CAMERA EGAL STYLO

 
 百貨店の催事場で、今年も文房具のフェアがはじまった。

 新聞、雑誌、写真、あらゆる紙媒体の情報メディアが電子ペーパーに代替わりをすませて久しい。山積している環境問題の解決をもくろんでのことだ。
 よって、木材パルプから作りあげた、いわゆる「ほんもの」の紙を用いたノート、顔料から作ったインクで充たされた万年筆などなどといった筆記具は、現在では完全な嗜好品、あるいはステイタス・アイテムとなりつつある。絵画や骨董品とおなじく、宛然たる芸術品として愛でられているというわけだ。紙そのものも貴重な時代であるから、当然値段も跳ね上がる。
 
 さて素子は、赤い合皮のジャケットにパンツといういつものかっこうで、催事場をつぶさに見て回っていた。五月の気候には暑すぎる服装だが、随意に体温調節が可能である彼女には無縁の話だ。かわりに、この新緑の季節、晴れやかに降り注ぐ日差しやときおり吹きよせては肌を涼ませる薫風、そういった季節の情緒も感じづらい。  
 フロアを占めている客のおおよそは、仕立てのいいスーツを着た壮年の紳士である。バイク乗りのごとき出で立ちであらわれた若いお嬢さんのすがたを、彼らはちょっとふしぎそうに一瞥したが、みな根が上品か、あるいはそうあろうとつとめている人間だ。それ以上の詮索のまなざしが彼女にふりかかることはない。

 やおら、素子はひとつの平台の前で足をとめる。紙の日記帳を取り扱うコーナーである。
 たちまち、『思い出のひとときをかたちに』の一文が電脳内に表示される。脳内認識によるポップなどいまやありふれすぎていて(ニューポートシティの公道では実に八割の道路標識・表示がこの技術を用いている)、とりたてて言及するものでもない。それだけ電脳化が普及したということだ。

 大小も厚さもさまざまの日記帳が並んでいるのを、素子は砂場の中から砂金でも見つけ出そうとする人のように目をすがめ、じっくりと吟味した。その顔つきたるや、一種の気迫さえうかがえる。声をかけようとした若い女店員が、思わずそそくさと立ち去ってしまったほどだ。
 
 やがて彼女は一冊を手に取った。
 
 表紙に本革を張った日記帳である。おちついた飴色の光沢と,きめの細かさがつややかに美しい。表紙をそっと撫でてみると、やわらかな手触りが指先の触感を慎ましく出迎えた。革と本物の紙を使っているため、重みは相応だ。それがまた、かたちと質量をもつ確固とした存在であるのを主張しているようで好ましい。 
紙面は淡いクリーム色をしている。薄くベールのかかっているような色合いだ。まっさらなページを繰りながら、素子はこちらもさわり心地をたしかめた。さらりとした感触は、電子ペーパーでは味わえないものだ。
 このごく小さな日記帳が、皮膚にいきいきとした情報を与えてくれるものをこれだけ内包している。ちょっとした神秘のようなものさえ感ぜられた。 

 日記帳を手にしたまま、素子は脇に並べられた万年筆たちに目をうつす。仰々しく黒いビロードを敷いた細長い箱におさめられているものもある。重厚さの展覧会といわんばかりの風情だ。 

 (できればインクの色は、黒じゃなくて青ね。そのほうが紙の色に映えるわ)
 青、それも海の中のような、紺碧にちかい色合いの青がいいだろう。絹に似た乳白色の紙の上へ、文字でできたか細い水脈がしなやかに描きこまれていくのを想像すると、妙に胸が湧き立ってくる。
 こんな瑣末なこだわりを持つなど、昔からすれば考えられなかった。少なくとも、五○一機関の、なんの調度品もない巣箱のような部屋で暮らしていたころの素子には。
 そしてあれでも、素子は機関の中では変わり者に分類されていたほうなのだ。シャワーを浴びたり、ベッドで眠りたがったりしたからである。しかしさすがに、たかだか紙とインクの色との兼ね合いに気を使うような人間でもなかった。
 
 いや、人間ですらなかった。あのときの素子は、五○一機関の備品だった。
 義体には必要なくとも、人間にとっては必要なものがたくさんある――綺麗な家具や調度品、ささいなこだわり。それを素子に教えてくれた彼はもういない。だが、こうやって素子がなにかを選んだり、考えたりするときには、たびたびその影をのぞかせてくることがある。彼女のゴーストに深く根ざしたところで、彼は今も断片的に生き続けている。  
 
 (でも、日記って何を書けばいいの?)
 
 素子はふと眉根を寄せた。外部記憶などにセーブした過去の記憶は、プラグをつなげばすぐ再現できる。だが日記帳となると話は違う。自分の手でペンを動かし、日々のことを文章情報のみで精密に刻んでゆかねばならない。目覚めた時間、行った場所、見たもの、聞いたこと、何を食べたか、どんな出来事にでくわし、そのことから何を連想したか。 
 
 つまり日記をつけるというのは、紙面の上へ手ずから映像を映し、音を奏で、味蕾が感じた刺激を再現するということだ。しかもこれらすべてを、ペン一本でなさなければならない。
思ったより大仕事だわ、と素子は万年筆と日記帳とを交互に見比べた。こころなし、手の中の重みが増したような感じさえする。   

 過去に一度だけ、ほんものの万年筆で文字を書いたことがあった。素子がまだクルツとともに、五○一機関の研究ラボを兼ねた児童施設にいたころの話だ。
 週に二日ほど、忙しい仕事の合間を縫って彼女らの保護者をしていたマムロが尋ねてきた。彼はある日ふところから万年筆をとりだしたかと思うと、素子にそっと手渡した。
 銀無垢のそれはずしりと重く、素子の小さな手にはたぶんに余るしろものだった。しかし素子は、マムロがその万年筆を非常に大切にしているのを知っていた。そんなものを預けてもらえたのが、子供心にうれしかった。
 そしてマムロはみずからの手帳――こちらももちろん本物の紙だ――の一枚をやぶって、素子にさしだした。『すきなものを書いてごらん』と言って。 

 素子はすこしのあいだ悩み、やがて「草薙素子」と縦に大きく書いた。マムロは穏やかに笑って素子の頭に手を置くと、次にクルツにも同じように万年筆と紙とをさしだした。
 受け取ったクルツはなにやらはにかむばかりで、いっこう、筆が進まなかった。やがてマムロはクルツの、精緻な琥珀細工に似たたおやかな手をやさしく包むと、何事かを一緒に書きはじめた。クルツの好んでいた詩の一節であった気がするが、定かではない。ただ、そのときのクルツの嬉しそうな顔は、今でも思い出せる。外部記憶に流し込まれたものほど詳細ではなく、ところどころ不明瞭で、漠然とした、遠くからただよってくる潮の香りのような――。
 
 『――あなたの記憶はたしか?』

 突如として頭の中に声がひらめく。
 みじんの悪意もうかがえない、透明な少女の声だ。まじりけのない水のようで、それゆえ胸に深く染みわたる。素子は反射的に、きつく唇を噛みしめた。  

  「………少佐?」

 つづいてきこえた声は、記憶の中のものではなかった。まぎれもなく現実の世界から聞こえた。記憶の声と現実の声の聞きわけもできぬほど、チープな聴覚素子を使ってはいない。
 
 「なんであんたと休日にまで顔を合わせなきゃいけないのかしらね、バトー」
 
 彼の声に、ほんの、本当にごくわずかながら安堵らしきものをおぼえたのを、しかし素子はつとめておもてに出さぬようふりかえった。素子と同じように、いつもどおりの出で立ちをしたバトーが立っている。唯一、小脇にうすい紙袋のようなものを抱えているのだけが、平素は異なっていた。
 
 「ずいぶんなやっつけ方だな。隊長殿を見かけたもんだから、休暇中にも関わらず敬意を忘れずごあいさつにあがったのによ」
 「結構よ」
 素子はそっぽを向いたが、めざといバトーはさっそく彼女の手にたずさえられた二品に目を付け、無遠慮にも首を突っ込んでのぞきみてくる。
 
 「紙の日記帳に万年筆? 羽振りがいいじゃねえか。新しい彼氏へのプレゼントか?」
 「自分で使うの」
 「お前が日記ィ? こんなぜいたく品使うような趣味だったか?」
 「私はきちんと、かたちあるものに自分の『個』としての記憶を、自分の手で残しておきたいの。それだけよ。あんたみたいな粗野なサイボーグにはわからないでしょうけど」
 バトーはちょっと黙った。と言っても、素子のつっけんどんな物言いに腹を立ててではなかった。あることに思い至ったのである。

 「……おまえ、もしかして」
 「なによ」
 「このあいだのブリキ娘の……ツダ・エマの言葉、気にしてんのか?」 
 「――っ」
 また唇を噛んでしまった。もちろんそんな仕草はいかなる言葉よりも雄弁な肯定に他ならない。バトーは途端ににやりと、不快なかたちに唇をゆがめた。
 
 「ははあん。案外しおらしいところあるじゃねえか」
 素子は無視して踵を返した。そしてずんずんと、独特の力強い足取りでレジに向かおうとする。もちろんバトーが慌ててあとを追いかけてくる。 歩幅が大きいのですぐに並ばれてしまったのが癪だが、だからといって逃げるように早足になるのもみっともない気がして、素子はわざとそのままの速度を保っていた。
 「あっ、おい待てよ! それ二つとも買うつもりか?」
 「私が私の給料で何を買おうと、おまえには関係ない」
 居合の一刀で斬りふせるかのごとき横目で、バトーをねめつける。
 
 「そうじゃねえよ。そっちの日記帳」彼は太いひとさし指でもってまずは日記を指差した。それから己の鼻先にちょいちょいと指を添え、「俺がプレゼントしてやろうか?」
 「……はあ?」
 思いがけぬ申し出だった。さしもの素子も立ち止まらざるを得ない。
 彼に真正面から向き合うと、
 「あんた、あたしがそんなに金に困ってるように見えるの?」
 たしかに両方とも、そこそこの値はする。そうはいっても少ししゃれたフレンチレストランで一回食事をする程度のものだ。財布が痛むというほどの出費でもない。
 
 「バカ、そっちでもねえっての。まあなんだ、祝いみたいなもんだな」
 「祝いですって?」 
 この男に誕生日を知られたおぼえはない。そもそも素子だって自分の正確な誕生日なんか知らない。
「遅ればせながら、俺らの部隊に特務権限が出た記念ってことで」
 「何カ月前の話してるのよ。いまクリスマスプレゼントをもらうのと同じじゃない」
 「だから遅ればせながら、って言ってるじゃねえか。そういうわけで日記の一ページめに書いておけよな。『五月四日。優しいバトーに日記帳を買ってもらう』」
 「自分で買うわ」
 もはや苛立ちを通り越してあきれの境地だった。素子は日記帳の話そのものをとりやめ、かわりにバトーが小脇にはさんだものを瞥見した。
 
 「似合わないもの持ってるわね。それ、ここのデパートに入ってる本屋の袋じゃない」 
 「ん、あ、ああ……まあな。いやでも、本ぐらい俺も読む。たいした本じゃねえけどよ」
 たちまち歯切れが悪くなった。素子は粗相を隠そうとする大型犬のすがたを連想する。この男と付き合う女はたいそう操縦が楽だろうと思われた。
 「おまえの読書遍歴なんて、新聞とコンビニの下世話な週刊誌だけだと思ってたわ」
 「あー、似たようなもんだ。毎月買ってる……アレだ。銃器マガジンさ」  
 「ふうん」
 つくづくわかりやすい男だった。
 次の瞬間、素子は目にもとまらぬ速さでバトーの手から紙袋の強奪をはたしていた。元レンジャーの反応速度もこの不意打ちにはわずかに遅れをとったのである。あたりかまわぬ批判の声を無視し、素子は手早く袋を開けて中身を取り出した。
 
 「銃器マガジン」
 素子の棒読みに、バトーが額に手をそえ肩を落とすのは同時だった。
 緑の野原を背景に、赤毛をおさげにした少女、ライオン、カカシ、ブリキの木こりがたのしげに歩いている姿が、のどかな筆致と画風で表紙にえがかれている。電子ペーパーと電子インクを用いたものではあったけれど、それはまぎれもなく一冊の絵本であった。
 
 「あんたもなんだかんだで引きずってるってことね。人のこと言えないじゃないの」
 「……あの事件以来、どうも気になっちまって仕方なかったんだよ。『カカシとブリキ』。実のところよく筋を知らねえんだ」
 「トグサに教えてもらえば?」
 「バカ! あいつになんか恥ずかしくて訊けるかよ。とにかく、喉に小骨が引っかかったみてえで……」
 言葉に窮してバトーは短く刈りあげた後ろ頭をがりがりとやった。
 「で、わざわざレジにならんで絵本を買ったの? 本を買わなくたってネットにあらすじなんかいくらでも落ちてるでしょ」 
 「……おまえと同じさ」
 「同じ?」
 答えず、バトーは素子の手から絵本をとりあげた。しかし、彼の言わんとするところは理解できる。だから、
 「因果ね」
 とだけ言った。バトーに向けた言葉であり、自分にも向けた言葉である。
 
 「だれにも言うんじゃねえぞ」
 「わかってるわよ、だからあんたも私が日記を買ってたなんて、うかつに漏らさないことね」
 「俺は口は固いんだ」
 「知ってるわ。あんたとはもうすでに、ひとつ秘密を共有してるでしょ」
 「……さすがにあそこまで深刻じゃねえよ」
 素子は口元をわずかにゆがめた。 
 「日記に書いておくわ。『五月四日――絵本を買ったバトーを発見。口止め料として、日記を買ってもらう』」
 「気が変わった。買わねえぞ」
 「あらあら、誇り高き元レンジャーの精鋭が、一度言った言葉を撤回するの? あいさつなんかより、かたちあるもので隊長への敬意をみせなさい」
 サイトーあたりが見れば震えあがるであろう、晴れやかな笑いで素子は日記帳をバトーに押し付けた。
 
 「でもまあ、あんたにおごってもらうっていうのも気味が悪いし……」
 「どこまでもかわいげがねえな」
 「だから半分、使わせてあげてもいいわよ」
 「……あ?」
 「日記帳よ。バトーもここに日記を書けばいいんだわ。日記をつけるって結構な大仕事だから、二人で書けば負担が減る。一日おきに、交代制で……」
 「お前それ、どういう意味だかわかってんのか?」
 「えっ?」
 バトーはふかぶかとため息をついた。
 「参ったね」
 



 何を思ったのかバトーがサイボーグ用のうまいコーヒーを出す店があるなどと言いだしたので、素子はさきほどの反応もふくめて腑に落ちないながらも、彼について百貨店の外に出た。日記に書くことがらは多い方がいいと思ったのである。――五月四日。絵本を買ったバトーを発見。口止め料として、日記を買ってもらう。その後彼の勧めでコーヒーを飲みに行く。期待はしていなかったが、やっぱりおいしくない』といった具合に。
 
 新緑の葉を透かし差し込む陽光のなごやかさを、素子はなるべく仔細に観察しておく。頬に受ける風の感触をどう的確に表現するか、持ちうる語彙のかぎりで検討してみる。今までならノイズと判断していた往来をゆきかう街の喧騒に、ほんのわずか注意をはらう。それから横に立つバトーの、どこか居心地のわるそうな横顔を見つめて――。
 
 五感を総動員して、時にはゴーストのささやきに耳をすませて、おのれの感じた世界を、記憶を、日々映し取っていく。毎日日記をつけるというのは、やはりきわめて大仕事のように感じられる。
うまくやれるだろうか? 素子はふと不安になる。なにしろ多忙の身、三日で飽きたりしたら元も子もない。努力はするにしろ、そう毎日日記に書けるような変化に富んだ出来事があるかだって、わからない。バトーに協力をあおいだが、はたしてどう転ぶやらだ。 
 こうして素子はあれやこれやと、心配事を胸中でかぞえあげていたが、それはいかにも人間らしい、ささやかな悩みなのであった。


(完)