夜をおよぐ虚数

    

 すでに心肺機能まで義体化ずみとはいえ、退院してから三日も経たぬりっぱな病みあがりの身である。その夜はいつもよりははやばやと射撃訓練を切りあげて、サイトーは仮眠室のベッドにもぐりこんだ。
 彼がアフリカに行っているあいだにまた手が入ったのか、シーツと枕が以前よりもいっそう上質なものに変えられたようだ。ここで休む課員たちが少しでも身体の休まるように、というお人よしの隊長らしい配慮によるものかもしれないが、かえって落ちつかない。手厚い歓待というのは、どこかよそよそしく感じられるものだ。しかし新調された寝具をのぞけば、だれもいない仮眠室の静けさとひややかさは悪くない。海の底の泥にでもなった気分だ。時間もなにもかも、あらゆる万象が、カラス貝と海藻のへばりついた腹を見せつつ海面を横切る舟影のように、とじたまぶたの上を通りすぎていく。

 ……さてそのような想像と感慨にふけりつつ、目を閉ざしてからどのくらい経ったか。サイトーはふとまぶたをもちあげた。なにものかの気配がきわめて近くにあるのを察知したのである。
 生身の人間にしろ幽霊にしろ、寝しなを襲われる心当たりはそれこそ山ほどあげられる。だがサイトーはベッドの上に仰臥したまま、暗闇のなかでまんじりともせずにいた。枕の下にしのばせてある32口径に手をのばすことさえもせず、指一本動かさない。彼は呼吸にのみつとめていた。さらにこちらへ近づくにつれて高まり、濃厚さを増すその気配を、五感のすべてで感じとろうとするように。
 
 なにも九課のセキュリティにあぐらをかいていたわけではない。つまるところ、その正体にサイトーは心当たりがあったのだ。
 やがて、彼の寝ているベッドがつつましやかに軋んだ。たしかな重量がかかる。
 サイトーはあお向けになったまま、怠惰な深海魚のように右目の眼球だけを動かした。下目づかいにベッドの端を見やる。義眼の連中には及ばぬにしろ、そこいらの常人よりかは数段夜目がきく。しだいに、ベッドの端にすわった人影の細部がうかびあがってきた。

 ――やっぱりか。

 サイトーは胸の裡で息をつく。おどろきからか、予想が当たったからか、自分でもいまいち理由の判然としないたぐいの嘆息である。
 襟足まであった髪を短く切りそろえ、プレスのきいたスーツによそおいを変えても、サイトーがそのシルエットを見まごうことはない。ここまで暗くはなかったけれど、かつてはベッドサイドに据えられたごく小さな灯りを唯一の光源にして、ふたり向き合ったこともある。照明が煌々と照っているもとでふれられるのを、彼はひどく恥じらったからだ。

 「よう、トグサ」
 サイトーは暗闇の中に彼の名前を放った。水底めいた静謐な空気が彼の声でわずかに震撼し、すぐに凪ぐ。
 自ら発したその言葉のかろやかさが、彼を安堵させると同時に空疎な気分にもさせた。かつてはこんな何気ない呼びかけさえ、ある種の合図として機能していたこともある。
 あれはいわば前戯の一環だったのだ。たとえば仕事が終わった去りぎわ、のんびりと共有室のソファにかけてコーヒーなど飲んでいる彼に、トグサ、とひとことささやくように口にすれば事足りた。それだけで彼はたちどころにサイトーの言わんとすることを察したし、これからおのれの身体にふりかかるさまざまの快感を想像して、羞恥にすこし太ももを擦りあわせることさえ 。そういうとき、白目に朱をのぼらせ、眉根を寄せてにらみつけてくる顔さえ、このうえなく愛らしかった。着衣のまま、時には衆目のあるときでも、彼と自分とは言葉と目線とでひそやかに睦みあうことができた。

 だが今はちがう。いっそ貧相に思われるほど、サイトーの声はたんなる呼びかけ以外のなにものをも、持ちえなくなっていた。トグサが隊長に就任してからは、すなわち彼と別れてからは、言葉は本来の意味からはみださなくなった。あるひとつの言葉やふとしたしぐさに幾重もの意味をふくませられるのは、恋人だけの特権だ。関係の解消と同時に、結びつけられた言葉と意味とはいちどきにばらばらの方向へ散って消えた。ちょうど花束をゆわえた紐を引きぬいたときの、あのあっけなさだった。
 とにかくそのようにして、ふたりの関係は終わった。 

 気配がふと揺らぐ。彼はどうやら笑ったらしい。

 「おつかれさま。どうだ、調子は。右腕のぐあいは?」
 「それなりだ。よくも悪くもねえ。おまえこそどうなんだ? こんな遅くまで仕事か」
 「はは。まあ、俺もそれなりかな。ご心配ありがとう」
 「いや……」
 
 円滑なコミュニケーションだ。英語の会話練習帳なみである。なんの含みもない、かろやかな言葉たちがなめらかにゆききしあっている、それだけだ。
 だからこそサイトーの違和感はつのるいっぽうだった。これでは状況と会話とがはなはだしく乖離してしまう。こんな会話をするために、わざわざ深夜の仮眠室に尋ねてきたなどとはとても思えない。あまつさえベッドの端に腰をおろしてすっかりくつろいでいるようなそぶりである。夜這いをかけにきたか、あるいは襲われにきたと勘違いされても文句は言えまい。しかしトグサはあまりにも平然としていて、意図がまるで読めなかった。
 昔からそうだ。トグサは素直な性分であったが、さりとて単純な男ではなかった。もと特捜の刑事である。場合に応じては刑事時代にやしなったブラフを堂々駆使するし、それをつきとおすだけの根性もすわっていた。だから、彼が本気でなにかを隠蔽しようとしているなら、その真意をおのずから語らせるのはなかなかに骨の折れる所業だ。ならば、こちらから仕掛けてみるのも手だろう。
   
 「心配もしちまうさ。いまの九課は盆と正月がいっぺんにきたどころの話じゃねえ」
 サイトーは話題を一歩踏み込んだものにした。
 「たしかに、ちょっとせわしなかったけど」
 「だろう? いっぺんに色んなもんが起こりすぎてる。俺たちがガイノイドだったら、とっくに処理落ちしててもおかしくねえぐらいだ」
 「でもものごとが動くときなんて、だいたいそんなもんだろう。そりゃ、小出しで順序良く来てくれるもんなら、こっちだって大助かりだが」
 それはいかにも正論であった。トグサの受け答えにはすこしも動じたようすがなく、やはり一筋縄ではいかないらしい。

 傀儡廻事件の急転と、付随して起きたトグサのゴーストハック騒ぎ、そして、失踪していた草薙素子のとつぜんの帰還。数えあげればひとつひとつがすさまじい質量をともなった事象である。これらが怒涛のように押し寄せてきたのは、サイトーの帰国後すぐのことだ。かつての九課のオリジナルメンバーが一堂に会するのを待ちかねていたようなタイミングだったと、イシカワがひとりぼやいていたのを思い出す。
 
 とりわけ一大事は素子の帰還であった。彼女がかつてのように九課に調和をもたらそうなどとは、もはや誰も考えていない。あらたな嵐の予感に、みないやおうもなくそそのかされていた。傀儡廻事件の膨大な残務処理にかこつけて、だれもかれも、バトーでさえ、当座はこの嵐からなるべく目をそらそうとつとめている。
 だがそれも長くは保つまい。いずれは彼女の処遇と現隊長のトグサと兼ね合いで、またひと波乱が巻きおこるだろう。避けることは許されない、変革の嵐である。その変化がもたらすさまざまの傷におびえ、ひとたび目をそむければ、組織は根元から硬直化してゆるやかに死を待つのみとなる。
 
 「まあ、平気だよ」
 しかし当のトグサはこともなげに言ってのけた。そこにサイトーは強がりの色を見出そうとつとめた。もしわずかでもそれらしきものがあれば、サイトーは目ざとくそれを拾い上げ、彼が自分に慰められたがっていると解釈したはずだ。めでたく疑問も氷解し、サイトーは彼の望むようにしてやっただろう。あのころのように。ところが、彼の声にも口調にも、虚勢なんてものはまるで見当たらなかった。透徹としたその口調は腹立たしいほど素直にまっすぐに、サイトーの胸に染みわたる。

 「あるべきものはあるべきかたちに、自然と戻ってくはずだ。九課も、少佐もさ」
 「なるほどな。あるべきものはあるべきかたちに――俺たちとおなじだ」
 サイトーは自分でも大胆だと思える言辞を弄した。もちろんトグサの真意をさぐるための挑発の意味合いをおおいに含んでいたのだが、そこにかすかによぎる未練がましいような響きが、なにより彼を驚愕させていた。
 「はは」
 しかしトグサはちいさな笑い声を洩らすだけだった。酔ってるのか、とでも言いたげだった。
 どんな否定やとがめるような言葉より、その笑いはよほど如実に、自分たちが順調にただの同僚へ戻りつつあるのをサイトーに教えた。あのとき渦巻いたさまざまな感情はトグサの中ですでに濾過され、不純ながら美しい過去の思い出になっているのだろうか。そう考えると彼はぞっとした。おかしな話だった。それがいちばんいいと思っていたのは、ほかでもないサイトーだったはずなのだ。

 二年前、別れを切り出したのはサイトーのほうからだった。
 愛する家族を偽りながら九課の職務を続ける、というひとつの不徳に、善良な彼は押し潰されかけていた。そこにサイトーがあらわれて、毒をもって毒を制する療法を持ちかけた。彼はトグサにふたつの不徳を持たせた。同僚の男と肉体関係を持ち、家族にも見せられないような獣じみた肉欲を発散させる。彼はトグサにものを考えないようにさせた。よき父でもよい夫でもよい隊員でもない、ただ欲望をぶつける肉の塊として、徹底的に彼をあつかった。  
 
 隊長就任に際し家族に九課のことを打ち明け、トグサが秘密に苦しめられることがなくなったとき、サイトーはすみやかに自分がお役御免と判断した。だから別れを告げ、トグサも了承した。別れ話などという湿っぽいお題目ではなく、あたかも病人が退院する時の晴れやかさで取り扱われるべきものだとサイトーは考えていたし、理想だとも思っていた。彼の言葉を借りるなら、あるべきものが、あるべき関係にもどっただけ。

 ――その事実を面と向かって突き付けられることが、なぜこんなにもおそろしい。

  「……俺になにか用があってきたんだろう」
 サイトーはゆっくりと上半身を起こした。こんな簡単な動作がいやに仰々しく思われた。トグサの反応が気になって仕方なかったが、彼は特になんの反応もみせず、なんの危機感も抱かれていないのかと、サイトーはどこか裏切られたような気持ちになる。

 「ああ、そうそう。サイトー、例の……シアク共和国の狙撃手と撃ちあったときのデータはまだ電脳に残ってるか? よければ共有させてもらいたい」
 「構わんが」
 「ありがとう、助かる。じゃ、さっそくたのむよ」

 トグサがこちらに背を向ける気配がする。サイトーは布団からそっと抜け出て、彼の隣に腰をおろした。犬にでもなったような気がした。
 「端子が見えねえな」
 「灯り、つけたらいいだろ」
 言うな、昔はあんなに恥ずかしがってたくせに、と言いかけたのをサイトーの自衛心がすかさず制した。よけいにむなしくなるのが目に見えている。
 トグサは身体をかるくのけぞらせて、手さぐりでベッドのヘッドボードあたりに据えられた読書灯のスイッチにふれようとする。サイトーはその手首をさっと掴んだ。

 「明るいのが怖い?」
 「……お前の顔を見たくない」
 「じゃあやめようか」
 あいかわらずトグサの反応はかんばしくない。試すような言動はことごとくかわされ、コーヒーに落とした砂糖よろしくじわじわと溶けていくだけだ。サイトーはいよいよここにいるのが果たしてほんもののトグサであるのかどうかさえをも、疑わしく思いはじめた。 

 期待していなかったわけではなかった。彼の気配を察知した時から、もしかして、という考えがずっと彼の脳裏をついてまわった。素子の帰還によりおとずれるあらゆるものを恐れて、彼は自分にすがろうとしているのではと。だがそれはあまりにも甘い筋書きだった。サイトーの考えているより彼はずっと強く、毅然と育っていた。

 トグサの肩にかるく手をかけた。己の腕の中で安らかに寝息をたてていたころと少しも変わらない温度と匂いとが、闇の中、鋭敏になった感覚にひしひしと染みわたる。
 サイトーはふと、これまで彼とすごしたかずかずの夜がいちどきにほどけていくのを感じた。少し頬にふれただけでびくりと怯えたように肩を跳ねさせた夜をおぼえている。言葉を交わす時間も惜しいほど、でたらめにめちゃくちゃに、互いの身体にふれあった夜をおぼえている。夜すがらに交わした熱が冬の朝の空気に溶けていくのが惜しく、静かに抱き合っていた夜明けをおぼえている。

 いまサイトーが触れているのは、どの夜のトグサでもない。
 トグサと繋がったあの日、サイトーの世界は決定的に変質してしまったのだ。まるで虚数だ。本来ならサイトーの手の届かぬ世界に住む人間であるけれど、ひとたび触れてしまったらーー失ったとき、目の前に広がるのはもう以前どおりの世界ではない。彼の右目はただひたすらにすなおで、からっぽな言葉と記号とがあふれた荒れ地を見るのみとなる。

 感じやすい肉体や快感に寄せられた眉根のみならず、たとえば目があったときに微笑む口もと、悔しさに打たれたときに唇を噛みしめるさま、こんなとるに足らない、ささやかな言葉としぐささえ、このうえなく愛しいと思えたのはほとんどはじめての経験だった。サイトーはいつしか自分の中にあたらしい己を見ていた。世界は、おのれの心は、これほどに豊饒で、あらゆる可能性のきざす余地があるのだと、トグサは彼に教えてしまったのだ。

 (身体の切れ目が縁の切れ目、世界の切れ目になっちまったな)
 サイトーは胸中で呟き、自嘲ぎみに笑った。
 自分たちを繋いでいた糸は千切れてしまった。離れるべきではなかった。サイトーの手の中で糸はうら寒い風情で垂れ下がり、この糸が束ねていたあまたの夜も、かわした言葉も、熱も、身体の感触も、どこかに消えていこうとしている。たぶん、あるべき場所とやらに。
 
 サイトーは目を凝らす。トグサのうなじにある端子部分が、ぼんやりとだが視認できた。生身の皮膚と有機の継ぎ目であるそこがとりわけ感じやすい箇所と、彼はよく知っている。むかしはさも用心深げに、伸ばした髪で隠していた。おのずからそこが弱点と語っているようなもので、見るたびに微笑ましかった。もちろん遠慮なく髪をかきわけ、腰がびくびく跳ねるぐらい、いじくりまわしたものだ。
 いま、彼の弱点たる場所は彼自身の手で、あまりにも無防備にさらけだされている。そこにどのような意味を見いだせばいいのだろう?
 唇を落としたいと思う。吸いついて、舌を這わせたいと思う。あらゆる理屈と口実でもって塗りかためて結んだ関係は、しかしサイトーのゴーストにふかぶかと根ざしてしまっていた。
 ――そのときサイトーはようやく、トグサのほんとうの望みに気が付いた。
 
 「なあ」
 彼はある種の確信をもって口をひらいた。
 「うん?」
 「情報の共有とやらだが」
 「うん」
 「口実なんだろ」
 
 トグサは黙っていた。それからまたごく忍びやかに笑った。

 「だったら――どうする?」
 
かのスナイパーの情報は九課にとって重要にはちがいないが、有線を用いるほどの機密事項でもないはずだ。それこそ朝を待って、書類形式なりデータ形式なりでサイトーに提出させればいい。それをわざわざ、こんな夜中に仮眠室まで出向き、あまつさえ電脳に直結する端子をむき出しにして、情報の共有を申し出る。
 考えてみれば、はなからおかしな話だった。

 (なあトグサ――。いつの間に、こんなずるいやり方ができる男になっちまったんだ?) 
 
 ……トグサは求めているのではなかった。求められたがっていた。

 サイトーの望むものをすべて見越したうえで、トグサは黙して待っている。選択肢のみを思わせぶりにひけらかして、彼を試していた。欲しいと望むならみっともなく求めてみろと、トグサは言外のうちに突きつけているのだ。

 プラグコードを引きだす。わずかな逡巡ののち、サイトーはプラグ部分にほどちかい部分をそっとくわえ、唇のまわりをとざした。どんな言葉をも封じるように。そのまま、うやうやしくトグサの首筋に顔を寄せていく。  
 
 「ん――は、あ……」
 そうして、ふたりはふたたび繋がれる。
 トグサがわずかに背を反らせた。他者の情報を、想いを、身体の奥底で受け入れる。
 肩にかかったサイトーの手がいつのまにか移動して、そろそろと脇腹のあたりを這いはじめたことにはもちろん気づいているはずだが、彼はなにも言わなかった。
 夜明けまでにはまだ時間がある。その間、彼らにはあらゆることが禁ぜられ、また、ゆるされてもいた。


 (完)