かの刹那の娘

     
 

 自宅のドアの向こうに、もう半月も前に捜索願いを出されたはずの少女が立っていた。
 ナカテガワは長い夢から覚めたような、手首をやおらに力強く掴まれて、ひとおもいに現実へ引き戻されたような心地がした。むしろ夢が現実のような明瞭さでもって彼を引き込んだというほうが、適切な表現かもしれない。なにしろ彼女をひとめ見た瞬間、帰宅して今まで自分がこの方何をしていたか、すっかり思いだせなくなってしまったから。
 マンション高層階の廊下に吹き付ける夜風の冷涼さが、月明かりのささやかさが、たしかな実感を伴って彼の五感を澄みわたらせる。ぼうぜんと立ち尽くしている彼を見て、目の前の少女ははにかみがちに笑った。

 「来ちゃった」
 
 長く伸びた髪の輪郭が、蒼白くおぼろな燐光をはなっているかと見えた。みずみずしい肌は、しかしいたずらにその白さをひけらかさず、蛍光灯の下でいじらしくも控えめなかがやきをこころがけている。
 「はー、すっかり寒くなってきたね。ここに来るまでにものすごく身体、冷えちゃって。ねえ、あげてくれる?」
 断る理由などあるはずもなかった。目下行方不明中とされているその少女を、ナカテガワは迷いもためらいもなく家へと迎え入れたのだった。



 

 よそよそしいほどに白いワイシャツにスラックスといういつもの部屋着に着替えて寝室から出てくると、シャワーをすませた少女がカウチソファに寝そべってテレビを見ていた。そこに彼を待っていたというようなけなげな風情はまったくない。ただただ無邪気に、居心地のいい空間をありのまま享受している。そういう素直さはナカテガワが大昔に手放してしまったもので、羨ましいとは思わずとも、好ましいまぶしさには違いなかった。
 何の気なしに身体を横たえている少女の姿には、どのような警戒心も伺えない。いままでに何人も、彼女のような少女たちをこの家に迎え入れているが、こうまでのびやかに、それこそ我が家のごとくくつろいでいる娘は彼女ぐらいだ。 どんなに放埒に見える少女でも、部屋に通されてしばらくは、いま自分は男の家にいるのだという一抹の緊張感をその横顔に宿している。

 おまけに今の彼女の格好はここへ来るときに着ていた白いワンピースではなく、ナカテガワから拝借したワイシャツを一枚きりというありさまだった。子鹿のようにすんなりと育った肢体を、あきらかに大きすぎる男もののシャツが包んでいる。大きいといっても所詮はワイシャツ一枚、太ももはほとんどむきだしで、その気になればかなりきわどいところまで覗き込むことができる。もちろん、ナカテガワは己の高潔に誓って、そのようなまねはしない。洗いざらしのまま放置されている髪がゆるやかに波打つ髪を凝視して、そのつややかさにあらためて感嘆するぐらいだ。

 不思議な子だ、とナカテガワは今更ながらに思う。だが真に奇妙なのは他の誰でもなく自分自身であるというのも、彼はしっかりと自覚していた。捜査官として、彼女に訊くべきことは山とあるはずだ。さしあたり、行方をくらませてからこの方どこにいたのかについて。だが、目の前で無防備にその身体を晒している少女を見ていると、その謎を追求する気はどんどん失せていってしまう。 
 ナカテガワの熱心な視線に気付くようすもなく、少女は彼の書斎から勝手に持ち出してきたらしいクッションにやわらかそうな顎をうずめ、漫然とテレビをながめている。ときおりぷらぷらと宙を泳ぐ脚が、葉からこぼれおちる寸前の白露を思わせて、あやうい。

 (ああ、女だ。女のからだつきだ)

 彼はしばらく恍惚としたまなざしでこの光景に見入っていた。しかしとつぜん、罪悪感のうしおが突き上げてくるのをおぼえ、いつにない父親じみた声で少女に呼びかける。
 「ほら、風邪をひくし、髪も痛んでしまうよ。髪、早くかわかさないと」 
 「めんどくさーい。ナカちゃん、かわかしてよ」 
 「子供みたいなことを言いますね」
 「ナカちゃんからすれば、子供でしょ?」
 「いいや、ただの子供じゃない、未来ある、美しく輝かしい子供だよ」  
 「じゃあその未来ある美しく輝かしい子供からお願い。髪、かわかして。そういう気分なの」
 「了解しました。そのかわり――」
 ナカテガワは床の上においてある、ミネラルウォーターのペットボトルを持ち上げて、
 「少しもらっても?」
 「どーぞ……っていうかそれ、ナカちゃんの冷蔵庫から持ってきたやつだし」
 「まあ、知ってましたがね」
 ペットボトルは少女によってもう封が開いていて、もう半分ほど水が減っていたが、ナカテガワは気にせずその中身をあおった。きんと冷えた水を一気に嚥下してしまうと、温めたばかりの身体を冷やしかねないので、なるべくゆっくりと流し込んでゆく。 
 少女の視線を感じた。クッションを抱きしめたまま、上目遣いにナカテガワの喉が上下するのを見つめている。媚びというよりも、小動物の動きを見守るほほえましさに近いまなざしであった。
 「やぁだ、間接ちゅーだ」
 少女特有の、甘やかに間延びした発音が耳朶をくすぐって、知らず、彼は頬をゆるめた。 
 「そうだ、あとねあとね、ドライヤー終わったらなんかおやつほしい。舌とろけるくらい甘いやつ」
 「飲み物は? いつものあたたかい紅茶でいいかな」
 「うん。あんな高そうな紅茶、ナカちゃんちでしか飲めないもん。あれ飲んじゃうと、そのへんのファミレスの紅茶なんか飲めなくなっちゃうよね。ホンモノの味ってのを知っちゃうと」
 「それは重畳。若いうちからよいものに触れておくのは大切だからね」
 「あっ、でもミルクたっぷりじゃなきゃやだよ」
 「ええ、それはもちろん……」
 次々に上乗せされる要求にも、ナカテガワはいちいち丁重な返答で応じた。いささか前時代的にすぎるフェミニズムに深い信仰を捧げているこの男は、年頃の少女たちを前にすると、なおのこと万事を仰々しい紳士のふるまいで取り仕切りたがるのが常であったからだ。少女のほうも、手間ばかりかかるわがままのほうがここではむしろ歓迎されるのを、じゅうぶんに心得ているらしい。

 少女を膝のあいだに座らせ、ナカテガワは彼女の髪をバスタオルで丹念に拭いてやった。自分とはまるで違う、ふよふよとした若い肉の感触が腹やふともものあたりをかすめるたび、彼は涼やかな切れ長の目をさらに細める。
 「ところで」
 「ん?」
 「どうして私の家に来たのかな?」
 あいかわらず気はすすまなかったが、それでも何も訪ねないでいるのというのも、組織人としての生き方が多少ならず染み着いてしまった身には難しかった。  
 彼個人としての意見を述べるならば、仕事に私情を持ちこむのも嫌いだし、プライベートに仕事の話というのも、いかにも無粋で耐えがたい。少女たちと時間を過ごしている時はとくにだ。だからナカテガワは考えぬいたすえ、最低限の問いで公の自分も私の自分も納得させることにしたのだった。
 「あ、ゴメン。ひょっとして迷惑だった?」
 「まさか。君みたいな魅力的な女の子ならいつだって歓迎するよ」
 「ははあー。そういうの、ほかの子にも言ってるんでしょー」
 ひととおり髪の水気を取ったのち、今度はブラシに取りかかる。途中で絡まったり、もつれたりないように細心の注意をはらって、少女の髪をブラシで梳いていく。女の髪というのは神聖なものだ。それに触れるとあらば。とにかく厳粛にすべてをとりおこなわねばならない。ドライヤーのコンセントを差しこみスイッチをいれ、彼女の髪が熱で傷まないよう適度に距離を置いて風を当てる。

 「……って、思って」
 「なに?」
 
 ふいに少女がなにかしゃべったようだが、ドライヤーの音にかき消されてしまいよく聞こえない。ナカテガワは少女の髪のひとふさを手にとったまま、その頬のあたりまで耳を近づけた。途端に湿り気を帯びた彼女の髪のにおいが鼻腔を満たす。彼は少女に気取られぬ程度に深く鼻で息を吸い、その芳醇な空気をめいっぱいに肺へ取り込むのにつとめた。
 「会いたいかな、って思って」
 「会いたい? それは誰が、誰に? 君の言い方では、私が君に会いたがっていると思ったのか、君が私に会いたかったのか、わからないね」
 「ふふふ、じゃあ考えてみたらいいよ。ナカちゃんわたしよりずーっと、頭イイでしょ」
 「頭の善し悪しは関係ないと思うけど……。ふむ、難解な問題ですね」
 「考えたまえ、考えたまえ。でも時間は三十秒、はい、二十九、二十八……」
 「頼むよ、なにかヒントでも」
 「だーめ」
 「いいじゃないか、ほら、少しだけ」
 「もー、だめ、だめったらだめだよ」

 じゃれあいながら、ナカテガワはさきほどの問いが少女によってうまくはぐらかされたことにとりあえず安堵した。故意か偶然かは、この際どうでもよかった。
 一安心してしまうと、今度は先ほどまではとくに意識していなかった、目の覚めるように真っ白な少女のうなじに視線が吸い寄せられる。細かなうぶ毛が水滴によって灰色に滲んでいるのを見ていると、唇がいいようのない渇きと焦燥とにかられた。彼はすみやかにテレビのほうへ目線を移した。  
だがこれも失敗だった。ちょうど、テレビ番組はそらぞらしいバラエティ番組から、十時のニュース番組に切り替わったところだったのだが、神妙な顔つきで一礼するニュースキャスターを見て、ナカテガワはたちまち不穏な気配を察知した。こういう予感のたいていがそうであるように、数秒後、彼はうれしくもない予想の的中に辟易とした。ニュースは先日自宅マンションの屋上から飛び降り自殺を図った悲劇のアイドル・バイアンサヤカの特集をやりはじめた。
 デビューしたばかりのバイアンがキャンペーンガールをつとめたイベント、新人としては異例と言うべき24区ホールでのファーストライブ、最近主演をつとめたドラマでのワンシーン。彼女を記録した映像の断片が次々と画面に映し出される。音声は例によってドライヤーの音で聞き取れず、テロップもない。時と場所を変え、バイアンという一人の少女をさまざまなアングルから映しただけの、ともすれば一種の学術映像にも通ずる風情である。その華やかで空疎で、  淡々とした光の明滅の連なりが、妙にバイアンにふさわしいような気がした。
スタジオに映像が切り替わる前に、ナカテガワはリモコンを手にとってテレビを消した。少女はなにも言わなかった。




 紅茶のリーフは少女が一番気に入っていた最高級のもの、ガトーショコラにはバニラアイスを添えた。あーあ、太っちゃう、ととろけるようにつぶやく少女の声と顔を思い描きながら、リビングに戻る。 
彼女は今度はテレビではなく、一冊の雑誌に夢中になっていた。いたずらに扇情的な見出しとけばけばしい色彩の表紙に、作り手の趣味の悪さがいかんなく表れている。一見して低俗な種類のものとわかるその冊子を少女が手にしているのに、ナカテガワはテーブルに皿を置きながら、露骨に眉をひそめた。

 「ほら、そんな雑誌しまいなさい。君が読むようなものではないでしょう?」
 「ナカちゃんもこういうゴシップ誌とか読むんだね」
 少女の声音にはいささかのからかいの色もなく、純粋な好奇心のみがあらわれている。面とむかってひやかされるよりもなんだか余計にいたたまれない。近くのマガジンラックに雑誌を入れっぱなしにしていたことを彼はひどく後悔した。あまりにいまいましい代物だからなるべく意識しないよう、無造作に扱っていたのが裏目に出でしまったのだ。
 「たしかにそれは私の私物だが……仕事で必要になったから買っただけで、いつもそんな下品な雑誌を読んでるわけじゃない。捜査資料の一環というところだよ」
 「あ、それってもしかしてバイアンサヤカの?」
 ほら、と彼女が広げて指し示したページから、ナカテガワはさっと目をそらした。少女の前であるからと嫌悪の色を面に出すことはどうにか抑えたが、鼓動の激しく脈打ちはじめるのを無視することはできなかった。
 どの週刊誌や芸能誌よりも早くバイアンサヤカの自殺をとりあげたこの雑誌は、ふだんはありふれたゴシップ誌として書棚の隅のほうへ追いやられている、その程度のものだった。しかし今や書店では売り切れ続出、出版社は笑いが止まらないだろう。文字通り、彼女の死でもって大儲けをしている一派というわけだ。
 「プライベートをファンに盗撮されて、それをネットでライブ中継までされて……そのショックで自殺しちゃったんでしょ? でも、これ見るとなんかほかにも理由があるのかな。なんだかいろいろ書いてあるけど。彼氏にこっぴどく捨てられちゃったとか、変な接待させられそうだったとか」
 ナカテガワにとってあの記事を読み進めるという行為は、ひとことで言えば拷問であった。まず最初の一ページでな強烈なめまいに見舞われた。一言一句、どこを拾い上げてもひとしく憤怒と苦痛とがせりあがってくる。読んでいるあいだ、何度、両側から雑誌を思い切り引き裂いてゴミ箱へ投げ入れたくなる衝動を抑えねばならなかったか。
 存在していたかどうかさえ曖昧な交際相手との不和、はたまた所属事務所との確執、親類との金銭トラブル。そのようなものが積み重なったあげくに彼女はファンからも裏切られ、絶望のすえに自宅マンションの屋上から身を投げた――だいたい、このようなことが延々と書き連ねてある。あちこちで使い古されたような物語と、あまりにも記号的な真実とを、それでも人々は飽きもせず消費するのだといういい例だ。 
 バイアンサヤカに付随するものはすべて、真偽を問わず手当たり次第に白日のもとへ引きずり出され、今この瞬間も全世界に向けつまびらかにされつつあった。人々のあいだでは憶測ばかりがにわかに燃え上がっていくだろう。一度火のついた欲求には際限がない。それに油を注ぐ、あのあさましい記事のかずかずが頭をよぎり、ナカテガワは筋肉をこわばらせた。まだ興味深そうに誌面へ目線を落としている少女に、彼は絞り出すようにして告げる。

 「……しまいなさい」
 「ナカちゃん? どうしたの?」
 「しまってくれ」
 「ねえ――」
 「そんなものはしまってくれ! 頼むから!」

 一瞬ののち、ナカテガワはみずからの犯した所業の重大さをさとった。喉からなかば悲鳴じみた言葉をほとばしらせた次の瞬間、黒く大きな目を見はった彼女と視線がかちあった。そこにかすかなおびえの色がはっきりと見てとれたのである。たちまち、臓腑を芯から凍てつかせる氷の塊が胃と胸の底とにどっと流れ込んできて、比喩でなく息が止まった。
 ナカテガワにとって女性相手に声を荒げるような男が見下げ果てた最低の人種などということは、夜が明けたら朝がくるのと同じくらいに明快な真理であり、疑う余地もない。だからこそ、少女の前ではいつも誠実な王子様であろうという自身の理想に対しては、彼は堅固に忠誠を貫いてきたつもりだった。そうやってひたむきに仕えてきたと思っていた大義を、しかしこうもたやすく裏切った己に彼は幻滅した。打ちひしがれた。
夢遊病患者のごときおぼつかない足取りで、ナカテガワは窓辺のほうまで歩いていく。カーテンが開いたままになっている窓に額を寄せ、ガラスに爪を立てた。そのまま視線だけを上向けると、幽鬼のごとき形相の男がこちらを恨みがましく見つめていた。  
   
 「バイアンサヤカは、死んだ」
 「うん、知ってるよ」
 「細胞のひとかけらまで消費されて、消えたんだ」
 「……そうだね」
 「それなのに、あの連中と来たらどうだ? そうだ、あの連中だ。あの反吐が出るような屍肉漁りども! 生前だけではあきたらず、死んでもなお彼女を讀する。事実を歪め、真実とかいう安っぽい養殖物に加工するために彼女を泥靴で踏みつけ、汚す。たしかにアイドルという職はプライベートをも切り売りする覚悟でなければろくに成り立たない商売だ。宿命だろう。だがバイアンは生のみならず、その死さえも餌にされいる。彼女を死に至らしめたのは、今まで彼女の生を食い物にしてきたやつらだ。 
 バイアンサヤカは完璧なアイドルだった。あんな逸材はそうは出てこない。しかし……彼女は少女でもあったんだ。どこにもいないアイドルで、どこにでもいる、まったく普通の少女だった!」

 ナカテガワは憑かれたような、むやみに野鳥が羽をばたつかせるような調子で、よどみなく言葉を吐き出し続けた。窓ガラスに遠慮なく打ちつけた拳が鈍く痛む。  
 彼女は、いや彼女のような少女たちは、人々の情動を揺り動かすための供物だ。人々が――たとえば自分のような男が、少女といういきものに清らかさを求める限りは、ずっと。
 火刑に処されたフランスの英雄ジャンヌ・ダルク、あるいは中世ヨーロッパの魔女裁判において咎なくも断罪されていった娘たちの非業の物語が、いまなお多くの人間の涙をさそい、カタルシスに訴えかけるのを見れば明らかだろう。彼女たち自身は無力であればあるほどいい。さらに無垢であるなら言うことなしだ。そのほうが、背負った十字架に押し潰されるときの無残さはより増し、よりむごたらしく見る者の心に迫る。
 人々の胃袋が好むような悲劇と宿業とを山と背負わされたまま、少女たちは円環の中で踏み荒らされ、食い散らかされ、蕩尽される。
  
 決して安くない家賃のかわりに手に入れた、壮麗な都市の夜景をナカテガワは見下ろした。 
24区を覆うあの精緻な光の天蓋の下に、どれだけの少女たちが、輝くような可能性をそのもろい身体のうちに抱いて眠っているだろう。少女たちは大衆の好餌ではないのだ。彼らのやさしく独善的なエゴイズムを満たすためだけに、輝かしい陽光をぞんぶんに浴びることもなく、花開くまえに彼女らが手折られてしまうなど、許しがたい。
 
 「――すまなかった」

 意を決して、ナカテガワはふりかえった。その先にどのような軽蔑のまなざしが待っていても、毅然と受け入れるつもりだった。ところが、少女はナカテガワが予想していたのとはまったく異なる双眸で彼を迎えた。軽蔑も、ましてや同情もない。先ほどのおびえたような光も消えていた。透明な、黒い水のような潤いある瞳がこちらをしずかに見つめている。自分の半分の年月も生きていないような少女にこんなまなざしができるものかと、彼は少なからず動揺した。けれども少女のそういう瞳にじっと見すえられていると、にわかにその足首にとりすがって許しを請いたくなるような気持ちがわいてくるのだった。

 「すまなかった」
 もう一度彼は繰り返した。
 「私をおおいに軽蔑してくれ。どんな言葉でなじってくれてもいい。好きなだけ侮辱してくれていい。この顔を引っぱたいて、好きなだけ打ちのめして……君の考えるいちばん残酷な仕打ちでかまわないから」
 少女はしばらく口を閉ざしていたが、やおら無言でソファをぽんぽんと叩き、ナカテガワに自分の隣をすすめた。彼は黙ってそれに従う。 

 「……その絶頂期に人生の幕を閉じたことで、バイアンは凋落を知ることがなくなった。彼女は早すぎる死を選ぶことによって永遠のアイドル、偶像となったのだ……。ええ、そういう考えもできるでしょう。私だってそう思っていた。思っていたかった」

 その死も含めて伝説? なんと陳腐な話だろう。そんなものは結局のところ欺瞞にすぎないことをナカテガワはよく知っていた。虚構と知りつつそれにすがりつきたくなる気持ちも。
 みな、バイアンサヤカの死に、それぞれがいだく彼女への理想を投影しているだけにすぎない。彼女の神格化はそのようにして進行する。彼ら彼女らの心に流れる生への漠然とした不安に照射されて、バイアンサヤカの自殺はいっそう明澄に輝く。

 「永遠? いいや、私はそんなもの、本当はひとかけらだって信じちゃいないんだ。ただ……ただ、彼女に少しでも彼女自身の人生を生きてもらいたかった」
 ずいぶん部屋の灯りが目にしみる。数回目をしばたたかせたものの、おさまらない。まさか、と思った時にはもう遅かった。片手で目もとを覆った瞬間、図ったようなタイミングで頬を滴が伝いはじめる。
 彼女のような年端もゆかない少女たちというのは本来なら庇護すべき対象で、その前で涙を流すなど平生ならばナカテガワの気位が許さない。だが止めようがなかった。
 膝の上に少女のやわらかな手がそっとのせられる。そのやわらかさに彼はたじろいだが、やがてはっとあることに気がついて、低くかすれたこえでささやいた。
 「ああ、わかった。君は、私が君に会いたいと思っていると……そう考えて、来てくれたのだね」
 「せーかい。でも、もうとっくに時間切れだよ? ナカちゃんの負け」
 
 だからこっちに来て、と少女はワイシャツから伸びる膝の上へナカテガワをいざなった。傍らに座るのとはわけが違うので今度はさすがにためらわれたが、なにか抗いがたい重力のようなものにみちびかれて、彼はすとんと少女の膝に頭をのせた。その身体をそっと迎え入れるソファの弾力は思いのほか快い。仕事の疲れを少しでも癒そうとわざわざ海外から取り寄せた品だというのに、届いてから久しくそこで心身を休める機会がなかったのをナカテガワは今になって思い至った。
 だが何より、少女の身体の一部にじかにふれているという事実が、彼をいいしれぬ甘美で包み込んでいた。

 「……今だけでいいんだ。そばにいてもらってもいいかな」
 「いいよ」
 「私のためだけに」
 「わがまま」
 「そうだ、私はわがままだ。わがままで、どうしようもなく愚かで、無力で」
 「はいはい、そこまでだよー。ねっ、もういいんだから」
 彼はいよいよ身も世もなく泣いた。みっともないだのみっともなくないだの、もはや頭から消し飛んでいた。これまで大切に抱えていた理想像を、彼はみずからの手で滅多うちにし、ついには粉々に打ち砕いたのである。

 「……わがままでも、愚かでも、ナカちゃんはやさしいよ。ちょっと表現方法が面白いけどね」

 ナカテガワは何か言おうとしたが、声が詰まってできなかった。彼女の腿に頬をすり寄せて、次の言葉を待つ。
 「私が来ると、いつも見えないところに拳銃隠すもんね。ほんとうは寝るときだって手の届く場所に置いとかないと落ち着かないってこと、わたし知ってるよ」
 「うん」
 「あー、でもわたしの髪かわかすとき結構興奮してたよね」
 「うん」
 「鼻息、すごかった」
 「うん」
 頷くしかできない。みな本当のことだ。
くすくすと、少女の笑い声がおりてくる。
 
 「……聞かないんだ。私がどこに行ってたかも、これからどこに行こうとしてるかも」

 ナカテガワは薄く笑い返しただけだった。少女が自分の意志で道を選び、彼女にしかない人生を生きるなら、それは願ってもいないことだ。自分と、少女たちは人生のひとつところでほんのいっとき落ちあい、また別々のところにそれぞれ歩きだしていく。そんな関係が彼の夢見るところだった。少女が女になるのはあっという間だ。女たちが少女でいられるわずかな時間の中の、さらに短いひとときにふれあうだけなら、傷つくことも傷つけられることもない。醜いものを見たり、見せられたりすることもない。どこまでも甘い果実のような記憶だけが、胸の中には残るだろう。  

二度は同じ姿であらわれない海の波濤や水面のゆらぎ に似た、ひとたびの奇跡、一刹那の蒐集が、恵まれた終わりを望めないであろうこの生涯を思いかえすときに、なににもまさって自分を救ってくれる気がしていた。おそらくいちばん最初に、誰かをこの手で処分した時から。
少女がもう一度彼の名前を呼ぶのにあわせて、魔法のように瞼が落ちる。  
 
 「不思議だね、ナカちゃん。警察でばりばりお仕事して、犯罪者を片っ端から処分してるナカちゃん、わたしをお姫様扱いして、王子様みたいにふるまってるちょっときざなナカちゃん、バイアンが死んで、なにに怒ったらいいか、どこに悲しいのをやったらいいかわかんなくてどうにもならなくなってるナカちゃん。……ねえ、これがみーんな、ナカテガワモリチカっていう一個のからだに棲んでるんだよ。苦しくないの?」

 少女の言葉は問いかけというより、ひとりごとの調子だった。どちらであるにしろ、ナカテガワはもううまく受け答えができない。脳までふやけそうなぬるいまどろみが、全身に浸み入りはじめていた。  
 
 「ナカちゃん自身がいちばんふしぎだよね。それで、たぶんみんなも自分の中にそういうたくさんの自分がいるのが、不思議でしょうがないんだ。……わたしも、そうだもん。だからね、ナカちゃんのかわりにわたしがその不思議の答えを見つけてきてあげる。きっとあそこならそれが見つかるよって、あの人たち言ってたの」
 
 もうずいぶん、彼女の声が遠い。淡雪のようなぬくもりへ、ナカテガワは完全に身をあずけた。たよりないほどに細い彼女の腕が頭を優しく抱き寄せてくる。髪を撫でる指先の感触が、胸の奥底にまで打ち響いた。 
夢うつつの中で、彼は目を閉ざしたまま目撃する。バイアンサヤカが、あるいはこれまでに出会ったすべての少女たちの姿が混ざりあい、見たことのない、けれどどこかで必ず出会ったはずの、新しい少女の姿をとってあらわれるのを。月のようだ、と思った。









 なかば予想しきっていたことではあったが、ナカテガワが目覚めると少女の姿はすでになかった。
テーブルの上に几帳面にたたまれたワイシャツと、学生手帳の一枚をやぶったものとおぼしきメモが置いてある。それが、少女が残していったもののすべてだった。

 『もう、遅刻できないから』

 やわらかい筆跡で、そう記されていた。
 寝ている自分を気遣って少女が閉めていったらしい カーテンを、ナカテガワはひといきに開け放つ。とたん、傲岸な太陽の光線で満たされた室内が、彼の目をくらませた。
 秋の朝には珍しい、責め立てるように燦爛としたまばゆさが閉じたまぶたを突き抜け、ナカテガワの瞳孔を白く灼いた。けれど、それもほんのつかのまのことだった。しばらくしてから、彼はゆるやかに目を開ける。もう涙は出なかった。

(了)



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