きれいな背には魔が棲まう

 

 きりりと伸びた彼の背中を見るにつけ、狙撃手とはみなこんなにうつくしい後ろ姿をした種族なのかとトグサはしみじみ感じ入ってしまう。

 今日のサイトーはいつもの大きく胸をはだけるような格好ではなくて、夏場用の、身体に張り付くような生地でできた黒いハイネックを着ていた。そのため、しなやかに筋肉のついた背の上方を、うきあがった肩甲骨が二分しているさまがよくみえる。その肩甲骨でできた谷のあいだに唇をつけると、ひどくくすぐったがるのをトグサは知っている。のみならず、谷をわたって雄大に広がっていく肉の大地のたくましさや、縦横に走る大小の傷跡を指でなぜたときの、快感を押し殺すような彼の眉のひそめ方をも、よく知っていた。 
 
 「トグサ」
 
 はっと我にかえると、サイトーはようやくやってきたエレベーターに乗り込むところだった。ほとんど照明のおとされた一階のエレベーターホールでは、開いたドアの内側の明るさが目を突くようである。
 
 「……どうした、健康的に階段で行くつもりか? 心がけは感心だが、この時間じゃ朝になっちまうぞ」
 「いや……いやいや、まさか。ダンナじゃあるまいし。ごめん、ちょっとぼうっとしてた」
 「バトーでも階段は使わねえと思うがな」
 トグサは急ごしらえの笑みをはりつけたまま、足早にサイトーのあとへつづいた。
 
 どこでまごついていたのか、待てども待てどもエレベーターがおりて来なかったので、手持無沙汰になったトグサは斜め前に立っていたサイトーの背中をながめてすごしていた、はずだった。最初こそ純粋な観察であったのに、いつの間にやらあんな性的な連想をとめどなくつむいでいた自分があまりにも恥ずかしい。
 
 それもこれも徹夜のせいだ。めんどうな残務処理をぜんぶトグサに押しつけて、自分は陸軍の合同訓練とやらに意気揚々と出かけていった相棒の元レンジャーのせいだ。
サイトーがボタンを押して、ドアを閉める。首をわずかにめぐらせてこちらをうかがう彼の目線は、怪訝というよりもむしろ気遣わしげだった。
 
 「仮眠室で少し休んだらどうだ? 明日にはバトーも帰ってくるんだろう。お前だけ根詰めないで、二人で分担してやりゃいい」
 「あー、いや、ありがとう、ウン、大丈夫だ。ダンナに備考欄を書かせると単なる感想文になって少佐が顔をしかめるからな。俺がやってやんなきゃだ」
なおも頭によぎる不健全な諸々を振り払うように、トグサはごく平穏な話題への転換をこころみた。左手にたずさえたコンビニのビニール袋を、かるく上下させる。
 「それにしてもちょっと買いすぎたかな」
 「晩飯もろくに食ってないし、ちょうどいいんじゃないか」
 「だな。でも深夜の買い出しって、どうしても財布の紐がゆるくなって困る。俺なんかたまごサンドにおにぎりに牛肉コロッケまで買っちまったよ。炭水化物づくし」
 「長期戦の必要物資だ、気にするな」
 「じゃあサイトーの煙草も必要物資?」
 「あたりまえだ、俺とパズとバトーは『法で煙草が禁止されたらクーデターも辞さない同盟』を組んでいる」
 「嘘だろ」
 「まあ、嘘だな。煙草が吸えなくなったら全員で棒付き飴でも舐める。ピンクだの黄色だのの可愛いのを」
 「うわ、ぞっとした」 
 
 笑いながら、トグサは内心ひそかに胸をなでおろす。思考の舵取りはうまくいったようだった。あのなまめかしい
回想は、すでに潮のひくように遠のきつつある。
 節電のためにこの時間帯は稼働しているエレベーターもごくわずかで、その数台も低速運転に切り替わっている。九課のオフィスは高層階に位置しているので、到着までに平時の倍は時間がかかった。あんな連想を引きずったまま、こんな密室で数分もサイトーと顔を合わせているのは非常に気まずい。
 
 ぼんやりしているとまたさきほどの愚を繰り返しそうなので、トグサは前に立っているサイトーの背からさりげなく視線をはずし、壁にもたせかかったまま窓外の夜景をながめた。ゆるやかな上昇にあわせて、おびただしい光の点がひとつの都市のかたちにむすばれ、視界の中に立ちあがっていく。
 
 「エレベーターで他人と乗り合わせると」 
とつぜんサイトーが声をあげたので、トグサは窓ガラス越しに彼のほうをうかがった。ずらりと階層ボタンのならぶコンソールの前に立ったサイトーは、こちらに背を向けたままだ。

 「おもしろいわけもねえのに、全員こぞって階数表示を見ちまうのはどうしてなんだろうな」
 ふだんなら数分程度の沈黙など気にもとめない男が、自分からこんな世間話を切り出してくるのはめずらしいように思われた。しかしトグサはとくに深く考えないで、夜景を見つめたまま応対した。
 
 「あれ、心理学的な理由がちゃんとあるらしいよ。他人と密室の中にいて、しかもおたがいの距離が比較的近いと緊張するから、なにか別のものを見つめるのに意識を集中させることでストレスを緩和させてる、とかなんとか。階数表示じゃなくても、動いてるものならなんでもいい。電車の中にある広告とか、そういう心理効果を利用してるみたいだし」
 「……なら、おまえもか?」
 「えっ?」
 「俺といると緊張するんで、さっきから子どもみたいに夜景なんぞ見てるんじゃねえかと思ってな。いままで俺といるとむしろ安心するんじゃないかぐらいの期待はしてたが、俺はずいぶん自分をしょってたようだ」
 
 よどみない口調から、どうやらサイトーはトグサの解説を見越したうえで、あらかじめこのセリフを用意していたことがうかがえた。まんまと相手の思うとおりに誘導されたかたちになったが、トグサはかえって軽やかな気持ちになる。媚態に見えない程度に小憎らしい笑いを口元にたたえて、わざとらしく声を落としてみせた。
 
 「……なーんだ。いまごろ気付いたのか?」
 「ショックだ。立ち直れんな」
 大根役者そこのけの棒読みに目線をもどしてみると、 ちょうどサイトーもこちらへ向きなおるところだった。目と目が合ったとたんに、どちらからともなく吹き出した。   
その風貌から近寄りがたい印象ばかりが先行するが、少し打ち解けてみると、こんな他愛ない冗談に興じて笑いあってくれるような男だった。その笑顔にまったく気取った感じがないのが、トグサには好ましかった。元傭兵という経歴のこの男にはじめて親近感らしきものをもったのも、彼がバトーだかボーマだかのくだらない冗談にはばかりなく笑っているのをたまたま目にした折だったとトグサは記憶している。

 サイトーはちょうどトグサと正面から向き合うように姿勢を正した。手近な壁に背をあずけて腕を組む。
 「髪、伸びたな」
 「えっ? ああ」トグサは胸のあたりに垂れた己の毛先に触れながら、「最近いそがしくて切りにいけてないんだよな」
 「なんでそんな中途半端に伸ばしてるんだか知らんが、いっそ短く切っちまえばいい。似合うと思うぞ」
 「サイトーみたいに?」
 「別に俺ほどにする必要はねえよ」
 「でも涼しそうだよな、その髪型」
 「やめとけ。これはお前には似合わん」
 サイトーは右目をすがめて忠告の目配せをしたが、トグサより背丈におとる彼がそのようにすると、まるで上目づかいにむくれられているようで、トグサは妙なくすぐったさをおぼえる。簡潔にいえば、なんだか、かわいらしい。   

 背筋も伸びているし、ふだんはあまり意識しないが、サイトーとトグサは五センチほど背に差がある。サイトーの身長自体は非常に平均的な日本人男性の数値をしめしているが、なにしろ彼らの同僚には規格外に図体のでかいサイボーグが二体もいた。パズはトグサとおなじぐらいの背丈であるし、すっかりダイブルームのシートにすわりなれたイシカワも、ひとたび立ち上がれば百八十センチとなかなかに立派な体格をしている。そんな九課にあっては、サイトーがとりわけ小柄にみえてしまうのもしかたがなかった。 

 あの凛々しく侵しがたいような背中のあるじは、自分よりたった五センチ背が低い。それだけの事実がトグサになんとなくくつろいだ気持ちをもたらした。せせこましい優越感などではない。
図体のでかいサイボーグの片割れと行動をともにする機会が多いトグサは、最先端の人工工学によってなされたあの強靭な体躯が、いかにさまざまな無茶を可能にするかをよく知っている。生身のトグサが血を吐いて到達するような限界を、ほんとうにやすやすと突き破っていくのだ。文字通り身体のつくりが違うのは重々承知だが、おなじ職場でおなじ職務に当たる以上気にするなというほうがむずかしい。
しかしサイトーはちがう。義体化は左腕と左目にのみ及んでおり、鍛えあげてはいるが体格も膂力も常識の範疇、加えてトグサよりも小柄なのだ。そういう要素がもたらす親しみやすさと、にもかかわらず九課きってのエーススナイパーとして同性をも魅す毅然とした背中を持つことへのあこがれとが、性根のすなおなトグサの心中で両立しているのだった。
 
 「うん、たしかに」トグサは神妙ぶって、大きく二度三度頷いた。「この絶妙にころんとしてて可愛い頭の感じは、サイトーにしか似合わないかも」
 「いまひどい聞き間違いをした気がするな。もう一回頼む」
 「サイトーの頭は上から見下ろしてみると撫でくり回したくなるほどころんとしてて可愛い」
「よりひどくなった。……男にかける言葉じゃねえぞ」
 「褒めてるんだぜ」
 「よけいタチが悪い。考えてみろ、バトーがお前に可愛いといってるようなもんだ」
 「俺は嬉しいって言ったら?」
 「……タチが悪いうえに気分も悪い」 
 サイトーは今度は思い切り眉をひそめて、また例の目配せをした。トグサはすかさず付け加える。
 「あとそうやってにらむとき、上目遣いっぽくなるのも可愛い」
 「……」
 「背が高いのっていいなあ」
 「たかだが五センチ程度でなにを言ってんだ」
 サイトーはすっかりあきれかえってしまったらしく、短く息を吐いてかぶりを振った。

 ここでやめておけばよかった、とあとになってからトグサは後悔した。けれど彼との会話においてめったに冷やかしの側になど回れないトグサの口は、得難い攻勢の立場に浮かれて早まった。

 「そうだ――これからはキスするとき、かがんでやろっか?」 
 
 あえて冗談の種にこういう話題を選ぶことで、いまだわだかまるさきほどの連想のきまり悪さを笑い話におさめて処理したいという気持ちがトグサにはあった。しかし次の瞬間、サイトーがみせたのはトグサの危機感にうったえかけるたぐいの表情だった。怒ってもいない、あきれかえってもいない、そのおもては凪いだ水面のようでいて、しかし目だけが据わっている。 
 
 「必要ねえ」
 彼は低くつぶやいた。
 「あ、いや、ごめん冗談――だからそんな怖い顔しなくても」
 もちろんなにもかもが遅かった。大股にやってきたサイトーに思わずあとずさろうとしたが、背後は壁だ。 
 「ごめん、ほんとごめん――っ、あ」
 両の頬をしっかりととらえられる。顔をそむけるのもかなわない。かさついた唇が噛みつくように重ねられるのをただ受け入れるほかなかった。 
 
 「は、ふ……」
 あっという間に湿った舌の侵入をゆるしてしまった。いつもよりはげしく口内をねぶりまわされ、なんとか対抗しようと舌先で彼の舌を押し返そうと試みたが、それこそがサイトーの狙いだったらしい。たちまち舌全体をからめとられ、擦りつけあうようなかたちに持ち込まれた。知らず、目をかたくつむってしまう。視覚を封じたせいで鋭敏になった聴覚やほかの器官が、互いの唾液が混ざり合う音や、ぬかるんだ感触をより鮮明に身体の奥底へ運びこんできて、痺れるような快感を生み出す。

 音もなくせりあがる深夜のエレベーターの中で、こんな激しいキスにおよぶのは、どこか不道徳であるとさえ思われた。しかしトグサは抵抗らしい抵抗ができない。両手の自由はあるのに、サイトーの胸をつきのけようとすることすらもしなかった。一瞬唇が離れ、彼の荒々しい吐息が肌にふれると、うずくような高まりが腰のあたりではじけた。膝裏の力が抜け、壁づたいに身体がずりおちていくのを感じる。なんとか体勢を立て直したいが、もはや身体のどこにも力が入らない。 
 サイトーは顔の角度を変えた。乾燥でささむけた唇の皮がトグサの唇を撫ぜるたびに、感じやすい神経に直接愛撫を加えられているような錯覚におちいる。
 
 ふたたび唇がはなれたかと思うと、サイトーは今度はトグサの耳のふちに唇をくっつけた。トグサのそこがとりわけ敏感だと知っていてこんなまねをするのである。彼はそのまま、トグサの深いところをやわらかく突くように声を流し込んだ。
 
 「――背中以外にも、見惚れてほしいもんだな」
 「な――ひ、やああああっ……!」
 気付かれていた、と思わずまぶたを持ち上げて瞠目したが、直後に耳のふちを食まれた。背筋を駆け抜ける快感にとうとうトグサの身体はくず折れ、驚愕の声はしどけない嬌声の甘ったるさを纏ってエレベーターの中に響いた。 
 
 「……はっ、ふ――あ……くそっ……」 
 床にすっかり尻をつき、それでもなんとか息を整えようと試みる。遠慮ない視線が降り注ぐのを感じ顔をあげてみれば、ひややかな眼光をいかんなく発揮したサイトーがこちらを見下ろしていた。
 「……どうした。かがんでやるか?」
 「……負けず嫌い。いよいよガキだぜ」
 
 上目づかいにサイトーをにらんだが、白目をうるませた状態でそんなことをしたところで、サイトーの嗜虐癖をよろこばせるだけだった。サイトーは唇の端をつりあげて、いかにも愉快そうに笑ってみせた。きわめてなさけないことに、トグサのほうも彼のそんな表情を目にすると、また腰が甘く震えるのを感じてしまうのである。
 場違いなほど軽い音を立てて、エレベーターの扉がひらいた。
 
 「着いたか。相変わらず長かったな。五分は乗ってたんじゃねえか? ……おかげで楽しめたが」
 こともなげに言ってのけ、サイトーは床に落ちたトグサのぶんのビニールをひょいと持ち上げる。いつの間にか手放してしまったらしい。
 
 「ほら」
 手伝ってやる、と手をのべてくる。トグサはしばしサイトーの顔とその手とを見くらべた。先ほど不遜なふるまいにおよんだのとおなじ手であるとは思えないぐらい、やさしげで紳士的な手にみえるのが不思議で仕方がない。結局、不承不承その手をとった。力強く引き起こされる。
 
 「熱いな」サイトーの声はもう、含み笑いを隠そうともしない。「やっぱり仮眠室で休んだほうがいいんじゃねえか」
 うつむいたままのトグサの手をひいて、サイトーは九課の長い廊下をゆっくりと歩きだす。
 「……じゃあ」
 「ん?」
「じゃあ、連れてけ」
 「どこに?」
 「……覚えてろよ、バカ」

 たのしげに揺れたサイトーの背中をにらみつけながら、トグサは絞り出すようにそれだけを口にした。繋がれた手を指まで絡ませて、きつくきつく握りしめる。反抗するように、あるいは甘えるように。
 
 ……それもこれも無責任な相棒のせいだ。
 
 とはいえこんな状況の遠因となった相棒に対し、はたして恨んでいいのか感謝していいのか決めかねている自分がいる。己がとことんどうしようもないところまで流されてしまったことをトグサは痛々しいぐらい実感し、彼の背中に額をくっつけた。うっすらと汗ばんでいる。この背中にすがっていると、いつも流されるところまで流されてしまう。
(……夜食、朝メシにするようかな)
思うさま流されて、はたしてどこへ行きつくのかはトグサにはいっこうわからない。けれど、差し当たりこのあとの行き先と、ビニールの中の夜食の行く末に関してだけは、たやすく予想を立てることができたのだった。
                  

(了)