俗世の美しい一日



 頬に流れ張り付いた髪を、サイトーはやわらかにかきあげる。先ほどまで彼が指のあいだにはさんでいた煙草の匂いがかすめ、それがトグサの、まだ余韻さめきらず汗に湿った肌の毛穴に沁みいると、はげしい情交のあとでまどろんでいた官能が、またそぞろに呼び起されてくる。あたたかい血の色がのぼった耳のふち、首筋へと唇がすべっていくと、水を吸ったように重く投げ出されていたトグサの腕は、ぴくりと脈動するかのごとく跳ねあがった。

 「物足りないなら物足りないで、すなおに言えばいいだろう」
 「違っ、お前がその気にさせるからで……!」

 サイトーはその先の発言を許さなかった。トグサの頭を押さえつけて、さっさと唇をうばってしまう。両の手で憑かれたように髪をもみくちゃにされると、それにあわせてトグサの体中を流れる血液が潮のつきあげてくるように湧き立った。舌をすり合わせ、互いの唾液を流れ込ませているうちに、気恥ずかしさやためらいといったものがどんどん溶けて行ってしまうのを感じる。しびれるほど甘い飴玉が、濃艶たる匂いを漂わせてやわらかく溶けていくさまを、トグサはとっさに思い浮かべていた。

 「うん、んむ……ふ」
 
 自分でも気付かぬうちに伏せていた瞼をもちあげてみると、もうサイトーは、さきほど笑いながら煙草をふかしていた彼ではなくなっていた。息をあがらせ、唇と舌と唾液との交接に熱をあげるさまは、獲物の皮を食い破って肉をむさぼる野生の獣のそれだった。 

 (なんで俺なんかに、こんな夢中になれるんだろう) 
 
 こういうことをするときは何も考えるな、とサイトーはトグサに思考を禁ずる。みずからの与える快楽への見返りを決してのぞまず、その甘受のみをトグサに強要する。彼は手なれた様子でトグサの性感を次々におののかせ、トグサの肉体がどんなに快楽にどん欲であさましいものであるかをむざむざと付きつけてくるのだった。  
 
 サイトーはえもいわれぬやさしい声(声と言葉だけはほんとうにおだやかでやさしげである)で、トグサの中がきゅうきゅうと締め付け、うねりながら己をつつみこんでくる感触を仔細に報告してくる。ペニスをねじこんでも、まずは浅いところばかりをつついて焦らせ、しびれをきらしたトグサがわれを忘れて腰をゆすり、白目を例によって赤くうるませながら、露骨な言葉でもってねだるように仕向けてくる。気持ちいい、とほとんどうつつないトグサが繰り返し呟くのを満足げにききながら、彼の髪をかきわけ、額にそっと唇を落として愛をささやく。そのまま奥にどっぷりと注ぎこむのがお定まりの流れだった。、   
 まったくの搾取だ、とトグサは思う。これほどまでに献身的な搾取があろうか? トグサの肉体からありったけの快楽を引き出し、なおかつ余計な歯止めをかける理性を没収したがるサイトーは、つまるところ、トグサの抱える幾多の苦悩をすでに察していた。それは本来の仕事のことを隠し続けている家族への罪悪感であり、同僚の元レンジャーとの関係であり、そして彼と自分が……。だからサイトーは何度でも、トグサに思考を禁ずるのである。彼の愛撫のさなか、トグサはいっとき肉体と精神との境を忘れることができる。深い海に引きずり込まれるような感触をいつも覚える。呼吸ができなくなるぐらいに深い場所にみちびかれて、いっさいの思考が要をなさなくなる。つまりそれこそが、サイトーの思惑なのであった。 

 ……はっと気がついたときには遅かった。
 「なに考えてる? ……約束だろ、考えるな」
 感じろ、ってか? 軽口を叩くひまさえ与えられなかった。ぷっくりと立ち上がった乳首をこねくり回されて、次には下品な音を立てながらむしゃぶりつかれる。背骨の上をずいと駆けのぼってくる快感にトグサは震えた。男がこんなところで感じるなんて、といういつもの情けなさからくる背徳が、快感に拍車をかける。 

 「あ、あっ、やだ、バカッ、いやちがう、ごめん、サイトー、ごめん、やめて……あっ、ひっ、ああ……」
 「謝るな……わかってるさ、余計なことを考えるのは俺のテク不足だ。なあ? ご不満なんだろう」
 「ちがうっ、ん、ダメ、音立てないで、やだ!」 
  
 こんな懇願はもちろん逆効果でしかない。ベッドの上で発するダメだの嫌だのというのは、喜悦の喘ぎと同じであった。
 わめこうが騒ごうが一度責めだしたらトグサがふやけきってしまうまでやめないくせに、お望み通り彼がひとしきりもだえたあとはきまって、トグサの頭を抱きしめ、ほうぼうにキスを落としながらいちど呼吸を整えてくる。そうしているあいだにも、彼の頭の中ではすみやかな駆動でもって、このあとはどうトグサを責め立てるかの策を練り始めているのだからたちが悪い。いちいち気を緩められないのだ。

 (だから、終わってから優しくするなら、やってるときこそ優しくしろってんだ)

 胸中で毒づく。トグサの腹あたりにには、すでに硬く張りつめた彼の性器が押しつけられていて、あとはトグサの具合次第といったふうである。そのなんとも言い難い感触にお腹をひっこめたり、あえて突き出してみたりしていると、夏の雲のようにもくもく、ある考えがふくらんできた。 
 言われた通り、自分はこれより何も考えない。ただ感じることだけに専念する。だからそのぶん、彼にも同じだけ感じてもらわなくてはフェアじゃない。トグサは反撃に打って出ることにした。

 「トグサ?」
 サイトーの胸をゆっくりと押しのけて、トグサはけだるく身を起こす。そのまま身体を低くかがめて、彼の膝のあたりににじりよっていった。
 「おい……」
 トグサの意図に感づいたサイトーが困惑気味の声をあげる。トグサは恥も外聞もかなぐりすて、満を持した上目づかいでもって、ささやく。
 「男はみんな好きだろ、口でされるの……手もつけようか?」
  軽く丸めた手をゆるく上下に動かしてみせる。我ながらやり過ぎかとも思われたが、トグサ一世一代の誘惑はどうやら想像以上の戦績をあげたらしかった。ごくり、とあのサイトーが喉が鳴らして生唾を飲み込む音を、トグサは確かにきいたからである。

(了)

 突然始まり微妙な所で終わっていてすみません。いろいろあって続きが書けない。バトーさんとトグサはすれ違ってるだけでとくになんでもなかったり…いや何かあったり…ご想像にお任せで……。