慎ましき聖域

ダイブギアをはずし、ボーマはまたしきりに額をさすった。大入道めいた広大な額のまんなかに、白い正方形のガーゼが当てられている。この手の小さな傷は、その慎ましさがやっかいだった。こさえ慣れた大がかりな傷のように主張こそ激しくないが、こちらは痛みが希薄なかわりに、絶え間なく神経の端でちらちらと明滅を繰り返されているような違和感と不快感がある。一度気になりだすと手がつけられない。常に耳元でこそこそとささやかれている感じがした。
 と、気づまりの原因が根差すその額へ、ふいにひやりと冷たいなにかを押し当てるものがある。
  
 「うお」 
 首だけ動かして後ろをあおぎみる。水滴の浮いた缶コーヒーを手に、彼の相棒が立っていた。
 「間抜けだな」
 「うるさいよ」 
 パズの口調はからかうでもなく、もちろんあざけるような響きもなく、たんに事実だけを述べるときのものである。
 切り出したように線の鋭い輪郭、ボーマからすれば信じられないぐらいにけわしいような鼻梁と顎、絶妙に影を住まわせやすい顔のつくりは、暗いダイブルームの中では際立って魅力的に見える。自分のテリトリーである場所で彼が美しく見えるのは、なんとなく喜ばしい。実際、彼には照明をひかえたバーや夜の街並み、それにボーマのベッドルームに据えてあるシェードランプの灯りなんかがよく似合った。
 
 ボーマの相棒は、少なくともむこう五年はその日の女に困らない身分である。しかし彼自身はとりたててすばらしい美形というわけでもない。少なくとも万人受けする顔ではなく、もっと言えば好みが相当別れると予測される顔立ちであった。たとえば、その切れ長の目もとなどが挙げられる。涼しげで、熟練の手で引かれた迷いない一筆のようにいさぎよくて、ボーマには好ましく映るのだが、見る人が見れば黒目をほとんど覆い隠してしまう重い瞼としか認識されず、いたずらに人相を悪くしている一因ととられてしまうだろう。個々のパーツもどこがとくに秀いているわけでもなく、美男とは言いがたい。
 
 にも関わらず、パズのもとへは夜ごとあらゆる種類の女が寄ってきた。蝶のような女も鳥のような女も虎のような女もいた。わずかなそぶりひとつで濃淡の異なる影がたえずはびこるその横顔、そこに息づく秘密のかずかずがはなつ独特の色香を嗅ぎつけるからだろう。彼は己の神秘や魅力をむやみとふりまく男ではない。それでも女たちは、あたためられた香油のようにほのかに立ちのぼる彼の秘密の匂いにとても敏感だった。あるいはそれこそが、彼女らが男に求めているものなのかもしれない。
 
 顔がととのっている男はいくらでもある。だが、見る女見る女に何か物語を感じさせる表情と陰影とを持ち合わせた男はそうはいやしない。顔の造作によって生まれる美しさには限りがあるが、彼の色香と魅力は光源と暗闇のある場所、つまり影のできるところならばいくらでも広がりをみせてくれるのをボーマは知っている。彼に惹かれてやってくる女たちの誰より、この男の魅力を識りつくしているとだろうという自負があるのだ。闇の中でこそ引き立つ彼を見ていると、いつもそんなことが頭をよぎる。
 なにをするでもなく己の顔をしげしげ眺めているボーマを怪訝に思ったのか、パズは缶の底で彼の丸い後ろ頭を軽くつついた。  

 「……おい、いらないのか」
 「っと、悪い悪い。さんきゅ」
 「打ちどころが悪かったか? 見かけどころか反応まで悪くなってる」
 「だからうるさいって」
 ボーマが缶コーヒーを受け取ると、パズは隣のダイブ装置の椅子に腰をおろし、自分のぶんとして求めたコーヒーの缶をあけた。なにか調べものがあるわけでもなく、ただ暇をもてあまして時間つぶしに尋ねてきたらしかった。
   
 「わざわざパズに言われなくても、マヌケは重々承知だっつの……赤服の手が空いたら速攻で皮膚張り替えてもらう」
 「それを勧める」
 今朝がたボーマとパズが現場検証でおもむいたのは、武家屋敷を思わせる伝統的な日本家屋の邸宅であった。同行してきたのはさきごろ配属されてきた陸軍出の新人で、まだまだ九課のやりかたに慣れているとは言い難かった。元来気のいいボーマが、先輩風を吹かせてあれこれと指示を出してやっていた。そうしてそれに気を取られすぎ、鴨居の一段低くなっているところにしたたか額を打ち付けたのだった。
 義体なんて影もかたちもなかった時代に建てられた建造物だ。二メートル近いサイボーグの出入りなど当然想定されていないだろうから、構造上の欠陥のせいにもできず、こういう場合は自分の不注意をひたすら恥じるしかない。年に数回はこういうことがある。そのたびに金輪際こんなぶざまは犯すまいと誓う。半月もすれば忘れる。そしてまた同じことの繰り返しだ。どうやらこの身体で生きていく以上、この手の不幸との遭遇は、あらかじめ織り込み済みのものとして覚悟せねばいけないようだった。    

 「たしかにこの身体はいろいろ便利だぜ。でもよ、些細なところに致命的なデメリットがちらほら落ちてる。たとえばこれだ」
 ボーマは額をさししめした。
 「俺もこの年だから、若いころには見向きもしなかった寺社巡りとかが気になりだしてくるわけよ。だけどこの図体じゃ見物どころじゃない。頭ぶつけないようにするのに精一杯。入れねえとこもあるかも」
 「ヘルメットでもかぶってろ」
 「『頭上注意』ってェ? いかしてら」
 「そうは言ってもその身体、ずいぶんな付き合いになるだろう? 初対面のときにはもうそのナリだった」
 「まあな……」

 この型の義体に換えたのは大戦のはじまる直前で、つまり大昔の話であった。彼が籍を置いていた部隊は爆弾を主とした危険物の処理と設置とを請け負うていたため、採用された義体はまずなによりも耐久力が重視された。強力な防護性能を搭載するならば、義体そのもののサイズと重量を大きくしていく必要がある。大きければ大きいほど強化素材も衝撃緩和素材もより多く積み込める。とてもシンプルで明快な理由だ。
 またボーマ個人は隊の中でもとりわけ電脳戦に抜きんでていた。だからより多く、より複雑な処理に一度に対応できるようにとこちらも単純な理屈からコネクタを増設した。それには髪の毛は邪魔だった。 かくしていまの大入道然とした容貌が完成したのである。徹底的なほど職務に最適化され、研ぎ澄まされた身体は非常にわかりやすいともいえた。その身体は彼と言う人間の経歴すべてを物語る。パズとちがって秘密や神秘を隠しておける余地はありそうにもない。
 
 「寺社仏閣巡りができねえのはまあ目をつぶるにしてもだ、女の子に恐がられる、これだけはいただけねえ! いや、俺がたんにでかいだけならいいよ。でかい男が好きな女の子はいくらでもいるからな。でもそこへ来てスキンヘッドで目がこんなな、二メートルもタッパある男! 俺が可憐な女の子だったらまず近寄らない! だって怖ェもん!」
 「少佐は平気じゃねえか」
 「少佐は可憐な女の子じゃねえだろ! あれは女戦士! アマゾネス! 暴れ馬とか駆って狩りに出かけて自分でさばいた肉とか食ってるタイプ! 俺が言ってるのは小型犬とか飼ってて秋には紅葉狩りに出かけて自分でさばいた魚の煮つけとか食わしてくれるタイプの子!」
 「……だ、そうです少佐」
 「ヒッ!?」
 「なんちゃって……」
 「パズてめえ」
 「――と、ひとしきり寸劇をやったところで」
 「ウン」
 さきほどの啖呵で酷使した喉をうるおそうと、ボーマはしごく落ちついたようすでコーヒーのプルタブを開けた。 
 
 「お前の言う致命的なデメリットとやらは、ささやかすぎるな」
 「ささやかだからよけい腹立たしいんだよ。この傷みてえにさ」 
 「そんなに言うなら、義体を換えたらどうだ? ローンでも組んで」 
 「そこまではなあ」
 つめたいコーヒーをひといきにあおる。喉の奥にぱきっと渇を入れてくる苦みに、舌をなごませる甘さがしずしず入り混じってくる瞬間はなんともいえず心地よい。パズはブラック派だが、ボーマはこういった、すこし甘めのいわゆる微糖のものが好みだった。表だってパズにそれを教えたことはないが、一緒にコーヒーを飲む機会が多いので覚えていてくれたのだろう。自分の好みに気を払ってくれていただけでも嬉しいが、わざわざ別々に買ってきてくれたというのもまたひとしおに嬉しい。実に瑣末な事案なのは重々わかっているけれど、ささやかだからこそ、よけい幸せに思えるのだ。
 
 「一回だけ考えたこともあるけど、なんだかんだで仕事人間だから、結局仕事での利便性を優先しちまうのよ。それにさ――」
 コーヒーの件で少なからず気分を良くしたボーマはわざと、焦らすように一呼吸を置いた。パズがだまって次の言葉を待っているのを確認してから、満を持し、
 「いざってとき、ちゃんとパズを守れるような頑丈な義体のほうがいいだろ?」
珠玉の殺し文句である。少なくとも数十秒前にこれを思いついたボーマはそう信じていた。けれど言葉と同時にパズのほうへ顔を向けてみると、肝心の彼は腹立たしいほど長い脚を組んで、どこから出したものかなにやら雑誌を読んでいた。 
 「温泉に行きたい」
 「聞いてた?」
 「城崎がいい。朝から温泉に入って、寝て、地酒でも飲んで、銘菓のまんじゅうも食べて、また温泉に入って、まんじゅうを食べて、温泉街を練り歩く」
 「俺の義体がデカいままなのはやっぱりいざというときにパズを守りたいからであってえ」
 「ビールを飲みながら夕食の鍋をつついて、デザートにまんじゅうを食べて、締めにふやけるほど温泉に入って、マッサージでもかかって、まんじゅうを食べて、やはりあんこはこしあんだと再確認して、そのあとなにもしないで寝る」
 「まんじゅう食い過ぎだよね」
 「しかし現実は数週間先まで仕事が詰まっているために結局ただの夢物語に終わるのであった」
 「あ、完結した」
 「ところで何の話だ」
 「もういいっす……ハイ」
 うなだれようとあわれな声を出そうと、パズがこちらをかえりみる様子はいっこうにない。あいかわらず彼の目線は、誌面にひろがる緑なす渓谷や豊満に湯の張られた檜風呂、小川のほとりに軒をつらねる温泉宿に独占されている。どんな美人でも、ここまで彼から熱心な目線を注がれることはないだろう。
 「あー、いかんいかん。テンション戻さねえと。こういうときこそアイスだアイス」
 深く身体をあずけていた背もたれから、勢いをつけて立ちあがった。こういう、何もかもがかみ合わないときは、たんと自分を甘やかすに限る。
 ダイブルームでの作業はたいてい長丁場かつ根を詰めるたぐいのものが多い。夜を徹しての作業もめずらしくはない話だ。そういうわけでここを出てすぐのスペースに備え付けてある冷蔵庫には、各種栄養ドリンクや糖分補給のアイテムが豊富に取りそろえられていた。イシカワと並んでダイブルームの主に名をつらねるボーマは、その特権で冷凍ピザとファミリーサイズのアイスクリームという実に場所を取る二品の常備をゆるされている。

 座席から数歩離れたところでふと、振り返ってみた。変わらず雑誌を読み続けているパズの後ろ頭が見える。捧げられた花のようにややうつむけられて、当然ながら襟足はあらわだった。
 男の襟足など見ていて面白いはずもないのだが、彼のものだけは格別だ。耳から首筋にかけてをつなぐ線の精悍さにまず心ひかれる。丹念に後ろへ撫でつけた髪とワイシャツの襟の隙間にのぞくうなじは、もちろんボーマと同じ人工皮膚で出来ていた。肌色そのもののみを見るならむしろボーマのほうがより白くできているぐらいだ。けれども、パズの項はボーマのものよりはるかにさえざえとしており、たえず洗われているような明瞭さがある。塑像のなめらかさを思わせるそこは、彼の身体の中で唯一、影の住まうことができない場所に見えた。

 ふしぎなのはそのきめ細やかな美しさが、きちんと男の持つ皮膚の線と色との中に生きていることだ。彼が男として抱いてきた幾人もの女の美が、彼の項に結集しているようにさえ感じる
自在なる陰影のすみかとなっている貌にくらべて、彼の項はどんな物語も秘密も感じさせない。ただ明快に美しいだけだ。そしてひどく無防備である。数十センチにも満たないそのささやかな聖域は、ボーマの目の前になんのてらいもなく晒されているのだ。むき出しで、隠しだても何もなく、指先をひどくそそのかすようななめらかさを、ダイブルームの緑がかった光に貞淑に反射させている。 

 「綺麗だよなあ」
 結果的にボーマの口をついて出てきたのは、しごく単純な讃嘆であった。けれどそのまじりけない美しさを明晰に評するのには、これがいちばん適していたのである。
 「は?」
 しみじみと感じいった風情のその声は、さしものパズの興にもうったえたらしかった。ようやく彼の目線が雑誌から離れる。 
 「いや、だからさ、綺麗だって」
 「なにが」
 「うなじ。パズの」
 「………なに?」
 「びっくりするぐらい綺麗なんだよ。俺の身長だとパズの後ろに立ったとき、ちょうど滅茶苦茶いい具合に見えるんだよな。で、いつも思う。なんでパズってやつは、こんなにうなじが色っぽいんだってさ。……ときどき変な気分になる」

 パズはとっさに右腕をはねあげて、己の項を覆った。そのしぐさの思いがけない可憐さがボーマの胸を軽やかに脈打たせた。
 仕事においてはその演出家の才を存分にふるい、己の纏う雰囲気を自在に操る彼は、積極的にひけらかすことはないにしても、自分の魅力というやつがどんなもので、どう役立つかはしっかり把握しているのである。けれど、自分の思ってもみなかった箇所が、こともあろうに一番身近にいる相棒の劣情を知らず知らずに煽っていたという事実をきかされて、くわえて今までそこをあまりに無防備に晒していた自分にも気がついて――とにかくそういった連鎖が、常ならぬ焦りを呼び起したに違いなかった。 
 
 パズはだまって立ちあがると、ボーマのもとまでやってくる。人差し指でそっと下方を指差し、かがめ、としぐさだけで命じる。すなおに腰をかがめてやると、パズは己のてのひらをボーマのひろい額、あの小さな不幸の痕跡にそっとあてがった。動物でも撫でるみたいな手つきで彼はそこを数度さすったが、その感触と言ったら、傷自体のまずしさには到底つりあわぬほど甘美だった。   
 
 「かわいそうに。よほどうちどころが悪かったか」
 「そうかも。でもまあ、この身体も悪いことばっかりじゃねえと再確認したぜ? パズのことを守れる、パズのうなじは堪能できる」
 「休んだ方がいい」
 「おお、そうだな。ゆっくり温泉でも行きたいところだ。一緒に行こうぜ」
 「そんな時間がどこにある」
 「時間なんか作ればいいんだよ。な、いいじゃん。俺パズの浴衣見たいなー。浴衣のうなじも堪能したいなー。あとほら、たまには布団でっていうのもおもむきあるしさあ……」
 「やめろ。浴衣だと項が隠れない。次の朝人前に出られなくなる」
 「別に出なくてもいいと思うけどな」
 「それかお前に気をつけてもらうか……」
 「ああ、そりゃムリかもなあ。この流れでうなじ行くなってほうが難しいって。俺、聖域には積極的に分けいっていきたいいタイプ」
 「ささやかな聖域だな」
 理解できないという表情を隠そうともしないまま、己の項をパズは掌でかるくさすった。ボーマは口の端をにんまりともちあげて、
 「ささやかだから余計色っぽく見えるんだよ」
 「俺にこの傷は色っぽくは見えない」
 「だろうな」
 「……ただ、少し母性本能をくすぐられる」
 「マジか。皮膚張りかえるのちょっと待とうかな」

 こういうやりとりを、さきほどからずっと同じ空間にいたイシカワは黙ってきいていたが、やおらにデスクの引き出しの中から耳栓を取り出した。そしてしっかりとそれを両耳に詰め、またもくもくと仕事に専念し始めた。

 (了)