むすんで(切り)ひらいて



 義体化反対、電脳化反対、人は人のあるべきすがたに。お定まりの文句を掲げてこのたび蜂起した某集団は、もちろん全員がその高潔な理念にしたがい、首領から末端のものにいたるまでみな生身であった。そんな彼らの根城に、治療用の麻酔マイクロマシンや緊急医療キットのような気のきいた品々は望むべくもない。けっきょく、包帯に止血剤、消毒液といったアナログかつ最低限の道具を抱えて、サイトーは単身、戦闘の最前線からわずかに離れた地下通路までやってきたのだった。
 狭い通路に倒れた何人かのテロリストたちを跨いで、先をいそぐ。常なら傭兵時代に培った余念なさで、彼らから使えそうな銃弾を失敬しておくところだが、そんな悠長をしていられる状況でもない。
 生のけはいが絶え、静まり返った通路を奥へ奥へと突き進む。やがて、静寂のとばりをわずかに打ち震えさせるようなかすかな音が、彼の耳に届くようになってくる。それがか細くも荒い息づかいであると知っているサイトーは、ますます急き立てられて歩を進めた。      

 通路の最奥で、壁にもたせかかったトグサがぐったりとうなだれていた。詳細にスキャニングを行うまでもない、見ればわかる重傷人の風情である。荒く上下する胸郭、額には噴きつけたように汗が浮いている。おさえた右肩からは血がとめどなく流れだしていた。敵の放った弾丸が貫通することなく、右肩の筋肉にうずもれたままになっているのだ。

 「おい、生きてるか」
 『かろうじて……』
 答えは直接脳内に響いたが、さきほどのものよりさらにノイズが増幅していて、聞き取るのも一苦労だ。不快さにサイトーは眉をひそめた。
 『ごめんな、足……引っ張って』
 「しゃべるな」
 『俺……本当に』
 「しゃべるな」
 『声は出してない』
 「そうじゃねえ。声は出したきゃ出せ。だが電通はやめろ、ノイズがひどくて耳のうしろにチリチリきやがる」
「……やさしくねえなあ」
 絞りだされた声はひどく掠れて、電通のノイズ音声と同程度に聞き取りづらかった。
 「じきに、哨戒にあたってるタチコマが迎えに来る。それまで耐えろ、と言いたいところだが……」
 サイトーは苦々しく舌打ちをした。思いのほか出血がひどい。すさまじい雑音をともなった「ドジった」の電通でだいたい何が起こったのかは察することができたが、こうやって実際の光景を目の当たりにすると、言いしれぬ不吉にうなじがひそやかにわななくのを感じる。

 「トグサ、よく聞け」
 やや語気を強めて呼びかける。トグサは重たいものを持ち上げるようにゆるゆると薄く目をあけた。
 「義体ならまだしも、お前は生身だ。このままいけば筋肉の硬化が始まって……」サイトーはそこまで言って口をつぐんだ。いちいち自分が説明するまでもない。ことが切迫しているのはトグサ自身が一番よく知っているはずである。「すまん。無駄なおしゃべりだったな」
 サイトーは腰のベルトに提げてあったナイフを、革のシースから抜きはらった。剥き身の刃の上で光が跳ねる。優美に描かれた孤と張りつめた曲線の組み合わせが生み出すしなやかさは、物であろうが人であろうが無邪気に削ぎ落してしまう。
 
 「いけるか?」
 本当ならこんな問いかけも無用であった。サイトーがナイフを抜いたその瞬間に、ふたりの間ではおおかたの黙契が成立していた。
 トグサは甚だ不格好に頬の筋肉を引き上げた。
 「………うん、よろしく」
 すがすがしいほどの強がりに満ちた快活な返答は、当たり前だが荒い呼吸や朦朧とする意識を繋ぐために噛みしめた唇と同等の痛ましさしかもたらさない。以前にも似たようなことがあった。生死をさまよう大怪我を負った彼は、あの時もこういう朗らかさを発揮した。戦闘では他の面々に一段も二段も遅れをとってしまうのを、彼は誰より気に病んでいる。だから、こういう自罰的な快活さを撒き散らしてしまうのをやめられない。 
 

 現地迷彩用に着込んでいたシャツをめくりあげると、血と汗の匂いがいよいよ濃厚に噴き上げた。鍛錬の怠りをいっさい感じさせない、均整のとれた肉体があらわになる。だがそこには、あくまで生身にしては、の但し書きがいつもついてまわった。むしろその優等生的丹誠によって育まれた四肢は、彼の実直な人柄とすこやかな出自とをかえって頑強にうったえているようにも見え、こういう秩序の通じない場所からは遠い存在であるかのように思わせた。  
 
 ナイフを握った右手がいやに汗ばみはじめている。幾度となく遭遇してきたシチュエーションを前に、しかしサイトーは未だためらいの中にある自分を発見した。他人のみならず、おのれのわき腹に撃ち込まれた弾丸の摘出さえおこなったことがあるというのに。常なら迷いなく遂行できる一連の処置が、今ばかりはひどく入り組んで煩瑣な手続きのように思われた。自分とさほど年は違わず、妻と子供を持ち、公安九課の一員であるいっぱしの男の肌に刃物をねじこむのに、躊躇してしまっている。 
 トグサの唇から短いうめきがこぼれおちた。それが単なるうめきではなく、彼の愛娘の名前を呼ぶものであると気がつくのには、数秒を要した。これが、ふだんは足の爪先にまで深沈をゆきわたらせているサイトーの神経を、思わぬ強大さで突き動かした。

 トグサの腰に手を回して、抱き寄せる。義体の人間からは決して感じえないくぐもった熱のわだかまりがサイトーの両腕の中を満たした。ひといきに流れ込んでくる、まるで手に負えないような生の肉体の感触が、彼の五感のすべてにトグサという男の存在を囁きかけてくる。この男は生きているのだ。痛覚遮断のできない生身の肉体で、激痛に耐えながら、それでも生きようとあがいている。
 サイトーは、みずからの左肩を顎でしめしてみせた。
 「噛んでろ」
 腕の中のトグサが逡巡に身じろぐ気配を感じたが、やがて、彼はおずおずとサイトーの肩にかさついた唇を寄せた。
 「行くぞ、耐えろよ」
 
 ナイフの刃先を刺し込んだ。刹那、すさまじい激痛が疾駆して、サイトーは一瞬、トグサの痛覚がみずからのそれと結い付けられたような錯覚におちいる。傷口を抉られる痛みに悶えたトグサが、絶叫の代わりにサイトーの肩に歯を立てたのだと理解したのは数瞬ののちだった。
 顔をゆがめ、唇を噛みしめながらも、サイトーの手先は寸分と違わない。太い血管を避けて的確にトグサの肉を裂いていく。
 
 「あ、あ、っぐ……!!」
 左腕を生あたたかい感触がそぞろに這う。突き立てられたトグサの歯が筋肉の盛り上がった右肩の皮膚をやぶって、血をにじませているのである。狼に食らわれる瞬間の羊はこんな感覚なのかもしれない。そしてこの数倍もの疼痛が、いまトグサの肉体をしじゅうかけめぐっている。むきだしにされた神経の隅から隅にまで煮え湯を浴びせかけるような絶え間なき痛苦を、サイトーは己の肩で疼く生の傷の脈打ちに重ね合わせる。この場合、食っているのはいったいどちらなのだろう。
 
 「ん、む、んっ、ぅう……!!」
 「あと少しだ……!」
 
 屈強な全身サイボーグや軍属あがりの男たちに周りを囲まれたトグサが、己の身体にいささかの引け目を持つのは自然なことと思われた。みなと混じってバトルスーツに着替えるときも、必要以上に他の連中の目を気にしてこそこそと服を脱いでいたのを、サイトーは知っている。そんな彼が時折、自分に羨望と嫉妬の入り混じったまなざしを向けてくるのにも、彼はそう時を置かずして気がついた。
 サイトーはトグサに次いで義体化率が低かったが、それが逆に、トグサの心をさざめかせる要因になったのだろう。同じ生身でありながら、彼らの肉体は如実にその対照的な経歴を物語った。数多の戦場をかいくぐり、戦うことに最適化されたサイトーの身体と、マニュアル通りの鍛錬を実直に繰り返して養われたトグサの身体では、実戦のときのしなやかさがまるで違った。サイトーは瞬間的な判断に身体を付随させることが当たり前のように出来たが、トグサはそれがなかなか出来なかった。致命的だった。     
 だが、己の貧相な釣り書きが克明にあらわれた身体より、サイトーとみずからを比したとき、わずかでもそこに嫉妬を見出してしまう自分を、なによりトグサは恥じているらしかった。だから、彼はどこかサイトーに対して遠慮がちなところがある。バトーと相対しているときのようないきいきとした感情の発露が、サイトーを前にすると途端になりをひそめてしまった。けれどそのよそよそしさがよけい、サイトーを苛立たせていることに、トグサはまるで気づいていなかった。ひたすらに、サイトーはトグサの力不足に対して腹を立てているのだとばかり思いこんでいた。
 トグサは懸命にサイトーの肩に食らいついて、ほとんど肉を噛みちぎらん勢いだった。自分の与える痛みに、トグサは相応の痛みで返してくれる。いまになってやっと、彼と同じ場所で落ちあえた気さえした。 
 
 「サ、イトーぉっ……! っぐ……あ……!」
 振りみだされたトグサの髪が頬をたえず打ち、肉付きのよい太腿がきつくサイトーの腰を締めあげた。かつてないほど、サイトーはトグサから求められていた。トグサがその良識でもって必死におさえこんできた自分の肉体への欲望が、ここにきて溢れだしている。己の肉体のみが、その温度と感触とが、渇望されている。サイトーはますます陶然たる心持ちになった。傭兵の時分、安宿の粗末な寝台でゆきずりの女とはげしく交わった記憶を呼び起こされる。いつもより戦果をあげられたこともあって、若いサイトーはひどく昂ぶっていた。夜が明け、日が高くのぼっても、彼女をはなさなかった。

 (――犯してるみてえだな)
 
 一度去来した情交のイメージはたやすく振りきれそうにもなく、痛みと緊張とで程よく煮えた脳内では、トグサを好き放題に犯す想像が幾度もひらめき、火花のように一瞬、その鮮明な情景をまなかいに散らしていった。
 サイトーはつとめて冷静な声音でたずねる。
 
 「……一旦、休むか? それとも、早くすませちまったほうがいいか」
 「はじめての、セックスじゃ、ないんだからさ……そんな気遣い、いいよ……早く、やっちゃって……!」
 およそ彼らしくもない下劣なジョークであった。所帯持ちの男に特有の、あの自意識過剰ぎみな潔癖さをトグサはつねに持ち歩いていたが、気の遠くなるような激痛の中で薄らいでいるのだろう。他の面々ならそれを察してあわれみさえ抱いたかもしれない。だが、トグサからはじめてもたらされる遠慮のない痛みに浮かされているサイトーはといえば、この一言でほとんどとどめをさされたようなものだった。さきほどから硬く反り返った陰茎が、ジーンズの股ぐらを窮屈に押し上げているのにはとうに気づいている。弾を摘出し終えると同時に、射精してしまうかもしれない危惧にすらかられていた。

 彼と痛みを共有できるのは今や自分だけだった。生真面目で、善良で、明朗なこの男が裡に抱えていた烈しさ、その芽生えが、やっと兆しかけているのだ。逃したくない、と思う。トグサが懸命に押し隠してきた激情を誰よりも先に摘み取るのは、自分でありたい。
 
 トグサが意識を飛ばさないように、サイトーは彼の耳元、ふだんは伸びた髪に隠れて見えないほのぐらく蔭った場所へ囁きかける。
 「トグサ、平気か? 痛いだろ?」
 「わかり、きったこと、訊かないでくれよな……は--あっ!」
 「じゃあ、俺が心和むジョークでも言ってやるか」
 「なんでもいいからっ、早く……! さっきから妻と子供の顔が頭を駆けめぐりっぱなしで……!」
 「唐突だが、お前、ここが性感帯じゃないか?」
 「ひ、あっ……!? な、に言って……う、あっ、あ、ああああああっ!」
 ナイフをひときわ深く刺しこみ、傷口を搾るようにして一気に弾丸を掻き出す。仰向けられたトグサの喉から絶叫がほとばしり、その肉体の脈動、微細な震えに至るまでのいっさいがおのれの肌に染みわたっていくのをサイトーは感じた。 
 「…………痛いな」
 
  

  
 止血を主とした応急手当をすませてしまうと、さっそくサイトーはトグサの髪に鼻先をうずめた。汗で鼻腔が蒸すようなそこを、夢中でかきまわしながら、腕の中の彼に語りかける。 
  「頑張ったな」
 トグサは答えず、ただぐったりとサイトーに身をあずけていた。
 「次はもっと優しくする」
 「……ねえよ、次なんか」
 ひどくぶっきらぼうな口調はやはりはじめて聞くたぐいのもので、いいようのない充足感が、彼の質朴な背中を撫でるにあわせてわき上がってくる。態度とは裏腹に、トグサの手は野に住む動物のような素直さで、サイトーの、まったく汗ばんでいない左手にしずかに重ねられていた。 
 「あるかもしれないぜ」
 「誓って、ない」
 「賭けるか?」
 トグサは黙り込んだ。けだるげに顔をあげる。汗でびっしょりと濡れた頬にかかった幾筋もの髪はいかにもわずらわしげだったが、彼はそれを振り払おうともせず、ただサイトーの瞳を覗き込んで、もの言いたげだった。唇と、わずかに開いたそこからのぞく、思ったよりも小粒の歯は、サイトーの血で鮮やかにぬれていた。
 
  

 結論から言ってしまえば、二度目はあった。だが、一度目よりも平和的な状況で、かつ一滴の血も流さないまま行われた。弾丸もナイフも要さなかった。
 だがすべてが終わったあとになって、トグサがシーツに潜り込んだきり顔を出さなくなったのには困り果ててしまった。彼をなだめすかして、一度目と同じように髪を撫で、それからあの時はできなかったキスまでこぎつけるために、サイトーはこの上なく幸福な苦心を強いられることになった。

(了)