パーフェクト・ワールド

 


  一本のアコースティックギターをボーマは手にしている。ボディはマボガニー材だ。楽器店の路面に面したショーケースにならべてあった品で、夕暮れの海に似た、とろけるような飴色にひとめで惹かれたのをいまでもよく覚えている。光の位置と加減によって、微妙な濃淡を有した木目がさざ波立つ水面のようにきらめくのも気にいっていた。外観からしてロマンチックで、センチメンタリズムにあふれたこの楽器は、十何年の時を経て、ほろ苦い教訓と思い出の詰まりし外部記憶装置に変じていた。

 おしまいにこんな品物に登場されたボーマはといえば、もう笑うしかなかった。このギターが、控えめに言っても踏んだり蹴ったりな今日一日の集大成のようにさえ思われはじめたのである。


***

 なにしろ貴重な休日だ。セーフハウスの片付けなど一時間ぐらいで終わらせて、のこりは心ゆくまで惰眠をむさぼってやろうとかたく決め込んでいたボーマだったが、いざ手をつけ出すと分不相応の欲が首をもたげた。もともとひとたびものごとに凝りだすと際限がなくなりやすいたちなのだ。頭の中の片付けプランはどんどん更新されて長大化し、ここを片付けるならどうせならあそこもあっちも、ああそうだついでにそっちも片付けちまおう、となるうちに、気が付けば「片付け」はほとんど「大掃除」の様相を呈していた。

 ながらく気にしないようつとめていた電脳の時計をあらためると、すでに夜の八時をまわっている。結局ほとんど一日をついやしてしまったわけだ。
 真面目すぎるのが俺の長所であり短所だね、と胸中でごちながら、彼は最後のひと部屋の掃除に取りかかった。リビングからつづく八畳の洋間である。ニューポートアキバで買いあつめたジャンクパーツやら外部記憶装置、そのほか自分でも使用用途を定めないままに蒐集した電子部品が雑多に詰め込まれた部屋の最奥、ながらく閉ざされていた押し入れのさらに奥から、彼はくだんのアコースティックギターを発掘したのであった。

 最初はふれるだけにとどめていたはずが、ボーマの手はいつのまにかギターのネックを握っている。むきだしのマザーボードやチップの散らばる床にあぐらをかいて、つまびいてみる。ぽろ、ぽろ、と、ものがなしくもいやに澄んだ音がした。その音はボーマにしみったれた中年男の落涙を連想させる。
 最初はたわむれ程度のはずがだんだん興にのってきて、いくつかフレーズをさらってみる。自分でもおどろくほど しまいには誰もいないのをいいことに、スタンダードナンバーの「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」の弾き語りまでやらかした。「アイ・ラブ・ユー」のビブラートが我ながらいい具合にきまった。
 ――と、弦を鳴らす指がふとぎこちなくこわばるのを彼は感じた。丸めた背中に視線を察知したのである。

 ふりかえる。風呂に入っていたはずの相棒がワイシャツとスラックスというかっこうで戸口に立ち、じっとこちらを見ていた。

 「あーっ、と……。は、早いな。アレか? シャンプー切れてた? いやあ悪い悪い、俺がシャンプー使わないからつい気が回んなくって……」

 ボーマは急ごしらえの笑顔と軽口で対応したが、もちろんその程度ではパズの目線はたじろがず、まっすぐギターのほうに注がれたままだった。
 水分を含んでしなだれたセピア色の頭髪が、湿気によってちょうどボーマのかかえているギターのボディとおなじ色艶を得ていた。すんなりした首すじに毛先がまつわり、湯をくぐったパズは昼間よりもほっそりとした印象を受ける。人の容姿とは面白いもので、平時は後ろになでつけている前髪をおろしただけで、へたをすると彼は五つか六つほども若く見えるのだった。すでに見なれた姿ながら、いつも少しだけどきりとしてしまう。六年前といえばパズと出会ってもいない時分だ。ボーマの知らない過去のパズの片鱗を、ひとかたならぬ秘密主義の彼みずからが晒してくれているような心地になるのだ。

 都合のよすぎる解釈なのは重々承知だ。というより、ボーマはあえて自分にいちばん甘い想像を採用することにしている。現実の世界の自分が想像の世界の自分よりいい目を見た事例は、まずもって聞かない。現実などけっきょく想像の模倣品だ。贋作やミニチュアのたぐいだ。想像は絵の額縁みたいなもので、現実という絵画はその枠組みからはみだすことができない。そして往々にして額縁のほうが絵なんかよりずっと立体感があり、奥行きがあって、ゆたかな質感にみちている。

 だから逆説的に、ボーマはありえそうもないほど都合のよい、おおいに甘ったるい想像を己にゆるした。はじめから叶うはずのないとわかっている、荒唐無稽なおとぎ話を想定しておけば、あとからやってきたこぢんまりとした現実を落胆ではなく安堵で迎え入れることができる。妙な遠慮からつつましい、ヘタに叶いそうな理想をいだくから、ありえそうでありえない瀬戸際の話を夢想するから、のちのち落胆するのだ。ささやかな幸せあふるる結婚生活を夢見て恋人と結婚を果たした男と、人魚姫の発見を掲げて海洋に飛び出す学者と、どちらが幸福か。ボーマは自信をもって後者だと即答できる。前者はこの先ことごとく現実に裏切られる日々をすごすだろうが、後者はたとえばおぼめく朝もやの海になにか尾びれらしきものを垣間見たり、薔薇色の世にも美しいうろこなどをたまさか発見すればもうそれですんでしまう。身の丈に応じた夢を見たばっかりに現実に失望するより、荒唐無稽な夢物語にほんの一片であれ触れられたと充足感をもてるほうが幸福にちがいない。現実からもたらされたものの大きさはどちらも変わりないのである。つまりこれがボーマの身に付けた、あらゆることがままならぬ、不如意ずくめの現実と向き合うためのささやかな自衛手段なのだった。 

 「それともシャンプーの匂いが気に入らなかったと、か……ああ、違うか……違うよなあ」

 パズはまだ黙っている。ボーマはますます指先が固くなっていくのを感じる。
 実を言えばパズの来訪はまったくの予定外だった。一時間ですますつもりだった片付けが午後にまでのびてしまったころ、ボーマはパズに電通を入れた。ほんの息抜きのつもりだったのだ。愛してやまない相棒の声でもきけばまたやる気も出ようという、それはそれはいじらしい理由からだった。 
 他愛ない世間話のあいま、ボーマはふとなにげなく、部屋の片づけがいっこう終わらない、とこぼした。パズはだまってきいているだけだった。それから一時間もしないうちに、来客を知らせるチャイムが響きわたったのである。

 「来た」

 むだのきらいな彼は、玄関で呆然とするボーマをよそに手短に述べた。そのまま靴をぬいであがりこむ颯爽ぶりががさも当然、といった具合だったので、ボーマはさきほどの会話ログを掘りかえしてみた。もちろん自分は「手伝いに来てくれ」などとはひとことも口にしていなかった。それと匂わせるような発言もなかった。ただ一度、こっちはせっかくの休日が片付けで潰れちまいそうだ、と冗談めかして口にしたきりである。

 パズは掃除の人手というより、ボーマの監督役を請け負いに来たらしい。彼の一挙一動に淡々と監視の目をそそぎ、叱責し、時には教師のように理路整然とこちらを諭すことさえした。もちろんそんなことはだれも頼んでいやしない。むかし自作した端末やら古い雑誌やらが出てくるたびにいちいち作業の手を止め感慨にふけりたがるボーマに、間断なく快刀乱麻のお裁きをくだし、次から次に不用品をまとめたダンボールやゴミ袋送りにさせるパズの手際は、たしかにあざやかだった。腹立たしいほど。しかし彼がいなければおそらくいまの倍以上の時間がついやされていただろうというのもよくわかっているので、そこでまた腹が立つ。

 「お、このアーム用パーツ群ここにしまってたか。なにかに使えそ」
 「捨てろ」
 「いつかプログラム組む時に使うかもしれねえし一応こいつらはこっちで――」
 「そのいつかは来たためしがない」
 「うおー懐かしい! これ軍で昇格したときに仕立てたスーツでさ」
 「ボロ雑巾」

 頭のなかでごく小さく、しかし決定的ななにかが切れる音がした。

 「……あのよぉパズ」

 新しい不用品用ダンボールを用意していた手をとめたパズがこちらを見る。

 「せっかくの休日に俺の汚ねえセーフなんぞを尋ねていただいてそりゃあ光栄なんだが、俺がいつおまえに」
 「そろそろ腹が減ったろ」
 「んえっ?」
 「陣中見舞いを持ってきた」 

 つもりつもった不満が噴出する寸前で、パズはすかさず鞭を飴に持ちかえた。このようなことを真顔で口にしたかと思うと、パズは立ち上がってソファのほうへゆき、なにやら持参した紙袋をごそごそとまさぐったかと思うと、取り出したのはタッパーに詰められたサイボーグ用サンドイッチだった。

 「食え。たぶん、味はそんなに悪くない」

 おそろしいことにサンドイッチはパズの手製だった。ひとくちでボーマは反論の気力が失われるのを感じた。パズもそれをよく理解していたのだろう。ボーマが黙々と咀嚼するさまを、犬に餌をやった飼い主の目で見ていた。この男はボーマの勘所というやつをじつに正確に把握している。相棒からの差し入れ、好物ばかり入ったサンドイッチ、おまけに手作り。ふたりはいわば老巧な奏者と楽器との関係だった。どの弦をどの程度の力加減で押さえ、どのようにつまびけばのぞみの音が出るか、パズは熟知している。情けない、情けない、と胸中で唱えながらボーマはサンドイッチをむしゃむしゃ食べた。うまかった。腹立たしいほど。

 「どうだ?」
 「……めちゃくちゃ、美味い」
 「そうか」
 「とくにこのオムレツはさまってるやつとか」
 「好きだと思った。他には?」
 「えーそれから、こちらのハムと野菜のシンプルな味わいですとかね、いいっすね。オムレツのやつがバターの風味強いからこれがいいアクセントになりまして」
 「予想通りの反応」
 「極めつけがこのいちごジャムのサンドイッチですね……なんかもう全部最高だね……俺これ大好きだね……」
 「知ってた」
 「ですよね」
 「他に言いたいことは?」
 「……また作ってください」
 「わかった。――食い終わったら寝室片付けるぞ」
 「……うっす」

 ボーマは肩を落とした。
 片付けは大掃除になり、頼みもしないのに来た相棒にはあれこれ指図されたあげくに手作りサンドイッチで懐柔される。そしてしめくくりには、ほろ苦き青春の思い出の襲撃である。つまるところ、今日はなにもかもがうまく運んでくれなかった。

 ……パズはまだこちらを見ている。ボーマもついぞ言葉に詰まって、ギターを構えたまま、いまにも薄紙のようにはがれそうな引きつり笑いを維持するしかできない。
 とはいえこのとき、ボーマの胸中には妙な安堵があった。懐中に抱えたアコースティックギターの処遇など、審理される前からわかりきっていたからである。この明快さが心に一種のくつろぎを与えていたのだった。
 はたしてパズはとざしていた唇を開き――

 「アンコール」

 やっぱりむだの嫌いな彼らしく、簡潔に述べた。

 「……はい?」
 「アンコール」

 ご丁寧にも彼はもういちど繰り返した。ややかすれぎみのその声は、手なぐさみでつまびいた弦から偶然にさぐりあてられた、甘美な一音のようにきこえた。


 会場をリビングのソファに移した突発リサイタルで、結局ボーマはつづけざまに二曲も歌わされた。演奏のあいだじゅう、パズはひとことも口をきかなかった。ボーマの隣にかけて、彼の深くて低い、寺の鐘のような声がつむぐ甘いラブソングにおとなしく耳を傾けていた。歌っている最中はおろか、曲と曲との継ぎ目にさえ黙りきりで、ひやかしも批評もいっさいない。面と向かってなにか言われるよりもおちつかないものである。おかげで演奏の手元が何度かくるいかけた。

 「ご清聴ありがとうございました、と」

 それでもなんとか二曲を弾き終え、ボーマは胸中で己の胆力を誉めたたえながら軽く一礼した。それをしおに、やっとパズも口をひらいた。 

 「いつこんな芸当を身に付けたんだ?」
 「ほほー、気になっちゃいますー? よし、ここからはMCタイムだ。えー、話すとまあいろいろ長いんだけど」

 正規の軍用義体にリサイズした記念として、このギターを買った。当時のボーマは冗談でなしに毎日が幸福だった。思うとおりに力の加減がきかない不便や歯がゆさよりも、やっと義体にそなえられた本来の能力の恩恵を味わう機会のほうが増えてきた。以前なら考えられなかったようなことが思いがけず可能になっているのを発見する日々がつづき、毎日毎日、彼はなにかしらの達成感を得ることができた。
 ちょうど所属していた軍での訓練も、演習を主とした実戦的なものに移行しはじめていたころである。飛躍的な筋力と膂力、反射速度、その他数えきれないほどの能力の向上に、彼はあらゆる未来への可能性がいちどきにひらけていくのを感じた。当たり前に動き、当たり前に疲れる、そんなすこやかな肉体をぞんぶんに酷使できる贅沢をボーマはうんと享受し、結果それが彼をみるみるうちに強くした。同年代のだれよりも早く軍用義体の扱いに慣れたボーマは、いつしか演習上位の常連として名を連ねるようになった。周囲からの羨望と嫉妬のまなざしは快い以外のなにものでもなかった。もはや自分はなんでもできるし、どこにでも行けるし、どんなものでも手に入るとボーマは思った。そのぐらい幼かった。

 さて、義体化をほどこした人間には裁縫や楽器演奏の習得がつとに奨励されていた。精緻かつ正確な指先の運動を要するこれらの活動は、新しい身体へのスムーズな適応をめざすにおいては確かにうってつけである。だがボーマにとって義体への適応など二の次三の次だった。もっと言えばどうでもよかった。そのようなことをせずとも自分が人並み以上に義体に慣れていることは演習の成績が証明していたし、彼にはべつの、純粋で崇高な情熱があったのだ。
 基地のちかくに、軍で配給される無味乾燥たるサイボーグ食に飽いた軍人たちを相手にしたダイナーがあった。ボーマと同じ年頃の娘がウェイトレスとして働いていて、彼女がめあての客もそれなりに多かったと記憶している。彼女によって配膳されると、安酒も料理も至上のごちそうに見えたものだ。はじめのうちはただ会えるだけで満足だったのだが、向上心の強く夢見がちのボーマののぞみは次第に膨れ上がった。どうしても営業時間外に、それも本心からの彼女の笑顔が見たくなってきた。注文の品名を復唱するときより数段甘い声で、自分の名前を呼んでほしいと願うようになった。そこでギターだった。

 「単純な発想だな」

 パズの唇がわずかに苦笑のかたちをつくる。

 「ガキのころってのはそんなもんだろ……とかなんとか言って、パズだって覚えあるんじゃねえの? 好きな子のためにギターやらなにやらに手ぇ出しちゃったのが」
 「女を口説くのにそこまで手間のかかったことがない」
 「ああハイハイそうですかそうですか、それはようございまして」
 
 彼女が以前同僚のウェイトレスと、楽器のできる男の人っていいよね、と雑談しているのをボーマは耳ざとく聞いていた。屈強な義体の身分でありながら楽器の演奏などできたら自分は他のライバルたちより一歩抜きんでた存在になれるだろうという確信が、彼を楽器屋に走らせた。

 あたりまえだが楽器の演奏に要される義体制御と軍での訓練で要求されるそれとではまるきりわけが違う。あてがわれた部屋で彼は新品のギターをさっそくかきならし、まだ錆びてもいない銅製の弦を二、三本、やすやすと弾け切ってしまった。一瞬なにが起こったのかわからなかった。「力加減」をまちがえたのだと気付いた瞬間、ボーマが抱いていた無邪気な全能感もまた、そこでぷっつりと切れてしまったのである。一本の木から作られたその楽器は、サイボーグ用にあつらえられた銃器とは耐性からしてちがう。ドレミの音階もろくに出せないうちから弦を張り替えるみじめさといったらなかった。今考えればネックをぽっきり折ってしまったり本体に大穴を開けたりしなかっただけよくやったと思うが、当時の自分は義体を上手く扱える、という優越感を根元からへし折られてそれはそれは落ち込んだものだ。あのときはまだ泣ける目だったので、涙さえ浮きそうになったものだ。  教本のいちばんはじめに載っていた「きらきら星」をまともに弾けるようになるまで何回弦を張り替えたか、数えるのも面倒である。演奏の技量よりリペア技術のほうがよほど鍛えられただろう。当時、サイボーグの演奏を想定した楽器は皆無というわけではなかったがさほど流通していなかったし、どちらにしろボーマの給金であがなえるものではなかった。

 弦の弾け切れるたび、チューニングでペグを割ってしまうたび、おのれの思い上がりを嘲笑われているような気がした。つまるところ自分は義体のあつかいになどまったく優れていなかった。ただ野放図に身体を動かすすべばかりが発達しただけで、野生の獣となんら変わりはない。他の人間より速く走れたところで、高く跳べたところで、より重い銃火器をあつかえたところで、それは単なる力の発散だ。義体を制御しているなどとはとてもよべない。にもかかわらず新しい義体をうまいこと乗りこなしたつもりになって、達成感やら全能感やら優越感やらにすっかり浸っていた自分が、新しいおもちゃにはしゃいでいた子どものように思われはじめた。彼はひとしきり羞恥と自己嫌悪にもだえた。
 自尊心の傷つきやすい少年ならここで投げだしてしまってもおかしくない。しかし生身のころの長い闘病生活がボーマにひとかたならぬ辛抱づよさを与えていたし、なにより彼は根が純粋だった。これを乗り越えればかならずや自分の努力は実を結び、彼女との仲も進展すると信じていたのだ。遅々としてはかどらぬギター習得に疲れてくると、ボーマは己の想像力を頼った。

 はじめに彼女の姿を思い出す。猫のように丸く大きな瞳、仕事の邪魔にならぬ配慮か短く切りそろえた黒い髪のつややかさがすぐ浮かんでくる。体つきは、今思い出しても早熟と言っていい部類だったと思う。いつもホールでてきぱきと立ちはたらいているために四肢は健康的に引き締まっていたが、たとえば腰まわりや尻などにはもうしっかりと女の線があらわれていて、そばを通りがかられるだけでずいぶん胸を乱されたものだ。女の子にしては少し低めの、甘くてうるさくない声も好きだった。そしてなによりあの肌の色である。たとえば手際良く料理の皿を並べるとき、卓を拭くとき、ボーマの視界の中を波のようにさしひきしていく、よく日に焼けた美しい腕。楽器屋の店主がすすめたものよりいくぶん値の張るマボガニーのギターを選んだのだって、ボディのつやめきに彼女の皮膚の色を見いだしたからだ。
 こうやって彼女の姿を仔細に思いえがいてから、ボーマはつぎに彼女が自分の演奏に聴き惚れる姿を想像する。矢継ぎ早の注文を正確に聞きわける小ぶりな彼女の耳が、今はボーマの歌声をきくためだけにひらかれている。夢見るようにまぶたをとざして、唇はこころもちほころんでさえいた。なにもそこで決定的に好きになってくれなくてもいい。ただ、いそがしい彼女の一日の中で、ほんの数秒、ボーマの顔やら声やらがひらめく瞬間があってほしいと思う。テレビに男性の歌手でも映ったら自分のことも思い出してほしい。それから徐々に、徐々に……。このような可憐な夢想にひたっているうちに、萎えていた気力ももどってくるのである。

 「いじらしいな」
 「だろ?」
 「そしてみじめったらしい」
 「うるさいよ」
 「慰めてやる、ほら」
 「うるさいっつーの」

 言いつつボーマはちゃっかり首をかたむけ、パズの掌がつるりとした頭部を撫でるにまかせた。  根気よく練習を積んだ結果、理想どおり、とまではいかずとも、なんとか人に聞かせられる音を奏でられるようになり、結果としていつの間にやら手先ばかりが器用になってしまった。おかげで前々から希望していた工作部隊への配属も決まったが、そのころには彼女はギターを弾ける青年などには――その時期にはもう少年は青年とよべる年頃になっていた――興味をしめさなくなっていた。努力は実を結んだが、結果には直結しなかった。まったくの仇花だった。失恋などというありふれた挫折は、今までボーマがすなおに信じてきた、努力と結果が手に手を取り合っている世界の崩壊、すなわち一大事だったのだ。

 「……と、まあこんな悲しい遍歴を経たギターなわけさ。俺にとっては人生の教訓を教えてくれた大先生とも言うね」
 「人生の教訓?」
 「『世の中はままならない』」

 夢見たのはかたわらに可愛いあの子をすわらせ、彼女の陶然とした視線を皮膚に感じつつ歌う光景だ。だが違う。彼女はもうボーマの人生を通り過ぎて行ってしまった。隣にいるのは彼女でないどころか、女ですらない。  パズが何か言いかけるのをはばむように、ボーマはじゃらり、と四弦をひとさらいして、ギターを構えなおした。おおいに誇張した哀愁の表情をうかべ、

 「では本日最後の一曲、どうぞ」

 ラストナンバーに選んだのは四半世紀以上も前にはやったラブソングだ。これがまたいかにも、パズが眉をひそめそうな歌なのだ。「恋のラビリンス」だの、「運命のいたずら」だとか そういうフレーズがチョコレートパフェの上の生クリームみたいにたっぷり盛り付けられている。ささやかな腹いせだった。
 このいやがらせは覿面で、パズは曲のあいだじゅう胸やけを起こしたみたいな顔を貼りつけていた。やりくちの幼稚なことは重々承知しながら、ボーマはようやく一矢むくいた心地である。そしてそんなせせこましい手で得た勝利の快感など、ほんの一瞬だった。もちろんたちまちのうちに彼はしかるべき報復を受けた。

 「腹いっぱいって顔してますねえ。そいじゃ、このあたりでおひらきということで」
 「待て。まだ肝心の曲をきいてない」
 「おっ、そこに目をつけるとはさすがパズだ。歌っちゃう? 俺の真髄アニソン歌っちゃう? 2010年代にはやったキャピキャピのアイドルアニメソングを超シックに歌えるの、新浜中さがしてもたぶん俺だけだと思うぜ」
 「違う。ごまかすな」
 「それじゃ行くぜー、お聴きください、『恋のフリースポットは大混雑~モダンジャズアレンジ~』ンンッ、ンンッ」
 「歌うな」
 「すんません」
 「俺がききたいのはそれじゃない。……ふん、白々しい。どうせあるんだろう? 自作の曲が」

 こういう場合、沈黙するのは肯定とおなじとよく知っていながら、ボーマはつい黙ってしまった。

 「俺の調査によるとギターを弾く男の98パーセントは自分で作詞作曲した死ぬほど恥ずかしい曲を持ってる」
 「俺が残りの2パーセントじゃないっていう根拠は?」

 ボーマは自分でもほとほと見苦しいと思われるような悪あがきをした。もちろんそんなものなんの抵抗にもならない。パズはちょうど彼がナイフをあつかう時のように、明快かつ簡潔にそれを斬り伏せた。

 「俺がおまえの相棒だからだ」
 「そうでしょうとも――。へいへい、ありますよ。自作のラブソング。とっときのがさ」

 捨て鉢の笑みを浮かべてボーマは頷いた。あたりまえだが彼女に捧げるための歌などそれこそ何曲も作っていた。そのうちの一番出来のいい(と自分では思っていた)のを、彼女も居合わせた酒の席で満を持して披露したことがある。

 「聴きたい?」
 「ききたい」

 パズはボーマの太い五指を、弦をつまびくようにそぞろ撫でる。皮膚をたやすくすりぬけ、じかに敏感な神経をふるわされたかのごとき感覚が走る。

 「……じゃ、義体の体温あげといたほうがいいぜ。とんでもなく寒くなること、うけあいだから」

 にやりと笑ってみせた。思春期の思い出などすっかり笑い話に昇華している、というしるしのつもりだったが、広い胸の奥底ではすでに苦い記憶が疼きはじめているのをボーマははっきりと感じる。小動物の鼓動のような、ごくささやかだが実感的な痛みの拍をききながら、彼は丹念に息を吸い込んだ。

 「『しらなくても いいことだけど――』」

 ……かつて甘い想像とともに何度も何度も繰り返し奏でたメロディと詞とは、すでにボーマの記憶の中でも、時間の流れに侵されぬ場所にしまわれていたようだった。雪融けまもない小川の水のようななめらかさで指が動き、舌と喉とは一言一句たがえることなく言葉をつむいでいく。
 忘れてしまいたいと、なんども望んだ思い出だった。けれどついぞできなかった。初恋に浮かれた思い出も、その思い出にともなう痛みも、いまのボーマを、そのゴーストを構成するあまたのパーツのひとつになってしまったからだ。人間の脳にプログラムコードが干渉できる時代になっても、ゴーストというやつは記憶の取捨選択を間違えない。ボーマにとってほんとうに大切なものがなにかよく知っている。ちょうどかたわらの相棒のように。
 あのときは、クリスマスパーティーの余興という名目だった。雪なんかも降っていたし、恋がはじまるのにこれほど適した夜はないな、と考えたのを覚えている。
 もちろんボーマはこの道具立てを無駄にしなかった。加えて血のにじむ努力で積み重ねた練習も彼の気持ちに忠実に応じた。演奏も、歌も、完璧にやりとげて――報酬としてボーマはみごと、場にいた全員の爆笑を買ったのであった。

 「ひどい歌詞だ」

 そしていま、どっ、と湧くような笑い声こそないものの、曲が終わって開口一番、ボーマは十数年前と同じセリフで出迎えられたのだった。

 「さっきのよりひどい。おまえのそのナリで歌っていい歌詞じゃないぞ。北端の雪原での演習を思い出した」

 十数年前と同じようにボーマは笑った。けれどあのときよりも気分はずっと晴れやかだった。痛快ですらある。

 「的確に痛いところ突いてくるよなァ。言ったろ? とんでもなく寒いってさ」

 図体も大きく声も相応に低かったサイボーグに、どろどろに甘くてセンチメンタルな歌詞というとりあわせは、込み入ったジョークだととらえられたのである。まあ確かに野太い男の声でこれはちょっと気持ち悪いわな、と今では納得もできるが、当時はもちろんそうもいかなかった。曲が終わって遠慮ない物笑いの種になっている自分を発見し、ボーマは呆然とした。すがるような気持ちで彼女の方を見た。彼女も笑っていた。それでボーマはギターを弾くのをやめたのだ。

 「その方向性で曲を作らなきゃ、それなりにいい線行っただろうに。声は悪くないんだからよ」
 「そりゃどうも。よく言われますよォ、声『は』いいねって」
 「本気で言ってる。……ベッドの上だと若干マヌケだけどな」
 「いやいまその話いいだろ!? だいたいなあ、パズだってけっこう……」

 ギターを置いて抗議しようとする。すると、Tシャツの袖をくい、と引かれて、その動きをパズが制した。じっ、とこちらを見つめる双眸に、ボーマはすぐさまある意志を読み取った。

 「ひょっとして、またアンコール?」
 「そうだと言ったら?」
 「……ま、自作の歌まで披露しちゃったし? こうなりゃヤケっすよ? お客さんの気のすむまで歌いますけどね?」

 ボーマはコメディ映画のようにおおげさに肩をすくめて、おどけた。さきほどのようなヤケの笑顔ではなく、本心からのすがすがしい笑みを浮かべて、

 「でもまあ、ここいらでチップがほしいとこだな」

 パズの額に垂れた長いひとふさに手を伸ばし、親指と中指ですりあわせる。さり、とやわらかな砂を踏むような音がして、湯とシャンプーの匂いがかろやかにはじけた。この家でシャンプーの減るのはパズが泊まりにきたときだけで、どうせボーマ自身は洗髪の必要なぞない身だ。せっかくならばと、ボーマのいちばん好みのかおりのものが設置されている。おふざけ半分、パズにはとても似合いそうにない柑橘系の匂いのものにしてやったのだが、まったく不思議なことに、あのシトラスだかカモミールだかのさわやかな芳香も、この相棒の髪や皮膚の上から立ちのぼると妙に血のざわめくような匂いに変質してしまうのである。

 「それともあとで、まとめて払うか?」
 「……いや。今、払う」

 パズはゆっくりと身を乗り出した。くだんの、血管をくすぐられるような匂いが近づき――次の瞬間、ボーマの手から、たやすくギターがとりあげられた。

 「……えーっと、あれ? パズさん?」

 あっけにとられているボーマをよそに、パズはなめらかな動きでギターをかまえ、いくつかのフレーズをつまびく。それだけで彼の腕前がわかった。なにより、悔しいほどにサマになっている。

 「ご清聴」

 にやりと笑いかけられ、歌われたのはさきほどボーマが演奏した曲だ。歌詞もメロディもまったく同じ。あきれるぐらい万事をそつなくこなせる男だというのは、もちろんだれよりもよく知っている。一度きいただけのオリジナル曲をそっくりコピーするなどお手の物だろうが、話はただの物真似にとどまらないのである。なにしろボーマの歌うよりずっとセクシーだし、ずっと魅力的だ。あの恥ずかしい歌詞がいきいきとしている。詰め込みすぎのメロディラインが、抑えきれない感情のようでほほえましくさえ感じられる。

 パズの声には独特の質感とでもいうのか、とにかくなにか手触りめいたものがあった。声なのに手触りもなにも、とボーマは自身でもおかしく思うのだが、しかし本当にそうとしか言いようがない。低くやわらかく、厚みがあるのだが、それでいてしなやかだ。耳のあたりの、いちばん敏感なところを正絹で織られた着物の袖になぜられるような、得もいわれぬ感覚が、ボーマの複雑にもつれた心情を揉みほぐしていく。あの愛想のかけらもない、経年劣化でひびわれた能面みたいな顔からこんな豊潤な声が生まれいずるのは本当にふしぎだと思う。

 もし俺じゃなくてパズが歌ってたら、とボーマは考える。あの子も自分が望んだような反応を返してくれたに違いない。でもそんなことは考えるだけ無駄だし、そもそもパズは女の子ひとりを落とすのにギターだのなんだの、しちめんどうな手間はかけないだろう。
 世界はままならない。定期的に自信だの自負だのはへし折られていくし、努力は必ずしも望んだ未来を運んでこない。片付けは大掃除になり、頼みもしないのに来た相棒にはあれこれ指図されたあげくに手作りサンドイッチで懐柔され、ほろ苦き青春の思い出に襲撃され――最後には自分の作った歌を自分より上手く歌われる。  二十四時間というあまりに短い時間さえ、思う通りにすすまない。このままならぬ一日の集積が、やがてままならぬ一カ月になり、ままならぬ一年になり、ままならぬ一生になる。大金持ちになりたいとか、社会的地位を得たいとか、さほど欲張った願いを抱いたわけでもないのに、世界はこんな可憐で清貧な未来予想図でさえことごとく叶えぬまま、勝手に歩をすすめてゆくのだ。

 「(でも――だ)」

 ボーマはよどみなく歌い続けるパズの横顔をながめてみる。削いだような輪郭はよく研いだ刃物のようで、光の当たり方によっては表情がまるきり違って見えるということがよくあった。ゆえに、長く見ていてもなかなか飽きない。目線は弦の方を見るためにうつむけられて、輪郭や目つきの鋭さと対をなすかのごとき、ゆるやかなまぶたのふくらみがよくのぞめた。
 パズは男として見るならとりたてて美形の部類ではない。どういうもくろみのもといまの義体にしているのかは知らないが、いかにも東洋人然とした平坦な顔つきであるし、お世辞にも表情豊かとは言いがたい。けれどひそやかで、冴え冴えとしているのはたしかだった。曇りがちの夜、ときおり雲のやぶれめからちらと覗く三日月に似ている。彼自身が美しいというよりも、ほかのなにかやだれかの美や輝かしさをしずかに反射しているような、そんな美しさなのだ。
 大きな目や彫りのふかお顔立ちに魅力を覚えるボーマの好みには、ほんらいなら片っ端から反する顔立ちでもある。いや、そもそもの話、ボーマは男の外見的魅力なんぞに注意を払ったこともなかった。それは客観的にあらわされるもので、ボーマにとっておのれの主観や好き嫌いで語られる概念ではなかったのだ。パズと出会うまでは。
 あらゆる選択を間違えて、夢だの期待だのはさんざん裏切られ、本来望んだものとは異なる場所に運ばれて、そのすえにひらけた景色が、隣でギターを演奏する彼の姿なわけだ。

 「ままならねえな」

 歌が終わると同時、ボーマの唇から飛び出したのはそんなひとことだった。

 「そのわりに嬉しそうだ」
 「パズさんのすばらしい演奏と歌声で、みみっちい嫉妬心がどこかいっちまいましたよ」
 「本日二度目だ。白々しい」
 「本気だよ。アンコールをお願いしてぇな」

 パズはほんのわずか、意外そうに目を細めた。ボーマは手をのばしてパズの頬にふれる。指先を頬から唇のはし、首筋へと指をすべらせると、パズが及第、あるいは「それなりに満足」のしるしとして薄くまぶたを閉ざす。奏者と楽器の関係はなにも固定ではない。ボーマだって、彼のどこにどのように触れればどんな反応がかえってくるか、ちゃんと心得ている。
 ボーマの手指はもう銅製の弦を切ることはない。どころか五本の指のそれぞれに、パズのいちばんよろこぶ力加減を的確にゆきわたらせるような器用なことだってできる。撫でているのは彼女の小麦色につやめく肌ではなく、サイボーグ男の無骨な人工皮膚の輪郭だけれど、これがなかなか、どうにも、まったく、とても良いものだと感じてしまう。
 どれだけこちらが頭の中でままならない現実への訓練をたやさず、きたるべき失望に身構えていても、やっぱりそれさえも「ままならない」ことのほうがあまりにも多い。あらゆる可能性を加味した上で先回りに失望をしておいても、現実はこちらの想像の盲点を突き、意趣返しをしてくる。理想とはかけ離れているけれど、思いもよらないときに、思いもよらないかたちで、思いもよらないすばらしいものを運んでくるのだ。  だから、生きることも、甘い想像も、やめられない。

 「アンコールは構わんが――チップは?」
 「そりゃもう。弾むよ」

 この世においてボーマの理想どおりの感触を実現しうる、かずすくない現実にむかって、ボーマはゆっくりと唇を寄せた。


 (了)