひと打ちまでも狙撃のために使い得たのに、トグサを抱いているときのサイトーの鼓動と血のざわめき方は、心惹かれた男の肉をただただ貪りたいという浅ましい音をしか奏でなかった。下腹の底から際限なく湧き出す欲望はじわりじわりと体表ににじみ出て、いくらでも皮膚をぬめらせる。

 自分がどうしようもなく空虚な男だとサイトーはよく知っている。比べてトグサはまったくもって実り多い生をまっとうしている。くだらない冗談に笑いもすれば、不快な顔もあたりまえにする。自分をきわめて平均的な人間と思っているから日々良好な家庭生活を営むのには支障なく、その「普通の人間」の自覚が暴走した時にどれだけ危険であるかを知らない。あるいは気づかぬふりをする弱さもある。相棒の侮辱されたのをわが身のごとくに激しもすれば ひとりよがりな正義感をふりかざしはじめることもある。九課というあまりに特殊な場所がなければ決して交差しえなかったであろう人生をそなえた人間だ。そのような存在をまかり間違って欲してしまったとき、どうすればよいのか。もとからサイトーには捧げられるものなどなにひとつありはしない。だから彼はおぞましい禁を犯した。トグサの苦悩をさえ利用した。自分の空っぽさを逆手にとって、トグサの背や双肩に好き放題のしかかっている重責を忘れさせてやることにしたのだ。

 空虚ゆえに、交わりのさなかの本当にわずかなあいだ、サイトーはトグサの抱えているものを引き受けることができた。トグサは彼に抱かれているあいだだけ、まだまだ未熟な九課の新人である事実からも、愛する家族に嘘をつき続けている罪悪感からものがれうることができた。そしてサイトーは、はじめて心の底から触れたいと願ったものを手に入れることができた。

 しかしサイトーは致命的な読み違えをした。真に考えるべきは欲してしまったときにどうするかではなく、手に入ってしまったあとのことだったのだ。トグサはあまりにも豊かだった。豊かにすぎた。すくなくともこんな自分が触れていいような存在ではなかった。そんな彼とひとときでも心と身体を重ね合わせ、寄り添えあうことのできる時間など、とてもではないがサイトーには背負いきれぬ、文字通り死ぬほどの喜びなのだ。息もできないぐらいに幸せで、押しつぶされそうになる。自分のことなどほとんどないがしろにして生きてはきたが、こんなかたちで己の人生から復讐されるとは思わなかった。

 己の身体にすがるようにしがみつくトグサの指を、サイトーは植物の蔓のように思った。ひとたびからめとられれば、爪切りでもナイフでも剣でも斧でも、あるいはチェーンソーだろうが、分断する工業用水圧カッターだろうが、とにかくこの世のあらゆる刃物を持ち出したところでもう切り離すことはできない。




 * *

 背中に彼の指を感じる。
 めずらしいことだが何かのはずみでトグサは目がさめた。身体の外側にも内側にも、サイトーの気配が色濃く充満している。眠りに落ちる前はトグサのほうがサイトーの身体にしっかりしがみつくような格好だったが、いまはサイトーもトグサの背中と後頭部に腕を回し、栗色の髪の毛の中にうずめるようにして(どういうわけだかサイトーはトグサの髪の匂いが好きらしい)いるからだろう。おどろくほどか細い寝息を規則正しくトグサの耳朶にふれさせながら、彼はひっそりと眠っている。この寝室は暗さと静かさも相まっていつも海の水にでも浸されているかのようだったが、そのあるじであるサイトーの眠り方もまたひとかたならぬ静謐さである。寝息が泡沫になってのぼっていく幻視さえできそうなのだ。彼なりに安らいで眠っているのだろう、と思うと、トグサの胸中には泡立つような、ざわめくような、不可思議な感触が打ち寄せる。その安らぎはついさっきまでのトグサへの、野放図といっていい献身によってもたらされたものだからだ。

 サイトーは、ほとんど略奪に近いぐらいの献身ぶりを見せる。激しく、優しく、細やかに、手ひどく、あらゆる使い分けを駆使して、トグサになにごとかを考える暇を与えない。与えられるものが多すぎて、それを受け止めるためにトグサをトグサたらしめている意識はすべて放棄させられてしまうのだ。なみなみと注ぎ込まれるその感覚に溺れ、窒息しているうちに、トグサが抱えていた重責や不安はいっときどこかへあふれだしていくのだ。

 だからひどく心を苛まれる。サイトーはトグサに無尽蔵に快感を捧げる。何も考えずにすみ、またなにをも恐れないですむ空白の時間を捧げてくれる。それに対してトグサは痛みでしか応えられない。  彼の背に無数に走る傷の大半は、戦闘によるものだ。ゆえにそれらの傷のひとつひとつには、戦いを生業として生きてきたサイトーの義務があり、積み重ねてきた時間があり、矜持がある。同時にスナイパーである彼へ向けられてきた数かぎりない憎悪や殺意も、盛り上がった瘡蓋の中にはねむっているはずだ。彼の背はひとつの大きな琥珀に似ていた。琥珀のうちに封じられている花や虫を見るように、サイトーの古傷からは彼の人生の断片が透けて見える気のすることがトグサにはたびたびあったのである。

 そういった傷たちは、痛ましいけれどもいさぎよいと思う。いわば双方が対等の立場にあるからこそ成立した、ごくまっとうな傷だからだ。サイトーがだれかに殺意を抱いた証であり、だれかに殺意を抱かれた証。しかしトグサのつけた爪跡はちがう。己の刻む傷は深さこそ戦闘のそれに及ばないにしろ、あまりにも狡猾で恩知らずだ。トグサはいつも考えている。自分は彼にひとかけらの痛みだって与えられたことがないというのに。

 男に身体のすみずみまで愛撫される、ましてや体内の奥底にまで踏み入られる狂おしいほどの感触など少し前まで知りもしなかったとはいえ、背中に爪を立てたり、肩に容赦なく噛み跡をつけたりするほどに切迫するなど、自分の身体と理性と良識は未知なる性の味を前にしただけでくずれおちそうになるぐらいには脆弱と語っているようなものだ。
 朝になり、トグサの弱さと身勝手さによる爪跡なまなましいサイトーの背が陽光に燦然と照らしあげられると、トグサはおのれの所業を責められているようでなんともやるせなかった。沈んだ面持ちでひたすらに謝罪を述べるほかない。
 するとサイトーはきまって、トグサの頬を両手で包む。ゆうべの余韻にほてる頬をさますかのごとくにひやりとした義体の左手と、泥のようにぬるい生身の右手の感触に挟まれると、ほんのわずかだが心が凪ぐ。それを見計らってサイトーは噛んで含めるようにして繰り返し、こう囁くのだ。

 『お前にはずいぶん無理を強いてるからな。お前にも痛くしてもらわねえと、釣り合わねえ。むしろもっと噛むなり引っかくなりしてもいいぐらいだーーあーでも股間まわりは勘弁してくれーーとにかくこちとら根っからの善人なもんでな、あんまりにアンフェアだと良心の呵責に耐えられなくなっちまう』

 後半は冗談めかして言うくせに、生身の右目にたたえられた感情はほんとうにやさしくて、トグサは一瞬、いま自分が生きている人生を忘れそうになる。

 『……加えて俺はとびきりの欠陥人間だ。自分のやったことに相応の仕返しがねえと落ち着かない。世界が正しく回ってないんじゃあねえかって気までしてくる。だからこれでいい。おまえが気にすることなんかなにひとつない。これでいい』

 サイトーの指と爪とはけっして自分を傷つけない。ただ、なぞっていくだけだ。打ち寄せるさざ波にたえずあらわれている砂はこんな気分かもしれない。トグサのゴーストの深奥、あの感じやすいひだのところまでわけいってきて、あらゆる感情を目覚めさせてゆき、時には安らかに眠らせていく彼の指に、トグサのゴーストはわずかなあいだくずれ、ほどけるような心地を味わう。

 サイトーの胸板に頭をすりよせる。息をふかく吸い込んだ。潮のような濃い汗の匂いが肺の奥までも満たす。彼も汗をかくのだという当たり前の事実が、トグサの胸をふしぎに高鳴らせる。ふたりぶんの汗とこもった体温の生み出す湿気を吸って、じっとりと湿ったシーツに横たわっていると、全身のけだるさも手伝って、ふたりでどこか遠い遠い場所まで泳いできたあとのようにも思えた。

 「サイトー」
 「うん?」

 そっと声をかけるとあたりまえのように返事がある。気配には驚くほど聡い彼のこと、さきほど胸に頭を寄せるためごそごそと身じろぎをした際にはもう目がさめていたにちがいない。トグサもそう承知していたからこそ呼んだのだ。

 「考えてたんだ」
 「なにを」
 それでもさすがに意識がもうろうとしているのか、サイトーの声は間延びしかすれて、どことはなしに甘えた響きにきこえる。フェアだなんだというなら俺とおなじくらい、サイトーも芯まで甘ったれてくれたら楽なのに、と考えながら、トグサはたずねた。

 「どうしたら、俺の爪、切ってくれる?」

 サイトーは笑った。

 「諦めが悪いな、おまえは」
 「そこがセールスポイントなんだよ」
 「知ってるさ。お前のせいで俺まで最近は諦めが悪くなった。退きどきがわからない。このままじゃそう遠くないうちに死んじまうな」
 「またそんな。あきらめるなよ」
 「そうだなーー諦めたくない」
 「うん。だから俺も諦めない。爪は切ってもらう。いつかぜったいに」
 「そのいつかの来る前に、お前が俺のためにわざわざ爪を切る必要なぞなくなるかもしれんぞ」
 「ないと思うな」トグサはふたたび目を閉じた。「きっと、諦めの悪いサイトーはそんなことできないはずだから」
 「俺に似てきたな」
 「そう?」
 「ずいぶん、ずるいことを言うようになった」

 サイトーの爪が己のなにひとつを傷つけもせず、どんな痕跡をも残さぬことにおののきながら、しかしならばとトグサはひとつののぞみを抱いてもいた。サイトーの爪があくまでこの身を裂かぬなら、せめて、締め付けてほしかった。果実の汁をしぼるように、やわらかく、けれど力強く締め上げて、トグサが傷つけたぶんだけ、呼吸を奪ってくれればいいと思う。
 眠りにおちる寸前、トグサはまぶたの裏にひろがる暗い海の中に、泡沫になってのぼる最後の空気を見た。


 【了】